貧困層の拡大を許さず、格差の拡大を放置しない、持続可能な資本主義。
非正規労働者を切り捨てず、自由と平等を社会的強者の独占物としない、本来の民主制。
温暖化やヘイトやいじめのない未来。
この世界に生きる人の明日が、少し明るくなるよう、何かが少しづつずれ、おかしくなってしまいかねない社会の軌道を修正するため
社会と人のグランドデザインを描いてみました。
そしてそれを無人島から手紙を瓶に入れて流すように、あるいは夜の密林でかがり火をたくように、この広い空間に発信します。
御意見御感想をお寄せくださる方は からお願いします。

春田一彦

近代の解読 現代の解法副題:民主制と資本主義の多層化

目次

巻頭言

世界が変わりつつある、そして変わらなければいけないと感じている人は多いと思います。

しかし、どう変わるべきなのでしょうか。

人々の暮らしは「よく」なったようでもあり「悪く」なったようでもあります。

1990年には世界中の人の36%が一日を1.9ドル以下の生活費、つまり飢えるほどの絶対的貧困の中で生きていましたが、2015年に10%に減りました。グローバリズムと呼ばれる自由貿易体制の下、発展途上国は先進国からの工場移転で経済発展し、予防接種率や女子初等教育率も向上しました。しかし同時期、先進国では多くの人が相対的貧困(その国の平均所得の半分以下の所得)に落ち、富裕層と他の人々との経済格差は拡大しました。

日本では1998年からの10年間、ここ100年で最も高い自殺率を記録しました。しかし犯罪や交通事故は減り、平均寿命も延びています。

また、どう変わるものなのでしょうか。

「歴史は繰り返す」ようでもあり、「時代は変わる」ようでもあります。

国民に無批判な忠誠を誓わせ、低賃金労働を武器にして輸出を増やして経済力をつけた後に他国の領土や領海を脅かす現在の中国の姿は、戦前の日本にそっくりです。しかしアメリカに戦争をしかける蛮勇はないようですし、アメリカの方も日本に対して行った禁輸措置のような強硬姿勢に出るつもりはないようです。

冷戦に負けて没落した経済を立て直した後 自国民保護の名目で隣国を侵略するプーチン政権は、第一次大戦に敗けたドイツで勃興したナチスとよく似ています。しかし過去の自国領土への電撃作戦にすら失敗するありさまで、「世界に冠たる」どころか中国への従属すら視野に入れなければなりません。

社会主義を強く非難し 国際協調を蔑ろにし マイノリティへの差別を容認し 熱狂的支持者を煽ってみずからの権力を保持しようとし 平気で嘘をつくトランプ氏は、共産主義者に国会議事堂放火の濡れ衣を着せ ヴェルサイユ体制を離反し ユダヤ人やスラブ民族を差別し 突撃隊を使って政敵を排除したヒトラー氏と薄気味悪いほど似ています。しかしトランプ氏は、国民の一部の支持は受けているものの、ヒトラー氏のような崇拝を受ける代わりに訴追を受けており、そもそも世界征服どころかパックス=アメリカーナ(アメリカによる平和)の撤収をもくろんでいます。

そして、変えられるものなのでしょうか。

ネットに意見を発することもでき、選挙権もあり、裁判に不正を訴えることもでき、どう生きるかを自分で決めることができるはずの人々が、みずからの変化の可能性を疑いつつ日々を送っているのが現状ではないでしょうか。

それも当然です。
見たことのないものは欲しがることができず、現状が見えていなければ 変えようと望むことすらできないからです。
みずからの変化を妨げているものであっても、それと示されないと取り除くことができないからです。
何をどう変えるべきかを判断するには対象や方法を言葉つまり概念として捉えなければならず、そしてみずからが投げこまれている現実を概念として捉えなおすことは意外に難しいからです。

人々はLGBTQの権利拡大やエリート女性のガラスの天井には目を向けるようになりましたが、より一般的な多様化や多元化の社会的必要性には十分に気づいておらず、個人の多面性も意識されていません。反射的に社会や個人の統一性への注意も粗雑となり、多様が分断に劣化しつつあります。

現実のとらえ方が定まらず、共有できる概念をもちにくい世界の中で、私達は独善あるいは「皆それぞれに考えるしかない」という判断停止に陥り 考えることをどこかでやめてしまいがちです。

しかし、アーレントの言うように、考えることをやめた人は容易にニヒリズムに埋没します。日々の積み重ねの先に何も見えない混迷の中で、世界への関心と共感が弱くなり、孤立して自分や他人の命や生活にも価値を見いだせなくなり、生きる実感も薄くなって扇動やフェイクニュースに踊らされるようになり、「愉快な仲間」との軽挙妄動や 他人を巻き込んだ自殺に走りたくなります。
考えることをやめて気楽になっても それで生きやすくなる訳ではないのです。

難しくとも、言葉と意味を探し続けましょう。
たとえば、民主制や資本主義について積み重ねられた誤解から誤作動している社会の中で、「民主制は役立たない」「資本主義は終わりを迎えた」と言うことは簡単ですが、それらを捨て去った後に使えるものがあるでしょうか。
それらを洗い直し、再定義し、そこから新たな世界を新たに組みなおすべきなのです。
暴力によらずとも、革命は可能なのです。
(他方、これまでの考え方を精緻に延長していっても未来は拓けないでしょう。人工知能も、「わからない」という答えを適切に出してそこから新たに問いを立てる能力はなく、場面によって矛盾した それらしい回答を平気で出すだろうと危惧されます。)

本稿の描く「みずからの変化を必然として肯定」する世界は、閉塞している時代に終わりを告げる脱構築的で平和主義的な未来だと自負しています。

そしてまた本稿の描く未来は、西洋と東洋の合流点において近代をふりかえることのできる日本だからこそ、世界に提示できるもののようにも思います。

振り返ってみると、地球というゆりかごから宇宙に飛び出せるほど科学技術に磨きをかけている現在は、飛び出すだけの賢さと強さをひとりひとりが身につけるため、みずからの来し方を振り返り、みずからを見直すべき時だと言えるでしょう。

また、人の一生にたとえれば、近代とは、強さや美しさや豊かさをまとえば 夢のような幸せが来るはずだと思い、そのために学習や美容や勤労にいそしむ一方で 愚行にまみれる青年期のようなものだったのかもしれません。
人は、やがて自分の夢のあいまいさに気づき、自分の力不足にさらされ、現実の中の本当の美に気づくようになり、確かにある自分と未来が求めるものに向き合って その時代を終えます。
しかしその時代を悪戦苦闘して通り過ぎることなくして、まともな大人にはなれず、まともな社会にはならないのかもしれません。

人というものは 思っているより、そして肉体より、ゆっくりとしか育たないものなのでしょう。

要約

第一部第一編では経済について論じます。

近代経済は、標準化、分業、機械化、自由市場、民族国家の統一などにより生産効率の向上を追求し、以前の時代にはなかった豊かさを実現しました。

しかし効率化は労働力需要の減少を招くことでもあります。経済発展の途上においては機械化よる圧倒的な生産効率向上がこの問題を覆い隠してくれますが、それが一段落した段階では給与ひいては有効需要の低減を招きます。
従って、先進国においてこそ有効需要を支える再分配を意識的に行う必要があります。
その一方で、先進国の人々は、既得権益のブルシットジョブにしがみつく一方で、本当に必要な労働に向かわなくなり、人口減少とあいまっていびつな労働力不足が生じています。
困窮者にお金を渡しておけばよい、という話ではないのです。

しかも、限りある資源しかないのに 限りない増産と効率化をめざしていては、エネルギー不足と環境破壊がやってきます。

これらを解消するには、長期的生産力の継続性と権原や財の適正な再分配の実現を目的とするオルタナティヴな(もうひとつの)経済サイクルを活性化させる必要があります。
レジリエンスの維持と有効需要の育成をつなげる市場の構築のために「公的再分配の民主化」「地方通貨の導入」「税制改革」などを推進する必要があるのです。

これらを実現する新たな「ビッグプッシュ」が必要となっているのが現在の日本経済の立ち位置なのですが、政府は株価ばかりに注目し、経済格差の拡大を容認し、産業の衰退に手をこまねいています。
これは経済という枠組みの中だけで解決できる問題ではありません。現代の経済問題の本質は、社会の意志決定手続である政治の問題なのです。
またこれは資本主義と共産主義の対立のような図式で考えるべき問題でもありません。資本主義は分配の適正を実現するための多様性を含みうるものであり、かつ本来的にそうあるべきものなのです。

第二編では政治について論じます。

近代政治の特色は、その社会の構成員の中から統治を担うにふさわしい人を選び出し、その人が自分とその取り巻きだけに都合のよい政治環境を作り上げないよう、権限の集中を避け(権力分立)、交代可能性を維持する(民主制)ことにあります。先人達は権力の分散と流動性を守るしくみを作ろうとしたのです。

しかしその営みは中途半端なまま放置されています。
民主制や権力分立の看板の裏で 政治的権限は隠れて集中し、少数の人々が権力から利権を醸造し、権力者の交代も狭い世界の中でのみ行われます。意志決定過程も硬直し、社会が本当に必要としている政策も実現できません。

流動的で開放的な政治システムを仕上げるためには、抜本的な改革が必要です。
個人が周囲からの圧力に耐えて意見を自由に変え、変化のイニシチブをとることができる必要なのであり、そのためには、「政党活動の制限」「選挙改革」「四権分立」などの実現が必要です。

第三編では様々な「理念」を分析します。

「自由」「平等」など近代を支えてきた理念が抱えている矛盾や確執に気づかぬまま、これらの言葉の檻の中で右往左往してどこにも行けなくなっているのが現代社会の風景だからです。

ここでは個々の理念の内容、構造、相互関係を解きほぐして、思考に柔軟性と合理性を取り戻したいと思います。

いわば第二編までは外なる社会論、第三編は内なる社会論です。

第四編では「教育」について論じます。

「教育」は社会と個人の間をつなぎ両者の根本に関わる事項なので、第一部と第二部の間に置きます。

日本の学校教育は近代的制度としては整っていますが、現代的には時代遅れの部分が多々あります。
ここでは、教育内容を多様で実際の社会生活に対応したものにすること、教育機関を短くすること、教育主体を多様化することなどの改善策を提案します。

第二部では近代人の認識や思考を鳥瞰します。
まず、私達が投げかける問いの全体像を整理します。
次に 私達が何をしているか、いわば目的とでもいえるものを示します。
そしてその目的のために何をしているか、すなわちどのように認識や判断をしているか、そのためにどのような道具があるかをまとめます。

これらを論じる理由は、社会や理念について論じるには それを構成する個体(つまり私達みずから)がどのようなものであるか、どのような考え方をするか、どのように認識し判断しているかを見直すことが必要だからです。
なぜなら、生物のつくる社会はそれを構成する個体の性質に対応した特徴をもつからです。(たとえば狩りをする動物の社会は狩りに適したシステムになり、移動する動物の社会は移動に適したシステムとなります。)
なぜなら、世界に起きるできごとは、一人一人の人が起こすことだからです。ある経営者が言っていたように、考え方が変われば運命が変わるのです。理念も政治も経済も、個人の認識や思考から形作られ 変わるのです。

そしてまた、人はどんなに豊かな恵まれた社会に恵まれた状況で生きても、感情に左右され、欲求に振り回され、自分を責め、愛されたいと悩むからです。未来を見通したい、みずからがどのような場で何のために存在するのか知りたい、みずからのあるべき姿まで含めた一貫した世界観を持ちたいと考えるからです。

哲学や宗教はそれらの問いに答える様々な言葉を紡いできましたが、それらは多様で変化の激しい現代世界においては、そのままでは使いにくいアンティークです。他方、自然科学は哲学が守備範囲としてきた問題を次々と攻略しましたが、上述のような問いには答えていません。答えは個人がそれぞれに見出さねばならないものです。

しかし、現在のような時代の変わり目においては、それぞれの個人が道徳を守り、教養を高めて頑張ればなんとかなるというものでもありません。しかも、現代人は、急ぎすぎ、様々なことに素早く答えを出すべく簡単に考えたがり、無意識にあちこちで思考の手抜きをして認識を狭めてもいるのです。

では、どのように考えていけばよいのでしょう。

確かに、多くの人が正しいとしている見解は尊重すべきです。

しかし、私達は、時には議論の勝ち負け(どちらが多数派か)をどうしても決められない素のままの一対一の関係に向き合う必要があります。あなたが一対一で会話(ダイアローグ)することを想像することさえできない権威者を心の拠り所にすることは、あなたを内側から強く支配させることでもあるからです。

また、答のない疑問に向き合うときは、たった一人で答えを待つことが必要なこともあります。本来は答のない疑問についてひねり出した答は、共同妄想にすぎないからです。

そうでないと人は変化の可能性を失い、ある意味死んでしまうからです。

また、人は、柵や船をつくり、それらを使い、それらに守られて生きていくことができます。同様に、みずからの認識の弱点を保護し、未知なる事実を問い続け、限界を超えるべくみずからを再構築するための柵や型を整えることができます。みずからの「認識」の構造や生成について、そしてまた思考の癖や問題点について整理しておくことは可能でありかつ有用でしょう。

様々な哲学者が取ってきた思考の姿勢は、人の思考のパターンと弱点を示しています。

モノのありようを観察する観察者自身のありようを精査する認識論においては、「である」論と「べき」論は峻別されます。共有できる「最小限」のことは何かが問われることになり、その過程で第三者の影響を除外した一対一のダイアローグの重要性にも気づきやすくなります。
しかし「共有しえないことを押しつけはいけない」と判断停止におちいる場面も増えます。

他方、「そうは言っても人々の認識が完全に共通するはずはなく、認識論とて多数派のモノの見方にのみ注目しているにすぎないのだから、そこにあまりこだわる必要はなく、むしろモノ自体があるものと考えても差し支えないことが多い。人が認識していようがいまいがリンゴはそこにあるのであり、地球と引き合う力が働いているのであり、その力を質量と加速度からなる計算式(観念の一種)として表しても差し支えない。」という方向で考えるなら、結局は世界すなわちありとあらゆることについて整合的な見識を持とうとする姿勢、モノの本質や目的または根本原理を問う姿勢が強くなります。また、「世界全体」の中には人とその心(認識)も対象として含まれるので、「である」と「べき」が近接したものとしてとらえられやすくなります。
しかし他方で、私達には全てを見渡し未来を見通す力は与えられていませんから、一部を全体と思い込んでしまいやすく、また個々の違いも見えなくなり、判断や評価の共有の強要する独善となりやすくなります。(この一連の姿勢において、観念を駆使する観念論と実在を探索する実在論は実のところあまり変わりません。)

これらの思考法は互いに補いあうような関係にあり、人はこれらを併用しながら考えなければならないのです。

さて、本稿は、全体を通じて、むやみに本質や根本原理を問うことはせず、人々の共通認識を探索します。
同時に、観察者・行為者としての自分の多元性と統一性そして受動性と未定性を通じて独善と判断停止を避けます。

多面性、可変性、統一性を持てるのが人です。これは「みずから」を多くもつということです。多様で多面的な複数の「自分」とその「自分」達を統一する「自己」が居る「みずから」という場が人間です。

この多様性と多元性と生成性を、本稿では「多層性」と呼びます。

多層性は作ろうとして作るものではなく、なってくる現実の中で最悪の事態を避けるように対処する中で形作られてくるものです。つまり人は、ある意味、受動的かつ消極的であるべきなのです。

まがりなりに全体像をイメージしてから取り組む偽りの安心は捨て、「わからない」中で進む慎重さと勇気をもち、何かを目指すのではなく、むしろひたすらこだわりをなくすことが重要なのです。本稿では、問うことや変わることそのものを尊重し しかも人を認識の主体としてのみ捉えすぎない人間観を提示します。
たぶんこれは多くの宗教が、暗黙の内に、人のとるべき姿勢として示してきたものです。

「決める」という言葉は力強く響きますが、これは判断を完結させることであり、「個人(individual)が責任をとるのだから、個人という枠内の事象だけを考慮して完結を急いでもよいだろう、という安易さをも肯定しがちです。
しかし本来、人の認識や判断はみずからの外とつながって生じるものです。私達は、「みずから」というものが本来分かれている(dividual)こと、そしてそれが皮膚の外側にまで広がっていることを忘れてはならないのです。

このような受動性と消極性から浮かび上がる多層性は、民主制や資本主義の本質でもあります。

このように判断しそして動く時、そこにはこだわりもプレッシャーもないスピード感と合理性と喜び(精神的回復)があり、古人はそれを「無形」と表現していたのかもしれません。

人は、「みずから」が多層的に統合されるようにみずからを育てることを必要とし、それは人間社会の経済、政治が多元的分権的であるべき必要性を導きます。
人口が増え個々の活動も活発になった現代においては、社会の多元化や分権化がさらに大きく求められています。

よって多様な「自分」の生成を阻害するものがはびこる現在の社会を多元的に構成しなおし、生成を繰り返す個人を保護することが 個人と社会の統一性を復元することに通じます。
分かれていること(分割)を他律化される危険に気づき、逆に 社会のほうを手続的な意味で分割・再編成して多数派(らしきもの)の固定を防ぐべきなのです。
偽の正統性や客観性と入り交じって不純になった理念を乗り越え、通じ合う言葉を探索し、みずからと社会の変化の可能性を取り戻すべきなのです。

「多層性」の実現に対する一番の障害は、力ある者の言動や「自分」の衝動を無批判に受け入れる姿勢です。

この「多層性」の対極に位置する姿勢を、本稿では「権威主義」と呼びます。

権威主義のわかりやすい身近な例は、身分制や封建制、そしてそれらの名残とも言える家父長制であり、それらは既に廃止されあるいは指弾されています。

しかし、隠れた権威主義はいたるところにはびこっています。制度として存続していることもあれば(現代の法制度にも潜みます。政党も権威主義のゆりかごです。)、突発的に発生して群衆をまきこみ急激に独裁や戦争を招き入れることもあります。

権威主義は、人を考えることから遠ざけます。これは人間性の本質に反することです。

他方、先人の残した様々な遺産の上に豊かで安全な生活を送っている私達のあり方からもわかるように、人という動物は継承することも得意です。それは間違いを繰り返すことにも通じえます。そしてまた、人は形にとらわれやすく、「ある」という概念にとらわれやすく、「かたちある」ものはすべて権威となりえます。新技術であるはずの検索エンジンやChatGPTも「客観性(多数性)」という権威主義の走狗となる危険をはらんでいます。その意味では、権威主義は人間性の本質に根差した宿痾です。

この錯綜した現実の下、本稿では、単に権威への反発を語るのではなく そこからいかに解放されるかを見出すために、「誰がそれを決めるのか」という権原の問題が社会においても個人の思考においても大きな課題となることを示します。そして、その権原を分有することや 権原の保有者を固定しない社会システム、結果や目的を予断せぬまま手続や手順を重視し 答えを柔軟にどこからか受けうる社会システム、様々な解が様々な人から出て その中から有効なものが選ばれて実現されるような社会システムの重要性を主張します。

それは健全で冷静で強い根をもつ多層性を育み、個人が付和雷同する有象無象にならない新たな時間と空間を広げてくれるはずです。

本稿では、全体を通じて、奇をてらったようなことは提言していません。昔から言われてきた「身をただす」ことの大切さを(自省をこめて)再発見しているだけです。「損得」や「強弱」ではない基準をもち、緊張感をもって現実の中で変わりながら生きているまともな人であれば 言葉で説明はできなくとも当然にわきまえているようなこと、あるいは当然考えるようなことばかりだと思います。

それは、樹や草が決して太陽に届くことはないのにその方向に枝葉を伸ばす姿にも似た、生物本来のあり方とも言えるかもしれません。マリノフスキーも「営利のためではなく 交易そのもののために航海に出るトロブリアンドの人々は変人だ」とは言わず、「このような傾向は、トロブリアンドの人々に限らず、全人類にあるのだろう」と見ています。
本稿でも「これは人類一般にはあてはまらないだろう」ということは記述しなかったつもりです。

現代の諸相において「身をただす」には具体的に何をどうすればよいのか、それを本稿が示すことができていれば望外の幸いです。

尚、本稿の本文中には学術論文には不可欠な「文献引用」がほとんどありません。

なぜなら、まず本稿は詳細な検証を重視するアカデミズムに属するものではなく、未来の世界への視野を開くこと、思想ないし仮説を大局的に示すことが目的であり、いわばアカデミズムの前段階に属するものだからです。

また、本稿の材料となった資料の半分は先行研究(書籍、論文等)ですが、半分は市井の人から聞いた話やみずからの体験であり、このような資料を集めることに長い時間をかけてきたので、今更どこから引用したか探すことが難しく、そもそも引用ができないことも多いからです。

第一部 社会論

第一編 経済

近代経済の歩み

最初は、多くの人々が切実な興味を持っている分野すなわち経済についての話から始めたいと思います。

その中でも、まず 現在にいたるまでの近代経済の歴史を駆け足で振り返り、経済政策に大きな転換が求められていることを素描したいと思います。

協調的であると同時に偏見と排斥を常とする中世の村落共同体の中で、人々は様々に行動を制限され 諸集団に分断されていました。

しかし、自然を観察し 疫病や飢饉と戦う勇敢な知性も、確かに息づいていました。

また、人々が開いた色々なものを「見せ(店)」てくれる「待ち(町)」で過ごす時間は、閉塞した日常に 自由な風を入れてくれました。

そして生産力は徐々に向上し、余剰生産物が市場(いちば)で交換されるようになりました。

封建領主から権力を奪取し国内統一を果たした絶対君主は、軍事費を賄うために国庫を豊かにすべく、財の交換の後楯となり、道路などのインフラを整備し、科学技術の発展を後押ししました。単一通貨制度は交易における明確な数値基準を与え、取引は等価性が重視される安全で円滑なものになり、交換相手も増えました。

盛んになった交換は知識の流通を促し、さらに技術を発展させました。

物流が増えると倉庫業や荷役業も盛んになり、都市部の労働需要は増え、農村から人々が移転し、商人は資金を蓄えて工場を建て職工を雇いました。労働と資本の集中が進み、分業と機械による大量生産が可能になり、封建的同業組合の特権は廃止され、経済的主導権は近代的企業に引き継がれ、「いちば」は「しじょう」に発展しました。

当初、絶対主義国家を主導した経済理念は重商主義でした。これは直感的かつ素朴な主張、つまり
①「貴金属こそ富」という観念を背景とした金銀本位制
②「国庫を豊かにするには相手国(植民地)の貿易を独占することが効果的」という植民地主義
③「輸出を促進して輸入を制限すべき」という保護貿易主義
④「輸出額を増やすには生産手段の独占が効果的」という独占企業優遇策
などが組み合わされたものです。

しかし「豊か」ということは、貴金属や珍品に囲まれることではなく、生産効率が上がることです。通貨量を自由に増やせないことは経済発展の足を引っ張ります。民族主義の勃興もあり植民地経営も面倒になってきます。
よって①と②は現在では廃れています。
③についても、ケネーやアダム=スミスから「短期的貿易収支にこだわらず 効率よく外国で生産されたものを輸入し 全体としての余剰生産物を増やすべきだ」という反論が早くからあがりました。
④が非効率であること、つまり政府の統制によっては全体としての生産効率を上げることが難しいことも、同様に早くから主張されました。

そして現在「その製品の販売によりどれだけの人が生活を支えなければならないかという(供給側の)視線」と「その製品を使うことでどれだけ将来の生産力が向上するかという(需要側の)視線」の交差上に浮かび上がる妥協点を不特定多数で探す「市場」システムこそ最も効率的に資源を利用できる基本戦略が国内市場のみならず貿易にも適用され、自由貿易主義が世界の主流となっています。※1

※1

但、独占が必要とされる場合もあります。

たとえば、財やサービスの質が、市場の外から担保されねばならない分野も存在します。医療、法務などがそれであり、医者や弁護士は資格によって独占を保障されています。

また、複数の企業が競争してはかえって国全体では資源の無駄遣いになりうる巨大インフラ(鉄道など)の建設については、一応は独占を許した上で、価格や賃金などについて様々な公的統制を受けさせた方がよいでしょう。

また、農業国から工業国へ移行する過渡期には国家による傾斜的な資本注入と独占企業の育成が有益です。

また、保護貿易が必要な場面も同様に存在します。

たとえば、輸出振興のための保護貿易主義的政策は、発展途上国の経済発展に有益です。

先進国でも、自由貿易主義と保護貿易主義の間での調整は必要です。現代のアメリカでも、国内労働者保護や経済安全保障の必要性から自由貿易一辺倒ではありえません。

さて、市場システムによる経済発展のためには、「資本の蓄積と投資による供給の効率化」と「労働者の経済状態の向上による有効需要の増加」が、車の両輪のように重要です。

しかし「企業の供給効率(すなわち利潤)の向上」と「有効需要の増加」は矛盾的な関係に立つこともあります。すなわち企業は将来の投資のためにも、他の企業と効率を競い続けるためにも、利潤を貯めなければなりません。よって人件費を低めに抑え、生産手段である労働者に払う賃金の増加防止に努めなければなりません。しかし労働者は企業の生産する財やサービスを買ってくれる顧客でもあり、顧客にはたくさんお金をもっていてほしいものです。

但、この両者は、拮抗的に相互に高め合うこともあります。つまり労働者に多くの労賃を払えば、豊かな顧客として企業の財やサービスを多く購入してくれ、その利潤を投資に回す企業は さらに多くの労賃を払う、というサイクルも回りうるのです。
特に市場経済の勃興期には、生産技術の発展、端的には化石エネルギーと機械の導入による圧倒的な生産効率の向上のおかげで、企業のあまりの強欲さえ抑制しておけば、企業利潤の増加と有効需要の増加は両立しやすい関係にありました。

市場経済の初期においては、まず迂回生産による財の量的増大という形で豊かさが実現します。
労働の効率が上がり、より少ない人数で多くの食糧や衣料や建物の生産が可能になり、また少ない労働でより多くの財が購入できるようになります。

たとえば、従来は1haの田で米が6t採れ、それを作るのに5人の農夫が1年間働くことが必要だったとします。1tは5人が食べ(200kg/年)、残り5tは500万円(1000円/kg)で売るとします。1人あたりの年収は100万円です。

そのとき たとえば7人分の働きができる400万円の1人乗りの農業機械を農場主が購入すれば大幅な省力化になり、かつ米は増産され かつ安価になります。

少人数で生産できるようになると 労働力は余ることになりそうですが、農業機械を作るにも労働力が必要です。この農機の製造に、労賃以外の経費(材料費など)が50万円かかり、10人が5日かけなければならないとします。労働者1人に1日10000円の労賃を払っても、製造原価は売価の1/3となり、農機メーカーに十分な利益が残ります。元農夫がこの工場で1年に200日働けば年収は200万円となり、一年分(200kg)の米を買ったとしても、さらに他の財を多量に購入することができるでしょう。

次に、多様性(財の種類の多さや新しさ)という豊かさが求められます。

新しい財は、たとえ生産効率の向上と無関係でも、快適さや好奇心を満足させるものと認められれば、従来の財と比較されることなく高く売ることができます。たとえばテレビは生産効率向上とはあまり関係がありませんが、発売当初から相当な高額でも買う人が少なくありませんでした。

テレビの生産工程は複雑で熟練した人手がかかるので、テレビ工場の労働者には多めの労賃が払われます。

このテレビ工場の労働者であれば、より製造に手間のかかる自動車などの財も買えるでしょう。

その自動車工場ではさらに高い労賃が払われるでしょう。

以上のように、新たな技術により高価な財やサービスが増加し、それらを供給する企業の労働力需要が増え、よい賃金が払われて有効需要は増え、さらに財やサービスが売れる、という好循環が工業国では始まります。

他方、従来からの財は 従来からの価格から飛びぬけて高い価格には値上げできません。

それらは「いざとなれば自分で作れる」と多くの人が思い、あるいは生活必需品的になっているなどで高く売ることへの様々な抵抗があるからです。

農産物はその典型であり、さらに農産物はあまり保存がききません。農産物の価格は上がりにくく、たとえば日本の米価も戦後の長期インフレ傾向に十分追随していません。周囲の人々が高い給与を得ていく中で、相対的に農業収入は減少しています。 ※2

※2

農業は、効率が極限に近づいた、あまり利益の出ない産業であり、しかも機械の普及で必要な労働力は減少して従事者は減りました。「完全競争」とはこのような姿ではないでしょうか。
「完全競争」は、その対極である「独占」と同様、一国の経済が目指すべき姿とは言いづらい経済現象です。
そしてこの経済現象は他にも様々な影響を及ぼします。
たとえば上記のような農業の状況変化により、食糧価格は相対的に安くなり人々が飢えから解放された一方、「田を耕していれば子々孫々生きていける」世界ではなくなったので村落や家族の共同体的紐帯は弱まりました。

また、このような格差は、新しい財やサービスが世界に広がるときには、いつも発生します。
IT関連の財やサービスは高くても売れるのでIT企業の給与は平均して高いようですが、従来型製造業に携わる企業の給与水準はそれほど上げられていません。

このような産業間の格差は 国家経済にも反映されます。

農業国に留まる国々は、以前よりも生産力が落ちた訳ではありません。先進国と呼ばれる国々が、技術革新とそれまでとは異なる経済循環により工業国として発展していく横で、相対的に貧しくなっていったのです。

農産品は生産効率の向上に限界があり、あまり増産できません。工業国でも食糧は容易に増産できるので工業製品に比べて高くは売れません。よって労働者の賃金も上げられず、有効需要も育ちません。その結果、安価な財が最低限にしか売れない状況が続き、そのような状況では、資本も蓄積されず、工場も建ちません。工場が建たないと産業構造は農業主体であり続け・・・という循環に囚われるのです。

しかし、農業国でも政府が適切な政策をとれば経済成長できることは、日本をはじめとする東アジア各国が証明しました。いわゆる「ビッグプッシュ」です。これは一般的には下記のような一連の政策を示します。
「自国の安価な労働力で海外に対抗できる重要産業を定め、そこに集中的に資本を投下する(日本なら生糸など)。為替レートを有利(自国通貨安)に設定して輸出を奨励する。その代金で工業製品を輸入するよりも生産設備や技術の輸入を優先して自製をめざし、先進国からの割安な工業製品の流入に対して高い輸入関税をかけて国内の弱い工業を保護する。普通教育制度など公教育を充実させ、近代工業に対応できる労働力を大量に生み出す。労働者保護政策を適度に実施して有効需要を育成する。」
それらの政策を受けて、銀行は信用創造して貨幣を行き渡らせ、企業は生産設備に投資して生産性をあげます。

そしてそれらすべてを国民全体の我慢が支えます。貧しかった日本がやっとの思いで生産した生糸の輸出代金の多くは製作機械の輸入に使われ、労働者に利益が還元された訳ではなく、労働者は低賃金に耐えました。低賃金に我慢できたのはそこに潜在需要があったからです。会社が自分達の欲しいものを生産していたからです。「会社が利益を貯めて、投資をして、機械による大量生産ができるようになって安く作れるようになれば、自分達もそれを手に入れることができる、たくさん売れるようになれば給与も上がる、そのとき手に入れよう」と期待できたからであり、政治も社会もそのような期待を後押ししていたからです。社会的に構築された我慢と潜在需要が経済成長を生んだのです(年功序列はこの時代には適切な賃金体系だったと言えるでしょう)。

このような政策は、イギリスなどの先進国が工業国となるため手探りで実践してきた政策をまとめ、そこに若干のモディファイ(たとえば海外から投資を呼び込むことなど)を加えたものと言えるでしょう。これを実現できた場合、元が貧しい農業国だっただけに、めざましい経済発展を遂げることになります。

これはある程度専制的な政治体制で実現しやすいものです。経済発展の初期段階においては 徹底して民主的であるよりも やや専制的であるほうが効率的なのです。

しかし、その先は国民個人や企業の自主性や多様性が発揮されなければなりません。
なぜなら技術と資本を蓄積し先進国となるには、人々の地道な技術開発と公徳心(そしてそれらを涵養するより高度な教育や情報共有)も不可欠であり、これらは自立的な市民の存在を基盤とするからです。 ※3

※3

確かに、技術と投資を外国から呼び込めば、てっとり早く輸出を増やすことはできます。製造業は盛んになり絶対的貧困は減るでしょう。しかし低賃金を武器に輸出している限り、輸出代金も労賃も頭打ちとなり、したがって有効需要の伸びも頭打ちとなります。先進国からの投資やノウハウへの対価(配当、ライセンス料など)もばかになりません。利益の多くは投資をした先進国の企業にも渡ってしまいます。
また、このように発展した国の企業家が必ず自国に再投資するとも限りません。有効需要の伸びていない自国で投資するよりも、先進国で投資するほうがローリスクで利益を入手できる可能性が高いからです。
ある程度経済発展した暁には独占が進んでいることも多く、それが失業や物価高を招き、国民の生活水準の向上の邪魔になることもありがちな現象です。(日本においては 第二次大戦後にGHQが進めた財閥解体や農地改革などがあったことは幸運だったと言えるでしょう。)
これらの罠に足をとられると(国民が平均して豊かな)先進国にはなれず、一部の国民みが豊かになるか、中進国レベルから抜け切れなくなります。(たとえ外国企業の利益の持出しを禁じて自国内での再投資を強制し、他方では外国の技術情報を盗む、などの無理無体をしても。)

人々の自主性や多様性によって技術と資本が蓄積されると、国内需要も経済成長の後押しを始めます。

技術革新と大量生産様式の下、労働量が増える以上に財やサービスが増え、労賃ほどには物価はあがりません。
旺盛な潜在需要はやや「無理め」な高額商品にも向けられます。高額で売れるならメーカーは労賃を上げることができます。多様な財の消費量が増え、国内の有効需要は拡大し、「作れば売れる」ので企業に蓄積された利潤はさらに大型の投資に回されます。

栄養や医療が行き渡り、人口が増え、需要は大きく増大します。今日は単純労働者だった人が明日は管理する側に回ることも多くなります。管理者にはよい給金が払われ、それがまた消費に向かいます。

企業は将来のための投資として不動産や機械を購入するだけでなく財務対策として株式や国債なども購入しますから、これらの財の相場もあがります。将来も負担継続が懸念される賃金は低く抑えたい一方で従業員の消費を肩代わりする企業も増えます。無料で昼食を支給し、社内旅行を企画し、保養所やスポーツクラブの会員となって従業員に利用させるなどの福利厚生を充実させます。これらも消費を底上げします。

本格的な工業国になるには人口の都市部への集中が必要なので、不動産需要も高くなり、大規模に宅地開発もされます。

政府は生産と消費の流通インフラを整えるために公共工事を発注し、兼業化した農業従事者に現金収入の増加をもたらします。さらに農業補助金などによる所得再分配機能も加われば(いわばエッセンシャルワーカーへの所得保障の先取りといってよい政策です)、農業収入の相対的減少は経済発展の足を引っ張りません。むしろ安価な食糧価格は労働者の生活を支え、工場労働者の労賃はそれほど高くなくてもよくなり、企業の利潤蓄積を支えます。

中央銀行は民間の旺盛な投資に対応するため貨幣量を増やします。それは緩やかなインフレも誘導し、インフレが進む時代にはローンを組んでおけば将来返済しなければならない貨幣価値は目減りしているので、貯金するより財を買っておいた方がよいというインセンティブも働き、所得の多くは車や家などの耐久消費財のローンに回ります。

貸し手である銀行のほうも、貨幣価値の目減り損は 株や土地に投資しておくことによって取り返せるので、問題ありません。

このような時代が つい40年ほど前まで 日本にもあったのです。

しかし市場経済が成熟期を迎えると「企業効率(利潤)の向上」と「有効需要の増加」は、互いを抑制しあう関係となりがちです。

機械化と自由市場によって産業の効率が向上すればするほど、鍵となる一部のスキルをもった労働力を除いて、 高給取りの椅子は徐々に埋まっていきます。最終的には効率が非常に向上した生産設備と働き口の少ない景色が世界経済に拡がります。

自由貿易は国家間における労賃の平準化を進めます。貧しい国の労賃は上がり、富める国の労賃は下がります。 80年代以降、日本では、それは韓国や中国への工場や技術の移転という形で現れ、需要減とデフレを国内経済にもたらしました。このころから日本ではモノづくり労働者の賃金の下落や停滞が始まったのです。

しかも現在、皆が欲しいものはひととおり揃い、需要と供給は全体的かつ潜在的にバランス(拮抗)しています。
ほぼ全ての人が憧れるライフスタイルなどもうなく、個人の趣味として欲しいものはあっても、そのために多くの人を巻き込んだ産業が興ることはまれです。個人の趣味の追求は努力と時間を要し かつ割高です。家族を増やすより貯金を増やさねばならなくなり、少子化と人口減少を招きます。需要もそれほど増えることはなくなっているのです。効率の向上で大きく儲けられる市場はなくなっているのです。

特に 「その経済活動域で労賃を払っているのに、必要な利益を乗せた価格で生産する財やサービスを買ってもらえない企業」と 「その経済活動域で労賃を払っていないのに、生産する財やサービスを買ってもらえる企業」が双極的に増えてくると、経済活動は不調となります。

欧米は、製造業をあきらめ、高収益なサービス業に重心を移し、低賃金労働は移民で補おうとしており、日本もその後を追うべきだと主張する人々もいます。

しかし、製造業がなくなると、高給どころか仕事口が大幅に減ります。仕事もお金もない人が増え、社会参加する壮健な日本人が減っていく社会では災害や戦災が起きたときに対応ができません。またモノに向き合わない社会では、イノベーションも起きにくくなります。

他方、「今より人口が増え、生産を増強させることは危険ではないか」という声も高まっています。

財を増やすことは廃棄物を増やすことでもあります。資源の有限性や環境破壊などの外部不経済の問題は、既に無視できるレベルではないことは、日々のニュースが伝えています。地下資源や原子力発電にたよらないエネルギーの確保ができていないことも不安要因です。

以下の章では、近現代の経済の諸相の再定義と再構築を行いつつ、今後の課題について詳論します。
(簡単にまとめてしまえば、富の再配分を含めた社会の長期的安定性を整えることに重心を移し、その方向に社会的需要や投資や新たな技術開発を導くべきだ、という主張です。)

しかしその前に、近代経済学の一部にみられる数字を偏重する手法について疑義を呈し、本編の論述の姿勢について述べておきたいと思います。

すなわち、数字は筋肉にすぎず、それを位置づける論理の骨格があってこそ初めて意味を持つということです。
測定された量的事実から導かれた経済指標を無視して現状把握はできませんが、数字だけ見ていても未来に向けた現状分析はできません。
数字はごまかしやつじつま合わせに使われることもあり、むしろとりあえず数字をもちこまないことが有意義であることすらあります。たとえば「社会の長期的安定性を整える」と言っても、生活費のばらまきや洋上風力発電の外国企業への委託などによって短期的数値目標を達成しているようでは 意味がないのです。

まず、数字は、事実の内実や重要性を正確に示していないことが多々あります。

たとえばGDPは、単位期間の生産量を表すもの、あるいはそれと均衡する費用と利潤の合計額を表すものであり、市場活動の大きさを示し、自国経済の変化の趨勢の現状把握の参考となり 豊かさや経済的活力の目安を示しますが、その有用性には疑義が残ります。
なぜなら、価値の量り方に、不正確な部分や本来の意義から外れた部分が残るからです。

まず、先進国ではサービスの生産が増えその比重が高まりますが、その価値が適正に評価されているかは疑問です。払われた対価はそのサービスが人々の生活に与えている豊かさや力を正しく示しているでしょうか。買い叩かれたり、 逆にブームに乗って異常な高評価を受けたりしていないでしょうか。
IT産業の盛んなサンフランシスコは、年収10万ドルでも生活に余裕がないほど物価が高騰しているそうですが、その活況の中心にいる企業達はその売上に見合うほどの価値を本当に社会に提供しているでしょうか。金あまりで構築された見せかけの好景気の部分は含まれていないのでしょうか。

またGDPからは、真に必要とされている消費財の生産あるいは将来の生産性向上に役立つ広義の投資がなされたのか資源の無駄遣いを厭わない浪費がされたのかの区別もつきません。
まだ生産力が低く 必需品を生産するのがやっとだった時代ならば、浪費は一部の特権階級が行うにすぎないものでしたから、投資と浪費を区別せずとも大きな弊害はなかったでしょう。しかし現在では多くの人に浪費が可能です。
浪費は個人レベルではなく企業レベルでも起きます。愚にもつかぬ製品を製造するために工場を建て、そのために設備投資をしても、それも立派にGDPに算入されるのです。

またGDPには、未来の経済への期待や政策によって多寡が決まる利子、配当、地代などの収入も計上されます。つまりそれが実際に生産された価値なのか、期待にすぎないものなのか微妙であり、期待と現実の乖離しがちな先進国経済においては現在の状況を正しく反映しているとは限りません。
しかも利子、配当、地代等の収入は富裕層に集中するうえに それらの管理はあまり労働需要を生まないので、国全体の経済状態にはあまり関係がありません。
金融工学なるしくみを使ってGDPの増加に成功したように見えた国もありました。しかしその一方では小規模ビジネスやモノ作り企業は縮小し、リーマンショックで不良債権が表面化して不況が訪れたとき、世界経済におけるアメリカの圧倒的な存在感は失われていました。震源地の金融界は政府から資金援助を受けましたが、貧しかった者はさらに貧しくなったまま放置されました。

また、因果関係は数量から解析できません。
因果関係なのか相関関係なのかが、数字からは読み取れないからです。そしてまた、どのような数字をどこまで拾ってこなければならないかを、数字自体は語らないからです。

たとえば「現在の日本の平均給与額は他の先進国と比べて低い」「ITなど付加価値の高い財やサービスの売上が低い」よって「これらに注力して、高い生産効率を取り戻し、給与を上げるべきだ」という声が聞こえます。 ※4

日本の平均給与額が上がっていないこと、IT産業の売上が低いことは事実です。しかし給与の低い原因は、本当に付加価値の低さでしょうか。欧米に比べて経済の活性が低かったからでしょうか。むしろ中国という労働力供給元が急に隣に現れたことで物価安と労働力過剰がデフレを呼んだからではないでしょうか。

欧米のインフレや労賃上昇は市場経済の定常的な姿であり、さらには、欧米が製造業を諦めてサービス業に転換し発展途上国から製品輸入を増やしていたところ、発展途上国でも労賃は上がっていくので製品価格も徐々に上がったこと(コストプッシュ)が原因ではないでしょうか。さらに、移民にも老人が増えてきたことや、公的主体が運営してきた水道や電気や道路補修などのインフラ事業が民営化されたことによってそれまで低廉な対価で供給してきたサービスの数々が値上がりしたことが追い打ちをかけたのではないでしょうか。

他方、日本では、中小企業が多くあったことから欧米に比べると製造業の海外移転が激しくなく、欧米ほどにはコストプッシュインフレが生じなかったということなのではないでしょうか。

※4

自由な価格設定ができる新しく高収益な財やサービスに経済のメインストリームをシフトさせるという戦術は間違ってはいませんが、むやみに「ITやAIに注力する」だけで経済がよくなることもないでしょう。
情報産業は、共通の情報交換の場を最初に設定した者が全てをさらうことができる「棚貸商売」のような側面があり、ここに日本はすでに乗り遅れているのです。技術開発の遅れもありましたが、世界で通じる英語を母語とする国が最初から有利だったとも言えます。この差を埋めることは容易ではないでしょう。
しかもITやAIが今後いくら発達してもモノ自体の生産能力が飛躍的にあがる訳ではありません。工場の機械化は既に済んでいるのです。ITやAIが生産性を高めるというのは、主に商業分野やオフィスワークで労働費を削減できるという意味であり、単位時間あたりのモノの生産量が増えるという意味ではないのです。
過去、工業分野での機械化による労働需要の減少は、主に商業分野における労働需要で補完できましたが、IT や AI が知的労働と呼ばれてきたものに潜んでいた無駄と不要を暴き出せば、さらに労働需要が色々な分野で大きく減少し、有効需要を減少させ、ひいては生産を落ち込ませる要素にもなりえます。(ソフトの開発や製造に必要な人数は、旧来の自動車産業や建設業ほど多くはないでしょう。)
また、高度のIT技術を取得するにはそれなりの教育、そのための資金と時間が必要です。現在、生活に困窮している人々に そのような余裕があるでしょうか。
結局、ITやAIがらみの「どの分野」に注力すれば国民全体の有効需要を増やすことができるのかを見極めなければ意味のある提言とはならないのです。

未来の指針を数値目標で示すことが、よくない固執を招く危険もあります。

たとえば、供給量は計測しやすい一方、需要量は計測しにくいものです。
よって不況の真因が需要不足にあり需要を強化せねばならないことが判っているとしても、「どれだけ高めればよいのか」「需要が高まったことはどうやって計測するのか」と問われれば経済学者はあいまいな回答しかできません。(「供給されたものがこれだけ流通したということは それが元々あった需要量なのだ」とも言えません。本当は別の物が欲しいのに仕方なくそれを買っているかもしれません。本当はもっとほしかったのにそれだけしか買えなかったので我慢したのかもしれません。)
あいまいさを避けたい経済学者は供給サイドをどうにかしようという政策を提言し続けねばならないでしょうが、それは家計を軽視し企業に偏った政策を導く危険をはらみます。そして「正統性と客観性のある経済対策はたてた」という言い訳では、多くの人が豊かで安定した暮らしを送ることができる経済を実現できません。

また、たとえばGDPの増加も目的とすべきものではなく、たとえその目標数値が達成できたとしても誇るべきものでもありえません。GDPの視野は狭いのです。
清冽な水資源を供給する里山や田畑はGDPに寄与しませんが、それらをつぶしてゴルフ場をつくり 海外の富裕層をうまく呼び込めればGDPに寄与します。他方、周囲に公害が生じてもGDPに影響しません。
GDPを増やしたければ、「飽きたら買い替える」ような消費を推奨したが良いでしょう。実際バブル期はそうでした。しかしそんなことをしていれば資源の無駄遣いと環境悪化が進むだけでなく、人々の良識や思考力も損ないます。
家事労働をするより、家事代行を頼んだ方がGDPは増えます。栄養バランスのよい家庭料理は材料費しかGDPに計上されませんが、不健康なジャンクフードは労賃も計上されます。しかし料理もせず外で稼ぐだけのような生活は人々の感性や能力を退化させないでしょうか。子供の健全な発育には家事労働を見せることや手伝わせることが必要ではないのでしょうか。現地の食材で料理できず日本から持参したインスタントラーメンばかり食べて肝臓を病むような海外駐在員が役に立つのでしょうか。
目指すべきは「GDPはあまり伸びていないが、実は国民が不自由も不安もなく豊かに暮らしている国」なのです。

現在においては、数値目標の達成より、合理的な判断が通るような継続的システムを作り上げていくことのほうが重要であると言えるでしょう。 ※5

たとえば、レジリエンスの維持を主目的とする「もうひとつの市場」の育成も必要でしょう。
従来の市場のあるべき姿すなわち「少数の大企業がにらみあい、彼らが結託したときには突き上げ追い上げうる準大手がひかえ、そこを自由に労働者が行き来する市場」の維持さえも、政府の働きがなければ不可能なのですから。

※5

たとえば、銀行が企業を支援する際には経営計画をたてさせますが、計画の出発点である「売上高」が計画通りに達成されることなど(支援が必要な企業には)期待することはできません。売上高があいまいである前提での経営計画の骨子はリスク管理です。最悪の場合どれほどの損失が見込まれる、それを下回るような突発的事情がどこに生じうるか、それに対してどこまで耐えうるかを予想しつつどこに力を入れれば売上が上がるかを考え、そのための費用を想定しますが、この戦略の要は、戦略内容そのものではなく、戦略を時々刻々と合理的に変更できることにあります。国家経済においても同じことが言えるでしょう。

資本主義と共産主義

近代の世界では、二種類の経済原理による経済成長が試みられました。資本主義と共産主義です。

現在、共産主義経済の有効性はほぼ否定されていますが、他方で資本主義の有効性を疑う声も高まっています。

しかし、そもそも資本主義とは何か、共産主義とは何かということから共通理解がなされていないようです。そのような土台の上に意味のある議論は建てられないでしょう。

資本主義と共産主義は、それぞれの目的の違いで区別されるものではありません。

たとえば「資本主義は自由を、共産主義は平等を主な目的とする」と考えるのは誤りです。

自由も平等も「誰かから」あるいは「誰かと比べて」という観点を不可欠とする理念です。共産主義も、王や資本家の恣意からの自由を目指します。資本主義も、勤勉な人とそうでない人との実質的平等を実現しようとします。

また「資本主義は生産規模と利益のとめどない拡大を指向することが特徴である」「それゆえ資本主義は限界を迎えている」という説も散見しますが、とめどなく利益を求める欲深い活動は封建主義や共産主義の社会でも存在しますし、それがどこかで破綻することも普遍的です。

両者が歴史的にたどった結果から両者の本質的差異を語ることもできません。

たとえば、生産効率という指標から両者の本質的違いを語ることは困難です。

確かに西欧の資本主義は生産効率の向上を導きましたが、ソ連も初期の5カ年計画では経済発展しており、そのソ連ほど経済発展していない資本主義国がアジアやアフリカには多くあります。
他方で、民衆が極度の苦難にあうことがあるという点でも両者はそう変わりません。確かに1929年の大恐慌で資本主義国の人々は貧困にあえぎましたが、スターリン政権下のウクライナや文化大革命期の中国人民も勝るとも劣らぬ惨状に苦しんだのです。

確かに、資本主義は、共産主義よりも、生産効率の向上に貢献するという傾向はあるようです。しかしそこに焦点をあてて分類することは、封建制を「土地から安定的に作物を収穫するに適した制度」、奴隷制を「安定的に労働力を確保するに適した制度」と言うようなものです。

マックス=ウェーバーは封建制を「家臣たる行政幹部がそれぞれローカルな場所で総括的支配権を伝統的に分有する体制」と定義しました。このように、支配権原の分割方法、保有者、その必要性と妥当性という切り口から社会体制を観察するなら、資本主義と共産主義の違いは「近代が生んだ科学技術を生産様式として具体化するリーダーシップを誰にとらせるか」の違いであるといえます。

資本主義は、「経済活動は基本的には利潤ひいては生産効率を上げる能力がある人にそれを任せるべきであり、そのためにはとりあえず多くの人にやらせてみるべきだ」と主張しているのです。他方 共産主義とは「善良で優秀な少数の権力者、具体的には共産党員にそれを任せるべきだ」という主張です。

かつて人類が狩猟採集をはるかに超える消費財の生産が必要となった時に「農耕」か「遊牧」かを選んだように、巨大な生産力を実現しうる科学技術を手にした時、人類は資本主義か共産主義かの選択を迫られたとも言えるでしょう。

あるいは、ブルボンやロマノフや愛新覚羅を担ぎ上げた社会システムが人々を苦しめていた時、「悪い一族を取り除けばよいのだ」と考えた共産主義者と、「そもそも統治体というものが個人を本来的に掣肘する性格をもつのだ」と考えた資本主義者がそれぞれ異なる道を歩んだのだとも言えるでしょう。

尚、「市場経済か計画経済か」「自由経済か統制経済か」を区別の指標とする向きもありますが、いずれの経済体制においても、自由な市場活動も国家による政策(計画)的統制も必要です。どちらに重点を置くかの違いに過ぎませんから、指標というにはあいまいでしょう。
やはり「やり方」ではなく権限の分配に着目すべきと考えます。

「封建主義→資本主義→共産主義と歴史は発展する」というマルクス主義史観は歴史の事実と反しています。

共産主義の前段階といわれる社会主義国家が実現したのは、資本主義が本格的に始動する以前の国々、つまりロシアや中国などでした。これらの国々は資本主義と市場経済に立ち遅れ、外圧を受けて急いで国家経済の生産効率を高める必要がありました。これらの国々の家族制度などの文化的背景も、共産党による強権的政治に親和的でした。

「恐慌によって資本主義は崩壊し、共産主義に移行する」というマルクスの予言も実現しませんでした。

「恐慌」は、市場が複数の大波を受けたときに起きる経済的混乱であり、未熟な資本主義の発展期に生じる成長への過剰な自信から生じる失敗にすぎません。
たとえば何らかの理由で生産財(石油など)の価格が急騰したような場合、急激なインフレが起こることがあります。このようなときに物価につれて労賃が上がらなければ(通常はあがりません)、労働者でもある一般の人々は消費を控え、消費財需要が急落します。
あるいは、原料の入手困難などで生産が急に縮小せざるをえないこともあります。疫病が流行れば売上減少と材料不足が一度に起きます。急に労働需要が落ち込み、失業が増えたり 労賃が下がったりして、やはり消費財需要が急落します。
市場の成長段階においては、好調な売上によるフローで経済が回っているだけに急ブレーキがかかります。また、成長中の国には基幹産業でもいうべき産業があることが普通で、その一本足が挫かれるとその国の経済に与える影響が大きくなります。人口も増加中なので失業者の数も多くなります。資本主義の発展途上では政府の経済についての知見も不足していて、市場の限界を看過した政策的失敗による混乱もおきやすく、たとえばモノが売れない状況下でも市場の自律的回復に任せたり、その一方で(インフレ抑制や金本位制の下で金の流出を防ぐなどの目的で)金利を上げるなどの失策を重ねることもあります。
そうなると さらに投資が縮小し 生産財需要も落ち込むことになり さらに失業が増え、消費財需要は激しく落ち込みます。企業業績は悪化し、株価や不動産価値も下落します。もしそれまで低金利政策などで株価があおりたてられていれば反動も大きいでしょう。銀行貸付は焦げ付き 以後の貸付は縮小します。労働者は生活必需品すら買えなくなり、農産物も売れなくなり 農場経営も破綻します。戦争特需でも起きない限り回復は難しくなります。

他方、資本主義の成熟段階では、政府の役割の大きさも認識されており、その政府が正しい役割を果たせば、被害を小さくすることができます。たとえば 中央銀行から市中銀行への貨幣供給と監督を強化して投資を活性化させ、労働者の権利を強化し、政府調達や公共事業で雇用を創出して失業を減らし、有効需要を増やすなどすれば、市場のバランスを回復させ、そのサイクルを再起動させることができます。生活保護が充実していれば、消費は極端には落ち込みません。実際、二度の世界大戦以後、多くの国はそのようなマクロ政策で経済を回復させてきました。
さらに成熟期の資本主義経済においては、産業の効率化が進んで 生活必需品の供給力が強くなり それほど価格の高騰を招かなくなっている一方で、産業の多様化や労働者の流動も進み 人口も減少しているので労働需要はそれほど落ち込まず、値上がりした財でも購入できる人々が増え、さらに個人や企業の貯蓄も増えているので抵抗力もついています。(ただし、相対的貧困と社会の分断は拡大していますが。)

共産主義は弱い立場に置かれた民衆や労働者への共感から誕生したものであり、良き心根に立脚したものです。

しかし、共産主義の理想を担うべき指導層は 政治と経済を両方とも運営でき かつ公正無私なスーパーマンであることを要求されます。そこでマルクスは、共産党という集団による指導体制をとるべきとしましたが、それでも経済が発展して社会が複雑になっていくにつれて指導者達の資質が追いつかなくなります。現実に生産される財の量と質は、明らかに資本主義の国々よりも劣っていきました。

それゆえ、社会主義経済の多くは崩壊し、現在、世界の多くの国々は、程度の差はあれ、基本的に資本主義国家の作ってきた枠組みの中で経済活動を営んでいます。

また、共産党による一党独裁は、当初の意図とは異なり、自作自演のしくみとして機能してしまいます。共産党がすべての社会的権限を独占する体制の内部では、共産主義思想を「科学的」正統性をもつ権威として祭り上げ、その思想に忠実であることを有能さの証左とみなされてしまいます。
「絶対的権力は 絶対的に腐敗する」と言います。社会の様々な権限を集中させた共産党という特権階級による統治システムもやはり腐敗し、その末裔のいとなみはウクライナやウイグルで暴虐の様相さえ呈しています。独裁は、誰によるものでも、無理と悪の温床なのです。(西側諸国の隠れた少数者支配も似たようなものですが、「そこまで悲惨ではない」とは言えるでしょう。)

共産主義との対比において、資本主義の特色は、生産手段の私有制です(これはマルクスの言うとおりです)。

その時々に市場に選好された政治的権力をもたぬ人々に生産手段を占有させ、経済活動を王や政府が基本的には介入しない領域とし、経済的権原を政治的権限から切り離し、社会的権限・権原の分散と均衡を図るしくみです。政治は投票用紙で、経済は貨幣で投票する制度であり、広い意味の民主制と権力分立を担保する制度なのです。(但、権力分立と言っても、種類別に截然と区別された権限を別個の社会機関が保有するルソー的な意味ではなく、同じ種類に属する権限を一部づつ別の社会機関が分有するモンテスキュー的な意味です。たとえば国有企業などの公的企業も存在すべきこともあります。)

しかもそれは、少数の人々に政治も経済も任せるという重荷を背負わせず、皆で分担して背負う協助的な制度でもあります。近代企業は、王や政府の権限を抑制しつつ、彼らの主導では実現しえなかった高い生産性を実現したのです。

資本主義という言葉は、近代初期から続いてきた経済体制に対して、社会主義者や共産主義者達がみずからが理想とする経済体制と対比するために、名付けたことが始まりだといわれています。つまり資本主義は近代の始まりと共に自然発生した経済体制だったのです。

そうだとすれば、近代の政治と共通の目標を持っていると考えるのが自然でしょう。

近代政治理念である権力分立や民主制の目標とするのは、権原や富が一部の人々に独占されないこと、それらへのアクセスが不特定の人に不確定的に開かれていることであるいえるでしょう。ならば近代経済理念である資本主義も、不特定性、不確定性、公開性の実現化のために生み出されたものと考えるべきでしょう。

階層が固定されず、敗者復活が容易で、誰もが自分に誇りをもちうる社会こそ、資本主義とよばれる近代の経済が本来実現すべきものなのです。

しかし1970年代に入ると先進諸国はスタグフレーション(インフレと不況の同時進行)に悩みだしました。
ケインズの提唱したマクロ経済政策もこの事態を収拾させるには至らず、既得権益とつながる政府の浪費を助けているだけのようにも見えました。

「政治もなるべく市場にまかせたほうがいいんじゃないか」と思わせるほどの政治の閉塞、そして市場経済・自由経済の優位性を示したいアメリカの潜在的な政治的意図を背景として、1980年代以降「社会はもっと市場の機能を活用すべきだ。自由競争を重視すべきだ。」とする新自由主義的経済政策が一世を風靡することとなりました。

新自由主義

新自由主義的政策を提唱した人々は「需要と供給のバランスによって物価も労賃も適正価格が速やかに定まる」「その適正価格により遅滞なく交換が継続する」「貨幣流通速度は安定的である」「貨幣量×貨幣流通速度=平均物価水準×実質GDP」などの仮定、そして政府の市場への干渉を最小限にすべきとの思いから、政府がなすべきことは規制緩和により市場の働きをスムーズならしめることと 貨幣供給量のコントロールひいては金利調整だけである、経済はなるべく市場競争にまかせるべきである、と主張しました。

確かに、新自由主義的な主張の正しさを裏付けているかにみえる現象もありました。

貨幣はあらゆる財のうちで最も移転しやすいものですから、投資効率のよいところに速やかに集まります。生産活動よりも投機活動によるほうが利益を得やすいなら、貨幣の多くはそちらに流れます。たとえば金利政策によってインフレが予想されれば、富裕層は不動産や株や貴金属などの財を購入します。それらの財の価格は貨幣価値(ひいては貨幣量)に従って柔軟に上下しやすく、平均株価や不動産価格の上昇は一部の人々の消費を促し、手数料にも反映され、GDPにも影響します。そうなれば一見、景気はよくなったようにも見えます。

また、日本では新自由主義的な政策により、独占市場に競争が若干は持ち込まれ、系列は崩れ、株式の持ち合いも減少し、成果主義が会社組織に持ち込まれ、人件費は削減され、最高益をたたき出す企業も増え、またいくらかは既得権益が消えたとも言えるでしょう。

また、自由貿易すなわち外国に対して市場をオープンにしておくことは政治的に重要です。
グローバルな経済活動は「それがなくなったら不便が生じる」というだけのものではなく、人類に本来的に必要なものでもあります。
また、かつて市場から日本を締め出したアメリカに日本が戦争をしかけることになったように、国際的な市場の分断は国家の対立をもたらします。

しかし「金利を下げて貨幣供給量を増やし、投資ひいては生産を活性化させ、ひいては雇用を増やし消費を活性化させる」というサプライサイドを重視したシナリオによっては一般の人々の生活は向上せず、むしろ劣化しました。

各種の規制緩和により、大型小売店の覇権が進み、製造業は海外移転を進め、これらの動きはリストラ(人減らし)を盛んにし、労働力需要は減少し、非正規労働が増えました。「ある産業が衰退したとしても他の産業が成長する、そこに働き口はできる」と新自由主義者達は見込んでいたのでしょう。しかし、新たに興ったのはあまり人手を必要としないIT関係の産業でした。しかもそのような新しい働き口はだいたい都市部周辺に生じますが、地方の人々は老親や受験期の子供を連れて簡単に移住することはできません。蓄えの少ない人には数週間の無職状態も死活問題になりえます。

また、新自由主義的な税制も、「投資を活性化させるために」と所得税や法人税が減税され、その穴埋めのように消費税が増税されるというものであり、これは有効需要の減少を推し進めるものでした。消費の伸びが期待されない状況では、いくら低金利でいくら手元に資金があっても、企業は投資を控えます。「この価格なら使ってもよい」と需要者が思う価格と「この価格でならなんとか仕事を続けられる」と供給者が考える価格が一致点を見いだせないことが頻繁にあることを、経営者は知っているからです。

消費財需要が見つけにくい状況下、金融政策で緩和されたマネーは安易に利益の見込める投機(不動産や株)に向かい、実需と乖離したマンションが建ち、土地価格は上昇し、建設会社は潤います。株と不動産の市場では「価値がある」といえば価値があることになってしまうので、いつまでも需要を作り出せるようにみえます。この分野では社会全体の有効需要が縮小していても、マネーと期待さえあれば価格も維持され、見た目の景気は押し上げることができます。しかし実際のところ、役に立つ財がそれだけ生産されたという訳ではありません。本質はバブルであり、いつか起きるバーストで誰かにババを引かせるゼロサムゲームです。しかもこれらの財は生産社会から逃避している「蓄財者」を富ませるものです。彼らは社会参加意欲の強い「企業家」とは似て非なるものです。株や土地の値上りと実経済の好調さとは関係が薄く、賃金を増やしたり消費財需要を増やしたりすることはできません。

そもそも「少しでも安価に仕入れよう 少しでも高く売ろう そして少しでもたくさんの利益を短期間で上げよう」という姿勢を皆がとっていれば本当に生産効率は向上するのでしょうか。「本当に社会の役に立つ仕事を 長く続けていける対価で請け負い続けていきたい」という姿勢が、安定的な生産を支えているのではないでしょうか。そのような企業が、新自由主義的な利己的市場で安心して生きながらえることができるでしょうか。

市場競争をとことん推進しつつ「それに敗れた人々は家族やコミュニティなどの共同体で助け合って生きるべきだ」という一部のリバタリアンの主張が無策の弁解にすぎなかったことも、年越し派遣村や子供食堂の活動から見て明らかでしょう。(市場競争が共同体を破壊した上に成り立ってきた経緯を考えると、そもそも無理な話です。)

現状においては、市場競争と政府の調整のバランスを失した新自由主義に基づいた経済政策は失敗だったことは明白です。

新自由主義は、理想的な市場競争の姿を描き出してその素晴らしさを称揚したがります。しかし一口に競争と言っても、競争者たりうる資格の有無、競争者同士の力の違い、結果のもたらす損得の大きさ、どのような範囲で競争しなければならないかにおいて様々に異なります。「それらの条件を整え あるべき市場を作り上げれば 資源が最適に配分されて最も効率的な生産が行われる」などと聞いても、そのような条件の調整は現実離れした困難さをもつことも多く、またその条件が場によって変わることも容易に予想されます。労働市場にとって理想的な条件が財の生産市場に理想的でないこと、先進国や都市部の経済に理想的な条件が発展途上国や地方の経済に理想的でないこともあるでしょう。

しかも、仮に理想的な競争の場を作り上げることができたとしても、それは単に短期的な効率の実現に理想的なだけであって、レジリエンスの維持や需要の育成にはむしろ害になることもあるのです。

このように迂遠な「べき」論で資本主義または近代経済学の優位性を立証しようとする理論は党派臭が強く、実証的学問と言えるかどうか微妙です。経済学の仕事は、現在ある市場の様相に対して、その活動すべき範囲やルールを見直し、豊かさを実現する個別的な方策を提言できれば十分であり、それにつきるのです。

「競争の勝者こそ優れているのだ」と言うのは、あまりに世界を単純かつ乱暴に見すぎる傲慢で怠慢な見解です。いったいどの世界にそれほど公正な競争の場があるというのでしょう。

「格差の拡大は多様性を尊重する資本主義の当然の姿だ」というのも欺瞞です。社会の多様性とは、貧富の差の激しいことではありません。貧富の差はそれほどなく 性質や能力や指向するものが大きく異なる人々が、それぞれ活発に生きられる社会こそ、長い目で見れば多様性ある資本主義社会なのです。

「優勝劣敗が資本主義の原理だ」というのは「子供は残酷なものだ」というようなものです。すべての子供が残酷なのではなく、残酷な子供もいるというだけのことです。
福祉を重視する資本主義を「修正資本主義」と表現することもありますが、本来そのような資本主義もあるのです。残酷なほうの資本主義が歴史的に先に登場しただけなのです。

そしてまた、逆説的ですが、単一化した世界市場を特定の巨大企業がコントロールすることを許す新自由主義は、経済をひとつの党にコントロールさせようとする共産主義と似てもいます。新自由主義の風靡する世界が生み出した階層化は、資本主義のなれの果ての姿ではなく、資本主義が病んでいる姿なのです。

振り返れば、1970年代のスタグフレーションも、(モノ消費からコト消費への)時代の変わり目における新たな潜在需要の未発達による不況と(石油価格の高騰などの)原料高によるインフレが重なったことで発生したものであり、再分配と公共投資を重視した経済政策が無用だったわけではなく、その具体的手法の再検討を怠り 無反省に前例にならったため無駄使いばかりが増えた、というのが実情だったのではないでしょうか。

政府の浪費も、マクロ政策のせいでなく、民主制の機能不全によって起きたとみるべきでしょう(新自由主義政策の下でも起こることです)。

では、今後はどのような経済政策が採られるべきでしょうか。

30年程度のタイムスパンで考えてよいなら、現在からやや時代を巻き戻して 以下のように言えば済みそうです。
「日本に『失われた30年』をもたらしたものは、消費税の導入、大企業の付和雷同的な海外投資、労働エリート達が手放さなかった一括採用終身雇用制度である。よって経済回復を目指すなら、消費税を軽減し、工場の国内回帰を促し、労働市場の流動化を促すべきである。」※6
(ここにさらに、CO2削減に資する産業に政府が後押しをする政策も付け加えてもよいでしょう。)

しかし新自由主義の失敗は、より根本的に資本主義の本質をとらえなおす契機として生かすべきでしょう。
また、経済が政治の一部にすぎないこと、経済政策では手に負えず 政治の過程で修復すべき問題が意外に広いことを再認識し、民主政の過程を見直す契機とするべきでもあるでしょう。

以下の四章では、市場および市場競争の意義を問い直しながら、現代の経済の病理を具体的に観察し、そこから抜け出す方法を鳥瞰したいと思います。

※6

日本の労働慣行には、労働者への贔屓の引き倒しになっている部分があります。
日本企業における解雇の難しさは、組織への忠誠をよしとする社会通念と通じており、それは一面では美徳です。また、常に高い実績を上げねば解雇されうるようでは、よほど余裕と革新的精神をもつオーナー社長の下でしか新事業の可能性を探るような社員は活躍できなくなり、企業の長期的活力も害されるでしょう。
しかし、現在の法規制は、いったん就労できた労働者ばかりに優しく そこから一度でも外れた者にはきわめて厳しいものになっていることも事実です。また、最大の固定費である人件費の削減が難しいことが企業の雇用への慎重姿勢をとらせていることも事実です。また、確かに高度経済成長期に地方から都市部に集まり村落共同体からの離脱を余儀なくされた人々にとっては会社における終身雇用は村社会の代替物として有用なものだったといえるでしょう。しかしそのような大きな人口移動は1960年代に一段落し、その子供らは都市およびその近郊で育ちました。さらに孫の世代つまり近年の20代や30代になると、村落共同体というものに全くなじみがなく、その代替物としての意味を持っていた終身雇用も感覚にそぐわない制度となります。のみならず、変化の激しい近年の経済情勢の下、みずからが長期徒弟制度的(あるいはパワハラ的)な環境下で育成された中高年は何を指導すべきか悩み、若い人々は自力でキャリアアップを模索せねばなりません。就職後に3人に1人は退職するという現象もその表われでしょう。現在の法規制は、労働の現場に合っていないのです。
産業の活力を維持するには中間的、たとえば業績の顕著な落ち込みのあるときまたは低迷が長く続くときは指名解雇を現在の判例より緩和された要件で認めるくらいが丁度よいのではないでしょうか。これは、いわば普通解雇と整理解雇の中間的なものです。アメリカやカナダのレイオフは参考になりますが、その後数年間の役員報酬の据え置きあるいは減額、業績回復時の退職金の積み増し後払いなどの独自の工夫もあってしかるべきでしょう。

逆説的に聞こえるでしょうが、正社員を解雇しやすければ、企業が社員教育に使う予算額を増やすこともできます。 解雇が難しいと、企業としては当初から優秀な社員を採ることを強く要請されます。それは「採用した社員は優秀であるはず」という思い込みを導きます。低成長期なら教育費用を負担することは避けたい企業も増えるでしょうから、「優秀な社員なら自分で学ぶはず」という思い込みも生じるでしょう。しかし当然ながら皆が優秀という訳ではありません。優秀でない社員が飼い殺しのように雇われ続ければ 企業も社員個人も活力を阻害されます。
解雇が容易ならば、企業側(人事部)としては使える原石とそうでない原石を早めに分別するために社員教育を励行する動機がありますし、社員側としても「これだけ教育してもらって使えないと判断されたのだから、私はこの企業に合わないのだ」とあきらめもつくでしょう。

雇用関係においては、採用、解雇と並んで給与体系も重要です。
従来の日本企業の年功序列型給与体系では、雇用期間が長くなるにつれ徐々に固定給があがり、その固定給にパーセンテージをかける形でボーナスも支給されます。これはひとつの企業に長く勤めることをよしとする制度であり、人材の流動化を進めうるものではありません。
今後のあり方としては、固定給を入社時から短期間に上げつつも上限を抑え、ボーナスと役職給をそれぞれその半額程度とするのが安定と流動のバランスとしてよいのではないでしょうか。たとえば初任給月額25万円として、10年間で15万円の昇給を予定し、その後は固定給の昇級はないものとし、さらに固定給と連動しないボーナスが年間で100~200万円支給されるものとし、さらに役職手当がたとえば係長なら年間50万円、部長なら150万円ほど支給されるというような組み立てです。年間支給総額は新人なら300~400万円台、部長なら800万円台となり、現状からあまり乖離しない一方で、会社の業績や個々の社員の勤怠を給与に反映しやすくなります。

また休暇制度も考え直すべき時期です。
なぜなら今後は労働力不足が懸念される状況であり、外国人労働者も集まりにくくなることが予測されるからです。労働人口が減るなら一人一人の労働時間を増やすしかない一方で、日本人の年間法定労働時間は世界的には短く、まだ増やせる余地があるからです。パートが増えた労働市場では有給休暇制度は正社員の特権となっているからです。その一方でサービス残業が横行する企業では、責任感のある社員に集中的に被害が及んでいるからです。
たとえば有給休暇制度は廃止し「労働者の正当な権利として取得できる無給の休暇」制度に置き換える手もあるでしょう。有休休暇が年間20日あるのに平均10日しか消化しない職場の場合、実際に消化していた10日分の労働の対価を増額した給与を全員に支給し、有休休暇制度は廃止し、休んだ分だけ減給するとすれば、5日しか休暇を取っていなかった人の年収は増え、15日取っていた人の給与は減ります。
他にも、国民の祝日を減らす、官公庁は民間企業に率先垂範する意味から完全週休二日ではなく隔週週休二日とする(実際、現在でも多くの中小企業はそうなっています)などの改革が望まれます。そしてそれと共に、長くなった労働時間に対する対価を正当に計算するべきです。そうすれば低年収の是正が計れるとともに、企業側にとっても一方的な負担増とはなりません。
たとえば完全週休二日で年間労働日数が210日で年収が420万円の社員がいるとすれば日給2万円と計算できます。現在より国民の祝日が5日減りかつ隔週で週休二日になって土曜出勤が25日ほど増えたとします。その30日分が労働日数に加算されれば、年収も480万円に増えます。
No work no pay が近代労働法の原則です。よく働いてよく稼げばよいのです。

市場競争

市場はどのような経済体制においても存在しますが、資本主義社会においては活動領域が広く、経済の要に位置します。「ミクロ経済学」とは市場に関する研究、「マクロ経済学」とは市場とその他の制度(その中でも最大のものが政府)との関係および各種の市場の相互関係の研究と捉えても大きく間違ってはいないでしょう。

経済学や経済政策が求めるものは豊かな社会です。

そして社会が豊かであるということは、ボッシュの絵のように食べ物があふれていることではありませんし、今日は蕩尽して明日には欠乏に苦しむことでもありません。

豊かであるということは、

  • ・多量かつ多種な財やサービスへの想像的ニーズがあり(潜在需要)、かつ それを取得する手段(貨幣など)が多くの人に保有され(有効需要)
  • ・それらを短時間に大量かつ多様に生産し供給することができ(短期的効率)
  • ・かつ長期にわたり継続的に生産し供給することができる(レジリエンス 長期的安定)

ことであると言えるでしょう。

この3要素は 本来 それぞれに実現を目指されるべきもので、重要性は変わりません。

しかし、短期的効率は量として評価しやすい一方で需要やレジリエンスは量として評価しにくいこともあり、近代、ひいてはこれまでの経済学は「短期的効率」のみに注意を向けがちでした。

短期的な供給力ひいては効率の向上(一定の時間内における生産量を増やす)に、市場競争は有効です。 ※7

自由で競争的な市場は、効率的に供給できる者に生産資源を集中させ、安価で良質な財を豊富に世界にいきわたらせてきました。

自由かつ競争的な市場は、勤勉な者や短期に財やサービスの量や質を上げる能力のある者に傾斜的に多く財を配分します。貧しく生まれた子供でも才能と努力で高収入を手に入れられる世界は良い世界です。普通の人がまねできないパフォーマンスを実現する人は普通より豊かになって当然です。努力や能力の足りない人々と同じものしか受け取れないなら、優れた才能をもつ人も努力しなくなり、経済発展もありえません。

※7

短期的効率は 主に 価格競争という形で競われます。
社会が大量に使用する財やサービスの市場には、多くのプレーヤーが参入します。多くの人々にとってわかりやすい優位性は価格です。よって、本書でも、市場競争という場合には、価格競争を念頭に置きます。
但、財やサービスの多様性も市場によって実現されるものであり、企業はいち早くそのようなマーケットを見つけ、他企業が事実上参入できないようなしくみを作る競争も行っています。このようなマーケットでも供給者は需要家の信頼を失うような理由なき値上げは避けます。しかし値下げ要求は受けにくく、厳しい価格競争は避けられます。

しかし、それだけでは経済は回りません。
(これについては続く二章で詳しく述べるので、ここでは簡単に説明できることをいくつか示すにとどめます。)

たとえばそれは国鉄や電電公社等の公的企業が設立された歴史にも表われています。
市場競争の下、重要なインフラを運営する企業が倒産したり、企業の利益を優先して社会全体の利益に反する運営に走ったりする危険を避ける必要があったのです。

また、自由貿易を進めすぎると経済の発展や社会の安定に害を生じます。
経済学における比較優位論は「労賃や生産量に十分な弾力性のある複数の国家がそれぞれ比較的得意な分野に集中して分業すれば全体として最も効率的に財が生産される」と述べます。確かにそれは一面の事実でしょう。
しかし他面、国際分業が進みすぎると開発力やいざというときの対応力が落ちます。メッキ加工業者や金型加工業者が人件費の安い海外に移転して国内では希少になったら 設計が不自由にならないでしょうか。造船業のない国で塗料メーカーが発展するでしょうか。国内に医療用ガーゼを作る会社が一社しかなくなってもよいのでしょうか。

また、経済を市場競争に委ねすぎると、少数の者がより豊かになる一方で その他の人々が供給(生産)の場から排除されます。
自由貿易主義の旗頭であったアメリカは、一方では自由に海外へサービス業を展開して莫大な富を得ましたが、他方では安価な海外製品に押される国内の製造業を見捨て、多くの労働者を貧困の中にとり残しました。

市場競争がそれほど公平あるいは公正なものではありえないことにも留意すべきです。

市場競争の結果は単なる幸運や不運に支配されることも少なくありません。
たまたま鉄道が敷設された地域は物流面で有利になります。たまたま都市部に生まれた子供は多くの社会的刺激からより多くのことを学べます。全ての人が参入しうる自由市場においても、効率追求という目的の前で、平等はないがしろにされるのです。あるいは逆に、過度なアファーマティヴ=アクションが一定の属性(有色人種である、女性である、など)を持つ人々だけを優遇し、そうではない人々を不当に扱うこともあります。

また、保育士、店舗販売員、清掃員などのエッセンシャルワーカーの勤労に対して 必ずしも正当な報酬が与えられるとは限らないでしょう。競争に勝とうとするあまり 人は他人の善意にただ乗りすることがよくあります。これらの仕事にいそしむ人々が安心して生活できない社会が不健全で脆弱なことは、コロナ禍が教えてくれたとおりです。

また、いったん上位にたった少数のプレーヤーによる意識的な競争回避や実質的無競争状態は、外からはわかりにくいものです。さらにここに見えにくい規制がかかれば、有利な立場は強化されてしまいます。
政府調達の入札に間に合うように書類を準備できるのは、あらかじめそれを予測できる大企業に限られている状況が黙認されてはいないでしょうか。生コンの認定企業制などは特定の企業グループを利していないでしょうか。

縁故主義(ネポティズム)もなかなか排除しきれません。

また、一定以上の規模となった企業はフリーライドによりその地位を自然に強化できます。
社会的な財や資源はすべてが交換対象ではなく、共に利用するだけのものも多くあります。たとえば十分な教育を受けた人的資源、人が住むに適切な環境などの社会的資源については、市場のプレーヤーは利用するだけで、その維持や育成に関心を持ちません。社会全員がフリーライダーですが、その中でも大規模に経済行動を行う者ほど大規模にフリーライドすることができます。

「競争」が社会全体を通底する生活倫理(エートス)になると人々の生きる能力も低下します。

なぜなら、第一に、競争はその前提として「画一化」を多かれ少なかれ要請するからです。
企業は労働力を使って財を生産しますが、家計は財を使って労働力を生産します。家計の文化が画一化されると、似たような発想しかできない人ばかり増え、企業活動においても似たようなアイデアしか出てこなくなるでしょう。いずれは「日本人がやらないようなことをやっている(近所の川で釣った魚でバーベキューをするなど)」だけで警察を呼ぶようになり、外国人労働者も来てくれなくなるでしょう。
家計は生活の場であり、それぞれ異なる人々の生活にとって合理的な工夫や多様な風習もあるはずです。家計は企業以上に多様であるべきなのです。

第二に、競争が倫理の中心となっては、他者への共感にも不足するようになり、「仲間」は減り、社会は分断することになるからです。
「金を儲ければ勝ち組だ。あとは自分の欲求を満たすために生きていればよい。」と単純すぎるスタンスで生きる人々もいます。しかし彼らは同時にどこかで他者を怖れ、活動範囲を萎縮させて生きてもいます。
他方、世界の複雑さに向き合って声なき声や音なき音を観ようとして評価されづらい方面に才能を磨いてきた人々、あるいは自分の勉強よりも友人がいじめられていることに気をとられてしまう子供だった人々もいます。このように誠実と勤勉で社会を支えている人々が非正規労働でようやく生計を立てる程度の権原しか与えられず「現時点で権原を保有する人達が要求する狭い道を通り続けないと苦しい生活が待っているよ」と暗に脅されているような社会が長く続くでしょうか。

熾烈すぎる競争は社会悪であるとさえ言えるのです。※8

※8

競争の熾烈さは競争に敗れたときに失うものの大きさにより決まります。 競争に敗れた時でも居場所があれば、そこは熾烈な競争にさらされた場ではありません。 病気や事故にあった時や老いた時の生活に安心感がもてる社会ならば、どんなに競争相手が多くあらゆる場面に競争があったとしても、そこは熾烈な競争社会ではないのです。

競争は資本主義の本質ではありません。
経済的フロンティアから収奪を行い高い利潤を上げることが企業の至上命題という訳でもありません。
生産規模の拡大も、大量生産が多くの利益をもたらした時代、作りさえすれば売れた時代における企業の生産手段確保戦略だったにすぎません。

近代経済学の巨人ともいうべきアダム=スミスも「各人が懸命に市場で競争すれば最良な経済的結果が生じる」などとは言っていません。
有名な「見えざる手」について言及しているのは『諸国民の富』第四編第二章ですが、ここで述べられているのは、(輸入禁止や高額の関税や独占などの)重商主義的政策に対する自由貿易や分業の優位性、そして財やサービスを増やす能力は政治家よりも市民達にあることなど、あくまでも効率について限定した見解です。
彼は「見えざる手」を「神の」ものだとも言っていません。
彼が、(たとえば平等、福祉などの)効率以外の価値を軽視している訳ではないこと、市場競争だけでそれらが実現すると考えておらず 他のしくみを人々が作るべきだと考えていたことも、別の著作で共感の重要性について述べていることからも読み取れます。

レジリエンス
- 市場競争は 長期にわたり安定的に生産力を維持させる機能は持たない -

現時点で多くの財やサービスに恵まれているとしても、それが長く保たれないならば「豊か」とはいえません。そのためには安全な道路や水運、電力網、優良な種苗などの保有や基礎研究などが充実していることが必要ですし、清浄な空気や水環境、エネルギーと食料の潜在的自給率などが長期的に維持されることなども必要です。

「有効需要」「潜在需要」という区別に倣うなら、これらは「短期的供給力」に対する「潜在的供給力(レジリエンス)」とでも呼ぶべき重要な要素であると言えるでしょう。

しかし この「短期的供給力」と「潜在的供給力」がせめぎ合うような状況も少なくありません。

たとえば、天然資源が長年にわたって使えることは、経済のレジリエンスを保つ要素として重要です。

しかし「少ない費用で多くの利潤を上げる」市場競争原理と「資源を環境負荷の少ない態様で長く利用する」ことは両立しにくいことがあります。

たとえば石油はカロリー密度が高く、輸送や計量もしやすく、採掘して精製さえすればよいのでコストも安く、燃やせばどこででも気体になって消えるので手離れもよいものです。短期的にみれば、安くて効率的です。

逆に、エネルギー密度の低い再生可能エネルギーの普及は 電力価格を上げ、製品の製造原価を上げ、輸出品のコストも上げる懸念があります。しかもこの産業分野は企業に大きな利潤をもたらしうるものではありません。
その結果、短期的生産効率を追求する市場や企業が化石燃料から離れることができないことは、日本の現状が示す通りです。

ただ、その化石燃料に依存した経済活動の継続は地球温暖化のリスクを含んでいます。
しかも 石油は中近東という紛争地帯に多くあり、石油を利用するには現地からのシーレーンの平和と安寧が必要です。実際の石油の価格にはアメリカ軍に払っている軍事費も含めなければならないはずです。それらのコストを企業ではなく税金つまり一般国民が長きにわたり負担しなければなりません。レジリエンス的には弱いのです。

それに比べれば再生可能エネルギーの必要とする廃棄費用や軍事費は些少です。細かなメンテナンスは必要としますが、それは雇用の創生になり有効需要に変わります。化石燃料の輸入量が減少していれば円安時の経済リスクを減少させることもできます。長い目でみれば安定性に優れるのです。

また、短期的供給力の向上(一定の時間内における生産効率を増やす)のための競争的市場を偏重する経済は、社会に必要とされる「働き」に空隙を発生させる危険をはらみます。

市場競争では低い評価に甘んじる労働や利益率の低い産業にも支えられているのが実社会です。「働く」ことと「稼ぐ」ことは同義ではありません。

たとえば 福祉や地域環境整備などのサービス提供にはどうしても人手がかかり、距離による参入障壁が高く、企業は大規模に展開しにくく、効率的に利益を上げたい者にとってはそもそもビジネスとして魅力的ではありません。他方、これまでそのような「働き」を(無償あるいは低賃金でも続けられるように)支えてきた地域の紐帯が今後も存続する保証はありません。このような仕事が「稼げないから」と人々からうち捨てられたらどうなるのでしょう。

過度の市場競争は企業の生産力を将来的に削ぐ危険もはらみます。

たとえば厳しく利潤追求を求められる企業においては、限られた経営資源から最大の利益を上げるべく、既存の物的・人的・知的資源の利用のみが重視され、長期的戦略は等閑視されることが多くなります。開発される技術も2~3年で結果評価できるものばかりになりやすく、遠い未来に向けた価値創造は隅に追いやられます。
それで未来の産業が発展するでしょうか。

また、企業が最もてっとり早く利益を上げる方法は人件費を抑制することです。社員教育などはできるだけ省き、正社員も減らし、安価な非正規労働の割合を増やすほうがよいのです。バブル崩壊後 大企業はそうやって利益を出してきましたが、今になって中間層の人材不足に悩んでいます。しかも企業における人員削減は非婚化や家計における教育費用の不足、ひいては未来の労働力の質の低下を招きます。
そのようなことをしていて企業活動は安定的に継続できるのでしょうか。 ※9

※9

現存の公的制度の中にもかかる問題に対処し、長期的に社会と産業の基盤を強化しているものはあります。
たとえば 就業者や失業者への職業教育などは 雇用のミスマッチを縮小しています。
消費低迷の現代においても一部には将来の消費拡大の見込める分野もあります。労働者は転職が容易となって より自分にあう業種を探して移動することができ、生活が安定し、消費額も増えます。転職が容易な社会であれば、不調な企業は従業員を削減しやすく好調な企業は採用しやすくなります。企業の人手不足の解消につながり、業種をまたがる人材によるイノベーションの可能性も拡がります。産業構造の変化が促され、税収も増えます。社会の流動性が高まることは社会の分断を防ぐことにもなります。
しかし、この制度は個人の転職意思や企業家精神を前提とするものでもあり、潜在的に優れた市場適応能力を持つ人のみが救済される施策なので、これだけでは産業界全体に広がるミスマッチを解消することはできません。

需要 - 市場競争は 需要を育成せずむしろ減退させる面をもつ -

セイという経済学者は「需要は供給から生じる」と述べたそうですが、その言葉の捉え方には注意が必要です。

ここで「作られたものは必ず売れる」「供給主体を援助しておけば需要は勝手に発生する」などブードゥーエコノミー的な解釈をしてはいけません。供給が需要を決めるのなら、そこは「欲しいものでなく作りやすいものを買わねばならない」世界、危険と不満に満ちた世界になります。たとえばエンジニアリング会社に勤務するあなたは管材メーカーの営業担当者に言われるのです。「ステンレスならSUS304でいいでしょ。『配管用にもっと腐食に強いものが必要』ですと?そんな面倒なものどこも作ってませんよ。」

セイの言葉は「潜在的に供給されうるモノやサービスに対してこそ潜在的需要が発生する(人は見たことがないものは欲しがらない)」こと、または「隠れていた有効需要が供給の実現によって顕在化する」ことをとらえたものと解すべきでしょう。

実際には、潜在需要ないし有効需要が供給を導くのです。
デザインセンスはイタリアのほうが優れているにも関わらずファッションといえばフランスの名があがるのも、フランスにおいて優良な服飾デザインへの需要が伝統的に高かったからです。

後期資本主義社会では、財の循環を促進することは難しく、好景気は訪れにくくなります。

これらの原因は、供給側の力不足(資本や技術の不足)にあるのではなく、需要側の力不足(消費者に欲しいものがないという潜在需要の減退、あるいは支払える金が少ないという有効需要の減退)にあります。

150年も近代国家として歩んできた現代の日本では、これまでのライフスタイルの延長線上にある財やサービスへの潜在需要が一息つき、あまり売れなくなっても不思議はありません。

振り返れば、公害問題は1970年代から世間の耳目を集めていました。『成長の限界』や『沈黙の春』が出版されたのもこの前後です。ただ、この頃はまだ地球温暖化は起きていませんでしたし、先進国にも野暮ったさや貧乏臭さが残っていました。「自然に帰れ」というスローガンが一部ではもてはやされる一方で、まだ より高品質の財やサービスや街が欲しかった人々が多数派でした。ある意味、まだ牧歌的な時代でした。

1980年代になると、財やサービスの量や品質は格段に向上しました。自動車が一家に一台ではなく、一人に一台ベースとなったのもこの時期です。当時のマスコミはさらに潜在需要を膨らませようとするかのように贅沢をあおり、そこに新たな市場と職を無限に見出せるかのような錯覚を起させました。諸々の財の品質の向上は続き、現在、街には瀟洒なカフェが並び、海岸にはウッドデッキが敷かれ、テレビは映画のように色鮮やかになり、掃除機からはいやな臭いも出ず、冷蔵庫の肉もパサつかなくなりました。

そして現在の人々は、以前の世代とは異なり、マスコミなどから消費をあおられることをまっとうに拒絶します。
収入は少なめでもサブスクやシェアで賢く費用をひきしめればよい。何を買う、どこかに行くときもSNSやネット情報を参考にする。テレビなど見なくても話題に困らない。「消費文化を牽引してきた」バブル世代の話にはイタいほど共感できない。みずからを研鑽できること、勤務時間が多すぎないことが給与額と同等に会社選びの重要指標であり、「就社」をしない社会企業家と呼ばれる人々への評価も肯定の方向で固まっている、という世代が中心なのです。

マーケティングの世界でも、少し前の情報発信者が限定されていた時代には、多数派が支持する商品案を選択して大きな間違いはありませんでした。しかし誰もが情報発信できる現在においては、むしろ作り手が本気で欲しいと思えるものを作り手の側から消費者に提案してニッチな市場を開拓する手法に注目が集まっています。

そもそも消費財は一定量が一定時間内にあればよいのであり、「効率的」つまり「短時間になるべく高価なものを多く」消費することがよいわけではありません。産業は、市場の外で個人の習慣や理念から沸き上がる潜在需要によって発展するものであり、付加価値は誰かに仕組まれて生まれるようなものではありません。消費に忙しいと認識は怠惰に流れ、世界とのつながりが切れます。ボタンを押すだけでコーヒーができ、トイレが流れ、ドアが開き、何もかもできるようになるにつれ、少しのことで苛立つようになります。

ただそれにしても、現在の若い人々は、未来を怖れ、社会から逃避し、潜在需要を萎縮させすぎているように見えます。

潜在需要の減退とレジリエンスの低下とは、どこかで結びついているようです。
温暖化がゲリラ豪雨や森林火災を招き、化石燃料には限りがあることもわかっている現在、豊かな日常に安心できない人々が増えても不思議はありません。たとえば明日終わることがわかっている世界で農作業を続けられるのは聖フランシスコくらいのもので、普通の人はスマートホンを買い換える気力も起きないでしょう。

また潜在需要は社会参加によって花開くものです。多くの人に権原のない社会は、人々の社会参加意欲を減退させ、潜在需要も傷つけます。

ならば逆のこと、すなわち「続く未来の見える社会」に「参加する」ことができる方向でこそ、潜在需要が育つのはずです。ただそれはグローバルな競争が支配する市場とはそぐわないものであり、むしろ地域における継続的で共助的な生活資本の充実によって実現するものでしょう。

有効需要も、後期資本主義社会では 減退していくのが自然です。労働力需要が減少するからです。

企業が価格競争をするとき、通常は機械による製造の自動化を目指します。
企業の固定費の中で労務費ほど負担の大きなものはありません。省人化が進められなければ効率は向上せず利潤は得られません。
企業が価格競争をするとき、大規模化も行います。
大規模化競争では少数の企業のみが生き残ることができます。敗者は淘汰され企業数は減少していきます。

市場経済が成熟しても価格競争はどこまでも続きます。
各企業はさらに集約化を進めようとしますし、AIが進歩してセンシングや判断まで行うようになれば工場や事務所などの自動化が進み、さらに労働力需要は減ります。
情報が行き渡り人材や資本の流動性が高まった世界では工場は簡単に建てることができ、新製品もまたたくまに真似をされます。利幅も大きくとれなくなります。自由貿易体制の下では、賃金の安い海外からの輸入品は高額な国産品の市場を奪います。低賃金は効率化の強力な武器です。海外生産できる工場は発展途上国に移転し、海外に移転できず価格競争に負けた企業は市場から退出することになります。先進国の労働者は発展途上国の労働者と競争しなければならないのです。

効率を競うほど仕事が減り、失業が増えるか給与が下がり、いずれにしても有効需要は減少するのでさらに価格を下げねばならず、価格を下げるためにさらに人件費を削るという悪循環に陥ることになります。

個人需要の増加が見込めない社会では、商品の種類を増やしても、付加価値をつけようと高級化しても、購買力がなくては生産は伸びませんから、法人需要(投資)も抑えられます。

確かに、高い技術と資本蓄積がなければ製造できない製品やサービスは発展途上国に移転することはありませんし、発展途上国の生活レベルが向上すればかえって輸出は増えるでしょう。また、新しい製品やサービス、ニッチなニーズに応える製品や供給者が限られるサービスに関わる労働者の雇用と賃金は維持されるでしょう。

しかしそれらが一国の経済を支えうる規模になる国ばかりでしょうか。

日本の場合、シワ寄せは 一部の人々に押しつけられました。

もともと正社員を解雇しづらい労働環境に 女性従業員の結婚退社や出産退社の慣行の廃止などが重なり 人件費削減が困難な背景のもと、さらにグローバリズムにより低賃金国との価格競争にさらされ苦境に立たされた企業に、派遣(非正規雇用)という逃げ道が用意されました。全労働者が失業と賃下げの試練を均等に負担するのではなく、一部の人々に厳しい労働条件を押しつけたのです。いったん非正規雇用とされた人は、卒業時一括採用の慣行の強い日本ではなかなか正規雇用されないので、派遣労働者は階層として固定されてしまいます。

このような階層化は、購買力のある層をある程度は維持させるので、需要不足という問題をいっそう見えづらくしています。

政府は、これまでは公共事業や金融政策によって有効需要を創出しようとしてきました。

公共事業と金融政策は実は似ています。どういう事業を行うかを政府が決めるのが公共事業であり、資金だけ渡して民間に決めさせるのが金融政策だとも言えるからです。

いずれにせよ供給力へのテコ入れ政策であり、確かにこれらは昭和中期までは効果の見られた手法でした。人口が増えている時代には消費も増えるので、企業は安心して生産を増やすことができ、投資意欲をもてるからです。労賃が安い時代には 労働市場は国内で閉じている(外国から労働力が流入することがない)ので労働需要も増え、労働需要が増えれば賃金も増え、それは有効需要となって多くの企業に波及効果が及ぶからです。

しかし近年 これらの手法は効果が薄くなっています。
十分に経済成長し、人口増加も一段落した暁には、消費の伸びは期待できない上に、生産手段(工場など)も既にある程度そろっているので企業は設備投資を控えます。しかも日本の企業は、かつてバブル崩壊時に貸しはがしにあった経験もあり、内部留保を重視し、仕事が増えても短期的な雇用によって補います。雇用された人も短期的な仕事による賃金は貯金しておかねばならず、そのまま消費に回すわけにはいきません。
賃金がある程度高くなった国には 海外からの労働力が流入しやすく、安価な海外からの資材も輸入されます。公共事業によって一時的に仕事は増えても、海外からの資材や労働力が使われるようでは国内企業や日本人労働者に影響は広く波及しません。乗数効果も発生せず トリクルダウンも見込めず、有効需要はあまり喚起されません。

このように供給サイドへのテコ入れによって副次的に需要を活性化させるという手法が通じなくなっている現状の下でも、政府は大企業への発注とばらまきに予算を使い、かつその財源として特に需要を傷める副作用の強い消費税を増税する、という的外れになった対処療法を漫然と続けています。

今後、有効需要はどのようにすれば喚起できるでしょうか。

外国人観光客は増えていますが、彼ら彼女らは豊かな階層であり、規模の拡大には限度があります。また、景気が悪くなったり疫病や天災が発生したりすれば真っ先に不振になるのもこの業界ですから、安定性に欠けます。

かつてウェッブ夫妻が述べたナショナルミニマム(最低限の生活保障)のような収入の底上げ政策には、需要を育成し産業を守る効果があります。

たとえば賃金の引上げを民間企業に強制する最低賃金制度は、需要を下支えする上で ある程度は有効でしょう。

しかし他方で、最低賃金を払うことすら苦しい企業の廃業を促してしまいます。あまりに急激な賃金上昇はその国に必要不可欠な財やサービスを生み出している企業すら消してしまいかねません。

また賃金が上がればその国で生産される財の価格も上がり、輸出の足かせになり、企業の海外移転圧力も高まるでしょう。あるいは輸入品が割安になだれ込む懸念もあり、だからといって保護貿易主義を導入すれば、国家間の軋轢を生じます。

これは、家賃統制と同様に、政府による市場の管理であり、市場の選択と効率を著しく制限し 供給不足を招じる危険をはらむ手法です。

やはり、企業に賃上げを強制するより、課税と再分配により貧困にあえぐ人々に金銭などの給付をするほうがましでしょう。

再分配というと、平等を標榜しつつ実質的不平等と不効率を蔓延させた共産主義を思い起こすかもしれません。
しかし不平等と不効率は再分配の害ではなく、先に述べた共産主義というシステムの不出来さからきたものです。

ふりかえれば、第二次大戦後の資本主義経済も、市場競争によって生じた経済的格差を、まがりなりにも累進課税と福祉的給付(生活保護など)で是正してきました。

適切な規模と手法に沿った再分配は、市場、資本主義、民主制の長期的維持の為に不可欠だといえます。

これまで企業があくなき利益追求に邁進できたのも政府による強い社会権の保障あったからです。各種規制により競争の行きすぎを是正し、激しい市場競争からはじき出された人々に生存権、教育を受ける権利などの権利を保障し、生活を扶助しなければ資本主義経済は回らないのです。そのような意味でも企業は国家の庇護のもとに育成されているのです。福祉主義は本来的に資本主義に組み込まれているものなのです。資本主義が発展し、市場が大きくなっていくにつれ、政府による再分配も規模が拡大され、政府支出額は増加するのが通常であると言ってもよいでしょう。

経済競争にいったん勝った者は、市場システムをできるかぎり自分に有利なように作り替えようとすらします。政府による再分配が挑戦者の生活を保障し、敗者が何度も再挑戦することができなければ、競争も続きません。

但、給付さえすればよいというわけでもありません。給付するだけでは社会や経済のレジリエンスを高めることはできないからです。

人は生産システムの内側にいるからこそ、そこでの地位ひいてはその社会を守ろうと思います。逆に、そこから排除され給付(と管理)だけを受けては、「そっちが排除するなら こっちも排除しかえしてやる」と不良生徒が学校に対して持つような反抗心をもち、社会の維持に携わろうとせず、貧困の中に「寝そべる」ようになるでしょう。

アメリカの国民一人あたりの社会保障費は日本と比べて決して少なくないのですが、災害時にヴァンダリズム(反社会的破壊活動)が起きがちです。これは、金銭やフードスタンプを支給すればよいというものではないこと、運悪く貧困に陥った人のまっとうなプライドを傷つけることは社会の分断を招くことを表わしているでしょう。日本では災害が起きた時も暴動は起きません。これはほとんどの人が労働の場を持つからではないでしょうか。

人々は単に財貨を求めているのではないのです。権原すなわち社会から尊重を払われながら労働を提供できる地位とその対価を求めているのです。社会に自分の存在意義を認められながら生活資金を得ることを望むのです。困窮した人の多くも、無償で分け与えられる生活扶助を受けることではなく、労働で生活がなりたつことを望んでいるのです。移民制限や貿易不均衡是正を主張する大統領を(たとえ下品で嘘つきであっても)支持する人々の願いもここにあるのです。

ガンディーが糸車を回していたのは イギリスの輸出する繊維製品をボイコットすることで抵抗を示そうとしたためだけではありません。働ける者が働く場を与えられずに喜捨のみ受けていることが貧困を続かせていることに気づき、誰もが働ける姿を示そうとしたからでもあります。

「困窮した者だけに再分配をしていては貧困を減少させることができない」という「再分配のパラドクス」も、その再分配の内容が金銭などの給付に限定され、権原の再分配になっていないことからも生じているのではないでしょうか。
「市場競争の場で活躍するか 公から現金や財の給付を受けるだけか」の二者択一という経済は、「支配者と被支配者」が厳然と分離した政治と同様に脆弱であり、本来あるべき姿ではないでしょう。
必要とされているのは、競争に頼らず権原を再分配して分担し、レジリエンスの強化と有効需要を結びつけるしくみなのです。

再分配の方法には、課税と困窮者への金銭給付以外にも、工夫があるべきでしょう。

市場と政府

ここまでの三章のまとめとして、本章では市場の社会的機能を改めて見直したいと思います。

「モノはわかっているのだからたくさん買えるほうがいい。価格が安いならそこから買おう」という買い手が多い財やサービスについては 市場は競争的な色彩になるでしょう。とことん競争的な市場であれば、一人の勝者(企業)だけが生き残り、市場は消滅するでしょう。

競争は最終的にはたった一人の勝者のみが残るシステムです。スポーツの世界なら敗者にも次の大会で機会が与えられます。しかし市場競争では勝者がみずからに都合のよいように場を変えてしまうことが多いので、ある会社がいったん市場を席巻してしまうと別の会社がそこで成長することは困難になります。競争的な市場の行く先は独占なのです。

競争的市場は当初から終末が予定されたシステムに過ぎません。もし競争をいつまでも続けたいなら、中途半端に留めるか、競争のないブルーオーシャンを互いにいくらか持つか、公平な第三者による適度な調整を受ける必要があるのです。

しかし、市場は新たな価値や関係の創造という機能を果たしうるものでもあり、たとえば「もやもやと考えているニーズに合うモノやパートナーを探している」買い手が来れば、市場は売り手の競争の場ではなく「そういうことならあの店が得意そうだ」という情報提供、あるいは「ズバリそのモノはありませんが、相談して作りましょう」という協働の場になります。「とにかく何か新しくて面白いものが見たい」「新しく考えたものを見せたい」という人々にとっても情報交換の場になります。市場は競争するだけの場でもなければ、競争しなければならない場でもなく、不確定な場なのです。だからこそ市場は続くシステムなのです。

市場とは、誰もが参加できるアイデアを試せる場、優れたアイデアが出てくることを妨げられない場です。「不特定の人々が色々なモノをもって参加できる」「やってみなければわからない」場です。そしてそれらの活動は、既存の独占企業や政府が邪魔してはなりません。また、多くの人の目の監視があり、あまりひどいことはできないように「公開されている」ことも必要でしょう。それが「自由市場」の理念です。

公開性、不特定性、不確定性を本質的にもつ市場は、参加者も参加の態様も多様です。
実際、規模の拡大ではなく長寿企業になることを目的とする企業、利潤を求めるがその増加をどこまでも求めるものではない企業、そもそも利潤を求めず互助的なシステムの一環に組み込まれた企業など、様々なタイプの企業が市場に存在してきました。

今後は、社会問題の解決を目的とし 利潤のみでは不足する運営費を公費やクラウドファンディングや寄付によって補填を受けつつ活動を持続させる企業なども重要な社会資本となるでしょう。たとえば障害者の就労支援事業所も新しい企業モデルのひとつです。
また、エネルギーの過剰消費が生存環境を脅かすほどになっている現在の世界では「皆でもう少し質素な生活に戻ろう」「生産効率よりレジリエンスを重視しよう」という風潮と市場との仲立ちとなる企業も必要となるでしょう。

さらには、市場そのものにモディファイがなされるべきこともあるでしょう。

たとえば、A型支援事業所と一般企業とのマッチング市場を公的機関が開設しているような例もあります。

また、高齢者は若い時のようには動けませんが、高齢化社会では高齢者も働かねば労働力不足となります。高齢者の労働にいくばくかの賃金が支払わる労働市場があれば、福祉予算の膨張を防ぐこともできます。

また、科学技術の発展した現在においては、少人数でも、長時間をかけずとも、それなりに多くの仕事をすることができます。
しかも現在の日本の労働者は、完全週休二日で 盆正月を休み 有休を消化すれば、年間を通じてみればおよそ二日に一日は休みになります。近代的産業のあり方から少しはみ出す時間は十分にあります。
つまり兼業的な細切れの小さな労力を寄せ集めることでも、総合的な生産効率は向上します。新たな設備投資のための資本も高い賃金も必要ないこのような生産で社会のレジリエンスを高めることも可能でしょう。
ただ兼業においても、競争的になり効率が厳しく問われることになれば人々は疲弊してしまいます。これらの市場では、競争はあまり激しいものであってはなりません。比較的狭い規模のコミュニティ内での自足的経済が向いているかもしれません。
農業では先例が見られます(いわゆる兼業農家)が、福祉分野でも、このような細切れの労働は役立ちうるでしょう。たとえば、再生可能エネルギー分野でもそのような形の生産が役立つ可能性があります。自然界に分散しているエネルギーでは経費がかかる割には生産できるエネルギー量が少なく、資金と時間の効率を厳しく追及する大企業には参入しにくい分野です。しかし小型で安価な装置を、地方公共団体が購入して、地元の電設業者や建設業者に兼業的に設置管理させ、発電した電気は地産地消しあるいは売電代価を予算に組み込むならば、継続可能なビジネスモデルとなるでしょう。

特に、今後の経済においては、社会のレジリエンスの強化と需要の育成を結びつける場として市場を活用し、レジリエンスを高める財やサービスの提供をビジネスとして成り立たせることが必要になります。
「競争」や「利潤」が見落としがちな資源や労働力を活用すること、「落ちこぼされず追い落とすために頑張る」という舞台とは別の舞台を整えること、人手をかけずに財を効率的に生産する経済システムの他にレジリエンスを保つためのシステムを並走させそこに貨幣や財が継続的に流れるようにすることで、短期的効率の向上を目指すこれまでのシステムに適応しづらい人々にもしっかりと権原を用意しておくことが大切なのです。

「福祉」「互助」「いざというときのための生産手段の確保」「人が生きがいを感じる生産活動の尊重」「通常の市場取引では土俵に乗れない遊休資産が活用」などの意義の強い取引の場の育成は地域経済も再生します。

ガンディーも、遠く離れた人々や巨大資本によってではなく隣近所で生産されたものを使用することこそ地域経済を再生すると考え、そのために遠く離れたイギリスの繊維製品のボイコットが必要であることを示す意味からも、糸車を回していたのです。

その際、「政府の機能を最低限にすべきである」という姿勢は誤りです。
「ビジネスとして成り立たつ」ということは「政府の保護がなくともやっていける」ということではなく(そもそも政府の保護なくして成り立つビジネスなどありません)、「政府の保護に過度に依存しない」ということです。 市場と政府の活動は思いのほか一体的であり、それを無関係または対立的であるかのように考えるべきではなく、むしろ両者の密接さを前提にして経済を考えるべきなのです。

市場は、基本的に方向の決まった需要に対しては様々な対応をとることができますが、その外側の枠組み作りは政府にやってもらう必要があります。たとえば都市居住を振興する、工業化と核家族化を前提とした街づくりをするなど、潜在需要の枠となる基礎的なライフスタイルに影響できるのは政府です。

市場が停止あるいは失調しているときも 政府の後押しが必要です。
たとえば 急速に近代化が求められている時代には、「ビッグプッシュ」と呼ばれる一連の施策が必要です。
恐慌に陥った場合も、公共投資や金融緩和などの一連の政策が有効でした。
また、人材の流動性を阻害する硬直した労働法制を改善して 人々がより多く働きより多くの収入を得られるようにできるのは政府だけです。

多様な市場の発展に政府の調整や後押しが不可欠なときもあります。
たとえば、再生可能エネルギーの開発普及にも、政府の後押しが決定的に重要です(たとえば洋上風力発電に適した海域の探索などは政府のなすべき仕事です)。
また、外国との価格競争に負けて衰退する産業もありますが、それに従事する企業が国内からなくなってしまっては、外国からの不安定な供給に依存することになるだけでなく、その産業が新たな産業のタネあるいは補助要素となる未来の可能性が消えてしまいます。その産業を存続させる対策も必要でしょう。
また、グローバルなインターネットマーケットの構築に遅れた日本は、やはりものづくりを磨き上げるしかありません。そのためには、相手国と自国の産業の利益の一致点を探す調査そして相手国の市場に入り込んで販売を行うことが必要になりますし、それにあわせて企業の連携を図ることも、輸出を公的組織が支援することも、必要になります。現場の成功および失敗事例を集めて常に戦術を組み直す必要もあります。これまで多くの国が、巨大プロジェクトの一部としては、このような施策を実施してきましたが、これらを統合して無数に実施する必要があるのです。※10

また、このような大がかりな産業戦略を実現するには、頭脳明晰でバイタリティがあって志の高い人材が必要です。そのような多くの人材の供給源は、多数の堅実に生きている家族です。その基盤をしっかりさせるためにも、政府の支援が必要となります。

※10

なぜなら今後は大量生産できてストックの効く財は基本的にすべて供給過剰となるからです。これは生産における資金的・技術的な阻害要因が全世界的に消失しているからです。国家の支援で大量生産設備を作り価格優位を実現して市場を席巻しようとした中国の経済が後退しているのは、欧米のデカップリング(政治的阻害要因)だけが原因ではありません。そのスキームの優位性が失われているからです。
今後は、人口減少の中で個性的で使用者によりそったものづくりを進め、それを海外にも半製品として輸出できるように 現地法人を買収して毛細血管のような販売網を世界に拡げるべきであり、いわば「好み」を競合者にとっての阻害要因とするしかないのです。

とはいえ、政府は、合理的規制ないし補助により市場の公開性、不特定性、不確定性を保護監督すべきであり(それらが一定以上損なわれると市場は市場でなくなります)、それらを圧殺しないように注意しなければなりません。保護も圧殺も似たような政府の行為で起こりうるものなのです。

たとえば家賃の価格統制など選択自体を制限する方法は、政府による市場の管理であり、効率を害すること甚だしく 供給不足を招じることになるうえに、実際には不利な立場の人々を助けることになりません。

補助金制度や公共事業などは、競争自体を制限するのではなく競争に条件を加えるのみで選択は個々の自由に任せているので市場への管理ではありません。しかしこれとて市場への過度な介入となることもあります。
木材加工の廃棄物を燃料チップにする事業に公費が使用され、その廃棄物の価格があがるようなことがあれば、従来から木くずを引き取っていた炭の製造業者、あるいは補助金などもらわずに頑張っているチップ製造業者の経営を圧迫するかもしれません。
技術力と創意工夫に優れた企業よりも、補助金などをもらうための書類作成に優れた企業が成功するようになっては、健全な資本主義社会とは言えません。

今後、競争的市場とは異なる市場(もしくは市場ではない場)での経済活動の可能性を探す道筋で、政府と市場の調和のとれた分権を実現するには、権威ある誰かに決定権を持たせるのではなく、現場に近い(実際に苦痛を感じている)一人一人の発見を個々の場面で細かくそして適切に政治に反映し、またそこに政府が手を添えるというしくみづくりが重要となります。

偉い人が現場の声を最初に聞いただけでは、政策の合理性は担保されません。
たとえば 「短時間労働でも高い効率を維持できるべきだと誰もが言っているから」と 労働時間制限を一律に厳格化した立法もその例です。もともとブルシットジョブの多い都会のオフィスワーカーなら無駄な仕事を削れます。ITによる省力化の余地も多いでしょう。しかし製造や運送の現場ではそうはいきません。「肉体労働や手作業の時間を短くしても、これまで同様の生産性を維持するにはどうすればよいか」を現場と共に探る姿勢が政府側になければ、この法律はおそらく空文化して正直者が馬鹿をみるか、あるいは産業を破壊する悪法となるはずです。
政策決定者が現場からのフィードバックにさらされる仕組みがなければ、現場に歪みをもたらす観念的な「べき」論に引き回されてしまうのです。

何かを実行しようとすれば障害が増え、考慮しなければならないことが増え、観念的なことは言えなくなってきます。現場で査定し、議論し、現場の判断に立ち会う。このような分権的手続の実践が本来の「現場主義」です。

かかる観点を踏まえながら、以下では、今後必要とされる経済政策を具体的に論じていきます。

公的再分配の方法

階層が固定されず、敗者復活が容易で、誰もが自分に誇りをもちうる資本主義社会を実現するには、公的再分配が重要です。

また、民主制のゆりかごが古代ギリシャの有閑階級であったことからもわかるように、ある程度は経済的な余裕がなければ、人は政治に意見など持つことはできません。形式的に選挙権があっても、政治的意見を持てない人々ばかり増えれば、民主制は形骸化します。利益誘導も増え、隠れた独裁制に変化する危険も高まります。

公的再分配における市場と政府の協働の具体例としては

  • 1. レジリエンス強化型公共投資への重心移動
  • 2. 金銭給付型福祉から現物給付型福祉への重心移動
  • 3. 低所得勤労者への収入補填

などの政策が挙げられるでしょう。

これらは一気に行う必要はありません。少しづつ 切り替え 積み重ねていけばよいのです。

1は、前例主義に陥り または短期的効率の向上と利潤の獲得に囚われている公共投資の内容を見直すことです。

かつて官民が協力して事業を行う第三セクター方式が注目を集めたことがありましたが、「シーガイア」などの失敗例も少なくありませんでした。このような事例の発想の元には利潤をあげる、たとえば観光資源を活用して観光客を呼び込む意図があったと推測されます。しかし効率的な事業運営が難しかったゆえにそれが育たなかった地に それを植え付けるのは無理筋です。

また、従来の製造業についてこれ以上大幅な伸びは期待できない中で たとえばこれまでのように巨額の費用をかけて高速移動手段をさらに整備しても 短期的生産効率が向上する割合はたかがしれています。橋梁やトンネルや箱物もこれ以上建てる必要は(なくはないでしょうが)少ないでしょう。
これらの大型インフラへのニーズが低い現状のもとでは、大企業を直接の受注者とすべき必要も少ないでしょう。

今後注目すべきは、環境、安全、地域振興、福祉、教育などレジリエンスつまり長期的に安定した社会と生産力の維持です。

たとえば現代経済の高い生産性は 化石燃料の大量消費と円滑な情報通信と交通システムに支えられています。
日本の年間のエネルギー供給量はおよそ20000ペタジュール、平均すれば私達は休むことなく一人あたり約5kwのエネルギー供給を受けていることになります。このようなエネルギーの継続的大量使用は温暖化を加速する危険が高いうえ、国際紛争や大規模災害など対してもろくもあります。

災害に強い社会というのは、絶対に壊れない鉄道や堤防や情報インフラを供えた社会ではなく(それは不可能です)、それらが大きく損壊しても人々がなんとか生活していける社会です。
たとえば幹線道路や鉄道網が寸断されても 人々の生存を支えうる物資が半径15km(徒歩半日)以内でおよそは確保でき、分散電源が存在する社会です。他の地域からの支援がなくとも そこにあるもの、人力に近い労働力、中小企業だけでとりあえず社会インフラや生産活動を持ちこたえることができる部分が多い社会です。おおがかりなものや立派すぎるものは かえって良くないのです。

しかし、文部省唱歌に歌われているような または「大草原の小さな家」に描かれているような社会、言い換えれば 現代の日常が破綻した場合でも人々の生存が脅かされるほどの物資不足におちいらないためのサブシステム、少し不便だが慣れれば問題なく文化的に暮らせるサブシステムは、既に消えて久しい時が過ぎています。それらを安定的かつ兼業的に復旧させる必要があるでしょう。

大企業でなくともできる公共事業は、地域の雇用維持、購買力強化にもつながります。
たとえば再生可能エネルギーの多くは、エネルギー密度が低いので大型設備を設置しても設備利用率が低くなり、コスト高になってしまいます。これらの事業の多くは地域住民や地方公共団体が兼業的な主体となることが円滑な運営のために望ましく、実際にもそのような事業に参入しようとする企業は中小規模も多く、その事業は地域おこし活動と連動していることも多々みられます。
これらの事業の多くは公の補助を必要としがちでもありますが、地域に根ざした再生可能エネルギー関連産業に補助金を導入することは、現代版ビッグプッシュの一環ともいえるでしょう。

ちなみに、地域の安全や継続を担う能力についての資格を設けて、それを取得するための補助金を設けてもよいかもしれません。秋田県藤里町は介護福祉士の資格取得制度を利用して、引きこもりも解消して労働力の有効活用につなげるという一石二鳥を実現したそうですが、これは他の産業(農業、土木作業、井戸掘り、炭焼き、狩猟など)にも応用できるでしょう。

2は 現物給付型の福祉への予算の割り当てを増やすことです。

経済的弱者救済のため公機関が人々に供給しうるものは、「貨幣」と「現物(サービスや財)」に大別されます。

貨幣の給付は受給者の自己決定を尊重するという意味で有用ですが、「健康で文化的な最低限度の生活」(憲法25条)は貨幣給付のみでは実現が難しいことがあります。
たとえば 困窮している障害者や老人や子供の多くは、金銭に限らず人間関係にも恵まれていません。また自身の生活を管理できないことが原因で困窮に陥る者もいます。彼らを保護すべき近親者も疲弊し、判断能力すら落ちていることもあります。そのような人々にお金を渡して「自分がよいと思うことに使いなさい」と言っても十分な保護にはなりません。人手によるケアが必要なのです。

また 「健康で文化的」な生活をさせようとすれば、給付レベルが社会通念上「最低限度」とはいえない程度にまで上がり、逆に「最低限度」にしようとすると「健康で文化的」ではなくなるというジレンマが生じることもあります。たとえば 生活保護給付金をジャンクフードばかりに使う人もいます。彼らにとってはそんな生活も「健康」あるいは「文化的」なのかもしれませんが、そのような不摂生で病気になった受給者のためさらに医療費を負担することに納税者は納得するでしょうか。他方、受給者は「支給額が少ないからジャンクフードしか食べないんだ。もっとあれば野菜も食べる。」と言うかもしれませんが、両方とも食べられる金額が「最低限度」でしょうか。

これらのような例においては、経験的または科学的にみて健康で文化的にならざるを得ない生活の場に住まわせることが必要でしょう。規則正しい生活をある程度強制される寮に居住させ 野菜料理の並んだ食卓につかせるなどの現物・サービスの提供と貨幣給付を併用できたほうがよいでしょう。プライバシーを不必要に侵害すべきではありませんが 「自由」は金科玉条ではないのです。おせっかいを焼くことが必要なこともあるのです。

現物給付型福祉は、人々の社会参加の機会も増やします。

別に本業をもっている人が兼業・副業として行える福祉サービスもあるでしょう。

また、たとえば日雇労務者が年老いて建設などの肉体労働に耐えられなくなったとき、生活保護を受けつつ周囲から冷たい目を向けられながら一日やることがない現状は、彼らの生活の質を下げているのではないでしょうか。年齢や家庭の事情から競争的市場においては価値が劣る労働力しかもたない人々でも、福祉として供給するサービスの中にはできることもあるでしょう。彼ら彼女らに社会貢献の機会を提供し共感や感謝を受ける機会を増やすことも有用なはずです。(極端な例でしょうが、介護施設に入っている老人達の一番の希望は「話を聞いてもらうこと」だそうです)。

これは、意欲があるにも関わらず環境が許さず働けない人々の社会参加のサポートの連鎖にもなるでしょう(保育施設の充実などにより)。

このように、福祉が「助けられる場」から「(仕事を受け持ちあい)助けあう場への招待」となるなら、受給者の心理的負担(「世間に迷惑をかけたくない」「子供が差別されるかもしれない」など)も軽くなるはずです。 

ちなみに、福祉先進国と呼ばれている北欧では現物給付型福祉が充実していますが、税の重さでも有名なので、その点を懸念する声もあるでしょう。

確かに、貨幣は 送金したり 取りに来させたりすればすみますが、財やサービスは運ばねばならず、使わせねばならず、メンテナンスせねばなりません。供給側により多くの行為が必要になるので、予算が膨らむかもしれません。

しかしそれは同時に福祉関連雇用の創造でもあります。

また、現物給付型福祉には 社会福祉のコストを下げうる要素もあります。

たとえば、貨幣が得られるからこそ不心得者は偽装離婚などもするのです。こぎれいであっても利便性のよくない地区にある殺風景な住居、健康的だが万人受けはしない食事、暖かく涼しくはあるが安そうな衣服などの現物のために、手の込んだ欺罔を策する人は少数でしょう。真に助けを必要とする人だけが応募するように自動的にスクリーニングがかかるならば、「共有地化」(取り放題)を牽制し 予算を節約しつつ 望む者に無条件で与えることが容易になります。

また 有休資産を有効活用できることもメリットです。
大阪市などでは、生活保護を受ける人が住む家の住居費用を、公的機関が直接家主に払う制度があるそうです。
これは生活保護費受給者が家賃を払わないというトラブルを防ぐことが主な目的のようですが、古くて借り手のつきにくい建物の有効利用にもなっていることでしょう。

また 現物給付は、受給者の自助を助け、結果的に受給者や受給額を減らす可能性もあります。
朝8時から夕方8時まで預かってくれる保育園があれば、母子家庭の母親も就職しやすくなり 自助が容易になります。優秀な母親であればしっかり稼いで納税もしてくれるでしょう。

また、自分や友人の職を危うくしかねないコストダウン策はわかってはいても口にしにくいものですが、福祉の効率化に現場の人々の関心を向けるしくみをうまくつくることができれば(たとえば兼業であることもその一要素となりえます)、必要以上に費用が膨れ上がることを防ぐこともできるでしょう。

北欧最大の国であるスウェーデンでも、その人口は東京都民の人口とほぼ同じで、日本と北欧諸国では経済規模が異なります。日本では「規模の利益」により相対的に低コストですむかもしれません。

3は、競争的市場のもとでは金銭的に高く評価されず 所属する企業も小規模で高い賃金を払うことが難しいが 社会の維持に不可欠な仕事に従事している人々に、公的な給与補填を行ってその業務を存続させ、かつ購買力を持たせる仕組みです。

たとえば介護職や保育職は重要な仕事ですが、将来の生活に不安を持たせるほど低賃金であることが多い職種でもあります。あるいは、貴重な技術を伝承して国産にこだわっている会社であっても、衰退産業(たとえば繊維)に属していては給料も低く、若い労働者は集まりません。
かといって「低賃金を是正せよ。賃上げせよ。」と企業に要請しても、利潤が上がらねば無理です。

そこで低賃金で働いている人に補助金を支給する制度を恒久的に導入すれば、レジリエンスと有効需要を共に高めることができます。従業員に直接支給するなら、補助金詐欺をねらう悪徳業者の活動も制限できます。

ただ 市場競争を歪めすぎないように、このような支給を受ける従業員を雇用している会社においては役員報酬や株主配当に一定の制限をかけるなどの措置もとられるべきでしょう。

いずれの政策の実現においても、いつまでも政府主導、中央官庁主導ではなく、(現在すでに関与している企業以外の)一般市民の関与を強化する姿勢が重要です。

場合によっては、公的機関がみずから組織を運営する形から、福祉に資する民間の活動を補助金で助成するという形に変わっていく部分も必要でしょう。(その際に大切なことは、金銭の流れを公がしっかりと把握していること、そしてその監査を第三者が行うことです。)

具体的には、3の公的収入補助についていえば、一般市民の選択が最初から考慮されているといえます。
対象となる職業は、社会的ニーズがあるからこそ存在するのであり、それにも関わらず給与が少ないからこそ問題となっているからです。

2の現物給付型福祉については、公機関が直接運営するのではなく、地域の人々が自力救済的に地域の福祉に役立つプランを立て 小口の投資を集めて管理人を募る、行政はそれを資金的に援助する、という形もありえます。

実際、フードバンク、子供食堂、ホームレスのためのシェルターハウス、コミュニティバスなど、現物給付型の互助制度が市民の間から生まれています。ここに地方公共団体の支援があれば、まさに未来型の福祉となるでしょう。

助ける側として固定されている人(公務員)の言葉は 助けられる立場の人に受け入れにくいこともあるでしょうが、同じように助けられる側に立ちうる人(民間人)の援助は「一緒に頑張ろう」というメッセージとなり受け入れられやすくもあるでしょう。

自発的に助ける側に立つことが社会的に評価されることは 助ける側の市民一般の幸福にもつながります。何もしなければ悲惨になってしまう状況をみずからの力で防いでいる、という安心や希望が共有されるからです(第二部第四編第三章「感情」参照)。そうなればこのような活動はさらに順調に広がるでしょう。

1のレジリエンス強化型公共投資についても、これまでどおりの人々がこれまでどおりの方法で決め続けていると、本当のニーズを外したものに予算が投入され続けかねません。

たとえば昨今はゲリラ豪雨による河川の氾濫が問題となっていますが、氾濫を防ぐには土手をかさ上げするよりむしろ河床の石や砂を取り除くほうがよい場所もあります。しかし河川砂利採取事業の多くは安価な輸入品に押されて事業を縮小しています。河川氾濫防止の観点から適切な箇所での砂利採取に補助金をつける、そこで採取された砂利等を公共事業の仕様に入れてしまうなど、ビジネスとレジリエンスを両立させるような手法も有意義でしょう。

しかしこれを実現するには諸官庁と民間の横断的な協力と裁量が必要となる一方で、それが利権と癒着の温床となったり 市場競争への不公平な介入となったりせぬような工夫が必要です。公共機関の決定と執行に個々の市民がアクセスできる透明性、つまり民主制の実質化が従来のような政治手法では追いつかぬほど重要になります。

なお、これらの政策の実現主体としては、中央官庁ではなく、地方公共団体のほうが好ましいでしょう。

なぜなら、社会資本の育成・持続性維持は 地域の個別的実情に即して行われるべきであり、全国一律的な対応は非効率や不平等を導くからです。

何が実質的平等であるかは、諸条件を考慮しなければならず、母数となる人数が多ければ多いほど色々な要素を考慮しなければならず、解の発見が難しくなります。狭い地域の同質性の高い人々同士を比べるならば、人々の正義感に沿った実質的平等を簡単かつ少ない費用で実現しやすいでしょう。本来、平等とは、どのような範囲(地域)で実現すべきかを判断する必要のある理念なのです(後に詳述します)。

また、現物給付は「規模の利益」と「混雑の不利益」のバランスをとらねばならない点で クラブ財と似ます。そしてその地域集団において「何が最小の費用で最大の効用となるサービスか」は、現場に近いところでなければ判断できません。たとえば、待機児童解消のために補助金が支給された企業型保育所は定員割れを起こしました。内閣府が所管し、地方自治体には指導権限もなく、既に保育所が足りている地域に乱立するなどして実需とのギャップが生じたためです。

また 国家単位でシステムを単一に決めてしまうのではなく、地方ごとに異なる共助システムが構築されていれば、個人はその中で最も自分に適するシステムを選択することができます。「市場の判断」や「足による投票(気に入らなければその地域から転出し、気に入れば転入する)」が生じ、本当の福祉ニーズを把握しやすくもなります。

また 新しい政策を実現するときは試行錯誤が予想されます。国家が集権的に政策決定すると「失敗のコスト」が高くつきます。政策の社会実験を可能にするという意味でも 主体は小規模なものにしたほうがよいでしょう。

もともと日本では 労働行政は国 福祉行政は地方自治体が中心という棲み分けになっていますが、生活保障のレベルや方法については地方ごとの差異をもっと認めてよいのではないでしょうか。また 労働行政の一部も地方に移管するなど、地方の権限をより拡大してもよいのではないでしょうか。

しかし、中央官庁と地方公共団体の間に隔絶した力の差があります。

権限が大きく異なることもその理由のひとつです。

たとえば貨幣は、市場と協働して経済を円滑に動かすインフラで、人為的操作のしやすいシステムでもあり、経済をコントロールする有効な手段でもありますが、その発行権は中央官庁(の一種といえる日本銀行)が独占しています。

他方、本章で述べてきた政策は「その経済域で労賃を払うのに財やサービスを買ってもらえない企業」と「その企業に勤める十分な労賃をもらえない人々」に権原と富を分配し、効率(利潤)の向上のために有効需要が抑制されている状況を緩和することも狙っており、その際、その地域でのみ流通する貨幣が利用できれば、その効果を上げやすくなります。

次章では、貨幣というものの性質やしくみについて、現在の貨幣システムの不具合から切り込んで 概観します。

貨幣

生活に重要な商品は、すべての人に行き渡らなければなりません。
また、他の商品と比べた相対的な価値が急変すべきでもありません。

この要請は貨幣にもあてはまります。

しかし現在、多くの人々の手元には十分なお金(貨幣)がなく、有効需要が伸び悩んでいる一方で、多量の貨幣が「投融資により果実を生みだせるはず」という呪いと「有望な投資先がない」という現実に挟まれて必要以上に銀行や企業に貯めこまれています。(ちなみに現在、グローバルなマネーゲームに使われる貨幣量は、財やサービスを生産して交換するという実経済に使用される貨幣量の10倍以上とも言われています。)

また、為替市場の整備により本来の流通範囲の外でも投機ができる現代においては、時として奔流のような貨幣の流れが生じて価値の変動が起き、実経済に過大な影響を与えています。
たとえば 政府が輸出振興と国内景気の刺激のため低金利政策を打ち出しても、海外投機家が景気回復による株や不動産の値上がりを見込んで「ドル売り円買い」に走ると円安誘導は邪魔されます。投機家はその円で日本の株や不動産を買い、経済が再び活況を呈して株や不動産が値上がりしたときにその株や不動産を売って利ザヤを稼ぐ一方、実業家や国民は余計な費用を払わされます。
また、財の価格も、投機(売買差益狙いの短期投資)によりむやみに激しく変動することがあります。

それらを制限するには、為替手数料を金額によって累進的に増額させ、移動を抑制するのも一手でしょう。
不動産や株など公示という社会的システムがある財については、登記簿や株主名簿への取引価格の記載を強制して売買差益を公開させ、保有期間から投機と投資を区別し、分離所得課税率を変えるなどの対策をとることも可能でしょう。

しかし 投機一般を制限する手段は、現在 見当たりません。

現在の貨幣システムでは、貨幣の偏在を防ぎづらく、貨幣や材の価値の急変を防ぎづらく、貨幣流通量を一定にもしづらいのです。

そこで以下では、あらためて貨幣という財の特殊な機能と性格を還元的に観察したいと思います。※11

※11

制度への還元的アプローチは、社会科学の典型的手法でもあります。
たとえばリアリズム法学を提唱するホーフェルドは「所有権という単一の権利は存在しない、存在するのは他の個人や組織に対する個々の権利のみである」と主張しています。

ちなみに、このような視線を投げかければ、債権と物権の差も相対的なものになっていきます。
土地や機械を勝手に利用しても、そのモノが人に文句を言うことはありません。文句を言うのは人です。人同士の裁定のために「権利(財産権)」という概念が生み出されたのです。つまり全ての財産権の本質は「人に対して何が言えるか」の話であり、その意味で「債権」なのです。その中で「不特定多数の人が債権者また債務者となる可能性があり、しかもそれが長期にわたり繰り返される」という特性のあるものを「物権」と呼んで区別したとみることもできるのです。あるモノをみずから利用する、他人に利用させる、移譲する、変質させる、損壊する、それらの行為の正当性を全ての人に主張できることをまとめて「所有権」と呼んでいるのです。
現代民法の「所有権絶対の原則」も、王に対して市民が財産的権力分立(奪取)を推し進めたフランス革命期の政策を継承したものにすぎず、債権と物権の本質的違い(そのようなものはない)から生じたものではないのです。
では「貨幣を所有する」とは、どういうことでしょうか。

貨幣も「流通する」以上は商品の一種ですが、他の商品にはない機能が二つあります。

ひとつは流通促進機能です。貨幣はひとつの商品でありながら全ての商品の「価値」を表し、財やサービスの交換と流通の道具になります。これが貨幣の本来の存在意義です。

ここでは、貨幣は、債権を表章する手段です。
A君がB君に物をあげたり労働を提供したりすれば、それに対する見返りも期待されます。しかしそれが忘れられてしまうこともあるので、モノとして残る証拠があった方が良いでしょう。それが貨幣です。
また、A君からみてB君のもっている物や能力には用がないということもあります。ここでA君がC君の物は欲しくて、C君はB君の物が欲しいなら、ABCの3人で交換をすれば皆が満足できます。さらにこのサークルが不特定多数に開かれればより便利です。その仲立ちをするものが貨幣です。
「ある人が、何か見返りに値するほど価値のあることを他の人にやってあげたことを証明し、もしその見返りがなければなんらかの制裁があるべきことを社会が保証する、万人の万人に対する債権債務の計算書かつ証書」が貨幣の実質なのです。(近代民法では債権の移転は原則として禁止されています。しかし貨幣に表象される「万人の万人に対する債権債務」は、移転を認めても特に不都合はないので 禁止されることはないのです。)
また、銀行は信用創造という形で貨幣が表章する価値をどんどん自分で生み出しますが、ここでは貨幣が合意によって創生されているのではありません。創生されているのは債権債務です。貨幣は債権債務の存在を立証するための証拠としての書式(証券)であり、それが債権の移転時に使い回されているのです。
この機能においては、貨幣自身には価値はありません。貨幣が表章する過去の労働や献身などに価値があるのであり、貨幣はその印や象徴にすぎないのです。いわば神を表す御札のようなものです。

貨幣は、人為的に非常に巧妙に整えられた虚構(fictio)なのです。

市場が広くなればなるほど貨幣も使い道が拡がり、また逆に、貨幣は目に見えないところにまで市場を広げます。しかし他方では、貨幣の流通に制限をかけることも可能であり、非常時においてそれは珍しいことではありません。
日本の第二次大戦後のハイパーインフレにおいては 旧紙幣による預金の引出しが制限され、新札を一定限度額内でのみ引き出すことができました。
また、国交が断絶すればその国の通貨と自国の通貨の為替は閉鎖されることがあります。
通常時でも、あまりに少額な送金や為替は断られることがあります。
現在、為替市場の完備により各国の貨幣は世界を飛びまわっていますが、逆に使用可能な地域を完全に自由に決めることもできます。リンゴは日本でもアラスカでもリンゴですが、日本の1万円札はアラスカでは紙くずにすぎないというのも不自然な話ではないのです。

次に、貨幣は、高い価値保存機能をもつことが普通です。

貨幣の占有を他人に許し、その利用の対価として利子(「配当」もその一種)という果実がいつまでも安定的に生じるようなしくみ(「利子をもらってお金を貸す」「出資して配当をもらう」)は、人間社会に一般的に観察されるシステムです。このシステムができると、貨幣自体が価値のある財としての実体を持つことになります。
しかも腐敗も劣化もせず手軽に利用できるという特殊性は、貨幣を持つ者に「いつまでも交換を待てる」という有利さを与えます。よって貨幣は富の蓄積(ひいては偏在)を容易にします。

この側面においては、貨幣という御札は神そのものになるのです。虚構(fictio)であることを忘れられるのです。

とはいえ、この機能も制限されえます。お金(貨幣)を貸し借りする場合、利子をとらないこともあるからです。

貨幣の価値や流通量は、他の商品と同様に、供給量と需要量を認識した人々の合意によって決まりますが、流通促進機能と価値保存機能は、それぞれ無関係な立場からその合意形成に影響します。    

流通手段としての貨幣の価値は、単純に理論的に言えば、その貨幣の流通域内にある全ての交換可能な財やサービスの価値(売り手と買い手の平均的合意によって決まる)の合計を貨幣の流通量で割ったものになるはずです。貨幣の交換レート(国内でのインフレやデフレ、対外的な為替レート)も、「貨幣の流通域内で生産される財やサービスの量と価値」と「貨幣の量」の相対的な多寡と評価により決まることになるはずです。

ただ実際には、国全体の財やサービスの量など瞬時にわかるものではありませんし、貨幣の流通量は常に変化している上に流れも偏っています。よって実際には、従来の価格、政府などの発表する資料などを参考にした相場感によってモノの値段は合意形成され、反射的に貨幣の価値も決まります。 

貨幣価値は後述のような他の要素もからんで上下するのですが、ここまでの理屈から言えば、財・サービスの供給が少ないときには、相対的に貨幣の量が多くなって価値が低くなり インフレになります。
また、「この国の民はろくに財やサービスを生み出さない」と評価されれば、円は安く評価されます。石油価格の高騰などで輸入が増えれば外貨を買うために円が売られて市場にだぶつき円安に振れます。すると輸入価格が高騰してさらにインフレに振れます。

逆に、財・サービスの供給が増えれば、流通手段である貨幣への需要が増えて 貨幣の相対的価値が上がりデフレになります。
その財・サービスが輸出されれば、受け取った外貨を銀行に売って円を買う国内企業が増えて 円需要が高まり円高となります。そして円高になれば安い財が輸入によって市場に出回り、財の価格を下げてさらにデフレに振れます。

とはいえ、長期的かつ全体的には、財・サービスの供給が増加していってもインフレが進みます。経済発展とゆるやかなインフレはセットなのです。

なぜなら、財やサービスの量の増えるペースは貨幣流通量(すなわち社会全体の債権債務の量)が増えるペースより遅いからです。つまり供給コストが上がっていくのです。
たとえば、財の生産が増えるときには、間接部門経費も生じます。いったん増えた仕事はなんとなく存続してしまうので、経費は減りにくいのが普通です。
不況時には、多くの企業は銀行から借入れてしのぎます。困窮した企業に低利で融資する銀行はありません。利率は上がり利息も増えます。好況時には、投資案件が増え貸出が増え利払いが増えます。借入利息は経済の拡大期には増加基調です。しかもその投融資が全てうまく事業化されて財やサービスを増やすわけではありません。貨幣の流通量だけは増えても、財やサービスは社会に増えていないこともあります。企業や家計はまさかのときのために預貯金を持たねばなりません。経済活動の規模が大きくなるにつれ預貯金額も増大します。
このように増加する債権債務のエビデンスとなる貨幣への需要に応えるべく 政府は貨幣発行量を増やし、銀行は信用創造を拡大して貨幣の流通速度を上げ、貨幣供給量の増加率を財の増加率よりも上げざるをえないのです。 ※12

財・サービスが人口に対して相対的に多くなり 潜在需要が減少してくれば 需要増が見込めないので新たな設備投資のための資金需要も減少し、銀行の貸出金利も低くなってインフレは終息しそうにも思えますが、ITのような新産業が躍り出るかぎり、インフレは終わりません。新商品については比較的自由に価格設定ができ、それにつれて諸物価が上がるので、新商品が増えれば増えるほど平均物価は上がっていくからです。

また、このような経済発展に必然的な生理的インフレのみではなく、突発的な資源高や、何らかの理由で生じた景気の過熱によって生じるインフレもあります。

また意図的にインフレを発生させることもできます。
貨幣が一部の人々に不足している場合、既にある貨幣の所有者を変える(課税や再分配)には手間がかかりますが、新たに造ること(国家の造幣と銀行の信用創造)は圧倒的に簡単であり、政治家も悪く言われず済みます。国債の負担の大きい国家財政はそれを望む素地もあります。このような安易な細工を防ぎ、租税による行政をきちんと政府に行わせるためにも中央銀行は存在するのですが、人事権を政府に握られているので、よほどの硬骨漢が総裁とならねば、その機能は限定的になります。

加えて、貨幣は食糧などのように「使われたら消える」という財ではなく、社会に蓄積されやすい財でもあります。

同一貨幣が流通する限りインフレが終わることはなく、貨幣は増え続け 価値は下がり続けるのです。

※12

かえりみると、金本位制は生産力の拡大の足枷だったと言えるでしょう。
金本位制の下では、国家の金保有量によって発行できる貨幣の量が決まっているのですから、交換手段としての貨幣の必要量の確保が難しかったはずなのです。

他方、価値保存手段としての貨幣の価値(に関する合意)は、主に政府の金融政策によって誘導されます。
中央銀行は利率をコントロールし、市中銀行は中央銀行の動向に従って利率を決め、金融のメインストリートはこのように管理された金利に基づいて供給される銀行の与信が占め、貨幣供給量は調整されます。

たとえば、財・サービスの需要や供給が低調な時には、中央銀行は金利を下げて投融資をさせやすくします。これは貨幣供給を増やすことなのでインフレを誘導するはずです。

逆に、財・サービスの流通が好調な時は、過当競争で事業を継続できない企業が増え 供給が急減する危険が生じるので、金利を上げて 投融資を抑制します。これは貨幣供給を抑制することなのでデフレを誘導するはずです。

このように中央銀行(すなわち政府)という一主体の意思によって価格が誘導される側面があるとはいえ、価値保存手段としての貨幣の価値や流通量は、政府が管理しきれるものではありません。

貨幣価値は市場のプレーヤーの思惑によってさらに動きます。

たとえば 日本銀行は1998年以降長らく低金利政策を続けましたが、需要減少下における国民の消費マインドや投資マインドは低温なままで2022年まで長くデフレが続きました。

為替レートも、金利だけで決まる訳ではありません。
一般論としては、保有することでより多くの利息がえられる通貨の為替レートは上がりますから、「自国通貨の金利が下がれば為替レートも下がり 金利が上がれば為替レートも上がる」と言えそうなのですが、金利のほかにも海外投資量や国際的信用や景気も影響し、しかも為替プレーヤーの思惑が複雑に重なります。

たとえば 日本政府が「もっと輸出を拡大しよう」とか「国内景気を盛り上げよう」と考えて金利を下げた時、海外の投機家が「円建て債券を買っても損だ」と考えて円を売ってドルを買ってくれれば、政府の狙い通り ドルに対して円は安くなります。
しかし海外投機家が「これから日本景気は盛り上がり、株価も上がる。日本企業の株を買っておいて値上がりしたら売ろう。円安を打ち消すくらいの売買差益はでるだろう。」「日本以上にアメリカの景気は悪い。日本企業はアメリカでの投資を引き上げるだろう。アメリカ企業の株を売って入手したドルを円に替えようとすれば、円への需要は上がるはずだ。」などと考えれば、円は十分には安くならないでしょう。 

また、貨幣価値やその流通量は実経済に大きな影響を与えるので、これについては人々が複雑かつ鋭く対立しています。

伸び盛りの企業は投融資のために低金利を好むのでインフレを容認します。他方、寡占を進めたい企業は高金利とデフレを容認します。輸出企業は円安を好み、国内需要向け企業は原料安を望んで円高を好みます。 蓄財者は生産から離れており、金銭の価値やそこから生じる金利が目減りすることを嫌うのでデフレを好みます。
産業の発達により地価が上がる土地の地主ならインフレを容認し、そうでない土地の地主なら相対的に地価が上がるデフレを好むでしょう。
労働者は労賃がもらえるように基本的に企業家と似た嗜好をもちますが、円安になりすぎたり インフレが物価面で先行すると困ります。またかつて労働者であった年配者は蓄財者的傾向をもちます。

「金利は政策的判断ではなく一定のルールに基づいて変動せしめるべきだ」とする主張もありますが、それで利益対立が消えるわけでもありません。

しかも、貨幣価値相互つまりインフレ・デフレと円安・円高との間にも、自動的な因果関係や相関関係は見られず、同じ原因から引き起こされることもあれば 一方が他方に対する操作の原因や条件になることもあり、インフレと円安または円高が同時進行することもあれば、デフレと円高または円安が進行することもあります。

よって、貨幣価値(具体的には金利)の適正なコントロールは、優秀な経済官僚にとっても難題です。

改めて振り返ってみると、近代の経済政策は、貨幣の流通促進機能と価値保存機能を一体的に安定させ、貨幣の流通範囲をひたすら拡大してきました。

近代国家では共通の通貨を使うことが奨励され、それ以外の通貨の利用は排除されました。この一国一通貨制度は、国民の貯蓄を集めて巨大な資本市場を形成しました。為替を通じて輸出入を管理して未熟な国内工業を保護することを可能としました。共通貨幣が取引を円滑化し、効率的に生産された財が国内市場を席巻することになり、消費者は安価に財を取得することができるようになりました。

しかし、他方では、本章の最初に述べたように、現在の貨幣システムは貨幣の偏在や価値の急変を防げません。
貨幣は、時代が下るにつれて量が増える傾向があり、現在は過剰なほど量があり、しかしその価値の変化は誰にも予測しきれず、調整も難しく、しかも貯め込みやすいという性格をもつのです。
このような財に対しては、人は不必要なほど貯め込もうとするのが自然な対応でしょう。一方で貯め込まれると、他方では不足することも、また自然です。(人は欲望のみに動かされる動物ではありませんが、その欲望をかなえることが許容あるいは推奨されるサインが社会から与えられると、そのように動きます。現在の貨幣システムは「貯め込め」というサインを送っているのです。)

また、一国一通貨制度は、少数の企業(や地域)による市場の支配を促進します。
特定の地域以外ではその財を生産する産業はなくなり、それに従事する職や雇用も失われます。その財の生産に伴って培われてきた地域社会の教育や運営ノウハウや関係も失われます。
また かかる強者のいる市場に参入しようとする企業は当初から巨大企業と同じ土俵で勝負しなければならず、現在の巨大企業がそうなるまでに享受してきた成長のための時間も与えられません。
多くの近代国家で検閲が絶対的に禁止されているのは、思想を萌芽の段階から選別すべきではないからです。
同様に、萌芽のような新しい経済活動を、開かれた苛烈な競争的市場に当初から投げ込むのではなく、稚魚を育むアマモ場のような市場で育成することも必要ではないでしょうか。

流通促進機能と価値保存機能の一体化と流通範囲の拡大は、貨幣政策として常に正しいのでしょうか。

二種類の機能が貨幣にあるのであれば、貨幣そのものが二種類、すなわち 利子のつくものと 利子がつかないものとがあってもよいのではないでしょうか。

利子(や配当)というシステムは、価値保存機能にとっては重要ですが、流通促進機能にとっては必要要素ではありません。利子などなくとも貨幣は財の交換手段として社会を流通します。
(他方、流通しない貨幣を貸し借りする人もいないでしょうから「貨幣の基本的機能は流通促進機能であり その上に価値保存機能が乗っている」といえるでしょう。)

利子には、財の生産や交換の死荷重となっている側面もあります。利子は財やサービスを生むことに直接寄与するものではありません。それらが当然のように財やサービスの価格に上乗せされているのです。

利子は、貨幣を多く持つ者がより多く持てるようにするシステムであると言ってもよいでしょう。投融資で多額の貨幣を稼ぎ得るのは、そもそも貨幣に余裕がある人だからです。

金利のある世界とない世界を作って、人々が適宜どちらかを選べるようにしたほうが、柔軟に経済を舵取りしやすくなるのではないでしょうか。

利子が排除された通貨にも、実績と歴史があります。

たとえば中世のキリスト教社会は原則として利子を禁止していました。

またイスラム金融では「利益の一部を利子として払えばよい、利益がなければ利子は払わなくてもよい」として、利益の有無に関わらぬ利息を禁止し、配当のような利子のみを認めます。※13

※13

現在の日本の低金利政策も、時限的な利子の制限または部分的排除といえるかもしれません。
低成長が続いているこの国が それなりに安定的な経済を保っていた理由のひとつとして、この政策を挙げることもできるでしょう。利子なき貨幣は低成長安定経済と親和的なのでしょう。(逆に、「金利が経済成長必要神話を作り上げた」とまでは言えませんが、その後押しはしているかもしれません。)
但、「低金利の極限としてのゼロ金利」は、異常な円安ひいては物価高を招き、またその政策が終息して金利が上がれば、企業は成長を強制され、 できない企業の経営は悪化して淘汰されてしまうでしょう。
本来的に金利というシステムがない貨幣を並走させることが有用かつ有効なのです。

また、貨幣の流通地域を狭く限定することも、経済の多層化につながるのではないでしょうか。

「レジリエンスと有効需要を結びつける市場」でも、財やサービスの移動を明確に数値的に証明するものは必要ですが、他方、「短期的効率と有効需要を結びつけるサイクルである自由競争市場」のような厳密な等価性を問われるべきものではありません。両者が一体となっていては経済全体の効率を害する懸念もあります。レジリエンス強化型公共投資が、競争的市場における優位を一企業に与えては不当です。両者は自動的に区分されるほうがよいのです。

そこでこれまでも、通常の市場取引は基軸通貨(円貨)で行いつつ、互助的取引はクーポン利用を中心とするというシステムが試されています。しかしクーポンは一回しか使えないので交換手段として脆弱です。

他方、貨幣が利用できれば、取引における供給者や時や場所のみならず財やサービスの種類についても選択の幅が広がり、企業間取引にも使えるようになり、公共投資のような場でも使用でき、もうひとつの経済を活性化させることになるはずです。

「短期的効率と有効需要を結びつけるサイクルである自由競争の場」と「レジリエンスと有効需要を結びつける場」との間にも、異なる国のような遠く離れた隔たりがあると言えます。ならば、国と国とが通貨を異にするように、同じ国の中に、もうひとつの(オルタナティヴな)通貨があってもよいのではないでしょうか。

複数通貨制  -地方通貨-

一国内における「流通地域に制限がなく利子もつく通貨(基軸通貨)」と「流通地域を意識的に狭めた利子なき通貨」の並走は、富の再配分を円滑ならしめ、「その地域で労賃を払っているのに 生産する財やサービスを満足に買ってもらえない企業」を助けるなど、様々な形で社会のレジリエンスを高めるビルトイン=スタビライザーとなりえます。

多くの人々に貨幣をいきわたらせる手段は、富裕層の貯め込んでいる貨幣の再分配に限られません。

貨幣量とは貨幣の使用量です。移転回数が増えれば増加したことになります。銀行による信用創造はよく知られた例ですが、人々の間で貨幣が交換手段として使用される回数が増えることでも移転回数は増えます。
1枚の1万円札が年間で10回しか移転しなかったならば社会全体としては10万円があったこと(使用されたこと)にしかなりませんが、100回移転したならば社会全体としては100万円があったことになります。貨幣の多くが一部の人に偏在するときでも、残りの貨幣が残りの人々の間で頻繁に使用されれば貨幣不足は緩和されます。

現在、特に経済的に苦戦しているのは、国内の個人需要を満たすための財やサービスを提供する企業です。顧客である個人が貨幣不足だからです。

他方で、個人需要を満たす財やサービスの生産に必要とされる資材の多くは、近隣地域から供給することもできるものの、価格が安い輸入品が市場を席巻しているという状況が多々見られます。

繰り返しになりますが、共通の通貨の使用は取引を圧倒的に迅速かつ安全にします。つまり一定の地域内でのみ通用する通貨はその地域内での取引を活発にします。外貨や基軸通貨との交換を制限された地域通貨は、域外との激しい競争から守られた地域限定市場を実現できます。

その際、さらにその通貨について利息や配当をとることを禁止すれば、すなわち財の移転の道具という機能に特化し貯め込まれにくくなった通貨を使えば、狭い地域内で貨幣の循環速度を速めることができ、金融緩和政策のように、その地域内での生産と消費をさらに後押しすることができます。

国家ではない下部組織が国家の基軸通貨の流通量の不足を補う目的で独自の通貨を発行した例は、中世において少なくありませんでした(日本の藩札、ヨーロッパのブラクテアト銀貨など)。

ここからさらに、人々の経済的困窮を解決する手段としての「地域通貨」につき考察を深めたのがシルヴィオ=ゲゼルです。
「地域通貨」とは、使用可能地域が限定され、基軸通貨や外貨との交換もできず 利息や配当をとることを禁止されまたは逆に使用料のかかる(マイナス金利のつく)貨幣です。このような貨幣を、地域内の財の流通を促し地域経済を活性化させる道具として位置付けたのです。

ゲゼルの提言もあって、世界の各地で様々な地域通貨が発行されました。

社会集団には地区、市町村、県や州、国などのレベルがありますが、地域通貨の流通範囲も様々でした。

たとえば、狭いコミュニティ(地区)で、助け合いの補助として利用され、購買対象が制限されたものもありました(アメリカのタイムダラー、カナダのLETS)。

ひとつの市程度の規模で使用され、その地域の経済活動を活性化させたものもありました(第一次大戦後のドイツのヴェーラ、1980年代のアルゼンチンのRGT、など)。

外国取引ができないだけで、全国で通用するものもありました(スイスのヴィア)。

実績から言えば、最初のタイプはあまりに流通範囲が狭く、交換対象となる財やサービスの種類や量も不充分で、社会への影響力は小さなものにとどまりました。

第2のタイプはキャピタルフライトや極度のインフレの発生した危機的国家経済の元で貨幣が消えてしまったことへの対応として流通し、人々の生活の維持に役立ちました。使用可能地域を限定し利子を廃した貨幣の流通速度は、基軸通貨のそれを上回ることを実証することにもなりました。ただ発行主体が民間団体であったことから「国家の貨幣政策を乱す」として禁止されたり、杜撰な管理で乱発・偽造されたりして、現在まで残っているものはありません。近代の政府は基軸通貨の発行を独占し、外局である中央銀行に銀行貸出金利を決定させて、間接的に銀行の信用創造の量もコントロールします。これは中央集権のインフラともいうべき制度です。これをあまりに無視することは近代国家制度を揺るがせることになりかねませんから、禁止もしかたなかったかもしれません。

最後のタイプであるヴィアは、1930年代から現在まで用いられています。これはスイス国内全土で通用する上に、他の地域通貨では推奨されている負の金利(使用料がかかるので預けっぱなしで使わないと損をする)がなく、単に利率が0ないし低率なだけであり、利用主体が中小企業に限られているなどの特色からいえば、厳密には地域通貨ではないのかもしれません。しかし基軸通貨であるスイスフランを担保として発行されているので政府の通貨高権(独占発行権)との軋轢が少なく、銀行が発行しているので信用力が高く、中小企業の活性化に役立っていると言われています。

地域通貨を導入した場合のメリットは、大きくは二つあります。

ひとつは、グローバルと財やサービスの交換をしつつも そこからある程度独立する仕組み、地域に住む人が供給する財やサービスを同じ地域内の人々がなるべく買うようにする仕組みとして地域通貨が利用されることです。

地域通貨が基軸通貨の代りに流通すると、たとえば他の地域(主には工業化の進んだ都市部)からの「輸入」を減少させ、 狭い地域内にある資源の活用を余儀なくさせます。いかなる地域にもある資源、それは労働力です。すなわち雇用を増やすことになり、その地域の中での産業の育成を後押しすることになります。

これは発展途上国が先進工業国に追いつくために、ビッグプッシュ政策の一環として輸入制限して国内産業育成を図ったメカニズムと類似した状態です。(ちなみに 地域通貨は利子がつかず信用創造されにくいので大規模投資には向きませんが、そのぶん域内での消費を刺激します。)

この機能を発現させるためには ある程度の広い流通域を必要とするでしょう。

いわばこれは「協助」機能と呼べるでしょう。

もうひとつは 親密でもなければ匿名でもないある程度人数のしぼられたコミュニティにおける互助システムの育成です。

すなわち、ボランティアを属人化させずにその負担を公平化し、福祉サービスの一部に市場による調整を導入し、日常生活スキルの提供を現金化させる道具として地域通貨が利用されるのです。

この機能は 流通域が比較的狭くても発現しやすいでしょう。

いわばこれは「互助」機能と呼べるでしょう。

しかし地域通貨は、私的機関によって発行されていたので、システムの脆弱さ(発行機関の公正さの担保手段の不足、使用可能対象の不明確さ、偽造しやすいこと)、金融政策の障碍となりうること、などの課題を抱えていました。

他方、目を転じれば、地方自治体にはそれらの課題を解決しうる予算も人材も権限もあります。
地方自治体が地域通貨を基軸通貨(円)と交換できる唯一の発行主体(転換内容の決定権を含む)となれば、管理と信用が保たれます。
流通範囲も、地方自治体の行政区域と一致させれば明確です(たとえば山形県内、あるいは東北地方でのみ流通する、など)。
偽造に対しても、地方自治体が印刷を日銀に外注すれば解決します。たとえば現在流通している円貨(紙幣)の通し番号の末尾に独自の文字(たとえば沖縄県を示すものとして「琉球」からRYKなど)を入れるだけで済むでしょう。
また、スイスのヴィアと同様に、基軸通貨を担保とすれば政府の金融政策を阻害しすぎることはないでしょう。

このように地方自治体が発行する通貨(地方通貨)は、公的な後ろ盾を持つだけに、地域通貨と同様の機能を より確実に果たし、その影響は広く及びます。

まず、協助機能について述べると、地方通貨は地域内の有効需要の育成に貢献します。

地方通貨が流通した時、地方通貨でモノを売ってくれる人は 地方通貨でモノを仕入れる人です。市場の強者はそのような主体ではありません。市場の強者は最も有利に生産が行える場も材料も世界中から選ぶので、地方通貨を受け取っていては 賃金を払ったり材料を買ったりしにくくなり 生産に支障をきたすからです。

地方通貨で売ることのできる当該地域の供給者は、少し価格が高くなっても(効率に劣っていても)生産物を買ってもらいやすくなり、域外の強大な供給者との競争から守られます。

それは、その地域内で生産された財やサービスへの需要が高まることであり、そのように買ってもらえる財やサービスの提供の対価として、地元の労働者の収入も増えます。その支払いに地方通貨が使われれば、さらに地方通貨ベースの、すなわち地域内の生産物への有効需要が生じ、モノと地方通貨の循環の速度があがります。

逆に、たとえば、せっかく地元企業が頑張って給料を増やしても、従業員達が全国展開している市場の強者の提供する財やサービスが購入しているようでは、その金銭が域外に出てしまい、結局は市場の強者の集う都市の経済の循環速度が上がるだけで、地域内で貨幣が循環しません。

さらに、地方通貨は政府の経済政策を側面支援できます。

公共事業を地方の建設業者が落札したとしても、資材の大部分を東京の大企業や海外から購入するようでは、労働者の多数である地方の中小企業の従業員の給与は伸びません。
一定量以上の基軸通貨を地方通貨に転換した上で公共事業を行ったり、地方通貨で補助金等の公的支援を行えば、比較的狭い地域内での乗数効果が高まり、有効需要が活性化され、財の流通が促進されます。

また、地方通貨の発行量を増やしておけば、(無利息なので銀行の信用創造による流通量の増加が期待しづらい一方、)それが貯めこまれて流通量が減る割合も減り、海外への投資による貨幣の流出も減り、国内での通貨の流通量が一定に保たれやすくなり 金融政策の複雑さを緩和できるはずです。

一定地域内で使わなければならず 投資や貯蓄に回しにくい地方通貨なら、いかに運用上手な企業や富裕層とて財やサービスの購入に回すでしょう。そうなれば地域経済の活性化に役立ちます。「投資に回しづらい地方通貨なら、浪費するくらいなら寄付してしまおう」という心がけの良い富裕層も増えるかもしれません。

地方通貨は、その地域で新たに起業しようとする人々を保護する一種の関税障壁ないし「需要のゆりかご」にもなり、新たな財やサービスが発見育成される機会を増やすことにもなるでしょう。

戦後復興あるいは人口増加という「作れば売れる」時代のメリットにより現在の地位を得た大企業も多いこと、そしてそのようなメリットが今後は見込めないことに鑑みれば、巨大資本の市場支配を牽制する保護政策も不当とは言えないはずです。

その一方、このように地方通貨で保護された主体の経済活動はその地域の中に閉じ込められがちになり、厳しいグローバル市場における競争にさらされている経済主体との「棲み分け」もできてくるでしょう。

たとえば、基軸通貨を稼ぐ人は地域外で製造された高級品を購入し、地方通貨を稼ぐ人は地産の普及品を入手することになるでしょう。後者は、ブランド品は買えないが地元で縫製された衣料は買える、ボルドーやナパは無理だが地元産ワインは飲める、高度な医療や教育なども 都会までは出られないにしても 地元にある限りのものであれば手が届く、という消費生活を送ることになります。

これも格差ですが、貧困層も社会参加でき 尊重される形での格差です。現在の過剰な格差とは異なります。

地方通貨は、自由貿易の原則を守りつつ、その行き過ぎを是正する機能さえ持ち得ます。

国家レベルの保護貿易主義は、世界経済の全体的な効率を妨げすぎることになります。またこれが拡大すると、第二次大戦前のブロック経済の二の舞となります。よって基本は自由貿易とせざるをえません。

しかし自由貿易には歯止めも必要です。
自由貿易主義の下、各国は法人税引き下げ競争を行います。自国企業が(技術開発や海外投資のための)資金を貯められるようにし、海外への企業移転を防ぎ むしろ投資を呼び込むためです。それでも企業は発展途上国に工場移転します。他方、福祉予算の維持のため裕福ではない一般市民からの徴税(消費税など)は強化されます。先進国の一般市民から見れば、工場の海外移転によって職場は少なくなり、税金は重くなります。このような踏んだり蹴ったりの目にあえば、「自国の労働者を優先せよ」「国産品への需要を保護せよ」とグローバリズムへの反動が強まることになっても当然です。

この点、地方通貨という外貨と交換しえない通貨を一定量流通させておけば「何について自国生産を優先させるか」の決定権を消費者に与える形で、一定量の国産品の流通を促すことができます。

たとえばカリフォルニア米は美味で安価です。日本米は(関税や量的制限がなければ)売り負ける懸念があります。しかしカリフォルニア米の輸入業者は地方通貨では売りたくありません。円(基軸通貨)をドルに交換して輸入代金を支払うので、次の仕入れの為に円が必要だからです。他方 地方通貨を持つ人々は、やや使い勝手の悪い地方通貨を早めに使ってしまいたいインセンティブをもちます。そうなると両者の仲立ちとして 地方通貨でカリフォルニア米を販売するスーパーマーケットも出てくるかもしれませんが、その代りそのスーパーマーケットはその地域から何か他の品を仕入れなければならなくなります。それはその地域の消費者が「少々高くても地産品がよい」と受け入れてくれるモノでなければなりません。つまり政府ではなくスーパーマーケットが消費者の顔色を見つつ「何を地域外から仕入れ、何を地元から仕入れるか」を決めるのです。

そこで選好される地産品を生産する企業の労働者は 海外の安価な労働力との競争から守られます。万国の労働者はとめどない競争から免れ、マルクスの言うような団結とはいかずとも、共存くらいはできるようになるでしょう。

地方通貨の基軸通貨に対する発行割合を、国家間で協定するようになれば、実際の消費者のニーズに直結した形で自由貿易と保護貿易の微妙なバランスをとることもできます。

地方通貨は、地方経済にグローバルなマネーゲームからの距離をとらせることもできます。

広大な世界市場の成立により財や情報の流通は促進されていますが、これは一面では一国の経済が外国から影響されやすくなることでもあります。

しかし「その国の基軸通貨の一定割合(20~50%程)は 常に地方通貨に変換して流通させねばならない」ものとしておけば、それに対する防護壁となりえます。たとえば、キャピタルフライトなどの通貨危機に対しても、地方通貨は海外に移転できないのですから、日常的な消費財の交換などについての混乱を鎮める働きもするでしょう。

また、流通地域を制限された貨幣は、(特に外国の)富者やマネーゲームのプレーヤーにとって使い勝手が悪いので、その流通が増えることは投機(カネがカネを生むシステム)を牽制する要素となります。たとえば、「不動産売買の代金の一定割合(20~50%程)は地方通貨で支払われなければならない」「不動産の借主が望むときは借賃は地方通貨で支払える」「固定資産税率は、地方通貨で支払う場合は低く、基軸通貨で支払う場合は高い」等の制度を導入すれば、巨大資本による不動産の買占めや値の吊り上げも緩和されるはずです。

また、地方通貨には、域内で生産流通する商品について物価を抑制する効果もいくらかあるでしょう。

まず、地方通貨には利子という死荷重がつきません。そのぶん地方通貨によって財やサービスを製造する主体は原価を抑えうるでしょう。

また、先述のように、貨幣の流通回数が増えることは貨幣量の増加と同じ効果を経済に与えます。流通回数が増えれば貨幣価値は相対的に下がり、流通回数が減れば 逆に貨幣価値は上がり 相対的に物価は下がります。
そして域内だけで商品取引が行われるということは、自給自足的な側面が強くなり(ひらたく言えば 中間ディーラーや運送の必要が減るということです) 商取引の回数が減るということ、つまりその商品に関しては貨幣の流通回数が減るということです。
地方通貨は、社会全体として貨幣流通回数を増やしながら、個々の財やサービスについては流通回数を減らすことで、財やサービスの円滑な流通に寄与するのです。

 

次に、共助機能について述べると、地方通貨はボランティアの属人化を防ぐだけでなく、福祉における微調整機能も持ち得ます。

福祉には、受給者に選択の自由を与え活動の場を広げさせるべき場合(たとえば一時的な失業者の場合)と、管理して保護すべき場合(たとえば孤立した認知症患者などの場合)があり、受給者の性質により調整が必要です。

このとき、給付しうるものが円貨、地方通貨、クーポン、現物と4種類あれば、相手によって最適な道具を選びやすくなるでしょう。

また、一般の人が、「時と場と物を選ばない交換手段である基軸通貨の給付では受給者が恵まれすぎることになる」と感じるとき、クーポンや地域通貨という少々不便な財の支給は微調整の手段となります。
これは、平等の実現を、要件ではなく効果で調整することです。

地方通貨による交換の場は「世界とつながりが薄い自分は世界に何の影響も与えられない」という疎外感を薄れさせることもできるかもしれません。
疎外感は、売り手と買い手が「交互に入れ替わることがない」ことからも発生していますし、価値の共有が難しいことからも発生しています。市場規模が大きくなればなるほど売り手と買い手は分離し、共有しうる価値が少なくなり、競争のような単純な原理に走りやすくなります。しかし人には密接なつきあいが必要なときもあり、地方通貨が実現する小さな経済圏は人々に比較的密接なつきあいをもたらします。

ほとんどと言ってよいほどの多くの財やサービスが「商品」とされていること、自分自身の商品としての価値を値踏みすることを要求される社会を批判する見解もあります。
しかし、商品化とは相手が誰であれ わけへだてなく交換できるようになることですから、悪いこととは言えません。
問題は商品の価値の比較が、してはならないもの同士でされたり、考慮しなければならない要素を除いて行われていることです。
価値の比較の「ものさし」を増やしておくことは、ものさし自体の正しさを問い直す契機となります。そして流通域の異なる貨幣は、異なる「ものさし」となりえます。

あらためてふりかえれば、貨幣はそもそも効率や競争にのみ奉仕してきたわけではありません。互助や共感の交換にも役立ってきたのです。
需要のみならず努力ひいては心情すらも それなりには貨幣で計測可能なのです。
たとえば損害賠償が(国家という強い後ろ楯を得た)貨幣でなされることは、暴力による自力救済(と復讐の連鎖)や煩雑な原状回復を排除して 社会の平和を保つことにも役立っているのです。

さらに地方通貨は、レジリエンスと有効需要を結びつけるオルタナティヴな市場を円滑化する機能ももちます。

地方通貨の導入は、流通域外からの財の流入を制限して市場を小分けすることになり、市場競争経済からの避難地を作り その地域内で作られた財の流通を守ることになり、これは非常時における生産の持続可能性を高めることになります。すなわち「大規模な投資が不要で緊急時や災害時にも強いがコスト高のため利用されづらい」伝統農法・工法や再生可能エネルギー発電を事業として存続させる環境の整備になり、市場の強者が実現している高効率かつ集合的な生産システムにトラブルが生じたときも代替品を供給できるサブシステムを育成しておくことになります。

また、国家単一通貨や為替市場と親和的な大量生産や国境や地域を越えた大量移送は二酸化炭素の大量排出の原因になっています。地方通貨の導入によってこれらを牽制しておくことは、温暖化の防止にも役立ちます。
(これらは一面では不効率をもたらしますが、その不効率は地域内での自給自足を実現しようとすれば当然に生じるものであり、そのことに普段から少しは慣れておくこともレジリエンスの観点から必要でしょう。)

また、地方通貨は「現代経済のメインシステムである競争的市場が見落としがちな財やサービスを、同様に見落とされがちな労働力や資源を有効活用して 提供する」というサブシステムを公的に支援するときにも役立ちます。

社会の安寧や安全の向上に資する仕事には、その地域に住む素人が少し慣れればできるもの、労働市場においては低い評価しか受けない人々にもできるものが少なくありません。例えば幼児や学童の一時預け、老齢者などの要保護者の家事、生活道路の簡単な補修、放置されている空き家や空き地の整備、荒廃した山林の活用、遊休農地の耕作などです。

これらには不要不急の仕事も含まれます。このようなものに基軸通貨を公費として使うと、他の地域から「輸入」しなければいけない財を買える量が減るのでもったいない、と思う市長もいるでしょう。

しかし地方通貨で支払えばその地方の有効需要を増やすことにも直結しますから、「二重のメリットがあるなら」と許せる公費の使い方になるでしょう。
さらに、たとえば上記のような労働によって生産された財(見栄えはよくないが味と栄養は良い農産物、いちおう住めるようになった空き家など)を生活補助のための現物支給に利用することができれば、福祉予算を節約できます。
あるいはその生産物を質と量をまとめられないぶん安価に地元企業に卸してもよいでしょう。それが売れれば企業には利益が出るので納税額が増え、その税によって公費の一部が後から補填されることになります。

また、あまり厳しく効率が要求されない地方通貨経済圏においては、効率とは相性の悪い男女平等の理念が、より実現しやすくもなるでしょう。

他方、地方通貨の流通は、その地域に何かの規制があるようにも見えるかもしれません。

しかし、「地方通貨が多く流通する地域では地域外からの新たな投資を呼び込みにくくなる」ということはありません。
全国に投資先を探すような企業は全国や海外と取引している企業ですから、保有している金銭も主には基軸通貨たる円貨です。給与や仕入れの支払いも主に円貨で行われます。地方の労働者や企業が円貨による支払いを拒む訳はありません。

ある地域で全国レベルの企業の製品が爆発的に売れれば、その地域の地方通貨が企業に貯まってしまうかもしれませんが、これはむしろその地域に工場を移す動因のひとつになるでしょう。

地方通貨は、むしろ投資を呼び込めるのです。

このように地方通貨は様々な働きやメリットを社会に与えうるものですが、もちろん地方通貨のみの経済を推奨するものではありません。

現代の豊かな物質生活には広範囲での交易が大きく寄与していることも事実です。ある地方に他の地方からの財が入り込まなくなれば生活レベルは大きく後退することになるでしょう。有効需要はかえって育成されなくなり、仕入れにも大きな支障をきたすでしょう。

利子が得られるからこそ金融業も営まれ、利子というインセンティブによって集めた貨幣で大きな投融資がなされてこそ生産効率も向上し、豊かな財も生み出されます。
これまで通りの広範な流通と金利を維持する基軸通貨と、利子がなく狭い地域での実需財の交換に使用される地方通貨を並走させ、国際市場と地方市場が互いに補完する経済にするべきなのです。

また、地方通貨を導入すれば再分配政策が不要になる訳でもありません。

地方通貨は、経済的「強者ではない人々」の生活の場を拡げつつ、経済のレジリエンスを高めるという二兎を追う制度であり、「本当に困窮している人々」への救済としては、補助的に役立つだけです。

地方通貨は新たな制度ですから、新たな課題を持ち込みます。それはたとえば以下のようなものです。

  • ・基軸通貨と地方通貨の適切な流通割合はどれくらいか。
  • ・基軸通貨と地方通貨の交換レートはどれくらいが適正か(購入可能な財やサービスの種類が基軸通貨よりも少なくなる地方通貨のほうが安く評価されるのが妥当にも思われますが、政策的に等価とすることも考えうるでしょう)。
  • ・地方公共団体以外の主体による両者の交換(両替)は禁止するか、または何らかの条件をつけて許可するのか。
  • ・地方通貨による投資や配当は全面的に禁止すべきか否か。
  • ・地方通貨しか使用できない場を設定するか否か。
  • ・流通範囲をどうするか。

地方通貨の協助機能を発現させることを想定すると、まず現存の都道府県が思い浮かびますが、地域の経済的自立性を高めるにはより大きな道州単位が好ましいかもしれません(たとえば北海道、東北、関東、中部、関西中四国、九州、南西諸島という区分が考えられます。関西と中国と四国をまとめた大きな地方通貨経済圏を作るのは、経済力も人口も突出して大きな関東への拮抗勢力をつくるためです)。
逆に、地域ごとのまとまりを重視するなら 江戸時代の藩くらいの範囲がよいかもしれません。
互助機能を発現させるための流通域としては 町村が思い浮かびますが、その地域の人口やコミュニケーションの濃淡によって 大きすぎたり小さすぎたりすることもあるかもしれません。

いずれの問題に応えるにしても社会実験が必要ですが、社会実験は狭い地域で行うのが定石であり、地方通貨はそのような実験にもそもそも適しています。

地方通貨は「中古品」と「農林水産物」と人々の「兼業労働」の市場において流通しはじめることが予想されます。

競争的市場の中で働きつつも、その労働時間外において地縁的あるいは互助的な仕事(たとえば公的な現物給付的福祉サービス)に従事した対価として流通を始めることで、まず互助機能の側面から市民権を得、そこに地元の農産物や中古品や型落品や処分品が交換対象として参入することで市場が拡大するという順序が予測されます。

また、工業製品とはいえ中古品などの価格は安価になるので、農林水産物との価格差が縮まり、それは農林水産物価格の相対的安定に依存する地域共同体経済の再生を助ける要素にもなりうるでしょう。

さらにここに製造企業も部分的に参加して協助的市場が育てば、さらに人々の生活を支えるものとなるでしょう。

ただ、先述のように、貨幣の本質は債権証書すなわち人々の約束です。人々の意識で作り上げていくものです。よって、地方通貨を流通させるには、地方通貨が社会のレジリエンスを支えるためのもうひとつの通貨として重要であることを周知しておくこと、あらかじめ地方通貨を使用できる市場を準備しておくことも重要となります。 

当初から一定の流通量を確保するため、地方公務員の給与の一部を地域通貨で支給するなどの準備も必要かもしれません。それは地方通貨に「貧者の通貨」のようなスティグマを与えないためにも有効でしょう。

最後に、一見似ているものとの比較から、地方通貨(ないし地域通貨)という制度の輪郭をたどりなおします。

仮想通貨は 一般人が発行する通貨である点で地域通貨と似ています。しかしその主な用途は、銀行口座を開けない人の海外送金、自国の通貨に対して信用のもてない国民の貯蓄、そして投機です。しかし海外送金を広く銀行が受け付けるようになれば状況は変わりますし、自国通貨に不安な国民の貯蓄の方法としては貴金属やドルもあり、あまり重要な役割とも言えません。電子機器がないと使えない点で利便性に劣りますし、詐欺もどきのものとそれ以外のものとの区別がつきにくいことも不安要因です。
そもそも、地方(地域)通貨の目的は市場競争に並走する新たな経済をつくることにあります。
既存の経済の規制をかいくぐり あるいは投機的差額を儲けるための仮想通貨とは 根本的に異なるのです。

また他方、地方創生事業として「地域内商品券・クーポン」などが利用されていますが、これは一定地域内の財やサービスのみを購入できるという点で地方(地域)通貨と共通しつつも、一回きりの使用に限られ、再生産には役立たないので、地域経済活性化の道具としては力不足です。
ただ、商品券やクーポンで経済が活性化した地域では、地方(地域)通貨の有効性も高くなることは推測されます。

政府の財源

前章までに述べた政策は、予算の効率的な使い方(「出る」を締める)の提言にもなっています。

しかし、増大する政府支出を支える収入をいかに確保するか(「入る」を増やす)は、避けて通れない問題です。

日本政府の主な財源となっているものは 租税と国債です。(年金は「保険料の不払い」という懈怠に対して「年金を払わない」という制裁が組み込まれた税の一種と見ることができるでしょう。)

後者は、基本的には ①中央銀行が市中銀行に低い金利で金を貸し、②市中銀行が国債を買い(政府に金を貸す)、さらにその国債を他の企業や個人に転売するという仕組みです。

高度経済成長期には、経済成長により後日の税収増加が期待できた上に、持続的インフレにより実質債務額が目減りするので、あまり問題はありませんでした。

しかし総需要の減少した現在はそのようなスキームに期待できません。

そのような状況の下でも「政府債務はいくら膨らんでも問題はない。政府は公的支出を増やして(社会福祉なり公共投資なりで)民間の需要を増やしていくべきだ」という主張もあります。

国債を購入するのは銀行や企業や比較的裕福な個人ですから、政府の借り入れが社会保障の財源として使用されるならば、政府が借りるという形を通して 実質的には銀行や企業や裕福な個人から貧困層へ金銭を移転していることになっているとも言えます。これを止めろとは なかなか言いづらくあります。

また 政府が借金まみれになっても、貸している側がその政府の保護を必要としている同国の法人、銀行、富裕層である限り政府を破産させることはできません。通貨発行権をもつ政府が借主で、貸主がその国の国民(法人)である限り、返さなくてよい借金であるとも言えそうです。国債の主な保有者(貸主)が外国人で 通貨発行権もEUに召し上げられていたギリシャのようにデフォルトする心配は、日本にはないでしょう。

そう考えれば 日本においては「将来の国民に負担を残してはならない」というスローガンは無意味で 赤字国債も問題ないと言えそうにも思えます。

しかしそれは「自国通貨建の国債を自国の国民や金融機関などが保有し続けてくれる」「財やサービスそのものが大幅に足りなくなることは起きない」などの条件が維持される限りでの話です。これらが崩れると、ハイパーインフレを暴発させてしまう危険を持ちます。
たとえば 大災害が起きて国内の生産設備や輸送手段の多くが壊滅し、生活必需品の供給が追い付かないような状況が絶対に起きないとは言えません。数少ない財やサービスを購入しようとすると当然に値段は上がります。国債保有者が国債を売って得た現金で高騰した財を買おうとすれば、政府はそれ以上国債を発行できなくなり、紙幣を刷って債務を返済しなければならなくなり、余計に貨幣量が増えます。外国から財を輸入しようとしても、ろくに生産できない日本からは何も買えないので円も暴落しているはずです。円に対する国際的な信用は失われ、インフレは加速し、原油等の原料価格の高騰も起きて手がつけられなくなるでしょう。

また 安易な国債発行は、再分配の許容性や有効性への政府の注意を低減させ、バラマキ政策を助長し、この国の人々を怠惰に流れ刹那的な生き方しかできない愚民にしてしまうでしょう。それでは国家は根元から崩れます。

やはり巨額の政府債務は解消を目指すべきなのであり、統治はなるべく効率的に低予算で行なうべきなのです。

国家財政を最終的に支えるのは税なのです。

さらに、税は、政府の予算を支えるだけではなく、特定の政策の実現のために使うこともできます。
たとえば、子育てしている人への所得税率を軽減し 代わりに独身者や子供のいない夫婦への所得税率を加増することは、少子化の解消のために合理的でしょう。エッセンシャルワーカーや製造業従事者への所得税率を軽減し、代わりに金融業者や不動産所得への税率を上げることも、人手不足を解消し 有効需要を創出する上で合理的です。それらに対しては「個人の自由を侵害する」という反論が叫ばれるでしょうが、後述のように、民主制社会においても自由は金科玉条ではありません。正当な反対利益のためには抑制されることもあって当然の理念にすぎません。

他方、逆に、経済の活力を落とすような税制の下では、企業がいかに創意工夫したとしても、経済は上向きません。

税は、緻密な設計を要する反面で 様々な効果を国政に及ぼしうる政治的制度なのです。

それにも拘わらず、税についての議論は、技術的な観点に集中しがちであり、政治や経済全体との関係はあまり深堀りされていない、あるいは既存の権威の意向に従いすぎているようです。

これまで、望ましい税制の条件として挙げられることが多いのは、中立(市場経済の効率を歪めない課税)、簡素(課税内容がわかりやすく、納税手続が容易で徴税費用が少ない効率的課税)、公平(能力に応じ受益に応じた平等な課税)の3要素のようです。しかしその内容や重要性については再検討する必要があります。

たとえば、税というものはすべて取引の死荷重となるものであり、その影響の大きさは、税の種類のみならず、税を取られる側の事情によっても異なります。個別具体的に判断せねばならないのです。「○○税は中立性が高く、××税は中立性が低い」と一般的に語ることは意外に困難です。
しかも、考えてみれば、経済や社会の全体の円滑な発展の為に必要なら市場が政府から掣肘を受けてもやむをえないはずです。また、市場も効率のためだけにあるのではありません。
厳密な中立性などそもそも保てるものではなく、求めるべきものでもありません。

簡素性は技術で乗り越えるべき課題です。たとえばITの発達した現在、国家が国民の財産の「名寄せ」(個人の保有資産をすべて一覧化すること)をして徴税を簡易にすることもさほど困難ではないはずです。財産権やプライバシーの侵害であるという反論は予想されますが、国家財政の危機という反対利益に勝るほどの価値はないでしょう。財産権とて国家に守ってもらわねばならないのです。

公平すなわち「誰から徴収するのか」「徴収されないあるいは再分配されるのは誰か」という税負担の平等の問題は、目的との関係で論じられるべきもので、税にどのような役割を期待するか、何を重視するかの争いに帰着します。(「なるべく税収を多く安定的に確保したい」という要請はどのような立場でも共通するので、ここで違いはでません。)

ここで最大の論点は、一般層と富裕層のどちらに一次配分する(徴税しない、再分配する)方が経済発展に有益か、という視点の対立です。

一般層への一次配分、たとえば貧困層への減税や社会保障の充実は、一次的には彼らの消費財への有効需要の育成につながります。それに刺激されて供給設備が建てられ、生産財需要が伸び、雇用が生まれてさらに有効需要が伸びる、という筋書きです。

富裕層への一次配分、たとえば富裕層への減税は、一次的に彼らの個人的な消費財への需要を育成するのみならず、投資家(供給側)たる彼らの生産財や労働力への設備投資需要も呼び覚ましそうに思えます。工場が建つことによって、一般層に賃金が支払われ、有効需要が全体に伸びていくだろうという期待が加わるので、こちらの筋書きのほうが効果が多いように見えます。
それゆえか、ここ30年、日本の税制は後者に振れていました。1989年の消費税の導入とともに 法人税率や一般所得税率は下げられました。高額商品にかかっていた物品税も消費税に組み込まれて税率が下げられました。

しかし成熟した市場経済においては大きな成長が期待できる産業は希少です。それほど儲かりそうにない投資先しかない国内においては、当時から今に至るまで投資は低調でした。しかも多くの日本企業は、ITやAIの開発への投資よりも、海外への工場移転、下請企業への半強制的な値引き要請などの手っ取り早い儲け方を選好しました。これらのコストダウンで輸出が伸びればまだよかったのですが、アメリカは自国内での生産を日本に要求し、世界経済の成長点である東南アジアでは「日本製品は高品質だが高すぎて買えない」と評され韓国や中国の企業に売り負けました。それらはすべて国内の働き口ひいては有効需要を減少させました。

富裕層向けの付加価値の高い財やサービスへのシフトを目指した企業もありましたが、高級品の市場は小さく、富裕層の消費財への需要は力強さに欠けました。国の経済発展を支えるほどの力をもつ消費(需要)が高級品市場から生まれないことは、フェラーリ、ロレックス、ゴディバなどではヨーロッパ経済も昔の力を保てていないことを見ても明らかです。

現時点においては、消費需要の量を増やすことが最重要であり、その喚起に注力するほうが経済発展につながる可能性が高いことは明白でしょう。
加えて、できる限り「さらなる需要や供給力を育成する」需要(たとえば教育、住環境など)を満たすべきでもあります。
そのためには一般層への配分を増やすべきなのです。

税は公的サービスに対する対価であるとも言えます。

公的サービスはすべての人が受けるものです。従って、すべての人が負担すべきであり、この観点からは、税は本質的には人頭税(すべての人が負担)であるべきだとも言えそうです。

しかし公的サービスを受ける量あるいは受けてきた量は異なります。つまり大きな資産を築いてきた人ほど大きく受けてきたといえます。なぜなら社会ではひとりでできることなど何もなく、成功するためには他者(なかんずく公的機関)の助力が不可欠であり、この観点からは、税は本質的には資産税(資産家が負担)であるべきだとも言えそうです。

いずれの観点も真であり、税制は両者のバランスから設計されるべきものです。

以下、各種の税について個別に検討します。

消費税は、人頭税の色彩の強いものです。
周囲から要求される努力をせず生きていける社会を目指す現代(子供がいなくてもよい、たくさん稼がなくてもよい、子供は社会で育てる)においては、生きているだけでかかる消費税には合理性を認めやすいとも言えるでしょう。
また、これは政府にとって徴税費用の少ない簡素な税であり、(短期的)成長率を抑制しない中立性をもつとも言われ、世代間の公平つまり「後の世代に負担を残さない」ためにも導入すべきと言われています。※14

※14

しかし、「世代間の平等」を問題とするのならば、消費税の導入よりも先に老齢年金制度と関連する老齢期税制を改革すべきでしょう。
年金は、本来は同世代間での相互扶助制度でした。早死にした人が積立てた金銭を、長生きした同世代の人々が使わせてもらう制度だったはずです。それにも関わらず現在では「異世代間での相互扶助」制度に変わり、(全ての国民から徴収される税金で支えられる)生活保護制度と変わらないものになってしまっています。
本来の「同世代間の相互扶助」の精神からいえば、高齢富裕層に重い税金をかけて、高齢貧困層に再分配すべきです。
その代り、高額納税高齢者に対しては「対価」があってもよいでしょう。まさかの時の扶助のレベルアップ(これはいわば国への扶助請求権の貯金となります)、金銭で購えない利得(たとえば病院の順番待ちや入院期間制限の緩和、シルバーパスのグレードアップ、通常はくじ引きでしか購入できないプレミアチケットの優先購入、叙勲など)が与えられてよいでしょう。
このような高齢富裕層一般への特別累進課税制度には 天下り抑制機能もあることでしょう。天下り先から年間3000万円の役員報酬をもらえるとしても、高齢富裕者累進課税によって手取りが600万円程度になるならば、天下り先の獲得への熱意も適度に冷やされるはずです。

しかし日本の現状は、世代間の公平などという将来の不安を語る以前に、有効需要の育成に早急に取り組むべきことを示しているのではないでしょうか。

消費税は富裕層への一次配分となり、一般層や貧困層への負担を重くし(逆進性)、彼らの有効需要を抑制します。
「所得はいずれ全て消費される。そのとき全ての人に同率の消費税がかかるのだから負担は同じであり 逆進的とはいえない。」という擁護論は詭弁です。可処分所得200万円の人が1000円の定食に払う100円の消費税と、可処分所得2000万円の人が10000円のフレンチに払う1000円の消費税とでは、その人の生活への影響は全く異なります。200万円の所得のうち真水では180万円しか使えなくなったときと、2000万円のうち1800万円しか使えなくなったときとでは、家計へのダメージは前者のほうがよほど大きいでしょう。「負担」は、個々の納税者の生活との関係で語られるべきなのです。
しかも富裕層は得た収入の多くを貯蓄に回し、一般層は多くを消費に回し、貧困層はほとんどを消費に回します。
後者の家計ほど消費税を重い割合で負担することになることは明白です。

消費税は、消費への罰金としての側面をもちます。必要不可欠な消費まで抑制し、現在 経済発展を最も阻害している有効需要の低下を激化させます。(思い起こせば、日本に消費税が導入された1989年はバブルのピークでした。地球環境に負荷を与えすぎている過剰消費を全体に抑制するためにピグー税(懲罰的色彩をもつ税)として消費税を導入する意図もあったのかもしれません。しかし環境意識の高まった現在、それはもう不要でしょう。)

「福祉支出の増加を支えるには消費増税が必要だ」という論調も盛んですが、福祉を必要とする人々の負担を消費税で増やしておいて後から再分配しても、マッチポンプで効果は半減です。

さらに(無利息通貨の有効性を論じた後で述べると 混乱させるかもしれませんが)企業家からみて、人々の消費意欲の低さの前では、借入利息の負担の軽さなど微々たるメリットにすぎません。逆に言えば、借入利率が少々高くなっても、製品が売れる目処がたち、いざという時は固定費を削減できるならば、企業家はどんどん投資するのです。消費税を軽減して人々の可処分所得を増やして消費を下支えすれば、少々借入金利が上がっても、法人税が増えても、投資を増やすのが企業です。

結局、消費税を廃止ないし減税して、富裕層から貧困層への再分配としての性格の強い税を増税するほうが、福祉の実現と経済発展の一石二鳥を狙えるのです。

しかし消費税が税収の効率的確保に優れることも確かです。

また今後、日本にも海外からの出稼ぎ労働者が増えるとすれば、低賃金ゆえ所得税を払わない彼ら彼女らからも税を徴収するには、欧米にならって消費税を設定しておくことが必要でしょう。

これらを鑑みれば、高齢者層の増加による人口比率の逆ピラミッドが解消し 社会保障費が縮減するまでは、税率5%までなら消費税も許容範囲かもしれません。(その後、寿命によって高齢者層が減少した時には、相続税が国庫を潤しているうえに社会保障費の削減も可能ですから、消費税は廃止するか さらに減率すべきでしょう。)

しかしこれでは税収は不足します。

従って、所得税、法人税、資産税(相続税もその一種)などに頼らざるをえなくなります。

所得税や法人税は、資産税の補足力の弱さを補填するために、「資産を築くだろう」とみられる未確定な資産家に課されるものとみるべきでしょう。

それを取られたのちには大きな資産を築けなかったのであれば、既に本来取られるべき資産税の納付は終わっているのであり、他方 それを取られてもなお大きな資産が築けたのなら、本来の資産税の取り方が不足していたのだと言えるでしょう。従って「所得税と資産税は二重取りだ」というのは、根本理念からは間違っていると言えるでしょう。

また、かつてテレビカメラの前で「儲けて悪いんですか」と開き直ったファンドマネージャーがいましたが、確かに「悪い」のです。それは個人の道徳性という意味ではなく、公的サービスを大きく享受して築いた富の過剰な偏在は存在するだけで経済を阻害する社会悪となるのです。それをただすのがこれらの税の目的のひとつでもあるのです。

そのとき最優先課題となるのは、課税における国際連携をこれまで以上に強化することでしょう。

たとえば法人税については、多くの企業がグローバルに活動している現在、その税率は外国との関係を考慮せざるをえません。

課税権についても、企業利益のどの部分に対してどの国がもつのか、国際的な合意と連携が強化されねばならないでしょう。利益の源泉は優秀な労働力なのか、気前のよい消費者なのか、アイデアの優秀さなのか、それまで受けてきた母国からの保護(公的なインフラの寄与など)なのか、何をどの程度に評価すべきなのか等の判断も必要でしょう。

所得税や法人税や相続税の節税や資産隠しも国際的な問題です。
「所得税や法人税や資産税の税率を上げると、租税回避手段として海外に資産や事業を移転され、逆に税収が落ち込みかねないから上げられない」というのは租税敗北主義です。租税法の国家間の管轄の整備、税務官の国際的捜査協力、税率に関する国際協定など細部まで気を配った手続整備に、すぐに取り組むべきです。

中でも一番の問題はタックスヘイブン(租税回避地)です。これが大規模な節税を可能とし また法人税率の引下げ競争の引き金になったからです。急いで多国間で租税条約を整備し 厳しい規制をかける必要があります。

これらが先進国における貧富の差の解消にむけた第一歩となるでしょう。経済改革の一丁目一番地です。

国内の税率に目を転じれば、現状 一般所得税率は4000万円以上の年収についての45%が最大限となっています。住民税は一律10%なので合計55%となりますが、新自由主義的な税制が導入される以前の日本の所得税(単体で)の最高税率が75%だったことに鑑みると、現在まで大減税が続いていると言えるでしょう。

巨額の収入は、本人の努力もあってのものでしょうが、「たまたま儲かる業種にいた」などの幸運にもよるものです。たとえば、新たな財やサービスは、買う側がコストパフォーマンスを認める最大限まで高額で売ることができるので大きな利益が得られる一方、従来の産業ではそれはできません。決して後者が努力を怠ったという訳ではなく、そこにいたことが最大要因なのです。だからといって、もし皆が儲かる新産業に大移動したら、そして一個5円のネジ、1㎡あたり500円のベニヤ板、一枚30円のマスクを作り商う人がいなくなってしまったら社会は維持できません。富裕層はそうでない人々の隠れた穏やかな善意にフリーライドしているのです。

また、富裕層がいかに有能であったとしても、他人の労働とそれまで社会が積み上げてきた知的・制度的資源や 政府により実現されるファンダメンタルな諸制度の支えがなければ高い生産効率は実現できません。大きな富はこれらの社会的資産への大がかりなフリーライドを前提としているのです。

ならば富裕層はしかるべき負担をすべきです。たとえば、10億円以上の年収に対して 住民税まであわせて75%の最高税率をかける程度の累進課税は許されるべきではないでしょうか。

また、資産家が得ることが多い利子・配当・株式譲渡益などの資本所得への課税は、現在、労働所得とは分離され、一律20%という、一般所得税の最高税率に比べて低い税率が課されています。

平等は(後述のように)意外に複雑な理念ですが、単なる幸運や「うまくやった」ことを 勤労より優遇するようなものではありません。

生産・流通コストが極端に低く利潤を生じやすい貨幣から生じる利子や配当、土地や株の投機的売買は、合法的賭博の色を帯びた金融業です。このような事業から生じた資本所得が汗水垂らして得た労働所得よりも低い税率を課されることは不平等だといえます。

このような利益が多額となる場合には、一般所得税よりも高い税率を課すべきです。また、その捕捉を容易にすべきです。たとえば、売買差益に課税しやすくするため、不動産の取得金額は登記事項にしたほうがよいでしょう。株主名簿にも取得金額は記録すべきでしょう。

「そんなことをしたら海外からの投資が途絶えてしまう」という声も聞こえそうですが、銀行に預金があり余っている現代の日本では海外から投資を募らなくても産業界に回す貨幣は十分にあります。海外から投資されても実経済にはなんのメリットもなく、株価が上がって投機家と金持ちが喜ぶだけです。

ただし個別に例外的対応も必要です。

たとえば長年コツコツためた財産を元手にした配当所得でつましく暮らす老人に対しては、その自助努力を尊重すべく一般所得税率と同等の税率で対応すべきでしょう。

法人税については、企業会計の中身に踏み込んだ細かな議論がなされるべきでしょう。

たとえばメガバンクなどが巨額の繰越損失を認めてもらえることは問題ではないでしょうか。リーマンショックのような不祥事が起きても「大きすぎてつぶせない」と救済してもらえる会社が、莫大な節税をしつつ役員や従業員に高給を払う姿には不平等を感じざるをえません。

宗教法人の営利行為についての税制優遇もやりすぎでしょう。文化財保護の目的ならば、減税ではなく、別に補助金などを出す方が良いでしょう。見物客が多い寺社の収入は保有させるが、見物客が少ない宗教的文化財の保護は薄くなるというのもおかしな話です。宗教は見世物なのでしょうか。宗教家というものは清貧を属性とするものではなかったのでしょうか。

また、現在の日本では、固定資産税や相続税など 対象や機会を限定された資産税のみが導入されています。

しかし、変化の激しい現代においては、土地や建物などよりも、巨額の現金を敏速に様々に運用したほうが利益を上げやすいことも多いのですから、不動産には固定資産税がかけられている一方、現預金資産への資産税がないことは、考えてみればおかしな話です。巨額の資産は、それ自体がさらなる資産形成の源となっている点でも不動産と似ています。

また、資産税は貯蓄への罰金という側面も持ちますから、それを導入することは需要不足の後期資本主義社会の時流にも沿っています。「資産があるから安心して消費もするのだ」という反論もあるでしょうが、課税対象を巨大資産に限れば、その安心感を損ねることもなく、個人消費すなわち有効需要への悪影響もわずかでしょう。

また、たとえば、海外で手広く事業展開をして儲けている大企業に、国内投資を怠っていることを条件として資産課税を課すことは、国内投資を活発にもするでしょう。その資産税収入を国が年金支給原資に補充することは、かつての工場の海外移転の流れにより国内で低く抑制されてきた給与や下請代金の時間差のある填補(再分配)として高い正当性も認められます。今更、既に少数にしぼった正社員の平均給与を1000万円以上に上げるくらいの手ぬるい出費で「有効需要の創出に寄与しています」などという顔を大企業にさせるべきではないのです。

担税力にも期待がもてます。
日本は国富(国民純資産)が比較的多い国です。GDPは概数でアメリカ2500兆円、日本500兆円と5倍の差がありますが、国富は概数でアメリカは1.3京円、日本3600兆円と3.5倍程と差が縮まります。日本の政府債務は約1000兆円です。これはGDPの2倍ですが、国富の3割弱です。
富裕層や大企業の現預金資産から国富の5~10%分も徴税すれば健全財政が実現し、もともと使い途も無く死蔵されていた預金なのですからデフレを来すこともないでしょう。

ただ、資産の中には私人に管理させておくことが保有者のみならず社会全体にとっても益となっているものがあり、そのような資産の保有者に高い税を課すと、その益が失われてしまうことがあります。
たとえば、障害のある子供のために親が倹約して貯めた資産に相続税のみならず資産税をかけて目減りさせたり、あるいは頑張って働いて老後は悠々自適な暮らしを送ろうという個人のささやかな夢を資産税で削るようでは、あまりに市民の自助努力をないがしろにすることになるでしょう。
また、落ち着いた街並は ある程度大きな住宅に長く住む家族が多く居住していることで保たれます。大きな屋敷の維持費を有価証券の運用などでまかなっている人々へ重い資産税を課すと、土地を手放す人も増え、集合住宅が建ち、その街並は失われてしまう懸念があります。

現預金や有価証券への資産税は有用ですが、個別の反対利益も考慮すべきであり、基本的には課税対象は巨額資産(たとえば3億円を超える流動資産など)に限定すべきであり、資産の大きさに応じて累進的に税率を上げるべきでしょう。

また、金などの貴金属の保有には資産隠しの効果が含まれている危険大ですし、さらに貴金属を多く持つのは富裕層なので、保有主体の担税力にも余裕があるといえます。しかも貴金属価格の高騰は産業にも影響を与えます。

従って、貴金属価格の高騰が続くようであるなら、(不動産に対する固定資産税のような)対象特定型の資産税をかけるべきでしょう。

相続税も資産税の一種ですが、ここでは主に手続面に課題があります。

たとえば、放棄するか限定承認するかを決めるべき時間が短すぎます。相続人にもっと時間的余裕を与えることはできないのでしょうか。

また、相続財産の中に不動産が多いとき、素早く適正価格で換金できず、納税費用が足りなくなることもあります。その土地建物が切り売り叩き売りされると社会的価値が失われることもあります。相続人に換金するための時間的余裕を与えるのみならず、物納を認めやすくすること、さらには公機関がそのまま利用できるようにすることも有用でしょう(そのためにも現物給付型の福祉の拡大は必要でしょう)。

そしていずれの増税においても、国民の納得を得るためアカウンタビリティの確立が重要です。

これは公開性つまり民主制の徹底の問題です。

税に対する抵抗感の多くは、使い方に対する不信感から生じます。
「支払った税が、無駄な箱モノづくりに使われ、議員の再選の道具に使われるのは嫌だ。官僚の天下り先の確保や、外交の一環と称する高級ワインの収集などに使われるのも嫌だ」と思えば、財産に余裕のある人でも節税に勤しみたくなります。脱税への罪悪感も弱まります。

たとえば 一般会計と特別会計の枠組みをわかりやすい形に整理する、防衛関係など国家機密に関する歳費についてもインカメラレビューに準じた方法で一部の専門家に開示し 実質秘と判断された部分は秘匿しつつも それ以外は公開する、などの改革が必要でしょう。 

以上で経済編は終わりです。登山に例えれば三合目に来たあたりです。

ここまで述べてきたことに対して「配分の平等や弱者保護や地方創生にばかり眼を向けていて内向きだ」「もっとAIや宇宙関連や新薬の開発に政府は資金を注ぐべきだ」などの反論も出るかもしれません。

しかしこれらは、遠回りに見えても、経済発展の土台を固めるものでもあるのです。
技術開発は資金だけではできません。そこから生まれた財やサービスを継続的に買えるその国の人々の購買力が底支えしているのです。人々の職を奪う可能性の高いAI、富裕層の贅沢品にしかならない宇宙旅行、少数の難病患者にしか代金を払ってもらえない新薬などの開発を、有能で善良な経営者が指示するでしょうか。
他方、配分の平等が確保されていれば、多くの人々の潜在需要を掘り起こしうる新製品の開発が促進されうるのみならず、失職を避けるべくAI開発を控えることもありませんし、政府が宇宙探査や難病患者のための新薬開発に補助金を出しても国民から不満の声は出ないでしょう。
また、非競争的で地域内自給自足的な経済システムが競争的市場経済に並走していれば、(困窮した人々を救うのみならず)優秀な人材に傾斜的に多額の報酬を遠慮なく与えることも可能となります。セーフティネットが充実しているなら、どんなに激しく競ってもそれは熾烈で過剰な競争にはならないからです。多額の報酬は野心と元気にあふれた若い人々の活動にさらにインセンティブを与えることになるでしょう。

本稿が推奨するのは、老人や教育に恵まれた女性ばかりに保護が厚く 経済合理性を等閑視した場当たり福祉ではなく、全ての人々の福利厚生の向上をめざし 経済的効率にも目配りできる社会の姿勢を整える政策なのです。

振り返れば、経済学は長く社会科学の女王のような地位を占めてきました。
それは、第二次世界大戦以後、比較的国際関係が安定して 長く「経済の時代」が続いていたからかもしれませんし、経済が政治において最も学問的な探求を必要とする分野だからかもしれませんし、マルクスが経済を政治の基礎構造と位置づけたことも影響しているかもしれません。

しかし、経済に関する意思決定は政治の一部に過ぎません。また政治という枠組みの中には経済政策より強力な手法が多々あります。私達が直面している経済問題は、経済学の範囲で解決できるものではなく、政治というより広い枠組みの中で問い続けるべきものなのです。

特に、本稿が推奨する経済政策は既得権益を害し、富裕層の負担を増やします。

他方、近現代の統治制度において既得権者や富裕層は政治に意見を通す手段にこと欠かきません。『ロンググッドバイ』の登場人物である大富豪ハーラン=ポッターは自慢と自嘲をないまぜにして言い放ちます。「投票するのは国民だ。しかし候補者を選ぶのは政党だ。政党には多くの金がいる。誰かにもらう必要がある。」

かかる政治体制の下では、集票以外の目的を失った現代の政党は、人口割合の多い高齢者や女性層に受けそうな目先の利益をぶら下げるため、まとはずれな福祉に予算を投じ続けるでしょう。革新的な政策がもし見つかったとしても、実現は難しく、実現してもそれすら新たな利権の温床とされかねません。地方通貨も発行されず、公共投資の対象も変わらないでしょう。再生可能エネルギーも普及せず、消費税率は増え続けるでしょう。

これらを正すためには「中央政府がたてた経済政策を効率的に地方に拡げる」というこれまでの統治モデルとは異なる手法が必要です。たとえばそれは現場での試行錯誤が繰り返されなければ実現できない経済政策であり、そのためには政策決定の権限の所在が外から見て明確であること、そしてそれが固着していないことが必要です。

あるべき資本主義を実現するには、真に民主的な政治が必要なのであり、「いかなる政治をするか」に留まらず「政治を行う者をいかに選ぶべきか」まで深く問わねばならないのです。選挙や統治体など政治全体の身をただすことが必要なのです。

第二編 政治

近代政治の歩み

前章では経済問題が政治問題に深く結びついていることを指摘しましたが、もちろん政治は経済以外の分野でも私達の生活に大きな影響を及ぼしています。

そして現在、多くの民主制国家が機能不全に陥り、社会の分断を防ぐことに失敗し、民主制の有効性を疑う声も高まっています。

本章では近代の統治制度の歴史をふりかえり、民主制の機能不全が、民主制の本来的な欠点や劣化などではなく、その不徹底と未完成から生じていることを解読します。

組織化は効率を高めます。従って、集団が大きくなると、指導者と被指導側が分かれ、少数の前者が多数の後者に規範を守らせる統治組織が発生します。

また、封建主義、資本主義、社会主義などいかなる経済体制においても、貧富の差がなかったことはありません。日本の敗戦時やソ連崩壊時の経験からみても、社会が変動すれば貧富の差が縮小するというものでもありません。

そして富者は人に恩を売ることができます。

よって、富者が統治する側になるのがよくある姿です。

その富者が良い統治をしてくれるなら問題ありませんが、そうなる保障はありません。彼らに統治をまかせきることが危険なことは明白です。

そこで、東洋の政治哲学は、あるべき統治者の姿を語り続けてきました。東洋医学が病気にならないための処方を示すように、それは政治の崩壊を防ぐための日頃の姿勢を説きます。個々の人が持つべき判断基準とも言えます。

他方、西洋の政治哲学は、あるべき政治がなされない場合の対処を中心的な課題としてきました。それは、病気になった後にその被害を最小限に食い止める西洋医学の処方のように、権力が腐敗しつつある小さな傷のうちに社会を立ち直らせる手続的システムを模索します。その成果が、民主制(通時的な側面における権力者の交代)、権力分立(共時的な側面における権力の分割)、政教分離、文民統制などの近代的統治の手続原理です。

西洋的あるいは手続的にみると、政治体制は、統治上の意思決定における「参画の可能性がある者の多寡」「実際の参画者の多寡」の二軸により、以下の四種類に分類することができます。

  • ① 参画の可能性のある者も実際の参画者も少ない王朝制(王とそれをとりまく部族貴族が緩い統治を布く)
  • ② 参画の可能性のある者は少ないが、実際の参画者は比較的多い封建制(王や貴族への信頼が失われ、人々は近隣の名家に従う)
  • ③ 参画の可能性のある者は多いが、その割に実際の参画者は少ない絶対王制(強力な統治を布く国王や皇帝に全国民が従う)
  • ④ 参画の可能性のある者が多く、実際の参画者も比較的多い民主制(人々がみずからの社会のあり方をみずから決定する)

このうち①②は「参画する可能性がある者が少ない」すなわち 人口も少なく 集団も小さくて構成員が少なく、さらに身分の意識が強いという状態です。①は 国家統一から長く経っておらず地域間の意思疎通も疎かになりがちな状態、②は国内で領有権が分割されている状態です。
他方、③④の「参画する可能性がある者が多い」ということは、人口が増え ナショナリズムが浸透して人々が「国民」としての意識を持っている状況です。

また、上記の内①②③は権威主義を積極的に肯定する政治体制です。そこから④に移行する契機として、科学技術の発展による変革圧力(国内から生じることもあれば外圧として来ることもある)が必要となるのが普通です。

上記の①から④を順々に変遷したのは、近代統治原理を生み出した西欧を中心とするヨーロッパです。

たとえば西欧(フランス、イギリス)では、ローマ帝国(それ以前のサイクルにおける③といえます)の分裂後にフランク族の王国がその後を引き継いだ時代を①とみることができ、その崩壊(1000年頃)で②が本格化し、百年戦争(1400年頃)やペストによって②が衰退して③に入り、市民革命(1650~1800年頃)で④への移行が始まりました。なお、ルネッサンスは②から③への過渡期に長く横たわり、宗教改革や「地理上の発見」は③の揺籃期(中心は1500年頃)に起き、産業革命は③から④への移行期に起きています。

中欧(ドイツ)では、神聖ローマ帝国(1000年頃~)の下で①の色彩を帯びた②が長く続きましたが、ナポレオン戦争(1800年頃)を経て②の残滓を残した③に至り、第一次大戦後は④への移行が始まりました。

他方、これらがあいまいな地域もあります。
たとえば中国は①から②までの変遷を春秋戦国時代までに終え、秦の成立で③に至りました。しかしその後は、統治意思決定に参画する可能性のある者が多いような少ないようなあいまいさ(それを象徴するのが士大夫階級や共産党組織です)の中で②③の濃度をかえた混合的政体が続きました(特に地方分権的な②であるとはっきり画される時代を欠如していることが特徴的です)。現在も,形の上では④ですが 内実は③や②が色濃く混じる状況です。
分裂と統一を繰り返しつつも他民族を対等な他者としてではなく辺境民として扱えるほどの巨大な国土と人口を維持してきたものの、それが大きすぎたことから、全土を統一するには地方分権的な統治を常に中途半端に取り入れざるをえなかったからでしょう。

このような例としては、他にもイスラム世界やロシアが挙げられます。 

また、一部を欠落する地域もあります。

韓国、東南アジアなどの国々は、地理的条件や他民族の大きな影響や支配を受けざるをえなかったことから国内の各地域ごとに独立性の高い政治や経済を構築できず、群雄割拠の封建制(②)が欠落しています。その後 形式的には④である選挙制度が前倒しに導入された後、必ずしも民主的とはいえない道筋(クーデターなど)を通って開発独裁的な③が実現して(全斗煥、李登輝、リー=クアンユウなど)一気に近代化を加速し、その後あらためて④への道筋を探しています。

ギリシャは古代都市国家において「多くの奴隷を除く自由市民を参画可能者とし、その自由市民が互いの間から参画者を選挙する」という④に近い②型を早期に実現しながら、以後は他民族の支配下に長くおかれて③を欠落したまま、④への道を模索しています。

インドでは、身分制が長く残り、多言語多民族国家で 地方ごとの領有権が強いことからみて、現在②から④へ一足飛びに変化しようとしているように見えます。多様すぎて③がありえなかったのかもしれません。

日本はヨーロッパ型に似ています。平安時代に①が隆盛を極め(800年頃~)、②が鎌倉時代の始まりから戦国時代の終わりまで続き(1200年頃~1600年頃)、②と③の混合型の江戸時代を経て、明治維新で③が確立し(1870年頃~)、敗戦を経て③は廃されて④への模索が始まりました(1945年~)。 ※15

戦国末期に中世から絶対主義へと変遷しかけたものの、西欧と異なりペストや大航海や宗教戦争がなかったことから絶対主義の成育が遅れて 中世を引きずる江戸時代が長引いたとも言えます。

※15

明治維新以降については、第二次大戦敗戦時までは「絶対主義と帝国主義の時代」、それ以後は「従米党政時代」とでも、後年呼ばれることでしょう。
この従米党政時代、世界史的に言えば PAX AMERICANA の時代は、東アジア圏が経済的紐帯を強めて隆盛すること、そして日本を含めたこれらの国々で本来の民主制が実現していくこと(そのためには政党という存在は邪魔です-後述-)によって終焉を迎えるでしょう。

現在の国家の大多数は一応は民主制を採用しています。様々な国が様々な形でそれぞれ民主化や権力分立化を少しづつ実現してきたのが近代政治史であるとも言えます。

しかし④を本当に実現できている国はまだひとつもありません。先進国も含め、形は民主制であっても、実際には 一定の集団がみずからの意志を国政に押しつける立場を保持し 政治的権限が少数の市民のもとに集中している権威主義を強く残しています。

なぜでしょう。

統治の継続性と統治者の継続性を同一視し、「隠れた支配階級的なものがあって当然」と何となく思い、知や富の独占を容認する傾向を人類がもち、そのような歴史をたどってきた背景もあるでしょう。

たとえば、近代初期においても、勝ち残って統治を担うようになった地位は世襲化されました。絶対王政の下で辣腕をふるったリシュリューもビスマルクもチャーチルも世襲貴族です。後に廷臣の地位は世襲制(身分制)から登用制に変わりましたが、教育力やコネという形で隠れた世襲は保たれました。

絶対主義以降の時代においては、実利的な理由もあったでしょう。

まず、経済成長のための政策(資源の集中や配分)を実現するには、国家という社会単位内での上意下達を円滑に進める必要があります。民主制を徹底的に推し進めるよりも、中央で継続的政策を立案する専門官僚が地方で権原を占有している既存のボスらをそのまま使うほうが、政策の実現は早くなります。

また、まだ絶対主義的な王権から十分に移譲されていない少量の権力を市民間で分け合ったり奪い合ったりしていては、内部分裂して、王に対抗できなくもなったでしょう。

政党と専門分業的官僚組織はそのような時期に生まれ、開明的君主や開発独裁者の下で活動し始めました。

しかし、それらのシステムには一般国民を政治から排除する作用もあります。

一般国民の排除は、統治システムの構成員の私利私欲により 加速します。

政治家の本来の役割は国民全体の意思を政治に反映することですが、政治は「利権の分け前をなるべく多く永続的に取り込もうとする活動を本質的に含む(マックス=ウェーバー)」ものでもあります。そして職業的政治家はまず政治家であり続けられること、つまり再選されることを目的として行動せざるをえません。

政党はそのための仲間と資金を囲い込むための手段となります。

特に大政党は、「勝ち馬に乗っておけば自分達の利益を実現してくれるだろう」という期待を周囲に持たせることができる一方で、政策実現の責任を政治家個人が負いにくいようあいまいにする隠れ蓑にもできて便利です。

人には「力のある誰かと共に頑張りたい」という素朴な欲求もあります。それが政治の世界では、法の支配ではなく人による支配を呼び寄せます。これはロシア、中国、北朝鮮その他の専制的国家のみならず、たとえばアメリカにおける大統領選でも見られます。そしてその素朴だった欲求は時が経つにつれて見返りを求めはじめます。組織に尽くしたという思いは、次は組織が自分に尽くすべきだという思いに変わります。政党支持者達はいずれみずからが担いできた政治家達を利用しようとしだします。

そのため、政治家は特定の利益集団の利得の実現を主目的として行動してしまう誘因にさらされます。

彼ら彼女らは、国民の大多数を(実は)無視する既得権政治やネポティズム(縁故主義)を再生産し続けます。

他方、官僚は政治家の力を借り、政治家も官僚の力を借ります。公の利益ために協働するなら問題はありません。

しかし、双方の中には個人的利益あるいは不利益回避のために相手方の力を借りる者も出てきます。
そうなると統治機関は、官僚と政党を核として構成員を入れ替えながら隠れた少数者支配を実現する利権の温床となります。民主制と権力分立は骨抜きにされ、意思決定は硬直化します。

政治家や官僚の志操が高ければそうならないこともありますが、制度による防御がなければ、いつ政治の私物化が生じても不思議はありません。

このシステムは完璧に隠蔽されている訳ではありません。私達みずからが目隠しをしているのです。その意味では共犯者なのです。
「政治も経済も それぞれの専門家になるべく任せるべきだ」と 皆なんとなく考え、「一部がわかっても全体の関係が判りにくい」政治システムを私達自身が容認しているのです。

近代は、政治の手続に一応は気をつけてはきたものの、その質を厳密に問うてこなかったのです。

その結果が、現代の我々の政体です。
近代民主制は、王や皇帝から権力を奪うことに成功しました。しかし、選挙制度の不備、政党政治の蔓延、権力分立の不徹底などから、一般市民は政治に影響力を及ぼせず、統治者の交代可能性も十分に実現できていないのです。

権力の抑制は永遠の政治課題であり、現代においては、それは民主制と権力分立の徹底を意味します。

統治には専門知識もノウハウも必要ですが、それらを最低限のものに留める不断の努力も必要です。そしてまた専門家同士の結託を防ぐ制度設計も必要です。
そうでなければ 権力分立も民主制も一般社会から切り離され、政治という劇場で演じられる絵空事に変容します。そして舞台の袖の回転ドアをくぐる一部の人々が 政治と経済を股にかけた時間差のある双方代理的な取引で利権を漁ることになってしまうでしょう。

「日本の政治は意志決定が遅い」と批判されることもありますが、本質的問題はそこではなく、非民主的であること
そして非分権的であることが問題なのです。

政党は本当に今でも必要なのか、「三」権分立が本当に妥当なのかなど、統治の手続の質を大きく見直すべき時、そして民主制と権力分立を社会全体に行き渡らせねばならない時代を、私たちは迎えているのです。

以下では、近代政治の基本ともいうべき「民主制」「権力分立」「法の支配」の意味を再検討し、これらの政治理念が形骸化している現状を確認し、それを改める具体的な方法を述べていきたいと思います。

民主制

近代統治理念の中でも 民主制は特に重要なものです。

しかし、現在の民主制は、本来はその対極に位置する権威主義を守る道具に堕しています。

「完成された民主制というものは まだ世界のどこにもなく これから目指さなければならないものである。」
これは1970年代にアメリカの政治学者のロバート=ダールが述べた言葉ですが、現在でも切実な響きを持ちます。

社会における経済活動の役割を重視するパレートやシュンペーターや自由に最高の価値を置くハイエクなどは民主制を形式的に解釈し「民主制とは統治にたずさわる者が選挙によって決まることであり、選んだ後は選ばれた少数者に従うべきであり、それ以上に一般市民が政治に関わり合うことまで意味するものではない」と主張しました。

しかしそれは民主制の意味を極小化することであり、政治に対する諦めを人々に求めることです。わずかとはいえ一般人に残された政治的権限を効果的なものにする工夫まで見過ごさせることにもなりかねない危険な見解です。

そもそも民主制とはどのように定義されるべきものでしょうか。

民主制とは、最も多くの人に最も利益あるいは幸福となることが決定されることでもなければ、それを目的とするものでもありません。

何が利益か、何が幸福かは個人で異なります。何が最大多数の最大幸福なのか、いったい誰が判断できるのでしょうか。政治への過大な要求はかえって無責任を導きます。政治の目的は、国民の最大の利益や幸福の実現にあるのではなく、国民が生きられるようにしておくことくらいのものに留まるのです。

民主制とは、多くの人が統治をすることでもありません。

古今東西、実際に統治にたずさわる人数は常に少数です。表面的人数からみればミヘルスのいう「寡頭制の鉄則」は正しいのです。統治の形式は「オリガーキー(寡頭制)」でしかありえず、社会の構成員が多い現代の民主制も、代表(間接)民主制にならざるをえません。
(ちなみに 国民投票という制度も決して直接民主制の制度ではありません。人ではなくコトについて投票する点では、やや民意に近くはあるのですが、プロの政治家がパッケージングした主張と結論を二者択一で選ぶしかなく、代案を提案することもできないのですから、これも一種の間接民主制です。)

民主制とは、人々の総意によって意思決定することではありません。
全ての人が納得できる政策など普通ありえません。「多くの人の意見を聞いた上で 皆が納得できる内容に決する」ことを目指しているようでは、結局は何もできなくなります。

民主制とは、多くの人々が賛同する政治をすることでもありません。ナチスとて賛同どころか喝采を受けていたのです。

確かに、民主制には客観性つまり多数者の賛同から合理性を推測する一面があります。

しかし、民主制の対極にある権威主義(力のある者の言説を無批判に受け入れる姿勢)においても、賛同者の人数の多さ(つまり客観性)が力となることもあります。

民主制と権威主義を区別するものは客観性ではなく、その客観性が生じる過程や手続にあり、あるいはその客観性の可変性あるいは不安定さにあるのです。

権力とは、暴力と利益誘導を究極の武器とする支配力です。

権力の執行が正義とみなされるためには、権力の執行を受ける者が権力の意思決定に参加できること、執行の基準が予め執行を受ける者に明確に示されていることが重要です。しかしより根本的に言えば、その意思決定が別の意見に変更可能であることが不可欠なのです。変えうるものだからこそ それに従うことができるのです。

なぜなら正義(正しさ)とは、狭義では等価性ないし適切な配分を意味しますが、広義では生のための調和を意味するからであり、「調和しているか否か」は相対的な比較によってしか確かめられないからです。つまり、別の意見が容易に出現しやすい状況において ある判断が選択されたことが、その判断の正しさの確率の高さを担保するのです。別の候補者がいる状況で選挙がなされてこそ、ある候補者が適任である確率の高さが担保されるのです。

一人の人には何が正しいかを常に判断できる能力はありません。固定観念を捨てるのは難しいことです。「何が正しいか」は時々刻々と変わります。今は正しいことが 一瞬後にはそうではなくなることもよくあります。
たとえば、政治のプロはあくまでも現在の統治組織におけるプロです。その組織に不具合が生じたとき彼らに変革ができるでしょうか。近代革命は廷臣が起こしたでしょうか。維新は幕臣が主導したでしょうか。むしろ彼らは外からわかりにくい決めごとやしきたりを作り上げる反対勢力だったのではないでしょうか。

そのような現実の下で、それでも比較的正しい判断を下しやすいのは、その問題に直面して苦しみ 悩み 考えている人々です。

しかし、その問題に直面し考える人がどこにいるか予めわかるものでもありません。よって正しい判断はどこから出てくるかわかりません。社会も、その構成員たる個人同様に、「自分が何を知っているか 知らない」のです。

だからこそ、判断すべき人がどこからでも出て来られるようにしておくシステム、常に判断を修正することが容易な政治体制が必要なのです。誰がどこから出てきても、社会の総意を変えうるオピニオンリーダーになれる可能性が常に開かれていることが重要なのです。

つまり民主制とは、為政者や政策決定者の変わりやすさ、その候補者の範囲の広さを本質とするものなのです。

民主制は、通時的(いつまでも)な権力の集中を制約する統治理念であり、誰が支配者になるかわからない政治制度、いわば闘いの場を公開する手続原理なのです。
(他方、権力分立は共時的な(全ての)権力の集中を制約する統治理念です。)

従って、民主制のメルクマールは、統治者の交代可能性の高さや、統治される人の意見が聞き入れられる可能性の高さ(交代可能性の前段階的代替手段)ことであり、そこには、アナログな濃淡差があります。

たとえば、「選挙によって統治者が選ばれる、請願権がある、などの要件をみたせば民主的、そうでなければ非民主的」と形式的かつデジタルに区別できるものではありません。

同じ普通選挙でも「政党や地域のボスの言うことを守って、選挙民の陳情を聞いているような姿勢さえ示しておけば当選できる」選挙と「市民が本当に望んでいることや本当に市民のためになることを真剣に考えて実行する人でないと当選できない」選挙とでは雲泥の差があります。

権力者に「どうか一般市民の願いを聞いてください」と頼むしかない請願権と、彼らの行動を監視し彼らを公職から追放する手段をひかえた請願権とでは 月とスッポンです。

また、ローマ帝国も、皇帝の座を争うことのできる機会を設定していたという意味では民主的側面は持っていたとも言えます。しかし権力者になるには賭けねばならないものも大きく(生命など)、実際のところ候補は限定されていた点では民主的濃度は希薄でした。

近代の民主制は、変化を起こすために賭けねばならないものがそこまで重くなく、平時の仕組みの中でオピニオンリーダーを変えることができます。ローマ帝国と比べれば民主制の濃度が高いと言えるでしょう。

民主制は「消極的アプローチ」の応用でもあります。よって民主制に過度な期待をすることも間違いです。

正義とは様々な理念のバランスが適切にとれた状態を示す概念ですが、バランスが丁度うまくとれているポイントつまり「何が正義か」を正確に判断することは非常に難しいことです。民主制とて何が正義かを選択して推奨できる訳ではありません。しかし「何が不正義か」つまりそのバランスが明らかに崩れていることは判明しやすいでしょうし、避けられなくはないでしょう。

正義とは、具体的には、限られた条件の中で最大限に人が生きられることです。
たとえば100人が大災害に巻き込まれたときに最大数を生かすことです。それが100人なのか 53人なのか21人なのか 誰もその場では判らないでしょう。他方、不正義というのは内紛など起して早々に全滅することです。これはわかりやすいでしょう。

ポパーは功利主義を「幸福を最大化することではなく、悲痛を最小化すること」だと再構築します。フラーは「何が正義であるかと宣言せずとも 何が明白に不正義であるかを知る(合意に達する)ことはできる」と主張します。ハイエクも「誤謬や不正義を排除し続けることでしか真理や正義に近づきえない」と言います。※16

民主制の機能は「不正義」の排除なのです。

※16

このような姿勢は現実的であるとともに論理的でもあります。
「(何かで)ある」と言えるためには その何かを形作る要件の全てがそろわなければなりませんが、「(何かで)ない」と言えるためには 要件のたったひとつが欠けていることがわかれば十分だからです。
そして当然、後者の方が容易です。

民主制は子供です。だまされやすく、傷つきやすく、ろくに働きもしないのに、要求だけします。
しかし捨ててはならないものでもあり、守り育てるべきものです。

たとえば、民主制に重すぎる荷を背負わせるべきものではありません。

それゆえ、あらゆる社会機能を民主的政治によって解決すべきではなく、政治的決定の有効範囲を過度に拡げるべきではありません。あえて現場の少数者の判断にまかせてしまうことが必要なこともあります。第一編で述べた市場の多層化もその具体例と言えます。

また、現代の民主制においては、具体的には、多数決という意思決定手段がとられることがほとんどですが、多数決が民主的な手段であるという訳ではありません。多数決は民主制の道具にも権威主義の道具にもなります。この点、注意が必要です。

独立した一人一人の意思が足し合わされて多数になるからこそ、多数決に民主的な正当性があるのです。

特に、徒党を組んだ末の多数決は悪性です。仲間を作り、徒党を組み、数の力で押し通らねばならないのは部族社会です。民主制を標榜しつつ、徒党を組んで多数決を利用するのが未来の独裁者です。民主的な社会とは、一人でいても安全な社会であり、人々に群れることを強制しない社会です。

従って民主制の実現には、多数者の意見ばかりではなく 周縁の少数意見の尊重が必要です。
少数者への規制や再分配上の不利益を防ぎうるか、困窮者へのセーフガードの設定が迅速容易か、政策にともなう社会的弱者への侵襲が少ないか、なども民主制の濃淡の指標のひとつとなります。

それは現在の多数派やオピニオンリーダーのおごりを戒めることでもあります。多数派は、自分が抑圧を受ける側になることなど想像できないから、木で鼻をくくったようなことを平気で言えるのです。それ言いにくくさせる現場主義の実現も民主制の機能です。

また、「民主制」は政治のあらゆるフェーズで問題となるのに対し 「国民主権」は国家レベルの政治における議論であるとされ、それ以外は同義ととらえられることが多いのですが、後者は注意が必要な概念です。

「主権」とは、平たく言えば自由な決定権という意味です。

この概念は、元は君主や神が持っている全能の力つまり「何をしてもよいこと」と捉えられてきました。すると「主権者なら何を決めてもよい」という暗黙の前提が設定されることになります。これは「誰でも・誰もが」であるはずの民主制の枠組みに「誰なら」を問う寡頭主義を混ぜてしまい、概念を不純化させてしまいます。そして「主権が誰にあるか」という問いは権限の引っ張り合いを始める合図となり 議論が錯綜します(プープル主権、ナシオン主権など)。

他方「主権者であるから決定権はあるが、何を決めてもよいわけではない」「大切なのは、誰が決めるかではなく、どのように決まるか、何が決まるかだ」と捉えると、本来の民主制の議論の枠に収まり、主権の帰属はそれほど議論とならず、「主権が王と国民に分有されてもよく、問題は正義を守るという社会的機能が全うされるかどうかだけだ」という簡単な話になります。

本稿でも「国民主権」という術語を使わないことにします。

日本に本格的に民主制が導入されたのは、戦勝国であるアメリカによる半ば強制的な政治改革によるものでした。それゆえか、日本人は民主制を本来的に強いもの、そのまま使えばよいもののように無意識に思っています。
しかし、民主制は決して強いものではありません。弱くそして守られるべきものです。
そして、民主制の本家であるはずのアメリカやヨーロッパで社会が分断し民主制が崩壊しかけている今こそ、彼らとは大きく異なる歴史をもつ社会で民主制を維持している日本が最後の砦、反撃の基点になるべき時なのかもしれません。

民主制は、単なる統治のテクニックではありません。人の本質すなわち「変わること」に根ざすものです。
変化しやすいように変わってきたのが人類の歴史であり、民主制は、人という生物の本質に沿った政治形態を探す指針でもあるのです。

民主制の深化は、社会的存在としての人の進化なのです。

それゆえ、民主制の本当の敵も、王や皇帝や地方のボスやそれらの属するシステムのような表層的な存在ではありません。

私たちの心に潜むものです。

現在の覇者は、その恵まれた地位を守るため外部者が入り込みにくいように「砦」を築きます。

それを潜り抜けて覇者を倒した勢力も、新たな権威として同じことをしがちです。

これは他者の自由を犠牲にしたみずからの自由の過度な追求です。自己の勝利を必然的で正当なものであると周囲に認めさせたい心情であり ゆがんだ自尊欲求の現れです。それは事実をねじ曲げて見せる力さえもちます。

私達も「少数の人々からなる支配的コミュニティに入り込み権勢を振るいたい」と、どこかで考えていないでしょうか。権威に喝采を送り、地位や富や仕事(権原)に恵まれた限られた人の集団(または階級)の中で仲良く過ごしたい、あるいはそのような人々から特別な庇護を受けながらの生活もよい、と思うことはないでしょうか。そしてそれがその集団に入れない外部者の犠牲の上に成り立つものであることを忘れていないでしょうか。

これらは、程度の違いはあれ いずれも「寡頭主義(oligarchism)」とでも呼ぶべきものです。

寡頭主義は私たちの心の奥深くに居座って正当性を主張し続ける癌です。民主制を否定するものであるだけでなく、悪の本質かもしれぬものです。

寡頭主義の最大の武器はそれが隠れていることにあります。

政治や経済の中で生き延びてきた隠れた寡頭主義こそ、現代に閉塞をもたらしている大きな原因のひとつです。

このような間違った道に入り込まないようにみずからを制する姿勢が民主主義です。 ※17

権威への盲従(権威主義)や権益による利益誘導を抑制し、個々の人の意見を変わりやすくする努力を怠らない道です。はみだし者や外部者にされてもそれほどは困らず、しかも恵まれた集団に再び入ることも難しくはない社会を作ろうとする姿勢でもあります。

これはジョン=ロールズの言うところの「無知のベール」が掛けられた状態、つまり本当の客観性が担保されやすい社会に近づくことでもあるでしょう。

※17

日本ではdemocracyを「民主主義」と呼ぶことが多いのですが、democracy は「民主主義」ではなく「民主制」と訳すのが文法的には正解です。-cyという語尾は autocracy(独裁制)、aristocracy(貴族制)などの例にもあるように「制」と訳すべきだからです。他方、「主義」という語尾は資本主義(capitalism)、共産主義(communism)などの例にみられるように「-ism」に対応します。
しかしこれが誤訳でなく意訳だとすれば、悪くないセンスと言えそうです。「制」は外部的に確立したもの、「主義」は人の考え方を表すニュアンスもあり、民主的政体の実現は個々の人の考え方に任されていることを暗黙の内に示しているといえるからです。
(ちなみに英語にはdemocratism という語がありますが、これは「民主制の理論」というニュアンスであり、あまり一般的ではないようです。)

このように民主制という理念を見直してみれば、現在の統治体の問題点も浮かび上がります。

たとえば、行政府、立法府、司法府など全ての統治主体について国民の監視は圧倒的に不足しています。

また、地方自治体の政治的権限が少なすぎることは 民主制の土壌である多様性を痩せ細らせています。

また、現代における民主制の最大の隠れた敵も見抜けます。

政党です。

政党という老害

西欧の歴史を振り返れば、政党は、絶対王制から人民へ政治権力を移譲させる戦略的道具でした。
揺籃期の近代においては、人々の間に「職種」や「地方」の意識が強く残り「国民」としての意識は希薄で、市民同士が対立しがちでした。そのような時代において、政党は利益の調整役であり、民意を集約して国政に反映させる旗印(はたじるし)でした。

このような調整役と旗印の有用性は近代へ向かう国々で共通認識となり、政党は異なる背景からも(たとえばアメリカでは猟官の結託の場として、日本では絶対王政の廃止ではなくむしろその擁立や補佐の手段として)みずからの政治的意思を実現する手段として結成されました。

これらの政党は裕福な市民を中心とする集団から資金を得て政治活動を行いました。その来歴を引き継ぐ現在の政党は、企業団体を中心的な擁護者としています。

他方、裕福でない人々が別の政党を作っても、資金力がないので議席を伸ばせず、万年野党としてくすぶります。

又、貧しき人々の味方を自称する共産党は、財力ではなく暴力で政権を取り、みずから以外の政党の存続を否定する一党独裁国家を作りました。しかしそれが実現した暁、政党幹部は他の市民を指導する特権階級になりました。

いずれにせよ政党政治のもとでは、裕福ではない大多数の人々は政治から遠ざけられているのが現状です。

では、以上のような歴史と現状は、政党というシステムが本来的にたどるべき宿命だったのでしょうか。
それとも本来もっと合理的に機能できるシステムに生じた病理現象だったにすぎない、つまり少し手直しすれば政党はこれからも使える制度なのでしょうか。

民主制は多数決という決定手段を取らざるをえませんが、そもそも多数決による決定の正しさは、自由で平等な投票権をもつ選挙民や議員がいてこそ担保されます。

個別の投票者が「互いに独立して」「正解を選ぼうとする」ならば 対話と多数決は正解に近づき、民主制が機能します。権威的思考から解放され合理的思考をする参加者、という条件が必要なのであり、柔軟性・可塑性を持った過程、決定権者達全員が情報を共有し、議論の途中で自由に意見を変えることができ、利益誘導を受けない過程が重要なのです。

逆にその決定過程において、組織的な結託や裏取引があったり、意図的な選択順序が設定されたりしては、公正な意思決定ひいては民意が歪められてしまいます。

本来の民主制の機能であるオピニオンリーダーあるいはリーディングオピニオンの変更のためには、ダイアローグの充実が必要であり、そこでは話者と聴者の1対1の関係が必要なのです。

しかし、そこに政党という第三者が横から口出しをします。党の政策やマニフェストを決め、党員をしばります。

特に、党議拘束は、明らかに民意をゆがめます。
たとえば国会に3つの政党があり、A党は150名、B党は100名、C党は40名の議員が所属しているとします。
そこにある議案が出たとして、A党の議員のうち90名は賛成で60名は反対、B党では20名が賛成で80名が反対、C党では15名が賛成で25名が反対だとします。もし議員が個々に意見表明できるなら 賛成125名、反対165名で 議案は否決されます。しかし党議拘束があるとA党の議員は150名全員が賛成票を投じねばならず、B党の100名全員とC党の40名全員が反対票を投じ、150対140の賛成多数で議案は可決されることになります。
これは民意を反映している議会でしょうか。それとも政党のボスの意向を反映した議会でしょうか。

政党があっては、まともな議決はできないのです。

また、政党は利益団体を引き寄せます。利益団体同士の利害の対立は激しく、政見のすりあわせによる解決は図れず、政党は派閥化し、ゴリ押しやバラマキによって票を集める小競合いと裏取引と隠れた領袖支配が残ります。

また、政党自体が利益集団的な色彩を強めると、国民の間にある利害関係の相違をより際立たせる形で政治に持ち込むことになり、社会の分断を深めます(アメリカがよい例です)。

人はみずからの周囲のことを大切にする性質もあります。しかし、この「周囲」というのはあいまいなもので、徒党を組んでいると その徒党の関係者のみを「周囲」とみなしてしまいます。
もちろん人には、その狭さを反省する知力もありますが、そもそも社会的動物である人は、みずからに近しいものに「それでいいんだよ」と言われると、そのまま従ってしまう習性をもっています。

政党はまさにそう囁き続けます。そしていつのまにか狭い集団の利益だけを追求して反省のない人間ができあがり、民主制の土台である「一人一人の考える力」は疎外され、政党内の力学に意見を押しつぶされる個々の議員は党内での地位を高めるような発言ばかりするようになり、社会の問題を見抜いてそれを政策や言葉にまとめあげる力を磨き上げることにおざなりになってしまいます。

一般国民は「結局は派閥のボスの政治家が思うとおりにやるのだから、とにかく私に何か与えてくれればいい」という浅はかな考えで行動するようになり、「政治への関心は時間の無駄遣いだ」と考えるようになります。

政党主体の政治では、話し合いも難しくなるのです。

その状況を見て、「我も我も」と徒党を組む人々が増えると、そのような手法に客観性と伝統という権威が加わり、権力者達は「これでいいのだ」と居直り、無反省な結託に安住を続けます。

無反省は、その国の国民性の最悪の部分を表出させます。
日本の排他性と守旧的怠惰、アメリカの拝金主義と独善、中国の私利私欲と傲慢、ロシアの農奴根性と被害妄想、ドイツの教条主義、韓国の翻心。これらがなれあいの中で臆面もなく闊歩し、自分達ではそうとは気づきません。

「選挙民は政党に注目して投票しているのだから、民意を反映しているのだ。」というダミ声も聞こえてきそうです。

しかし、正確には、選挙民の目は政党の掲げる政策や公約に注がれているというべきです。

そして政党はひとつの事柄についてではなく、多くの事柄について公約を掲げます。
たとえば、農家に戸別保障制度を行う、金融政策に関してはインフレを抑制する、消費税の導入を延期する、国防について集団的自衛権を認めるなど、多くの論点についての意見がパッケージされて政党の公約になります。
国民(選挙権者)には、このパッケージを飲むか否かの選択権しか与えられません。
たとえば ある選挙権者がインフレ抑制については賛成、集団的自衛権には反対、消費税の導入は延期したい、という意見を持っていたとします。それら全てが一政党の公約となっていれば都合がよいのですが、そうでなければこれらのうち「これが重要だ」とその人が考えた事柄について意見を同じくする政党に投票するしかありません。
しかしその選挙権者が重要だと考えている公約が その政党で重要視される保証はありません。後から、党内の派閥争いにおける取引を含んだ調整の末に優先順位が低いものとされれば、後回しにされたり反古にされたりすることもありえます。

政党を通しては政治に民意が反映しにくくなるのです。

また このパッケージの中には毒を仕込むこともできます。
1930年代のドイツの貧しき民衆は「雇用の創出」と「立法と行政の統一」を掲げていたナチスへ投票し、それゆえヒトラーは「国民は立法と行政の統一を望んでいるのだ」と強弁することができました。
また、国民の多数が疑いの目を向ける政策を公約に潜りこませても たとえば一律給付金などの餌とともにパッケージすれば、選挙という正当な手続きで国民の支持をとりつけることができます。

 

民主制の実質化のためには、周縁にいる弱い人々の声が政策に反映されることが必要です。
中央にいる強い人々の意見ばかりが尊重され、彼ら彼女らが多数派を形成しやすい環境を許すことは民主主義に反します。(「中央」を「東京」に読み替え、「周縁」を「いなか」に読み替えるとわかりやすいかもしれません)

中央と周縁の人口を単純に比べれば周縁の方が多いのが通常です。
しかし周縁の人々は、往々にして他の周縁の人々の姿が見えておらず、相互に切り離されていて共通の利害の認識もありません。それに比べて中央の人々は絶対数は少なくとも政治的多数派を形成しやすい環境にあります。
共通の利益を求める意思統一もしやすく、情報操作できる地位にあることさえあり、周縁の人々からの同意を個々に取り付けやすく(「分割して統治せよ」)、さらに周縁の人々に政治への諦めを植え付けて投票率を低く抑えることもできるからです。

さて、そこで「政党は弱者が連帯して意見を通すため必要だ。政党がなければ強い者の意見ばかり通ってしまう。」という声も聞こえそうです。しかしそれは誤りです。党派を組織するのは社会的強者達です。

思い出してください。クラスの中で成績が半分より下の子供達が集まって何かを提案していたでしょうか。皆を集めてリーダーになっていたのは成績がよかった子または何かに特に秀でていた子ではなかったでしょうか。
実社会に出ても、あまり知能の高くない人々は互いの意見や立場を理解して意見をまとめることが苦手です。他方、秀才達は都会に出ることも多く、そこで人脈を作りやすく、互いの利益の一致点を見つけることも上手です。その彼らが集まった党派が、党派的利益を差し置いて、弱者のためのスキームを第一に考えるでしょうか。

政党が社会的弱者の力をまとめ上げることに役立ったのは、社会体制が大きく変わる時だけです。「社会的弱者」といわれる側に、実際には優れた知能や活力を持った人々がいて、旧体制を倒そうとしている時代だけです。それ以外の時代では、政党は、まずそこに属する社会的強者の利益を守り、その次に社会的弱者の利益を(彼らの支持をとりつけるために必要な範囲で)守るあるいはそのふりをする組織になるのが自然なのです。

政党は、一見、周縁の声を中央に反映する手段であるかのようにも見えますが、その実、中央が周縁を操作する道具となるのです。政党は、民主制を衆愚制や独裁制に変質させる危険のある存在なのです。

実際、第二次大戦の前、ドイツにおいても日本においても統治体(議会、行政府、裁判所)の外側の本来は私的な団体が政権を侵食しました。つまりドイツにおいてはナチスという政党、日本においては軍人達の結社がそれです。彼らは少数の人々であったにも関わらず、中央に位置し、政党や結社を結成したことで、多数派となったのです。この疑似多数派によって、その他多数の周縁の民の利益を守るべき民主制は簡単に簒奪され独裁へ移行しました。
また、(民主的対話を否定する)内戦が最も起きやすいのは、民族や宗教などのアイデンティティに根ざして結成された政党が跳梁跋扈する中途半端な民主制国家であるという研究結果もあります(バーバラ=ウォルター)。

現在、少なくとも先進国においては、軍人が政権に躍り出ることは抑制されています(シビリアンコントロール)。
しかし中央における結託を実現しうるという意味では同様に危険な政党は野放しのままです。これはシビリアン(一般市民による)コントロールの不徹底と言うべきでしょう。

 

政党は、王や宗主国や藩閥に対しては民主的な顔を向けつつ 一般市民に対しては非民主的な顔を向ける二面性を本来的に持つのです。

王が退き「国民」意識の醸成の終わった段階では、政党はオピニオンリーダーの交代を抑圧し民意を歪めるシステムに成り下がるのです。

政党は民主制から王政(正確にはその代替物である独裁制)に逆戻りするための橋にもなります。(実際、みずからを「王」と称した大統領もいました。ある意味、素直な人です。)

政党に残された最後の仕事は、みずからのもつ統治体への影響力を弱めることで民主制を実質化し 独裁制への移行を阻止することなのです。政党の居座る現在という時は、王政と真の民主制の間に存在する過渡期だともいえるでしょう。

近代人は、新たに力を手に入れた青年期のような不安の中で、部族の意見でもなく、合理的な意見でもなく、自分達の意見を通すことに執着してきたのです。人には、自分の評価や判断を正義として通すことのできる立場への郷愁や安心感があるのでしょう。過去、政権を握っていた王の姿が、人々の集団的無意識の中に輝かしく焼き付いているのかもしれません。

また、人はとりあえずの結果さえ重視してしまう思考の癖から「とりあえず社会全体のうちの一部だけでも集団にまとめられれば いずれは社会全体をまとめられそうだ」と思ってしまうのでしょう。

「近代においては村落共同体などの中間団体がなくなり、国家という巨大組織のみが残り、人々は孤独な群衆となって独裁に惹かれていく。よって中間団体(たとえば政党)の復活が大切だ。」という説もあります。しかし現代経済の流動性は中間団体となじむものではありませんし、何よりその中間団体から取りこぼされる人々はさらに酷い孤立の中に放置されてしまいます。
「政治は正心誠意につきるよ」と話した勝海舟は「徒党を組むなよ」とも語っています。達人的保身能力を持ちつつも 同時に市井の人々に目を向けた彼らしい言葉です。

とりあえず賛同者数を数えられる集団(政党)の掲げる守られる当てのない言葉(公約)にしがみつくべきではなく、一部の人々との結集に安心するのではなく、全ての人々を巻き込む合意のための手順の実現をひとりひとりが目指すべきなのです。それが最も一般市民にとっては安全なのです。

理念(言葉)の旗印のもとに結束することが有効だった時代はとうの昔に過ぎ、融通無碍な個々の人々の判断の中から調和を浮かび上がらせる意思決定システムが必要な時代になっているのです。

とはいえ、政党そのものの禁止は 結社の自由の侵害となり、それもまた社会の可変性を害するでしょう。

統治機関の中で政党の活動を許しすぎている現状がバランスを欠いているだけなのです。

政党は、利害調整機関となるべきではないのです。

議会本会議の紛糾を避けるために、議員個人の意見がまず委員会で審査されてもよいでしょうが、そこでも個人としての議員が議論すべきであり、政党からの拘束は不当です。

政党がなくても民意が国会に反映されることは、たとえば超党派の議員の働きで「障害者虐待防止法」などの各種法案がまとまったことなどにも表われています。

政治家となった人を教育する機能を政党がもつべきではないのです。
新人のうち政治を知悉しているわけではない彼ら彼女らへの実務教育は必要ですが、それは公的で開かれた制度でなければ、その中に紛れ込んでいる誘導や誤解を排除することができません。
開かれたものにしておけば、わかりやすくもなるでしょう。
たとえば、行政組織はあらかじめ予算(と決算)をできるだけ細部までわかりやすく整理しておき、それを全ての議員が簡便に把握できるようにしておくべきです。法案の提出はそれにかかる予算の算定とペアでなされるべきだからです。そうしておけば、政策の効率性や優先順位が比べやすくなり、選挙民の利益誘導を狙ったバラマキ政策が飛び交うことを防ぐことにもなるからです。

他方、政党は、政治家を志す(政治家になる前の)人々の学習の場としては重要かもしれません。

政党による民主制の侵害は、法制度を改革すれば防ぐことができます。革命もクーデターも不要です。

但、よく練った制度的な監督や鉄槌が必要です。

政党が最も大きな力を持つのは選挙の場です。選挙を通じて政党は政治を支配していると言えます。
権力の座にある政党は 企業団体からの献金を背景とする資金力をもち、それによって特に政治的意見をもたない選挙人層をとりこみます。そのようにして政党は実際には利益集団の意思しか反映しなくとも、 国民の総意を反映したかのごとき体裁をとることができるのです。

選挙制度の民主化を進めることができれば、政党による隠れた少数者支配は大きく揺らぐことになります。
たとえば政党交付金は廃止すべきです。これは全国民から集めた税金を特定の集団のために使う制度であって、
既得政党の権益保護にしかならず、被選挙権あるいは平等権の侵害すら疑われる制度です。
比例代表も廃止すべきです。選挙はすべて個人を選ぶ形でなすべきです。
政党の選挙活動も大幅に制限されるべきです。そもそも選挙活動自体を大きく制限し、「金のかからない」選挙制度を実現すべきなのです。

かえりみれば、これまで政党が選挙制度をみずからの利益となるようにうまく取り仕切っていたので 選挙制度について議論する必要が看過され、その不完全な選挙制度ゆえに真の民主化が進まなかった、ともいえるでしょう。

選挙制度

真の民主制を実現する上で、最大の具体的障害となるのは、現在の不出来な選挙制度です。

それをただすには、以下のような手直しが必要でしょう。

選挙資金の制約

「利権の分け前をなるべく多く かつ永続的に取り込もうとする活動を本質的に含む」政治活動(ウェーバー)において一般の公益に資する政策決定の実現性を高めるには、「一部の利益集団の言うままに動いていたら落選する可能性が高まる」選挙制度が必要です。

つまり「金のかからない選挙」そして「金のかからない言論」の実現が必要なのです。
「政治家であり続けるには金が必要」という状態では、少数の富者の資金力によって民主制も権力分立も骨抜きにされます。政治家は集金力やそれに紐付けされた義理や情誼によって選出されるべきではなく、統治に関する見識や実行力によって選ばれなければなりません。

現在、日本の政治資金規正法は、企業や団体からの寄付は政党に対してのみ許されるものとし(政治家個人へは禁止)、さらに実際上個々の企業による表立った寄付は自粛され(機関紙への広告料などの名目での資金援助はなされているようです)、複数の企業からなる経済団体からの寄付が大勢を占めています。 

確かに 資金力のある個々の企業や団体からの個々の政治家への寄付が禁止されれば、あけすけな対価供与は難しくなるでしょう。

しかし、経済団体からの寄付は、一般市民の利益ではなく巨大企業の利益に政治を誘導する危険をもちます。政党が当該経済団体に利益となる政治を行い(公費を支出し)、その利益の一部を自党に還流させられるなら、公費で自党の政治資金を賄って当選を確実とし さらに公費を政治資金に使う、という悪しき循環ができてしまいます。特にその経済団体や企業が独占的地位を得ている場合には、企業の利権確保が社会全体の非効率化や不平等化につながる危険も大きくなります。

宗教団体からの寄付も、少なくとも既存宗教一般への何らかの見返りを伴う危険を伴い、政教分離の原則という近代統治原理に反すると言えます。

また、献金する側が集団(企業や団体など)で、その集団の構成員の中に反対意見をもつ少数者がいる場合、その少数者の拠出した金を反対の立場の候補者に拠出することになり、少数意見の圧殺にもなります。

そしてまた、政党に寄付が集まる(受け取る側が集団である)と、既存政党の領袖の支配力を高めることになります。

他方、欧米では個人による寄付が中心になりつつありますが、個人の献金も多額になれば個人的利益に政治を誘導する危険をもちます。

さらに政治献金を全て禁止したとしても、トランプ氏のように自己資金で選挙に臨むことのできる富裕層が出てくれば、資金力による民主制の汚染(権威主義的な固着)は止まりません。

民主制や権力分立を実質化するには、政治資金の「入口」の規制は有効とは言えず、そもそも多額の資金が必要とされる選挙制度を変えるという「出口」の改革が必要なのです。すなわちいくら資金があっても役に立たない選挙制度、裁判のように厳密な手続に基づく選挙制度が構築されなければならないのです。

たとえば以下のような具体的規制が必要でしょう。

  • ・選挙資金に総額制限を設ける(一般人でも背負えない額ではない範囲、たとえば500万円くらいか)。
  • ・選挙管理委員が立候補者から予算と決算の報告を受け、違反者には、被選挙権の剥奪、供託金没収(現在は泡沫候補を排除すべく一定以上の得票数がなければ没収するという趣旨で設けている供託制度を、選挙管理委員会が不当選挙活動と認めた場合に議会に没収を提案できるようにも併用する)などの制裁を科す。
  • ・街宣活動は休日の昼間に限定する。
  • ・ビラを貼れる場所を厳しく制限する(ポジティブリスト化)。
  • ・資金力に劣る候補者への救済制度を充実させるべく、少額の一定の手数料で政見を広める場を公平に与える。
    たとえば 選挙活動用限定で、印刷・郵便、電話、交通などのサービスを軽減された価格で提供する、演説会の場所を無料で貸し出す、など。
  • ・選挙権者へのサービスの提供の禁止。たとえば 選挙期間を遡る一定の時期については(つまり立候補を考えている人には)、親族以外の冠婚葬祭への出席、祭などの地域行事への寄付、候補者の負担による見学ツアーなどを禁止する。
  • ・選挙を臨時に行わないようにする。(その意味でも行政府の長に議院解散権のない大統領制が望ましい。)

上記のような規制を行えば、最も費用のかかると言われる人件費(秘書など)についても、そもそも仕事が減り、ボランティア程度で回せるようになるでしょう。

逆に、選挙におけるきめ細かな手続規制がなければ、たとえ政党の活動を制限しても、個人としての政治家による利権政治は続くでしょう。
また、地方自治権を拡大しても 地方のボスの地盤を固めるだけになってしまうでしょう。

目立たないところですが、ここが現代の政治ひいては経済の改革の眼目です。

間接選挙の排除

先に述べた民主制の本質から見れば、これが権威主義的な色彩をもつ制度、民主制を不純にする制度であることを説明するに多言を要しないでしょう。

アメリカの大統領選が典型例ですが、たとえば政党への投票である比例代表もその一種です。

適正な選挙区設定

選挙区が小さくなると トップ得票者しか議員になれないので、多数意見しか議会に出てこなくなります。
しかも、落選したくない候補者たちは地域の利権に媚びるような政策ばかり述べることになり、先進的な政策は日のめを見なくなくなりがちです。利権議員の選出を制限するためにも、狭い地域で勢力をもつ者を排除すべきでしょう。

他方、選挙区割が大きくなり過ぎると、政治の能力もなければ地方の実情も知らない著名人ばかりが選ばれてしまう懸念があります。また、民主制を実質化するためには、聞くべきところのある様々な少数派の意見が充分に考慮される必要があり、あまりに選挙区が広くなると、それも難しくなります。

選挙区の大きさは、これらのバランスを考慮して、合議体の性格にあわせて微調整するべきでしょう。

新しい立法を検討するときには小さな選挙区は特に適さないでしょう。狭い地域の利益を守るような意見ばかり出ては、国全体の進むべき方向を見極めることなどできません。

衆議院はこちらに近いでしょう。

ここでは全国区あるいは大選挙区(地方通貨の章でも述べた道州レベル)が適切でしょう。

またこの大選挙区の間の議員定数の割りふりでは人口比例を重視すべきです(人口の多い選挙区からはそれに応じて多くの議員を選出させる)。なぜなら人口比例を重視したとしても、ひとつひとつの選挙区が大きく当選者が多いので それぞれの選挙区から少数派の代表も選出されやすい一方で、過剰なアファーマティブアクション(少数者優遇政策)が立法されると多数派の政治的不満が高まり、暴発する危険があるからです。

他面、法律を執行するときには、細目まで議会が決められるはずはなく、行政の判断が不可欠です。それに対する監督は地域の利益を代表する政治家が行うべきでしょう。このように行政の監督を主に司る議会については、比較的小さな選挙区でよいでしょう。

参議院がこの役割を担うなら中選挙区(都道府県あるいは人口の少ない二県程が合わさったレベル)が適切でしょう。

またここでは少数または過疎地域の切り捨てに歯止めをかけるべく、人口比例にあまり重きを置くことはできないでしょう。

投票率の向上 

ある国会議員は「投票率が有権者数の70%を超えないと利権屋が勝ってしまうように感じる」と語っていました。

選挙は、権利であるのみならず民主制を維持するための国民の社会的義務でもあります。義務の懈怠には制裁があって然るべきです。

投票を正当な理由なく棄権した者は処罰される、というオーストラリアやブラジルの実例もあります。

たとえば「連続して棄権を繰り返した人には、その後の数年間は投票権を認めない」などの立法も必要でしょう。

議員の弾劾

選挙はあくまでも民主制の道具であり、民主制の本質ではありません。民主制が選挙を通じて破壊されないようにする制度も導入すべきです。

たとえば、個人崇拝と独裁を肯定するような候補者や 一律的金銭給付(バラマキ)などで大衆を誘導する候補者は、民主制を破壊する危険をもち、議員として不適格です。そのような候補者は、たとえ当選しても、議員資格を剥奪されるべきです。

しかし、それはその候補者に投票した選挙人達の意思を無に帰することです。また「独裁的」「大衆迎合的」という判断は微妙でもあります。従って、そこには厳密な判断手続が必要とされます。その点では司法判断と似るのですが、具体的なあてはめ(判断)を司法という独任制の機関に任せることは、これもまた民主制を損なう危険をもちます。

他面、このような候補者が当選することは、そうではない議員の地位を脅かしますから、他の議員達はかかる候補者を排斥したいインセンティブをもちます。

適格性の判断は、議院の弾劾裁判によることが妥当でしょう。

ただ、現在のように政党が力を持っている限りは、このような制度も正しく機能しないでしょう。

なお 民主制の実質化のためには、選挙制度の改革以外にも留意すべき点があります。

たとえば、議事の採決における改善も不可欠です。

まず 決選投票方式はなるべく避け あいまいな中間者の意見を尊重すべきです。
投票のパラドックス(議案や候補者の採決順序によって結論が異なってしまうこと)を避けるためです。

また、議題によって多数決の方式を変えるべきです。
たとえば、慎重な検討が必要な場合には特別多数を要するとし、期日内に決めなければならないという議題については比較多数で足りるとするなどの細かな配慮も、現行制度以上に(憲法改正以外にも)必要でしょう。

また、本会議前の委員会(専門部会)については、より公正さを明確にする形で充実を図るべきでしょう。
市場の判断の正しさは、供給側の専門性と公正性によって担保されています。政治の意思決定における供給物ともいうべき「議案」も、専門性をもつ主体(議員、学者、行政の実務家など)によって公正に練られたものであるべきです。したがって専門部会は本会議と同等の重要性をもつのです。

現在、本会議前の専門部会はしばしば中央官庁や与党の主導によって人員が集められ、公正が常に担保されているか疑問が残ります。

より明確で厳密な制度として立法上設計されるべきでしょう。

また、議員を含めて、職業政治家の立候補の定年は65歳とすべきでしょう。

政治は常に変わる世界の舵取りをする重要な判断の連続です。通常の生活レベルよりはるかに高い記憶力や判断力や想像力が必要とされます。

しかし歳をとると判断も過去の経験に頼りがちとなり、新しい課題に白紙のような気持ちで取り組みにくくなります。さらに歳をとると寂しくなり、みずからの周囲に人を集めることが主な目的となってしまいます。しかもこれらはすべて無意識の内に生じます。こうなっては政治の任に耐えることは無理です。

65歳をすぎたら、せいぜい補佐役に徹するべきなのです。

権力分立

権力分立は、民主制とならんで、権力の濫用を防ぐ統治原理ですが、やはり現代の政治体制においては徹底されていません。

権力分立すなわち権力相互の均衡と抑制の淵源は、相互にせめぎあう権力者同士の「なわばり」つまり徴税権の争奪戦にあったと思われます。
たとえば中世ヨーロッパでは、教会領には封建領主の支配権が及びませんでした。中世の日本において土地は基本的には大名の領地でしたが、寺社領や公家領もあり、商工業の場である市や座は寺社や公家の支配下にありました。

このような権力分立も、民にとっても一定のメリットはありました。
みずからが所属する場の支配者の横暴があまり激しくなり、生活が難しくなったときは、他の権力者の支配する場に逃げ込めたからです。

また 社会に変化をもたらしやすくするためにも、地理的な権力分立は有効でした。
流行というものは、変人(ファド)が始め、次に流行に敏感なオピニオンリーダーに受け入れられ、次にマス(大衆)を取り込み、最後はレイトカマーと言われる保守的な人々も追随する、というように異なる層の人々に徐々に広がっていく流れです。
政治運動も ファドの段階で圧殺されるようでは 社会に大きな進化は生じにくく、それを避けるには国内で施政権が分有されているほうが好都合です。
たとえば日本の明治維新は、まず長州や薩摩などの藩の中で一部の下級武士が攘夷運動を初め、それが討幕の色彩を帯びつつ徐々に勢力を拡大して藩政を動かし、それが藩の外に伝播するという順序で実現しました。
もし当時 日本が各藩に自治権のある封建制でなく、強い中央集権体制だったら、少数の人々が同志を募っている初期段階で察知され壊滅させられていた可能性が高かったでしょう。封建制だったからこそ自力での維新が可能だったのです。実際、ロシア革命を主導したレーニンや辛亥革命を主導した孫文は 自国に留まれず外国に亡命し、外国の助力を得て革命を実現せざるをえませんでした。中央集権が揺らぐことのなかったロシアや中国ならではの苦難だったと言えるでしょう。

近代的権力分立には2つの存在意義があります。

ひとつは政治における専門性の深化です。立法にも司法にも行政にもその分野ごとの技術やコツがありますが、全部をオールマイティにできる人間はいません。分業による効率化、精密化は組織運営に有効です。

他のひとつは権力の集中を避けることです。権力と権威の濫用、隠れた少数者支配を牽制することです。そして権力への疑いをなくさない健全な批判精神を涵養することです。

後者は権力の座につく者にとっては邪魔なものです。それだけに統治を受ける側の国民としては後者の機能の徹底を目指さなければなりません。

専門的で効率的な統治を実現するためだけならば、組織が分けられ、権限が分配され、役割ごとに適切な組織形態がとられていれば十分です。(たとえばピラミダルな組織と合議制の組織、選任型組織と民選型組織が使い分けられていることなど。)

そしてこれは既存の統治組織にほぼ組み込まれています。(立法には慎重さが重要なので多人数で判断、行政は継続と迅速が重要なので独任制が基本、司法はその中間。司法と行政では専門性が高いので選任制、立法は広く現在の社会状況を反映しなければならないので民選制。)

ちなみに、専門性の深化は、業務の独占を意味するものではありません。それはかえって非効率を招きます。
現状の政治においても、統治機関はそれぞれの専門業務をきっぱりと分離して互いに口出ししないようにはしてはおらず、それぞれがグラデーションをもちながら互いに相手の仕事をいくらか受け持っています。弾劾裁判や司法行政などは、その一例です。

しかし権力の集中を避けるという観点からは、現在の統治機構にはかなり大きな見落としや齟齬が多々あります。

たとえば、先述のように、政党は権力集中の隠れ蓑です。

また、地方自治は権力分立の一端を担う制度として重要であるにも関わらず、地方自治体はそれに応じるだけの権限を委譲されておらず、それを担うだけの予算ももっていません。

また、司法権は『統治される者』の意見を事後的具体的に国政にあげるべき統治機関であり、そのために憲法訴訟という制度も用意されているのですが、そこで違憲判決が出た場合に内閣や国会がいかなる対応をすべきかを定めた法律はなく、しかも最高裁の判事達は 民意を反映している(はずの)国会の作った法律を無効化することへの躊躇と 自分達への人事権をもつ内閣への忖度とで硬直しがちなので、この制度が機能する機会はごくまれです。

そしてなにより、議員内閣制は立法府と行政府の結託を推し進める制度です(次章)。

権力分立の視野を広げれば、「経済は市民に、政治は官吏や政治家に」と決めつけることもおかしなことでしょう。

現在 一般市民は あまりにも公的権限から排斥されています。一企業や一般市民も、営利活動に勤しむのみならず、地域自治における自力救済権限をもう少し回復してもよいかもしれません。

たとえば自治会に様々な決定権と執行権を与えれば、労働人口の減少する中で、行政費用を削減しつつ、地域に本当に必要なサービスを適時に実現しやすくもなるでしょう(生活道路の補修を住民にまかせ その材料費のみを官が負担する、など)。

行政組織 (四権分立など)

近代初頭において、政治権力は王に集中していましたが、やがてそこから「司法」や「立法」が分離独立しました。最後に残った「行政」には広範な守備範囲が残され、民主制から一定の距離を保った形で 現在に至っています。

それを支えているのが 現場の政策内容決定者である専門官僚(テクノクラート)です。

日本の公務員の多くは善良で有能ですが、人間である以上は誤りもおかします(たとえば国益よりも省益を優先させてしまうなど)。有能だからこそ自分達の判断に誤りはないと考えがちになる危険もあります。
また、今後も、行政需要は増えることはあっても減ることはないでしょう。多すぎる職務を抱えていては能吏も疲弊し、疲労はさらにミスを招きます。

行政という強力な組織を形作るテクノクラートにも民主的監督、広義のシビリアンコントロールを及ぼす必要があるのです。

そして、その方策は大別して二つあります。

一つめは 行政機構のもつ権限を分割再編することです。

まず政府、国会、裁判所の他に、調査のみを権限とする第四の統治機関をつくり、そこに調査権限を集中させたほうがよいでしょう。
三権分立ではなく、オンブズマンの権限を強化して権力主体に格上げしたような「四」権分立です。

多くの国では、最大の調査機関にして統計作成機関は行政機構です。

しかし調査段階を行政機構に任せることは、立法府と行政府のパワーバランスを損ねます。
何らかの事項を決定するにあたり最も重要な影響力をもつのは、どのような事実が資料として採取されているかということです。それをどのように解釈するかは議論で動かすことができますが、事実資料は議論では動きません。
事実調査段階から権力分立への留意が必要なのです。

そうなると、立法府が独自の調査機関を持つべきとも思われますが、予算が膨らみますし、利権がからむ懸念があることは行政でも立法でも同じです。
しかし、調査業務のみで完結し、立法や行政に直結しないなら、利権がからむ余地は少なくなります。

また、現状では、たとえば行政府が決めた規制の不当性に対して市民が「自分はこのような問題に直面している。このように変えて欲しい。」と思っても、特別なコネクションや組織力がなければ、そのような意見は政治に反映されません。
国会議員としては何万人もいる選挙区民の願いのすべてをいちいち聞けません。
市役所や県庁の職員には当該事項に関わる行政に権限がないので、そこに話を持って行っても役には立ちません。
中央官庁の行政官も、独任制を基礎とする近代行政機関において、割り振られた権限の範囲内で全国民の面倒を一人で見なければならず多忙です。また一旦規制が設定されそれを実現するための業務が回り始めると、その業務を利益とする天下り先もできるでしょう。みずからの天下り先の不利益になりそうな提言を受けた場合、担当官は当然のことながら極力それを潰す方向に動くでしょう。また規制撤廃のために新たな調査をするとなると、過去に調査をした先輩官僚の顔に泥を塗ることにもなりかねません。なるべくなら撤廃しないですむように既存の資料の正当性を主張する方法を探すほうが自然な流れです。「現在の規制は不合理で既得権益を保護しているので撤廃してほしい」と市民が言い立てても、たらい回しにされたり、「前例がない」という傲慢で怠惰で無礼な理由による門前払いを受けがちです。それどころか「いらないことを言い立てた」と逆恨みされ 不利益を与えられるのではないか心配になります。
しかし調査を専門とする機関であれば、むしろそのような意見は事実確認の契機として積極的に聞く内容となります。また、調査専門の機関が既存の資料を尊重していては、みずからの存在意義も薄れますから、一定の時間が経った後の再調査にも躊躇はないでしょう。

市民主導で規制を緩和したり撤廃したりするには、規制を実施している官庁とは別の常設の調査機関が市民の声を受けて活動するしくみが必要なのです。

そのような機関を作れば、行政官が一方的に選んだ専門家達による審議会と呼ばれる密室会議や、民意と乖離した政党のボスの思いに基づいた政治を防ぐことも容易になるでしょう。

また、行政組織内で完結していた業務の一部に他の主体が大きく関わることは、「こういう事実があったことにして、こういう対応をしなさい」という政治家の行政官への要求を通りにくくさせ、政治家への忖度の余地を狭めることにもなるでしょう。

四権分立などと言うと、突飛に聞こえるかもしれませんが、調査を専門とする機関が事実上独立的で巨大な権限をもつことは、たとえばCIAの強い権限の例を見ても、むしろ自然です。
ならばむしろそれを正面から認めて、適切な民主的監督を及ぼすべきでしょう。

この機関には、外局や行政法人を作らせるべきではありません。誤認調査や違法調査の責任をあいまいにさせてはならないのです。責任は本局の管理職が必ず負うものとすべきです。

ただ、実際にみずからすべて調査することは困難であり、外注先を使う必要があるでしょう。

その際、活用すべきは大学です。調査は研究機関である大学になじむうえ、そこには体力と知力があり調査スキルを得る必要もある学生という安価な労働力が溢れています。しかも、大学は全国にあるので、地方の国民の声を受けやすくもあります。大学が、国民の請願を受け付けて調査を行い、それを適切な提言の形にして国政に仲介するようになれば、大学は広く国民一般に開かれた民主的な立法準備組織、規則改変の窓口ともなります。

しかも学問の役割は権力や権威の示す「現実」とは異なる可能性を探ることにある以上、行政機構による統計の独占や一次管理をみずから打破することができれば、学術の府としても望ましい状況です。
大学が社会の「目安箱」となることで、教授達も研究テーマを社会から与えてもらえることになり象牙の塔に籠もり空論にふけることも少なくなるでしょうし、彼らの能力を客観的に計測する目が増えることにもなります。
さらに学問の継承を使命のひとつとする大学であれば、調査ノウハウの蓄積も期待できます。癒着防止のために定期的な配置換えを必要とする行政官にまかせるよりも、高度な調査を安定的に実施してくれることが期待できます。
将来、政治家となるかもしれない学生(ひいては広く国民)にとっての政治的訓練の場にもなるでしょう。

また、この調査機関のベテランの中から、議員の政策担当秘書(公設秘書)を選出すべきでしょう。

行政府の政策立案を補佐する行政省庁職員が身分を保障されているように、国会議員の政策立案を補佐する者の身分も保障し、その能力を研鑽する場を用意すべきだからです。またこうしておけば行政と国会の補佐役が異なることになり、互いに協力しながらも拮抗する組織となるでしょう。

そう考えると、この組織のトップは国会が任命すべきであり、(最高裁の裁判官のように)さらに国民審査を受けるべきでしょう。

また、個別の省庁の編成について言えば、現在、国民から税を徴収する権限は財務省の外局である国税庁が、それをいかに使用し分配するか立案する権限は財務省本省が管轄しています。しかし両者は分離すべきです。

徴税権は、財産権を直接的に制約できる強い権限です。他方、予算作成権限は行政全体の運営に大きな影響力を持ちます。このような二つの強大な権限に財務省という一官庁が影響できるようでは、政治家も同省の意向に忖度せざるをえなくなるでしょう。

また予算額が大きくなればなるほど国家運営に大きな影響力をもてるのですから、財務官僚としてはみずからの徴税権を駆使して予算額を増やそうとするでしょう。かかる状況を放置しておけば国民の多くが望まない消費税が「徴収しやすい」という理由だけで、税収の大部分を占めるようなことになっても不思議はありません。

他方、再分配を公正に行うには 個々の国民の財産状態や税や年金や各種保険の支払状況を総括して把握することが必要であり、これらは一括管理するほうが効率的です。つまり税金、年金、保険料など国民から財を徴収する権限は、ひとつの省庁にまとめたほうがよいのです。

また、財産権という国民の権利を徴税という方法で直接制約する権限に対しては、通常の行政よりも強い外部からの監視が必要です。

従って、財務省からは国税庁を分離すべきであり、分離した国税庁と年金や保険の徴収に関する官庁とを合わせて新たな省庁を作るべきであり、その省庁には特に権力分立的統制を強めるべき(警察庁に対して国家公安委員会があるように)なのです。

低成長期に入り、政府の再分配が大きな役割を果たす社会を準備するためにも、この省庁再編は重要です。

二つめは 個々の行政を監視する眼を複数にする、つまり行政府の長のみならず、議会や特別委員会、裁判所などが関わることです。各統治組織の専門性を強調しすぎることは、相互の理解を阻害し、健全な批判を難しくして権力分立を阻害します。

たとえば、行政官の人事権の一部を他機関に持たせることは、行政組織の閉鎖性、自己完結・自己中心を戒めることになるでしょう。

外国の例を見れば、たとえばアメリカの上院は政府高官の人事承認権をもちます。
それにならい、国家の行政組織の上部には 猟官制で任命される行政官をより多く置き、彼らの身分は たとえば参議院(またはその委員会)の除斥投票で罷免されうるものにするというように 現在より流動的(ある意味では不安定的)にしてよいでしょう

他方、試験などで採用された一定の役職以下の行政官については、むしろ身分保障を強める形で他の機関が関与すべきでしょう。個々の行政官を政治家の個人的党派的な恣意から保護する必要があるからです。
行政官が政治家の思惑でその身分や進退を左右されるべきではありません。政治家への忖度と尻拭いから能吏が自殺に追い込まれるような国で、優秀な若者が官吏になるはずがありません。
たとえば「行政府の長は行政官の罷免権を持つが、それを不服とする行政官はその処分の取消しを議会(あるいはその委員会)に訴えることができ、その承認がない限りその処分は無効になる」というような制度も望ましいのではないでしょうか。
行政官の身分の多様化(官と吏の分離)は、政治と行政の適度な分離にもつながります。
あれだけ王朝が変わった中国で公文書がよく保存されてきたのは、行政官が官と吏に分かれていたことが役立ったと言われています。つまり上級公務員である官は 新しい皇帝の意のままに公文書を破棄し改竄しようとしたものの、下級公務員であった吏は職業的使命の全うを第一として その命に背いて原本を保存していたからである、と。

また、降格や昇格についての外部査定の導入は業務の改善にもつながりえます。外部の承認が得られるだけの客観的事由が必要であるとすれば、閉鎖的な減点方式の評価に風穴を開ける可能性も開けるでしょう。

ヘーゲルも『法の哲学』(301節)の中で、議会による個々の官吏への評定の有用性を説いています。

また、行政通達が実質的に一般市民への規制となっていること、いわゆる「通達行政」が権力分立を害することは以前から指摘されてきた通りです(民選組織でない行政府が立法類似の行為を行う点で)。
のみならず、それらの意味が外部にわかりにくい形でしか示されないことは民主制を大きく害します。

統治に関する細かな事項についてまで国会で決めていては円滑と効率が害されますから、それらの事項については政府ひいては省庁に決定をとりあえず委ねるしかないでしょう。また行政機関は当然に内規制定権を有します。

しかし、少なくともそれらの内容を誰もがわかりやすい形で開示させ、何を変えるべきなのかあるいはそうでないのかを議員や一般市民がチェックできるようにするべきです。行政内規も(それが実質秘として保護されるべきものでないかぎり)できる限り一般国民に理解しやすい形で公開すべきであり、それがなければその機関内部においても無効とするような外部審査権があるべきです。

また、公文書の改ざんや破棄、内輪でのもみ消しを防止できるような外部と提携した手続的防止策も構築されなければなりません。

これは議会における選挙制度がそうであるように、行政の民主化において基幹的といえる重要性をもつ事項です。

さて、行政に対しては、上記のような民主化の要請とともに、低成長期に入り税収の減る後期資本主義社会においては、経費削減の要請も強くなり、行政組織の人件費にも厳しい眼が注がれることにもなります。

人件費削減のために現業について民営化が促される例もみられますが、これは(海外の水道事業の失敗例にみられるように)制度に機能不全を起こさせる危険や、技官の経験や知識の不足を招く危険があります。

この点、行政組織の規模を縮小するよりも、組織を存続させたまま給与体系を弾力化して給与水準の妥当性を確保したほうがよい場合もあるでしょう。民間企業の場合、もともと給与が低いこともあって給料を下げられたら辞める社員も多くいます。しかし公務員の場合は、そこまで低い給与水準であることは少なく、また給与以外にも「倒産しない」という強い身分保障があります。減給も比較的容易でしょう。

また公務員の給与は税金から支払われる以上、民間企業とは比較にならないほどの公開性があるべきでもあります。広義の公務員(議員や裁判官や公益法人の職員など)に対してのものまで含め、民間から選挙された第三者委員会が、機関ごとの給与総額と給与テーブルくらいは決めるべきでしょう。

また、外局などの設置や改廃についても外部からの監督や、外部とのオープンな議論が必要でしょう。

理由のひとつは、行政組織の本体が縮小しても、外局や公益法人(天下り先)が増殖しては、弊害はむしろ増えることです。すなわち、経費の流れが第三者からかえって見えづらくなり予算が過剰に人件費として消化される危険が生じます。(ちなみに、国際機関への拠出金も、天下り先の確保のためになっているなら、同じことです。)

また、いったん出世競争に敗れた者は関連組織に出向させ戻らせないという慣習は「勝ち残ったエリートがヘマをしたときでも交代要員がいない」という帝国陸海軍の轍を踏ませることにもなります。その意味でも、やたらに外局や関連組織を作らせるべきではないのです。

これらの改革を実現するには、国会の運営方法の改善も必要です。

なぜなら行政権の牽制は立法権の行使とならんで 本来は国会の二大機能だからです。
近代民主制の先駆けとなったイギリスでは、セレクトコミッティー(議会による省庁のモニタリング)が拡充されています。
また、多くの国の国会は二院制をとります。これは「立法」と「行政や司法の監視」という二つの仕事を一つの院に受け持たせることには無理があり、二院に役割分担させたほうがよいと、人々が無意識に感じてきたからでしょう。

たとえば衆議院に法律の制定(立法)における優越性を認める日本国憲法の下では、法律の運用面ひいては行政や司法の監視においては参議院(あるいはその委員会)に専権性を認めてもよいのではないでしょうか。

また、現在の会期制は通年国会制に改めるべきでしょう。
会期制の国会では、閉会している間は行政組織に対する立法府の決議が不可能となり コントロールを弱めることになるからです。
また国際情勢が揺れ動き始めた現状下(これから100年ぶりの動乱期に入ると予想されます)、「一旦は会期を終了し 必要となったら緊急国会を招集する」などという悠長なことをしているべきでもありません。

議院内閣制と大統領制

議院内閣制は、歴史的に見れば、国民が王と政治権力をせめぎあっていた時代に工夫された政体です。
「司法権と立法権は王権から切り取った。しかしまだ王権に残っている強大かつ広範な行政権をなんとか国民の監視の下におきたい。しかし大統領の選出は王を否定することになり王を刺激しすぎるし、立法主体と行政主体が分かれていてはつけ込む隙を王に与える。」と考え、とりあえず確保した立法権(議院)から行政の首長を送りこむことで立法と行政に一体性を持たせ、王の行為にできる限りの掣肘を加えたのです。

しかし現在、議員内閣制は民主制と権力分立を多重的に害する仕組みとなり、公然たる少数者支配と寡頭主義を維持する道具に成り下がっています。

王という制度が消滅し あるいは充分に弱体化した時点で、議院内閣制はその歴史的使命を終えているのです。

議員内閣制の下では、行政の最高責任者が国民により選ばれず、議員によって選ばれます。
これは一種の間接選挙です。
ここに政党がからむと、政党によって行政と立法の双方がコントロールされるシステムができあがります。

このシステムの下で大きな政治問題に直面した時、政党同士の勢力争いと政党のボスの近視眼的判断ミスによって民主体制が崩壊していく過程は、既に第二次大戦前のドイツやフランスや日本で皆が目にしているはずです。戦争の危機の迫る混乱の中、総理をはじめとする各大臣は、政党間あるいは内部の調整によって限られた少数者の中から選ばれ、政党のボス同士の密室での交渉で政権が移譲され、このような状況の下でファシストへの権限移譲がスムーズに行われたのです。
大統領制であったなら、国民の審判が 国会議員選挙と大統領選で二度働いたはずです。
また、大統領制のほうが議院内閣制よりも権力分立を徹底しますから、国政への実質的影響力が総理大臣よりも小さい大統領という存在もありえます。このような大統領制であったならば、ヒトラーやムッソリーニの専横を初期に抑えうる可能性がもう少し高かったはずです。

戦後の日本においても、与党の領袖達による寡頭制が続いています。
自民党が長期安定政権を築いているということは、実際には自民党の党首によるマイルドな独裁が続いていることです。人々はそれに慣れてしまい、なんら不合理や不自然を感じなくなっています。プーチンや習近平のような人物が党首となったときにも 日本人は彼らのなしくずしの独裁に ごく簡単に取り込まれてしまうことでしょう。
また、少数ないし一人の党の領袖の同意さえ得ることができれば国政を動かせるという状況は、たとえばその国を陰から操りたい外国にとっても非常に楽で効率的な状況でもあります。日本がアメリカの同盟国なのか属国なのか不明な状況を安定させている原因のひとつは、この政治体制ではないでしょうか。

議院内閣制の下では、立法府と行政府の長が同一人物となり、行政官(官僚)が政策決定のためその長に対して行う献策と、議会にかけられる法案が、曖昧模糊とした連続性を持つことになります。これは民主制と権力分立の双方を害します。

行政府と議会は、立法においても異なる立場からの役割を果たすべきものです。
日々現実に発生している社会の問題点を摘出し、それに対する対策をたてるという積極面では、常在で継続的かつ機動的に動ける行政組織の力が発揮されます。行政官の献策する「国政全体を考慮し綿密に検討された」法案が議院に提出されることは至極まともなことです。
他方、議会は「不特定多数の国民から吸い上げた、視野が狭いかもしれないが 現在のリアルな社会で『統治される側』からの論理による」政策検討を行わなければなりません。多様な見解をもつ議員からなる合議機関は多面的評価、再検討という機能には優れているはずだからです。

しかし、議員内閣制の下では、行政機関(官僚組織)は、純粋に行政機関として働くだけではなく、実質的には与党の下部機関として働かされることにもなります。

以前は、各省庁が作成した法案は政務調査会(与党の内部組織)の事前審査を通らなければ国会に提出することができない、という不文律が存在しました(議会が決めた訳でもない「しきたり」です)。その事前審査を通すべく、行政官は、まだ法案にもならない政策をまとめている段階から政務調査会に属する議員(いわゆる「族議員」)に「説明」に行くことが慣習になります。すると この法案に利害関係をもつ企業や市民もやはり族議員のもとに説明や陳情に行くことになります。このような慣習のもとで 族議員と彼らを擁する与党の影響力は大きくなる一方、他の議員に託された国民の意思は影が薄くなっていきました。真に権限のある者が誰かわかりにくく、その誰かに渡りをつけることのできる少数者のみが動かすこのような政治が、民主的と言えるのでしょうか。権力が分立していると言えるでしょうか。
しかも、官僚達は、与党内での調整や、野党への対応まで迫られることになり、疲弊します。

現在も似たような慣例はないのでしょうか。あるいは未来においてかかる慣例が復活する危険はないのでしょうか。

議員内閣制の下では、各大臣が議員として選挙による審判を受けることになり、行政府の一体性を弱め、革新的な政策が打ちづらくなります。

たとえば、再生可能エネルギーである洋上風力発電、潮流発電、波力発電など実施には海域の利用が必要ですが、漁業権が実質的に海域全体を先行して占有しており、漁業協同組合の同意がなければ発電施設も設置できません。漁協は、既存の漁場へのアクセスの妨げになったり漁場に影響を与えたりする可能性がある施設設置を基本的に好みません。海洋エネルギーの開発を積極的に推進するには漁業権の制限が必要になります。そのような立法を行政府が立案しようとするとき主管官庁は農林水産省になるでしょう。しかし、議員内閣制の下、農林水産大臣も議員であり、選挙による審判を受けます。漁協や漁業関連企業などの既存の利益集団から「農林水産大臣なら漁業を守るはずだろう。それなのに。」と恨みを買う立法を主導することは避けたいと思うでしょう。
他方、大統領制なら、農林水産大臣は大統領の部下にすぎません。政治的責任を問われるのは大統領だけです。大統領は、漁業だけを守ることを期待されていませんし、電力不足を懸念する工業界からはかえって支持を増やせるでしょう。

議員内閣制は、大統領制に比べて、既得権を保護しやすく、新しい社会のニーズに応えづらい政治体制なのです。

以上のように、政治の透明性と可塑性を確保するには、立法府と行政府は、曖昧模糊とした連続性を持つべきではなく、癒着せぬようにしっかりと切り離されなければなりません。

民主制国家においては、基本的には、大統領制が採用されるべきなのです。

ちなみに「君主がいるなら議員内閣制にしかできない」というのは思い込みです。大統領制と象徴君主制は両立できます。

確かにこれまで大統領制と象徴君主制を併存させてきた国はありませんでした。つまり大統領はその国の象徴としての地位ももつことが普通です。しかし、象徴君主は政治的権限を持たないので、その存否は行政府の組織形態に本来的に影響を及ぼしません。大統領制になるからといって象徴君主を廃する必要はないのです。※18

※18

日本は武家政権(幕府)発足以来、象徴君主という存在になじんでおり、それは権力者が武力交代する時代において、戦争をいくらか早く終結させる働きをもちました。京が制圧され、天皇の権威も新たな権力を受容した時点で、新たな権力にそれ以上逆らうことは無駄という暗黙の総意が働いたからです。たとえば戦国時代は東北諸藩とは無関係に終わりました。明治維新も絶対主義の黎明にしては少ない流血で済みました。対外的な戦争においても、玉音放送により、復興の余力を残して太平洋戦争は終わりました。
また、古くからの王室があれば どの国からも敬意を払われる儀礼が可能です。品性に欠ける首相や大統領が選ばれてしまった時でも、国としてはいくらか恥を希釈できます。
権力をふるわない君主はあっても悪くない存在のようです。
但、君主の存在は、人々の間に「まつりごとは自分と関係のないところで最終的には決まる」という意識を知らず知らずのうちに沈潜させます。これは、本当に危機的状況になるまで変化を避ける独特の保守性が日本からなくならない一因かもしれません。

さて、一口に「大統領制」と言っても、細部は様々に異なります。

大統領の選出方法については、アメリカは政党を主体とする上に 間接選挙を採用しているので、本来の民主制に則しておらず手本にできません。

政治的権原を自分達の仲間内に取り込み、その権原を分け合うという目的が強くなりすぎた現在の政党は、利益誘導で大きく民意を歪めます。大統領選は政党の影響を排した形で行われるべきであり(政党ごとに候補者を絞ることはやめる)、直接選挙であるべきです。

また、投票のパラドックス(議案や候補者の採決順序によって結論が異なってしまうこと)を避けるためには、予備選挙と決戦投票の2回に分けることもなるべく避けた方がよいのですが、大統領は(議員と異なり)定数は一人ですから、候補者が多すぎることも危険があります。たとえば候補者が20人もいると、まともな候補者同士がまともな選挙人の票をとりあってしまい、悪目立ちする候補者が浅慮浮薄な選挙人の票を集めて当選してしまうかもしれません。ある程度は候補者を絞り込むための予備選挙は必要ですが、「国民の過半数からの選任があった」というアリバイ作りのために候補者を2人に絞り込んでいることは、形式的多数性を権威とする歪んだ姿勢といえるでしょう。
3~5人程度に絞り込めば十分でしょう。

ただそうなると、たとえば国民の3割程度の支持しか集められなくても大統領になれることになります。三割支持の大統領にそれほど大きな権限を与えることは問題のように見えますが、むしろそもそもたった一人の大統領に権限を持たせすぎることがそもそも問題であるというべきでしょう。

大統領制においては 大統領は各省庁の長官を民間人からも任命できます(猟官制)。
これはテクノクラートを監督し民主制を実質化するために非常に重要な制度ですが、利権政治の温床でもあります。

公選される公務員たる地位のどのような要素が利権となりうるのか、そしてその利権と集票はいかなる関係かを調査し 公に報告する常在の調査機関が必要となるでしょう。

また、利権を取り込むマシーンである政党の活動を制限しておくことがやはり先でしょう。

大統領制の下では、行政府の長は基本的に議会からの制約を受けずに活動でき、議会も行政府の長から解散を受けるなどの掣肘を受けません。しかし大統領がその任に堪えざる事情が生じることもありえます。

そのような場合、どのように排除するかについては、既に大統領制を採用している諸国でも異なります。

たとえばアメリカでは、大統領と議会は基本的には相互にその地位に干渉できないものとしつつ、一定の要件にあてはまる時は厳格な手続きに基づいて議会が大統領を弾劾できます。これは参考になるでしょう。

ちなみに、このように立法府と行政府の分離を徹底すれば、各統治機関が地理的に離れて存在しやすくなります。たとえば行政府は東京に、国会は大阪に、最高裁判所は名古屋にとわけることができ、そうすればさらに権力分立は徹底します。

また有事の安全をより重視するなら、上記の東京、大阪、名古屋を、埼玉、奈良、岐阜に変えるほうがよいでしょう。

さらに一部のマスコミ(新聞社、NHKなど)や独占企業(NTT、日本郵政など)に対しても地方(関西が有力候補)への本社移転を強制すれば東京一極集中をいくぶん是正することができるでしょう。(逆に それくらいのことをしないと東京一極集中はやまないでしょう。)

法制度

法は政治の骨格をなすものです

また、「法治主義」(統治が議会の制定した法に沿って行われること)、さらに「法の支配」(統治が正しい法に沿って行われること)は、近代統治原理の柱のひとつです。

しかし他方では、日本の司法制度は特に権威主義の浸食がひどく、抜本的な改革が必要となっています。

法には二つの意味があります。

ひとつは、いわゆる「自然法」と呼ばれるもので、摂理や「ことわり」と似た意味であり、それに従わねば世界が歪むもの、社会的強制力とは結びついていないもの、過不足なく正義を語るもの、考慮の対象から漏れた現象などないと想定されるものです。原種的かつ理想的な意味のものです。

もうひとつは社会的強制力をもつ規範としての性格をもつものです。いわゆる「実定法」と呼ばれるものです。

この実定法はおそらく二つの政治的必要性から生じてきました。

ひとつは、政権の側から行政を行うにあたり、行政官それぞれがばらばらなことをしないように、意思統一を図る必要があったことです。

もうひとつは、人々が政権に持ち込む裁判、つまり消極的行政について事前にどういう判断が下されるかを予測させ、濫訴による官吏の疲弊を防ぐ必要があったことです。

いずれにせよ、実定法は社会的権力と結びついて 守らせるべきもの、守らねば制裁を課すものとして存在します。

しかし、その適用を受ける側の私達は、なぜ実定法を守らねばならないのでしょうか。

守らねば制裁を受けるからでしょうか。とりあえず実定法に従っておけば人々の間の無駄な争いを避けうるからでしょうか。確かにそれらも理由でのひとつでしょうが、それだけで、その「決まりごと」を 法として守る義務を負うことに納得できるでしょうか。

法が守られるに価するものだと一般に認められてきた(強制力の許容性)根拠は様々です。

古くは、王や政府の権威、慣習などが用いられてきました。わかりやすい権威主義ですが、全て誤謬だとも言いきることはできません。

また、「人が本来従うべき自然法というものがあり、実定法はそれを具現化しているから従わねばならない」とする思想もあります。しかし実際には、対象となるべき事象のすべてを網羅することなど実定法には期待できません。だからこそ裁判において法律の解釈が必要となるのですが、その法解釈が常に自然法を体現しているといえるのでしょうか。「一致すべきだから一致している」というのは妄想です。「一致を目指していることを高く評価すべきだ」というのも、為政者に甘すぎます。実定法は自然法とは別物であり、前者が後者の具現化だというのは苦しい理屈です。

近現代の実定法は、その内容を決定する過程における議決制度を強制力の根拠のひとつとしています。確かに、「国民が民主的に選んだ議会が議決した」ことは、重要な要素です。
但、これが必要不可欠であるということではありません。
たとえば、実定法は裁判手続によっても作られます。それが判例です。ここには議会は関与しません。ただ、判例の正当性は、(学者が頭の中で考えたのではなく)裁判という比較的公正とされる手続きにおいて人々が真摯に事実に向きあったという事実によって担保されます。
しかし、裁判も関与しないものもあります。たとえば、企業が手形決済に2回失敗したら全銀行から取引停止処分を受け 送金などのサービスを受けられなくなり倒産しますが、これは銀行取引約款(という通常読まれることもない事実上強制的な契約の一種)で定められた制度であり 議会や裁判所で定められたことではありません。しかしこの制度に文句を言う人はおらず、実社会では法律に類似した働きをしています。

このように、実定法が守られるべき根拠は、ひとつではなく、いくつかの要素が複合したものだと考えざるをえませんが、その中でも最も重要なものとして浮かび上がるのは事前告知です。

事前に「こういうことをしたらこうなる」ということが示されているからこそ人々は法に従えるのです。法は事前告知によってのみ、安定性や予測可能性を担保でき、社会の円滑と安全に寄与できるのです。

従って、国民は法を知悉していなければなりません。のみならず、逆に法は国民に理解されやすい形で開示されていなければなりません。

なぜなら、近代の司法制度は、個人としての国民が政治の主役となりうる場だからです。

選挙を考えねばならない議員は、世間の目を引く派手な政策や既得権勢力の保護に惹かれがちです。行政官は国民に対してほとんど個人的責任を負いません。
そのような統治制度の中で 司法権は本当に苦しんでいる少数者を救わなければならない機関です。個々の国民が司法の場を通じて統治の隠れた不都合点や規制の開示を実現し かつそれに反論できることは、民主制の一環として必要不可欠なシステムなのです。

しかし実際の法律は、そのようなものではありません。
法の文言は一般市民に示されていますが 相当に難解で相当な素養がないと意味が読みとれません。どのような資料にあたれば理解できるようになるかということさえ一般人にはわかりません。
つまり事前告知が不十分であり、よって遵守されるべき根拠も弱く、よって社会の骨格としての責務に耐えるものになっていないと言えます。

「法的安定性」「予見可能性」などという理念も、このような状況を追認する形で解釈されているようです。

これらを「一般市民の保護を目的とする理念であり、民主制や自由と並ぶ重要性を持つものだ」と考えるなら、「法律は全ての人が守らねばならないものである以上 全ての人が知っていなければならない。法が適用される正当性の根拠は、行為者が行為時に規範に直面していたことである。ゆえに、わかりにくい法はそれだけで悪法であり、明文で示されていない法理は法曹(法実務を生業とする人々)ギルドによる一般人への圧政の道具として糾弾されるべきである。たとえば『六法全書』を読めば少なくともそこから他の必要文献にも至ることができるようでなければならない。」という結論が導かれるはずです。

しかし実際には一般人は「だいたいこういうことが起きればこういう結果になるだろう」というあいまいな社会規範と(法律的ではない)一般言語を使用した連想の中で選択と決定を行い、裁判の場で初めて法律に直面します。「予見可能性」など持ちえず、何が「安定」しているのかもわかりません。

このような「後出しじゃんけん」司法が議論を呼ばないのは、「予見可能性」「法的安定性」を、裁判官による立法が許されないこと つまり「(実社会においてはそう解釈したほうが合理的で妥当であるとしても、)そのように解釈する論理的・文言的許容性がなければ、それは法の創造にあたり、司法機関に許されることではない」という意味にとらえるのが隠れた公定解釈だからでしょう。つまり法治主義は権力分立の一環、直接には立法機関を保護する理念であると縮小的に位置づけられているのです。

しかし、法の難解さの放置は、実社会そして法そのものに大きな害悪を及ぼします。

多くの人は、法を執行する側が正義で法を執行される(法により不利益を受ける)側が悪だと思っています。

しかし実定法というものは政治の道具であり場面設定です。政治が本来そうであるように、執行する側とされる側はそれぞれ正義を(あるいは何が自然法なのかを)問いながら、実定法という場で向かい合っているのです。
執行する側もされる側も正義にも悪にもなる可能性があるのです。

しかし実定法が難解だと、その構造をよく知る(執行する)側の悪は曝かれにくくなります。
執行する側は、みずからが悪となりうることを忘れがちとなり、実定法が自然法であるかのような錯覚を起します。
他方、「この社会にはこのような不正が隠れて蔓延しているのですよ」と知らせたい個人の素朴な正義感は、複雑な法制度やわかりにくい法解釈の前で立ちすくみ くじけます。

現在の実定法は、その運用を受ける者とのダイアローグを拒み、みずからに自由の敵として存在することを許しているのです。

他面、難解すぎてみずからの正しさを主張する後ろ楯を一般人の意識に求めることのできない司法は、他の権力作用に対し非力になります。

我妻栄(この法学者の「民法案内」という著作は法律学の本としては珍しく名著です)が唯一ライバルと認めていたといわれていた川島武宜は「法学の使命は判例批判である」と述べましたが、仲間内でしか意味が伝わらない批判はコップの中の嵐です。一般人からの広範な審査がなくなった言論は社会から浮いてしまいます。

そのような狭い世界に生きる法のプロ達は「政治判断」の前に簡単に腰砕けになります。
たとえば、政党助成金法案に対し「政党に属さない少数者の被選挙権の侵害になるのではないか」「現在の与党にさらに資金力を与えることになり政権の固定化を招くのではないか」など法律のプロなら当然気づく危険を一般社会に向けて発する声が彼ら彼女らからほとんど聞こえませんでした。

そうなれば法律は単なる権力の道具に堕してしまいます。徐々に人々の信頼を失い、まず罰則なき法律が守られなくなり、次に罰則で担保された法律も「ばれなければよい」ものとして扱われることになり、正直者が馬鹿を見る社会を支える土台になってしまいます。

なぜ法律はこれほど難解になったのでしょう。

確かに、法というものが簡単なものではありえないことも事実です。

規範たる法は、正義とはなにか、平等とはなにか、それらを実現するにはどうすればよいかなどの課題に実践的かつシリアスに取り組むものであり、行為時には行為者によりそうべきとされ、裁判時には行為者から離れてこれを裁くという二重性格をもちます。

しかもそれは強力な権力作用を伴うものなので、裁判官個人の見解で一方の当事者に過剰な利益や不利益が与えられる危険を抑制する必要があります。

そこで法律は、論理の明確性を期するために、法律要件と評価される事実(意思表示があった、登記が早かった、窃盗罪の構成要件該当事実があり違法性や責任を阻却する事由がなかった等)が認定されれば、法律効果と呼ばれる一定の結果の実現に国家権力が助力する(金銭を払わせる、土地利用を許可する、監獄に入れる等)という分析的でテクニカルな体系をとります。

規範のもつべき明確性と実社会の複雑性の間をとりもつ様々なニュアンスを含む法的言語が生まれた経緯には無理ならざる部分はあり、難解になって仕方ない部分もあります。

しかし法律がここまで難解になった理由は、それだけではありません。

実定法つまり規範としての法は 上述のようにそもそも為政者側の主導で制定されるものです。
一般人はそのような法に関わること自体に面倒を感じ、チェックも甘くなりがちです。
他方、為政者としても、法を最初から作るのは面倒です。たとえ現在の状況にそぐわなくなった法であっても加工して使い回したくなるものであり、そこには「法律というものはそうそう変わらないものであるべき」だという実在論的あるいは権威主義的な言い訳も用意されています。
そこで、それらの面倒をみる人々、過去の記録を管理する人々すなわち法曹が登場します。彼ら彼女らからすれば、部外者に「君たちにはわからないのだからわかっている私たちにまかせなさい」と言えるほうが仕事がスムーズに運び、なにより自分達の「なわばり」を手に入れることができます。法律が難解であればあるほど自分達の商売になるのです。

その一方で、個々の法曹が持つ理想や正義を個々に言い争わせていては 法の強制力を円滑に行使できませんから、実務では誰かの見解が他の見解に勝るという上下関係が必要とされます。よって、先例たる判例と、法曹界で「偉い」とされる人の見解が強く尊重されることになります。
そして日本の司法には独自のキャリアシステムがあります。
法曹界のエリートたる裁判官になれるのは司法試験で高得点をとった者です。高得点で合格するにはひたすら答案練習に勤しまねばなりません。経済学などの周囲の社会科学はおろか近縁に位置する法制史や法哲学などを学ぶ時間もとれません。
裁判官になっても、出世街道を歩めるエリート候補は彼ら彼女らの中から早い段階で選ばれます。上役からみれば、判例を金科玉条としてスピーディに事件を片付け、余計な問題提起をしない者こそ有能です。このように若き日から試験問題と判例のみを餌に純粋培養される裁判官達が、狭い世界で上役の意向ばかり気にするようになってしまうことに不思議はありません。そんな彼ら彼女らの頭の中に「法律は難しすぎてはいけない」という良識が浮かぶはずもありません。

法曹会は、仲間内の言葉や上役や先例に無批判に正統性を認める視野狭窄的な権威主義に陥る危険を、本来的に抱えているのです。

権威主義(力のある者の言を無批判に受け入れる姿勢)と先例主義のはびこる法の世界では、一般人から見ればいびつで不自然で独特のまわりくどい難しさをもつ論理が積み上がりやすくなります。

たとえば 「繊維状になった鉄に火をつけると光と熱を出してもろいものに変わる」という現象が以前から知られており、その後「繊維状の鉄が湿気を含んだ空気の中に長時間放置されていたときも同じものができること」もわかったとき、自然科学者ならば「いずれも鉄の酸化であり、そのうち急激な反応が“燃焼”で、緩慢な反応が“さび”である」と思考を整理するでしょう。しかし法の世界の論理では、“光と熱を出して鉄がもろいものに変わる現象”の他に“光と熱を出さないで鉄がもろいものに変わる現象”が別にあるものとして、これを「酸化」という概念で根本的にまとめなおすことは極力避けます。

実際、民法の意思表示に関する外観法理と代理における表見法理はこのように区別され、外観形成の責任に関する統一的理論についての議論はあるのかないのかわからないような状態です。

このような「論理」が積み重なっているのが法解釈であり、それゆえ一般人のみならず国会議員にとっても実定法への批判や審査は難しくなり続けていくのです。

本来、法学は諸々の社会科学の成果を政治に橋渡しする位置にあります。

そして社会科学は、既存の価値への疑問を投げかける観察、提言、予測を行わなければ意味のないものです。

権威主義は決して法の本質ではありません。そして法解釈はエリートの特殊能力であってはなりません。

実定法は、より民主的なもの、つまり「わかりやすい」ものになるべきなのです。

たとえば判例の文体はより日常語に近いものとすべきであり、難解な専門用語(「善意」を「知らない」という意味で使うなど)は減らすべきです。
また定期的法改訂(読めばわかるような構成と表現に改め続けること)により法解釈の余地自体を少なくするべきです(「番頭」「手代」などという化石のような言葉さえ2005年まで商法典に実際に使われていました)。
また、法律間の関係の検索システムをより詳細に構築して、法律や判例を一般人が調べやすくするべきです。

しかしこのような司法制度の民主化は、近代政治の盲点といってもよいほど看過されがちであり、その実現のためには、法律というものに面倒がらずに向かい合う人々の姿勢、そして法曹界を人事の外堀から埋めていく息の長い活動が必要となります。

まず法曹資格の取得方法、つまり司法試験には改善すべき点が多々あります。

かつての司法試験は合格率が2~3%と低く 思考力や記憶力では差がつき難かったことからか、合格答案には権威主義と先例主義の色の濃い「コツ」がありました。それは以下のようなもので、今も受け継がれています。(とはいえ合格率が50%近くにまで上がった現在、その重要性は落ちていますが。)

  • ・いずれの科目においても従来から「論点」とされてきた部分について議論を展開しなければならない。他の部分について論述しても点はつかず、減点されることさえある。
  • ・いずれの科目においても判例の立場で論述したほうが高得点を得やすい。そうでなければせめて通説か有力説に沿うべきで、少数説は評価されにくい。自分なりの考えを書くのは最後のギャンブルにしかなりえない。
  • ・憲法の答案には、その問題と関連のある判例を必ず引用しなければならず、これが欠けると致命的。
  • ・刑法では、違法性の捉え方を異にする旧派と新派のどちらかの立場にはっきり立たねばならない。自分で考えて折衷や調和を試みると「刑法を理解していない」としか見なされない。
  • ・手形小切手法は実体法と手続法が交差する分野だが、答案には「手続法的要素があることはわかってますよ」というアピールを込めて、定型的な順序に従った記述をしなければならない。

またかつては口述試験もあり、そこでは「試験官の誘導に乗って法的な会話をしなければならず、決して議論などしてはならない」という暗黙のルールもありました。

これらのコツが公開されていればまだよいのですが、現実には先輩合格者からの口伝に任されていました。(これが司法試験の権威主義と先例主義を最もよく表しているかもしれません。)

このような試験に合格するには、既存の権威への素直さが必要とされます。そのような素直さと法に救済を求める者の面している現実への素直さとは別物であり、むしろ相反することも多いでしょう。

司法試験制度が2006年から2011年にかけて改革され、合格者が大幅に増えたことは、司法の質を向上させる契機となりえます。権威的性格の薄い合格者もまぎれこむ可能性が高まるからです。

他方で、この改革の一貫で、ロースクールの卒業が受験資格にされましたが、これは制度設計ミスです。経済的に余裕のない人が受験というリスクに挑めなくなり、優秀な人材を取りこぼす危険を増やしたからです。法曹教育の「過程を充実させる」必要はあったにせよ、ロースクールの卒業は受験資格ではなく法曹への就業資格(司法試験合格後にロースクールを卒業してもよい)にするべきものでした。

またこの改革において受験回数制限が課せられましたが、これは改悪です。この制度は「短期合格者こそ優秀な実務家となる」という権威的で安易すぎる勘違いに基づくもので、権威的性格の少ない将来の優秀な実務家に退場を促すものだからです。

また、司法試験をいかに工夫しても、それだけで実務家の質を上げることはできません。実務を経験させた後に選別するしかないのです。

たとえば、日本においても、アメリカで採用されている法曹一元制度(経験ある弁護士の中から裁判官が選任される制度)が取り入れられることが望まれます。現状では、出世を気にするあまり現実離れした判断を下すようになった裁判官や、出世を諦めるとともにやる気まで失った裁判官も任官できています。若い頃から狭い世界に閉じ込められた母数の少ない集団からでは、良質な判断力の持ち主を選び続けることは難しいでしょう。しかし法曹一元制度が採用されれば、候補者は大きく増えます。一般人に近い常識とスピード感のある裁判官が増え、その質が向上するでしょう。(確かに、日本にも、弁護士が一定期間のみ裁判官となる弁護士任官制度はあります。しかしこれはその期間が終われば自営業たる弁護士に戻るという制度です。みずからのキャリアに空隙を入れることになるので志望者は多くなく、しかも採用される絶対数も多くありません。これではまったく不十分です。)

またたとえば弁護士事務所の業務の適正を外部から監督できるシステム、弁護士の専門や力量を第三者が判断するようなシステムも作るべきです。これは「司法試験には向いていたが実務には向いていなかった人」の法曹業界からの退出を促すことにもなり、過大広告や使い込みなどの問題を発生させる弁護士を牽制することにもなります。

また、他の統治機関に対する司法の独立(権力分立)の保護を、人事面から厚くすることも必要でしょう。

政治に忖度した法解釈が横行する危険は未然に防ぐべきです。このことは特に違憲審査権を実効化するために重要です。(日本の違憲審査制度は付随的違憲審査制、すなわち「裁判官の誰もが、法律や行政行為が憲法に反するか否かを判断でき、違憲と判断したときはその法律や行政行為を無効であると宣言することができるが、最終決定権は最高裁が持つ」という制度であると解され、そのように運用されています。)

現在、裁判官の任命権は行政府(内閣や大統領)が握っていますが、これは司法の行政への忖度を助長します。なぜなら法案の多くは実際には行政府から出され、行政府の長は一人であり、その人の名で提出された法を無効であると宣言することは、次回もその人から任命を受けたい裁判官には難しいからです。

裁判官の任命は、司法組織内部での選挙をもとに(現在は最高裁が指名)、国会が任命する(国会が拒否権をもつ)という形に変えるべきでしょう。立法府も政治的色彩を持ちますが、合議機関なので、違憲と言われた法の成立に熱烈に賛同した人ばかりいるわけではありません。違憲と判断された法律について再審議することを嫌がる議員ばかりでもなければ、違憲判断を下した裁判官に否定的感情をもつ議員ばかりでもないでしょう。(とはいえ、政党から議員個人への拘束がかかれば、合議は歪められてしまい、やはり機能不全となりますが。)

法は鏡に例えられることがあります。人がみずからの行いを省みるためのものでもあるからです。(中世ドイツには「ザクセンシュピーゲル(ザクセン州の鏡)」と名付けられた法記録もありました。)

しかしまた、その社会がどのような法制度を定めているかは、その社会の姿を映しだしてもいます。過度に権威的にゆがんだ法制度は、その社会が権威主義的にゆがんだ社会であることを映しています。

自然法は、いわばゆがみのない鏡にたとえうるものです。

自然法というものが、人の生を、本来あるべき姿に整えるものであるなら、そして後に述べるように「生きる」ということが同一性を維持しながら変化することであるならば、自然法とは 変わることを正しく促すものではないでしょうか。
そしてその法みずからの変化も促すような制度設計こそ、自然法を体現するものだと言えるのではないでしょうか。

法哲学者のフラーも「自然法とは手続的なものである」と言っています。

以上で政治編は終わりです。登山でいえば五合目あたりまで来たところです。

ここまで述べてきた経済や政治に関する様々な改革案は、私達を無力化しているものを逆に無力にするものです。

しかしそもそもこれらの問題は私達自身が生み出したものです。解決を邪魔するものも私達の内にあるのです。
改革には話し合いが必要であり、そこでは「それが自由や平等などの理念に沿うのか」という疑念も呈され、現状維持を好む人々はこのような疑念をあおります。他方、人々の理解が得にくい中で変革の旗を振る者には「失敗したらどう責任をとる」という意味難解かつ居丈高な脅迫があびせられるでしょう。隠れた少数者支配になじんできた人々は、既得権者であるアッパークラスに言いくるめられ、「わからない」「決められない」まま時を重ねることになるでしょう。

政治や経済の話を離れても、日常的な悩みや苦しみの多くが近現代を支えてきた理念の錯綜と混乱を土壌としています。

そこで次編では、「理念」というものを整理しなおしたいと思います。

第三編 理念

理念の重要性と道具性

自由、平等、平和、民主制、効率、共感。

いずれも世界や社会や人のあるべき状態つまり理想を表す概念、つまり理念です。

 

理念は思考の道標となるものです。

協力しあうにも 折り合いをつけて争いをやめるにも、理念は不可欠です。また、人は理念によって意欲が補強されます。
苦しい状況にある人は「理念より、次の食事をどうするかが問題だ」「理念なんか語ってないで早く助けて」と言いたいでしょう。しかし助ける側としては、助ける必要性と許容性を往々にして理念から得なければならないのです。

理念は集団の組織化も支えます。
政治も経済も理念に基盤を支えられます。暗黙の合意を得ている理念があるからこそ、人々はリーダーや統治体に従い、その意思するところを増幅させるのです。理念なき社会は暴力や詐術の横行する場所となります。むき出しの力だけでは、権力も維持できません。

理念を共有することは効率も高めます。
「学校」「会社」「病院」などの社会を支える制度も一種の理念です。それぞれのミッションを明確に細分化し効率化します。

近代人は言語化された理念を基準として共有し、それを実現しようとしてきました。
その結果、以前より人々は豊かになり、むき出しの醜い悪も世界から減りました。

しかし、理念は人を誤りに導くこともあります。

理念は、私たち自身から遊離し、政治や経済の舞台で他の理念や他人を押しのけ、みずからのみを押し広げようと暴走する危険をもちます。私たちの内にありながら私たちの一部ではなくなり、単なる一規範から議論の土俵に成り上がり、人の認識の多くを切り落とさせます。

理念は、人を権威の走狗とすることもあり、社会の不合理を糊塗する道具にされることもあります(「法制度」の章の「法治主義」、「公的再分配の方法」の章の「現場主義」なども その例です)。

経済や政治は外から私たちを疎外し従属を要求しますが、理念への忠誠は内側から私達を疎外と従属に追い込み、時には既存の価値や体制を墨守させます。私たちは共犯者となり囚人となってしまいます。
その結果、私達は助けるべき相手を助けられず、責めるべきでない人を責めたりもします。

それはまるで近代が脱ぎ捨ててきた宗教的な教義(ドグマ)の衣鉢を継ぐかのような姿です。

理念は人と社会のつながりを育みますが、それはちょうど宗教が信仰を育てる道具であることと同様の意味です。道具である宗教を信仰の対象とすることが間違っているように、理念を崇拝したり その実現に過度にこだわったりすることも誤りなのです。

「効率」にとりつかれた日本では、そこからドロップアウトして繁華街や療養施設や教育施設や街や列車で不特定多数の人を道連れとした自殺をもくろむ者が次々に現れています。みずからの物欲の実現という見地からは非効率な育児という営みを避けて出世を目指す女性も増えて少子化が進んでいます。

「自由」にとりつかれたアメリカは、社会の分断になすすべもありません。

「平和」を掲げて横暴を正当化するのは、ファシズムに限らず、ロシアや中国などかつて対外的危機にさらされて強い中央集権に走った国々にも見られる姿勢です。これらの国々の政府は、彼らの論理に沿った「平和」の維持を掲げて近隣国を侵略してみずから危機を呼び込み、国民は日々のパンと身の安全のために沈黙します。

人は、理念のもとで合理性を失うこともあるのです。自由、平等、平和などの理念を祭壇から引き下ろし、それぞれが抱える身勝手や矛盾を精査し、時にはオーバーホールしなければならないのです。

まともな使い方をされている時でも、理念は、実社会での実現可能性を無視して設定されたモデルにすぎません。ひとつの極端な理想が社会から蒸留精製されたものであり、他の要素と重ねあわせて未来の見通しを得ようとするための思想的部品・要素技術にすぎません。

理念は人の判断や意思(心)と周囲の状況(外部的状況)の相互作用がなければ実現しません。意志のみで達成できるものではなく、よって完全な実現などあったことがなく、今後もその可能性は限りなく低いでしょう。
たとえば、経済学の「完全競争市場」がその一例です。
また、「自由」や「平等」などもそうです。それらを達成しなければならないと決意を固めると、いつか心が折れるはずです。もともと無理だからです。
理念の一種として心のあり方を規定するものが「規範」ですが、これも実際の世界で完全に実現できるようなものではありません。

理念の完全な実現など必要なく、むしろ有害かもしれません。理念は あくまでも人が生きるための道具なのです。自由や平等などの理念の実現自体に価値があるのではないのです。
たとえば、人々を圧力から解放し、生きやすくさせるのが「自由」という理念の役割です。極論すれば、圧力から解放されていれば自由でなくてもよいのです。
人々を適切な待遇のもとで、生きやすくさせるのが「平等」という理念の役割です。極論すれば、待遇に不満がなければ不平等でもかまわないのです。

 

理念はイメージです。イメージは言語的なものに限られませんが、言語は伝達しやすいため、理念の多くは言葉にされます。

そして、人は言葉になったものについては話すことができ、わかった気になります。言葉によって組み立てた世界は単純で統一されたものに見え、そこに合意や一体感があるかのように思えます。

しかし、理念の中には、意外に複雑なものや未成熟なものもあります。それを見過ごしていると、理念自体が権威主義によって換骨奪胎されてしまいます。
たとえば、民主制、自由、平等などの理念について、「皆はそれについてどうとらえているか」「伝統的なとらえかたはどのような内容か」という視点ばかりで、「どうとらえるのが合理的で現実的か」という視点で考え直す姿勢がなければ、政治や経済の本質的な問題をとらえ損ね、それらを転回させるキーを見つけられなくなります。

民主主義や権力分立を実質化し、権威主義を追い払うには、みずからの言葉を見直すことが必要なのです。

自由

自由は不当に膨張しがちな理念です。

「自由」には 二つの意味があります。

まず、決まりなく いかようにも変わりうる あるいは変えうる、という原種的な意味です。

たとえば、人が何をどう考えるかは、とらわれさえなくなれば、このような意味で自由です。

他方、社会的規範としての自由は、一般的ニュアンスに即して語るなら、何らかの外的な障害があることが通常であることを前提として「障害になる事情がなく 何でもできる」という意味で使われているといえるでしょう。

誰もが開放感を感じ、賞賛しやすい理念です。

美しく響きわたるその名のもとに尊重されるべき行為も広がりがちになります。

しかし、自由という規範は、実は誰にとっても完全には実現させてはならないものです。

自由を制限しにくる者(「自由」を主張するべき相手)は、公権力や社会的強者には限られません。「自分以外のすべて」です。そして「何でもできる」とは「何をしてもよい」ということであり、相手には何もさせないことに直結します。

自由を目的とする社会が実現したら、(少なくとも潜在的性格としては)人々が互いに何もせぬことを要求し合って鋭く対立する場になるでしょう。自由とは他者の部分的な死を望むことでもあり、容易に独りよがりや利己主義に変質する危険をまとっているのです。「共有された価値を欠く各自が其々の目的を達成せんとすることを肯定するアメリカ社会のリベラリズムは、そのために他者を道具として利用する傾向をもつ」とロベルト=アンガーも批判しています。 

たとえば、公的な調査結果に基づいて多くの人が「大統領選挙に不正はなかった」と認めていても、「不正だと思う」ことは自由です。このような客観性に欠ける理由からトランプ氏の当選を押し通そうして国会議事堂を襲撃した一派は、まさに「自由の国 アメリカ」を悪い意味で体現しています。虚言でその一派をあやつりみずからの地位の保全に利用しようとしたトランプ氏も、存分にその自由を享受しています。

リバタリアン(自由至上主義者)も、政府支出を非効率で既得権益にまみれたものと指弾し、政府の役割の縮小と民間の経済活動の「自由」の拡大を主張します。しかし彼らの提唱する政策は、運や能力や身分などに恵まれた一部の人々の様々なやり放題を許し、貧富の差を拡大させて多くの人の様々な機会を狭め、社会全体の活力を奪いました。「自由」は、いつでも誰でも安心してやり直せる社会の構築の阻害になることもあるのです。

また「自由」を存分に享受するには、「この人には自由を認められてしかるべき程の能力がある」と周囲(社会)に認めさせねばなりません。それはしばしば周囲と軋轢を生み、しかも不平等を土台としていることもあります。

このような自由を謳歌し称揚し続ければ、有限の資源しかない狭い地球は、ほどなく人々の生存に適する星ではなくなってしまうでしょう。
また徐々に人類は少子化で滅亡するでしょう。子供は手がかかるものであり、親の自由は減少するのですから。

しかも自由は、それを実現した個人に必ずしも幸福をもたらすものではありません。
多くの映画の中でもCitizen Kaneは名作と言われています。主人公は思いついたことを何でもやれるほどの富豪で、自由で、しかしつまらなそうに生きかつ死にます。彼は悪人でも愚者でもなく、彼なりに合理性と社会正義を実現しようとしていた点で他の人々と何ら変わりはなく、ただ野放図に自由であったことが彼の人生を破壊したのです。
また、周囲になじまず従わぬ人が様々な権威や良識を試し、「これはダメ、これもダメ」と捨て去り、背理的に合理的な方向に進むためにやっていることは、その時々に自由に思いついたことにしか見えないでしょう。しかしその当人には常に「おもしろくない」という感覚がつきまといます。
彼らが本当に欲しているのは、無制限な自由ではないのです。※19

※19

脳医学者の林成之によれば、脳の基本的な欲求は「生きること」「知ること」「仲間になること」だそうです。
また、映画の中のKaneは、誰にも一度も感謝していない姿が印象的です。
生きることを面白くするために必要なことは、自由ではなく、他人を尊重すること、感謝し感謝されることのようです。それは効率をある程度制限することになりますし、表面的には合理性を害するように見えることさえありますが。

また、社会規範としての自由の実現に囚われると、原種的な自由をみずから圧殺してしまうことにもなります。

みずからの中には互いに矛盾しうる「自分」がいくつも存在します(第二部第二編で詳述します)。多くの場合「自分」とは、過去に囚われた湧き上がる欲求を押し通したいだけの存在です。その過去は誰かの影響で作られたものです。

外部に対して自由を要求しすぎることは、そのような欲求、そしてその欲求を通して自分に影響している別の誰かに服従することです。そんなことをしていては、みずからを変える可能性などなくなってしまいます。

自由は、自分自身の中でさえ、バランスをとられなければならず、調和されなければならないものなのです。※20

※20

この調和を自由の本質に組み込もうとする見解、たとえば「自由」の意味を「正義」と結びつけ 「正義に沿う自由のみが真の自由であり、それ以外は本当の自由ではない」とする見解もあります。
しかしそもそも正義とは各種の理念の調和のとれた状態を意味するのですから、これはトートロジーです(正義にそった自由ならば善きものに決まっています)。
むしろ単純に、自由にも善し悪しがあると考えればすむ話です。少数の人や個人の一面だけに資する自由は悪に近く、多くの人を生かしめる自由なら正義に近いと判断すればよいのです。自由は、それにより利得を得る人の数が多いか少ないかが(他の理念に比べると)わかりやすいものでもあるのですから。

西洋中世を専門とする歴史家の阿部謹也によれば、中世における自由とは、職業組合(ギルドやツンフト)においてその構成員の生活様式のルールをみずから決めうることを意味したそうです。これはいわば(自律的)秩序ともいうべきものです。つまり「自由」も「秩序」も、いずれも「自分に決定権があることこそ正義だ」と言っている理念にすぎず、自分より強い相手に主張するときは「自由」を名乗り、自分より弱い相手に主張するときは「秩序」と名乗るのです。

そう考えると、自由も秩序も濫用が許されないものであり、互いのせめぎ合いの中で具体化し適正化していくべきものであると言えるでしょう。(そして団体の構成員と長のどちらに主張立証責任を負わせるかということが、「自由」と「秩序」のいずれに重心を置いているかの指標になるでしょう。)

自由という規範は、積極的目的としてはならないものなのです。むしろ誰かがあまりに自由にふるまおうとするときにそれを制約するカウンターパワーとしてこそ価値があるのです。「最低限を守る」という消極的アプローチの中で、多層性を守る時にこそ輝くのです。

特に重要なのは、権力に対して圧倒的に弱い個人を守る手段、権力主体の活動への防波堤としての「自由」です。

実際、憲政の実務は、自由という理念の根本的危険性を暗黙のうちに感じ取っているかのように賢明な姿勢を保ってきました。

過去の政治家や法律家達は、権利章典の時代から慎重にひとつひとつ「自由」権のカタログを積み上げ、それを主張する相手も王や公権力など社会的強者に限ってきました。

現在の憲法解釈論でも、自由主義とは、権力(という増幅機能)をもつ政府から「不合理な制約は受けない」「合理的な目的と方法に基づく制約しか受けない」ことを意味するものと消極的に解釈されることが基本であり、国民が公権力に対して積極的な助力を要求できる場面は限定されています。

個人間では さらに限定的に解され、他者から極端な自由の侵害を受けた場合に刑法や民法に基づいて公権力に救済を求めることができるだけであることが基本です。「公権力なみに強い権限を事実的にもつ私人(巨大企業など)に対して 弱小な私人は 憲法上の自由権の一部を主張できる」とすべきとの議論もあります(私人間効力論)が、その歩みは慎重です。

他面、権力に対して弱い個人を守るには、自由のみを偏重していては片手落ちです。個人が権力にアクセスする可能性を開く「民主制」という理念も、自由と同程度に重要です。両方あってこそ弱い個人の自律は実現できます。

この点、ファシズムに抗ったケルゼンも、残念にも、民主制は自由のための道具であるかのような誤解をしました。
彼は、民主制を自由の実現のための手段であるかのように考えました。しかも民主制の単なる道具に過ぎない議会制と多数決原理を民主制そのものであるかのように考えました。そして議会制を破壊しにくる多数者の「自由」な判断と暴力に対して暴力をもって反撃することを否定し、民主制と法の支配の自殺を容認しました。

他方、現代の日米の多くの憲法学者は、民主制の重要性を認識し、時には民主制を守るための道具としても自由をとらえます。たとえば、表現の自由は厳しい基準(合理的で最小限の制限のみ許される)で規制から保護される一方、経済的自由などへの規制は「明白に不合理な制限」でない限り許される、と考えています(二重の基準論)。前者は民主制を担保する機能も持つので特に強い保護を受けるべきものと位置づけられているのです。

平等

平等は難しい理念です。構造が複雑な上に、状況の違いや細かな価値判断の違いに影響されやすいからです。

「平等」にも 二つの意味があります。

まず、先に述べた自由と同様に原種的な意味があります。「誰でも こうすれば そうなる」という意味です。
たとえば人は生きているかぎりいつかは死ぬという意味で平等です。

しかしこのような原種的意味の平等は、あまりに当然であることが多く、社会的な価値判断の基準つまり規範となるものではありません。

社会規範(狭義の理念)としての平等は、誰かに何かをされる またはしてもらう時に「つり合いがとれている」という意味です。

どんな人も全てのことを一人ではできず、他人と関係をもち、正当に扱われなければ生きていけないので、平等は広汎な守備範囲をもつ社会規範となります。

近年においても国内の格差拡大や性分業の見直しにともなって、この規範に注目が集まっています。

しかし 往々にして人々は自分なりの平等や不平等を主張しあうばかりで、共通の土俵で議論できていません。「結果の平等」「機会の平等」、「形式的平等」「実質的平等」などの用語の定義も錯綜しています。

また、平等にも色々な種類があり、それぞれ実現しうる福利が限定されています。互いに代用はできず、たとえば「租税負担の不平等の解消が難しそうだから 代わりに男女平等を厳しく追及していけば社会全体の平等性は増大するだろう」などと考えるのは誤りです。むしろ互いに牽制しあうことが多いのです。

よって、まず議論の枠組みを鳥瞰することから始めます。

上記のように「つり合い」は、何かをされるまたはしてもらうときに問題となります。

また「つり合い」は、人間同士の比較の問題です。

また「つり合い」の有無を判断するためには、何らかの着目点(属性)、基準、範囲の設定が必要となります。

よって、平等に関する議論は、「いかなる人々の(①)」「いかなる属性に着目し(②)」、それに応じて「何を(③)」「どのように(④)」配分するかを検証して、それらがつりあいのとれた状態か否かを判断する、というものになります。

そして「結果の平等」「機会の平等」は③の問題の一種であり、「形式的平等」「実質的平等」は④の問題、①と②はそれらを検証するための属性や範囲の問題として位置づけるべきことがわかります。

また「何を基準にして」「誰と誰を比べるか」を決めるには、何のために比べるのかをはっきりさせねばなりません。
つまりそこには「その平等の実現を通じて達成しようとしている社会的目的」、あるいは少なくとも「その平等の実現さるべき場にある 毀損してはならない本来的福利」が存在し、その目的のプリズムを通して上記の①から④を検証すべきなのです。

平等の目的は大多数の人が賛同できるものでなければなりません。

平等を主張する目的が何か、を見過ごしていては「それは不平等だ」と言った者勝ちになります。
たとえば男女平等の目的が「女性の幸福」になってしまっているような言動を見許すと、女性はどこまでもみずからに有利で勝手な主張ができることになってしまいます。

なお、多くの場合、目的は消極的なもの、つまり「何らかの悪い結果をもたらす危険の高いことはやめよう」というものにならざるをえません。「何らかの良い結果を実現しよう」という積極的アプローチは、往々にして便益を受けない人々や反対利益を見過ごさせやすいからです。

以下 詳論します。

「何を(③)」というのは まずひとつには配分されるものの「種類」の問題です。

たとえば経済的平等は、配分の対象により2種類にわかれます。
ひとつは結果の平等です。これは「財」(金銭など)の配分についての議論です。
もうひとつは機会の平等です。「権原(財やサービスを得て当然だと認められる地位)」の配分についての議論です。

ちなみに、「機会の平等は、社会的立場の変わりやすさ、現在の格差が不変ではないこと、入れ替わりの可能性の高さの問題としての側面もあり、平等の問題ではなく自由の問題である」と見ることもできそうです。

しかし、権原は有限です。一人がそれを得るということは、他方ではそこから排除される人がいることになり、権原が配分される人とそうでない人が取捨選別されます。やはりこれは配分論つまり平等の問題として論ずべきことです。

また、「機会の平等」の要求内容は広範であるかレベルが高いことが多く、他者との軋轢を生む可能性が元々あるところ、それを自由(先述のように、他者の排除を含意する理念です)の問題だと枠づけてしまうと、さらに紛糾の危険が高まります。

「何を(③)」には 保障の「水準」や「量」の問題も含まれます。

たとえば、結果の平等なら、路頭に迷う人に「食事を出すだけでよいのか」「暖かく安全なシェルターも提供すべきなのか」「健康で文化的なレクリエーションまで提供すべきなのか」という議論がありえます。
機会の平等なら、たとえば「黒人や女性も企業や官庁の就職試験から排除されない」という縮小的な意味でとらえるべきなのか、「黒人や女性には就職試験でゲタをはかせるべきである(アファーマティブアクション)」というように拡大的に捉えるのか、という議論がありえます。

「どのように(④)」には、形式的平等を実現するか 実質的平等を実現するか、つまり属性の共通性に着目して画一的に扱うのか、違いに着目して異なる扱いをするのか、の問題が含まれ、またこれが最大の問題です。

人には様々な属性(側面、条件)があり、誰かと比べて共通する属性もあれば、異なる属性もあります。
「属性が同じなのだから画一・均一に扱う」というのが形式的平等の論理であり、「属性が異なるからそれにあわせて異なる扱いをする」というのが実質的平等の論理です。

たとえば、人は人種によって肌の色は異なりますが、動物のように毛むくじゃらではないということは共通です。数学が得意な人もいれば苦手な人もいますが、数を数える指が五本あるという点では共通です。

共通点と相違点のどちらに着目するかは目的と属性の関係により決まりますが、単に話し方の違いで「画一的扱いでつりあいがとれる」と言いたいときには「形式的平等」という言葉を、「異なる扱いでつりあいがとれる」と言いたいときには「実質的平等」という言葉を用いることもあります。

たとえば市場は、大量生産大量消費を実現させ 短期的生産効率を向上させるという目的から、同等の資力をもつ消費者は均一に扱い、必要な能力が同等の労働者は均一に扱います(家柄で報酬が決まるなら、いったい誰が自分の能力を磨こうとするでしょうか)。
しかし同じ目的から、資力のある顧客とない顧客では扱いを変え、能力の異なる労働者の間では給与を変えます(能力の高い者と低い者とで報酬が異ならないなら、いったい誰が自分の能力を磨こうとするでしょうか)。

また、近代法は、「法の下の平等」という基本理念を掲げてすべての人の形式的平等を謳う面もありますが、他面では個人の属性の違いによって扱いを異にしています。
たとえば、刑法の明文上、収賄罪に問われるのは公務員だけです。また不保護だけで遺棄罪に問われるのは保護責任者(親権者など)だけです。刑罰をもってしてまで禁止すべきは、それらの人々の不作為だけだからです。
運用においても、たとえば澁澤龍彦、伊藤整、野坂昭如など著名な知識人がイカガワシイ本を出せば猥褻物陳列罪に問われますが、そうではないAV監督などは よほどのことをせぬ限り野放しです。行為者の社会的地位の違いにより社会に対する影響が違うからです(判例の理由にはそうは書いていませんが、実際にはそういうことです。)

「形式的平等がよいか、実質的平等がよいか」というのは結果についての話ですが、実のところ議論となっているのは、どの属性に注目して比較するのか、という要件論(②)の部分です。

「平等」という規範によって利益あるいは不利益を受けるのはまとまりのある個人(individual)ですが、平等を主張する根拠となるのは個人の中の様々な属性、つまり性別、職業、能力、身分などです。
平等という規範の複雑さは、「個人=individual(より細かく分けられないもの)」が、属性という点から見れば「dividual(より細かく分けうるもの)」であることから生じている面もあるのです。
たとえば「貧しい」という属性にのみ注目して「努力」の有無という属性を考慮しないなら、怠け者の天国を招来することになりかねません。しかし努力の有無に注目しすぎると、努力するだけの余裕すらなかった人々には残酷な仕打ちになります。

注目されるべき属性は、常にその場の目的との関係で浮かび上がります。人々のもつ様々な属性のうちの何に着目するかがその場の目的によって決められ、その属性により ある人とある人は「同じ」なのか「異なっている」のかが判断されます。

目的はひとつとは限られず、しかも互いに対立しうるものです(その場合 互いに「反対利益」と呼び合うことになります)。そして目的を何にするかにより 様々な属性が着目され、その優先順位が議論となります。

平等という規範は、本質的に互いに(様々な種類の平等同士で)対立しうる性格をもつのです。

その場の「目的が何か」「その目的にとってどのような属性や条件が重要であるか」は、分配されるもの(資源)の量や性格(③)にも影響されます。

言いかえると、配分可能な資源の多寡(③)が、どのような属性(②)を優先的判断材料とするかに影響し、ひいては「形式的平等」「実質的平等」(④)の議論となるのです。

たとえば、生命を維持するためとりあえず必要なモノを人々に配分するだけなら、それほど多くの資源はいらず、その程度の財は社会にあります。このような低レベルの「結果の平等」についてなら、「困窮した人」という共通点だけに着目して「形式的平等」を適用することが適切であるとされるでしょう。

しかし「生きる」とは生命が維持されることだけではなく、人がその能力を発揮することであり、その可能性を広げることが平等の目的だとし、しかもアマルティア=センのようにそれを高いレベルで保障することだと考えると、そのような機会を全ての人に十分に提供することは実際には無理です。このような「機会の平等」については、「ではどのような努力をしてきたか」という差異に着目する「実質的平等」が適切とされやすくなるでしょう。

①は、比較されるべき人々を「いかなる母集団」に属する者に限定するかという問題と、その母集団の中の誰と誰を比較するかという問題に分かれます。

これは実質的平等が問われるときに特に問題となります。
なぜなら、形式的平等は同じ扱いをすれば実現されますが、実質的平等においては、「どれくらいの差をつけることが平等か」が問われるからです。つまり目盛りが必要となり、そのためには上限値と下限値が必要となるからです。

前者の典型的な問題は「一国の中で平等が実現すればよいのか、国を超えても考えるべきか」というものです。

たとえば「日本の富者と貧者の差は、日本の平均とカンボジアの平均の差よりも小さい。より大きな差を無視してよいのか。」という話です。

この範囲の決め方は可変的であり、それゆえ人の平等についての認識は揺らぎます。
たとえば「育児中の女性社員が男性社員と同等に仕事に打ち込めるように」と考えれば、会社が託児所を開設することは平等に資するかもしれません。しかしその託児所を維持するために多くの利益を出さねばならず、そのために下請企業に値引きを強要あるいは値上げを拒否するなら(実際によくある話です)、その下請企業の女性社員の給与は上がらず、社会全体に存在する女性の間の格差つまり不平等は広がるでしょう。そう考えると託児所の開設が平等に資するとは言えなくなります。

後者の例としては、たとえば応報として与えられるべき刑の重さの程度は、加害者と被害者のつりあいに着目するのか、犯罪を犯した人と犯さなかった人のつり合いに着目するのかによって微妙に異なるはずです。

また、生活保護として給付されるべき財の多寡の適正は、貧困者と普通者を比べるのか、生活保護を申請する貧困者と申請しない貧困者を比べるのかによって異なるはずです。

以上のように複雑な構造をもつ「平等」という理念は、さらに「効率」や「安全」や「自由」などの他の理念と調和しなければなりません。

平等と他の特定の理念(たとえば「効率」)の間に優劣関係はありません。平等さえあれば他はどうでもよいというものではないのです。

たとえば、貧困者への支給という面倒な手間をかけなくても、富者の財を破壊するだけで両者が保持する財の量は同等になります。しかし このような平等が社会正義に適うはずもありません。

たとえば、イノベーションにより生まれた新しい財には高めの価格が設定されます。他方、インフレが進む中でも昔からの財である農産物の価格は上げづらく、農業者は相対的に貧しくなりがちです。格差はイノベーションからも起きるのです。しかしイノベーションがなければ富の増加もありえません。

たとえば、個人は生まれたとき平等なスタートラインに立つべきだと考えるなら、相続制度を認めず、個人が死んだときにはその財産は全て国庫が没収できるとしたほうがよいでしょう。個人は純粋に生来の能力のみで選別されるべきだとするなら、裕福な親による子供の養育も制限されるべきでしょう。
しかし相続は親の勤労意欲の元にもなります。また子供は特定の大人との間に強い共感と紐帯がなくては育ちにくいものです。よって上記のような動きは今のところ世界のどこにも見られず、高めの相続税が課されることはあっても、それ以上に平等が押し進められることはないようです。

たとえば、中世の不平等な身分制社会とてそれなりに安定して運営されていたことも、平等が社会を運営するための一手段に過ぎないことの間接証拠となっているでしょう。
平等は、何を差し置いても実現しなければならないというものではないのです。

他方で、平等は他の理念と組み合わされて使用されることもあり、それ自体は明確に正義に反するというほどの不平等ではなくとも、その他の理念が同時に損傷されるような場合、その不平等は不正義として厳しく追及されます。

たとえば、共感や尊重に欠ける排除(自分の仲間とは異なる扱いをするのが当然だ、という対応)を伴う不平等は「差別」と呼ばれ、指弾されます。

「差別」には、まずコミュニティに入れないタイプのものがあります。

たとえばもし私が外国で白人客ばかりのパブの店主に「ここでは吊目の東洋人には飲ませないんだ、出ていけ。」と嘲笑されれば差別を感じ憤ります。しかし「ここは地元の常連向けの店だ。東洋の紳士が居ては皆くつろげない。悪いがあんたは入れられないよ。」と断られたら、不満ながらも平静な気持ちで立ち去れます。不平等な扱いは受けているものの、一応の共感をもって尊重されており、差別はされていないと感じるからです。

また たとえば、健康保険に加入していなかった人が病気になったときに医療保険給付を受けられないとき、この措置には合理的理由があるので不平等といえるかどうかは微妙ですが、給付を受けられないことを告げる担当官が「そんな当たり前のこともわからないバカは来るな」とでもいうような態度をとったら、あまりに共感に欠ける態度を「差別だ」と言いたくなるはずです。

コミュニティに入れておいて低い地位をあてがうタイプの差別もあります。「お前はそれで当然、つべこべ言うな」という態度です。

その典型はアメリカにおける有色人種への差別です。

また、沖縄の基地移転反対運動は「これは不平等だからこうしてほしい」という具体案を示すことが難しいことは判りつつ、政府や本土の人々があまりに沖縄への共感を欠いてきたことに異議を唱える面が強いものかもしれません。

また、一部のフェミニストの怒りも、不平等そのものより共感の不足に向けられている面もあるのではないでしょうか。たとえば、学校やマスコミは男女平等を今後の社会が取り組むべき課題であると教えますが、実社会では男女平等の理念も様々な他の利益と比較衡量されます。それを察知した女性は「具体的な解決策が出づらい状況はわかっているが、女性がどうしてほしいのかを男性に聞いてもらい共に悩んでほしい」と思うでしょう。しかし厳しい市場競争にさらされている企業にはそのような話し合いをする余裕もなく、また男性は結論の出ない話を嫌いつきあいたがりませんから、おだやかながら硬い排除を受けます。それは女性にとってフラストレーションとなるはずです。

逆に、共感や尊重があることで、不平等が差別とならないことさえあります。

汚い旅籠に泊まっている左甚五郎が、宿代の代りに作った竹細工の水仙の値を聞かれ、豪奢な本陣に宿をとっている大名の家来に「他の大名なら二百両だが、お前の主はモノのわかった奴だから百両で売ってやろう」と伝え、「千両ではなかったか」と喜んで大名が買う時、厳然たる身分の不平等の存在にも関わらず、甚五郎への大名の尊敬は差別を吹き飛ばしています。

私たちは「平等」という美しい言葉に対して少し冷静になる必要もあるでしょう。
それは実現が本来的に困難だからです。(「自由」のように実現すると危険だからではなく。)

実際の社会問題に面したとき、私たちは、現実の資源的限界を前提に、ある「扱い」がなされることで実現される社会的利益(目的)と その「扱い」で害される反対利益の総和の最大化を目指します。
その際「何が反対利益か」「その反対利益との衡量(判断方法)」「どういう属性に着目しやすいか」は、個人ごとの見解に大きく影響され、かつそのことに当人たちも気づいていないことも少なくありません。
たとえば、ある属性についての本人による支配可能性の高低は、「形式的平等がよいか 実質的平等がよいか」を選ぶときにどの程度重視すべきでしょうか。またその支配可能性の高低は「結果の平等(果実のみ)のみの保護にすべきか、機会(権原および果実)の平等にまで保護を及ぼすべきか」を選ぶときに参考とすべきことでしょうか。
いずれにもNOと答える人もいれば YESと答える人もいることでしょう。

平等という理念は、様々な異なる状況に人々が置かれているという現実、そして多種多様な平等を生み出す人々の想像力の無限さから、当然に複雑になるのです。

多くの人々が心から納得できる平等を実現することは簡単ではありません。実際の判断の現場では「不平等だと騒ぎ立てるほどではないから、まあいいか」と思ってもらえるくらいで十分と考えざるをえないのです。

では、平等に関して日本の司法権はどう判断してきたでしょうか。

全体として、やはり消極的アプローチに留まります。

まず、平等権として正面から争われた場合、公的な強制力を持っても実現すべき法的権利であると司法判断されているのは、強い不平等のみです。
すなわち強い排除を伴うもの(国籍が認められない、相続権が認められないなど)や懲罰を伴うもの(尊属殺人の法定刑など)です。

やや程度の軽いもの、たとえば「就職できない」「税金が重い」などは、司法の土俵に一応は乗っても、棄却されたり和解で判断が保留されたりしています。

なお、憲法上「社会権」と呼ばれている再分配請求権は平等権の一環であるとも言えます。
給付内容に着目すれば社会権となり、それにより実現さるべき生活程度に着目すれば平等権になるからです。
実際、生活保護関連訴訟で原告が勝訴した稀少な判例(堀木訴訟第一審)も、生存権(憲法第25条)ではなく平等権(憲法第14条)に基づいて立論されていることは、このような視点を表しているものと捉えられるでしょう。

そしてこの場合にも、やはり強い不平等のみが司法救済されるようです。

義務教育の無償のような基本的保障は、司法判断以前に実現しているので問題となりませんが、もしこれが撤廃されるような立法がなされるようなことがあれば、平等権に反するものとして違憲判決が下されるでしょう。

他方、ややレベルの高い保障は、「プログラム規定」という努力目標として憲法が政府や議会に示したものと解釈され、法的権利性はないものとして司法判断は差し控えられています。

そのような司法の消極性にも関わらず、昭和の日本社会は、ややレベルの高い機会の平等の保障(それほど効率は問わず、一応の貢献を条件に、よい生活とはいえないが貧乏ともいえないというレベル)を社会のコンセンサスとして維持してきたように思われます。

しかし平成に入ると、より厳しく効率を問い、より大きな格差を許容する方向に舵が切られました。

そしてそれは社会における平等を問い直す契機になりました。

特に耳目を集めたのは 男女の平等です。

男女平等

男女平等も、様々な反対利益との調整や、個人の内省を要求する難しい理念です。

男女平等は、家父長制(単に年長の男性であるというだけでその価値観を他の人々に押しつけ 人々の判断を様々に誤らせる権威主義的な社会悪)への抵抗として、またフェミニズムの一環としてとらえられてきました。(フェミニズムはセクシャルハラスメントについても指弾しますが、これは平等の問題ではなく自由の問題なので ここでは横に置きます。)

男女平等に関する具体的問題を、女性の一生の時系列に沿って拾い上げていくと、明治以降の日本ではおよそ以下の5点になるでしょう。

  • 1.女児は家事の手伝いを その向き不向きや興味に関わらず強要され、男児はそうされない。
  • 2.女児は進学を断念させられる。あるいは進学先を限定される。
  • 3.男性は賃金の高い職種につけるが女性は低い職種にしかつけない。あるいは就職自体が禁じられる。
  • 4.女性は家事労働を負担させられる(特に介護などの負担が重い)。
  • 5.女性は相続できない。あるいは相続分が少ない。

現代の日本では、5は廃止され、1もなくなりつつあります。2は以前と比べると随分となくなっている上 これは3や4から派生する問題といってもよいものです。

結局、3と4つまり仕事と金銭の割り振りが、現在残っている問題だと言えるでしょう。

女性が職業選択において男性と平等な扱いを受けるべきという上記の3や4の課題は、機会の平等の問題です(以下、まとめて「女性の就労問題」あるいは「就労の平等」と呼びます)。

たとえば、日本では、以前と比べると女性の総合職は増えていますし、夫の家事労働も増えていますが、欧米に比べ、日本では女性はあまり大きな権限と責任を伴う仕事に就くことは少なく、他方で家事労働は女性のほうが多く負担しています。これは許されざることでしょうか。

またたとえば「ガラスの天井」に出世を阻まれていると感じている年収1000万円超の女性管理職に対する適切な扱いとは、いかなるものなのでしょうか。

男女の就労の平等に関して、具体的にはどのような主張があるでしょうか。

まず「女性差別は人種差別に似た 許されざる社会悪だ。」「女性への制度的差別は今でも多く残っている。(さらに「その不十分な制度にすら社会が追いついていない」という意見もあります)」と、とにもかくにも女性の社会的地位を上げることを主張する見解があります。

その典型が「クォータ制(管理職や議員の席の一定割合は女性に割り当てる制度)を広げるべきだ」という意見ですが、「労働日数や成果をあまり問うことなく、男女の賃金格差を解消せよ」という意見も、その亜流です。
しかし、男性でも大企業や中央官庁に入れるのは少数のエリートだけであり、その少数者も一定の年齢になればほとんど子会社などに追い出されます。出世するのは、必ずしも公正ではない評価のはびこる組織で、その壁を突き抜けるほど高い志をもって仕事に臨み しかも運に恵まれた人だけなのです。なぜ女性だけが、女性だというだけで出世すべきなのでしょう。クォータ制は、正社員になれた女性の幸福にはつながるでしょうが、男性達にとっては最悪の不平等になります。
「一定数以上の女性が出世すれば、男性達は『女性は男性と同じ事ができるのだ』と意識が変わり、ガラスの天井は打ち破られ、男性と同等の仕事と待遇を他の女性にもどんどん与えるようになり、すべての女性が職場でも家庭でも輝き始める」というのは幻想です。これらの女性が出世しても、母子家庭や非正規労働の女性の経済的地位が向上する訳でもありません。しかもこれは能力を問わずに昇格させる制度ですから、無能な上司が増えて企業業績を悪化させる懸念があり、いずれは働き口を減少させて、かえって多くの女性や男性の経済的地位は低下するでしょう。
クォータ制の安易な導入は「差別を受けている」と言いつのる女性に新たな権威を認める新たな権威主義、またはまとはずれのポピュリズムにすぎません。

そもそも「女性の社会的地位を上げる」という目的の設定が問題なのです。「女性の利益」を平等の目的としてよいのなら、女性は何でも言い放題になるからです。「男性の社会的地位は無視してよいのか」という反論も当然に予想されるからです。

確かに、女性の能力が正当に評価されないことは問題です。
役員、社員、構成員などの選出において権威主義的な身びいきを改め無意識の偏見(アンコンシャス バイアス)を排除するように注意が払われていない手続は透明でも合理的でもなく、組織の効率を詐害します。

しかしこれは性別に限るべき話ではなく、年齢、経歴、派閥などと関連しても同様に扱うべき課題です。
かつて「女性はやたらに意見を言いたがる」と放言して辞任に追い込まれた元首相の団体役員もいましたが、彼が辞任すべき理由は、男女平等に反したことにあるのではなく、みずからとは異なる属性の人を平気で侮蔑しシャンシャン会議をよしとする専横で横着な人格にあるのです。後釜に女性役員を据えればよい話ではなく、そのような人を役員や首相に選んでしまうような組織の手続的不備を根本的に問うべき話なのです。
すべての構成員を対象とする人事制度の厳格化と透明化を、クォータ制などより先に検討すべきなのです。

クォータ制は、そこに女性がいなければならないあるいは男性ばかりではいけない理由(「多様性の確保」では導入理由として不十分です。性差以外にも意見の相違を導く差異は無数にあるからです。)がある時に限り、そのために必要な最低限の人数を確保する範囲で導入してよいものです。

次に、男女の生物的社会的な機能の違いは無視して均等かつ画一に扱うべきであるとする見解もあります。
「高い収入と地位はハードでハイレベルな仕事と見合うものである」という競争市場的価値観を貫くなら、マザートラックは禁止し、総合職なら女性も転勤を拒否できないとすべきです。仕事が婚姻や子育ての障害にならないようにする配慮を企業に強制すべきでもありません。

平等論の枠組としては、「形式的平等」と「実質的平等」のいずれを実現すべきかが問われることもありますが、これは前者の立場にたつ見解であるともいえます。

これは非常にスッキリした立場です。しかし、才能と環境に恵まれた一部の女性以外は、昇進や出世を目指すか 家庭や子供を選ぶかの選択を迫られることになります。

そこで別案として、「結婚した男性も同様に育児すべきなのであり、企業は男性にも育児休業を与えるべきであり、男性も含めた全ての社員に対して勤務地の変更と残業を忌避できる職種を設けるべきであり、男性の家事労働を増やせるよう 労働条件を改善すべきである」という方向での画一化つまり形式的平等が提案されることがあります。

しかし、育児に関わることを強制すると、仕事へのエネルギーと時間を削ることになります。「イノベーション」も「KAIZEN」も標準労働時間内で終われるほど容易なものではありません。食器洗いと掃除を受け持ち おむつの世話を分担し 保育園の送迎をするというプレッシャーの下でもそれらができるのは、ごく少数の優秀な人だけです。そのような優秀さを一律に要求することはできません。

さらに、育児休業が当然の権利として市民権を得たら、その次は以下のようなことを言い出す社員も頻出するようになり、会社の人繰りはどんどん難しくなり、人件費も上昇するでしょう。
「海をきれいにしたいのでボランティアに集中するため3年休職したいです。同期の係長は子供を3人産んで育児休業で3年休職して同じ部署に同じ給与で復帰しましたよ。『育児ならいいが環境はダメだ』なんてパワハラですよ。」

また、近年、拝金主義が世界を席巻し、短時間に多くの金を儲けて多くの給料をもらうマネーゲームのような経済活動が暗黙に推奨されていますが、もしフェミニストがその尻馬に乗って「女性もそのような生き方をさせてもらえるのが当然」という主張をするなら、まともな産業人達からは賛同をえられないでしょう。
経済の本流である製造業には時間をかけねばならない仕事が多いのです。勤勉(知的活動すなわち「考える」ことも当然に含まれます)にまさる武器が製造業においてあるのでしょうか。天然資源も国際的に有利な地位もなく 労働力以外にこれといった資源がない日本が豊かになったのは、ハードワークを厭わず工夫と努力を積み上げて国民が働いたからです。男女とも全ての従業員に「早く帰宅せよ」「残業するな」「有休も使い切れ」と強制しながら競争に勝てるのでしょうか。

しかも、日本は社員の雇用の確保を前提に仕事を割り当てるメンバーシップ型雇用が主流です。その雇用形態を維持しながら「市場競争を傷つけないようにしながら性分業を極小化しよう」とすると、どこかにしわよせがきます。
たとえば、正社員(欧米よりも安心しきって休める立場です)の仕事の穴を埋める派遣労働者は不安定な地位に縛り付けられます。残される正社員の負担も相当なものです。※21

むやみに会社ひいては家庭や地域での男女の社会的役割も画一化し、男女とも多くの休暇をとり ハードワークをやめることは、会社と社会の生産性と落とし、外国との経済競争でみずからを不利な立場に追いやることになり、経済力ひいては防衛力の低下を招きます。のみならず不平等も拡大させかねないのです。

※21

他方、欧米のようにジョブ型雇用が主流であれば、割り振られる仕事がなくなれば会社は従業員を解雇できます。育児休業中に仕事の割り振りが変えられて休業中の社員の仕事がなくなれば、帰る場所がなくなることもあり、企業の効率は それほどには害されないでしょう。他方、転職が容易であれば、辞めてもそれほど困りません。
もしどうしても男女の就労の形式的平等を推し進めたいのであれば、日本もこのような雇用形態に切り替えるしかありません。

またこのような画一化が、多くの人々が望む便利で豊かな社会の実現の障害となる可能性もあります。

たとえば、医学部入試で単純に試験の成績だけで合格者を選ぶと女性が多くなってしまい、外科医や救急救命医の不足が懸念されることも現実です。男性受験生にこっそりとゲタをはかせるようなことはやめるべきですが、その現実に目をつぶることもできません。急病や手術に対応しうる病院を減らし 医療サービスの質の低下を覚悟するのか、医者全体の数を増やして医療費ひいては保険料がさらに上がることを是認するのか、男性医師を一定数確保すべく男女別の合格者数を最初から公開する(男性医師確保のためのクォータ制)のか、などの議論も必要でしょう。

これは医者という専門職だけの話ではありません。
企業が総合職として女性の採用を控えるのは「女性だから」ではありません。長期休業(出産・育児)をとる危険のある社員の採用を控えて、生産効率阻害の人的要因の最小化を図っているのです。効率が落ちれば当然に給与は下がります。営利に失敗すれば社会から指弾される企業にとって、それが許されざることなのでしょうか。
官公庁が業務効率の向上ができず、人件費を削減できねば、当然に税金は上がるのです。子供を持てた正規雇用公務員という(現代日本においては)幸運な女性のために多額の予算を使うことが国民の総意なのでしょうか。

また、このような画一化が「地球に優しく」ない側面もあります。

たとえば、夫婦ともに平等に企業で働き、ライバル企業との競争に勝つべく仕事に集中するために、売り物の惣菜や使い捨ての家庭用品の利用を増やして家事労働時間を節約することは、省資源化も健康的な食生活も犠牲にすることになります。

女性社員のお茶出しを省いてペットボトル入りのお茶を訪問客に出す会社も増えています。
男女平等的ではあり、業務の効率化のためにもよいかもしれませんが、ペットボトルひいては石油資源の廃棄は増えます。

そこで、男女を画一的に扱わず、妊娠、出産、育児に大きな負担を負う女性すなわち母親であること尊重し、ある程度は市場競争の理念を後退させつつ、なるべく「女性」が働きやすい職場環境を整備するという「実質的平等」を実現する方向性を探る見解が主張され、そしてこれが現在の日本の組織の大勢です。

しかしこの方向性も、安易に導入すると、予想よりもはるかに大きく「効率」を損ない、豊かな社会を破綻させる危険を生じます。

たとえば、育児休業の間の派遣社員を選び教育するためには コストや手間がかかります。しかもそれをかけても本来の効率には届かず供給が落ちます。
育児休業を一律強制する法律は中小企業経営の重い負担となり企業体力を低下させています。※22
他方で、政府の保護がなければ海外に負けてしまうような製品を作り続け、あるいは中小企業に直接発注すればより安価に仕上がるような公共工事を元請けして既得権的な利益を得続けている大企業が、従業員にしっかりと育児休業をとらせていることが美談になっています。

※22

労働市場の柔軟化は、この問題の解決に資するでしょう。 欧米にならう道です。
家事や育児の負担が重くなって離職した女性でも、簡単に仕事を探せる社会なら、それほど悩む必要もないからです。企業側としても従業員を簡単にそのポストに合った人に入れ替えることができれば、労働者の生産性に関する情報の非対称性(雇った後で能力不足が判明したような場合)の是正にもなり、効率向上になります。
公の職業訓練制度を充実させて育児退職した女性が新しい職を得やすくするように支援するならば、さらに社会全体の生産性の効率も上がり、労働者の福祉にも資するでしょう。

とはいえ、安易にジョブ型雇用システムを導入すると、スキルの蓄積が阻害される懸念もあります。それは日本経済を支える製造業において特に顕著でしょう。

また、女性が働きやすい職場を整えることは、別の平等を侵害する危険を含みます。

たとえば、結婚や出産を理由とする退職勧告が禁止されたことにより、女性同士の不平等はかえって広がったと言われています。

「男性は総合職、女性は一般職」という区別の禁止は、高学歴女性が給与の高い職に就く道を大きく開きましたが、それは一方では同数の男性がその職から追われることでした。
また、女性社員が産休の後で再び元の職場に戻れる保障をすることは、そのポストはいつまでも空かず新入社員は採用できないということです。
現在、みずから正社員となり正社員の男性と結婚した女性は前の世代よりも豊かな生活を送れます。他方、正社員になれず同じ非正規労働者の男性と結婚した女性は前の世代より貧しくなります。

しかも大企業の総合職につくには少なからぬ教育費を親から拠出してもらう必要があります。豊かな家に生まれた女性は貧しい家に生まれた女性に比べて生まれたときから有利で、貧富の差は世代を超えて受け継がれます。

また、育児のため仕事を中断して帰宅できる女性社員と、そのフォローに回る女性社員が、給与や昇進において差をつけられないということは、結婚も子供もできた恵まれた女性に 結婚も子供もできなかった女性と同じ待遇を より少ない労働時間で受けられるという恵まれた地位をさらに得させることです。それは少なくともその会社内では不公平です。

それを許すには、それだけの社会的必要性が、そして不利益を受ける女性への何らかの保障がなければならないでしょう。

以上のように、どのような方法をとっても、男女の就労の平等は様々な反対利益とぶつかりあいます。

この複雑な問題を等身大にとらえるには、男女の役割分担の歴史を振り返る必要があるでしょう。

男女の社会的役割は、中世以前においてははっきりしていたと考えられます。いわゆる性分業です。

性分業は、長い人類の歴史の中で 少ない資源や労力で多くの生命や豊かな生活を維持するための役割を果たしてきた合理的側面をもつ制度です。

確かに、人は、男同士または女同士でも男女の違いに劣らぬほどの大きな違いをもつものです。よって安易に性分業を正当化すべきではないでしょう。 

しかし、各自がみずからの個性を100%尊重してほしいなどと主張していたら収拾がつかなくなることも事実です。社会の安定のため、わかりやすい「男女」や「長幼」などの違いに基づいて社会的役割を決めてきたことも、人類の自然な一面といえるでしょう。
政府が、男女の違いではなく他の相違点によって人々の社会的役割を決めなおすこともできますが、それはカースト制度のような、さらに強権的なものになる危険も伴うのです。「どちらのほうがましか」という視点も必要でしょう。

そもそも男女は、共に社会的生物でありながらも、他人との基本的な関わり方、共生のイメージから根本的に違います。「女は女に生まれるのではない。女になるのだ。」というボーヴォワールの言葉の半分は本当ですが、半分は嘘です。赤ん坊は放っておいても、中性的幼児になるのではなく、女の子か男の子になります。

男の子は小さな頃から集団で遊び、集団の中での自分の立ち位置を探す練習を積み重ねています。女の子は親友を作り相手の細かな考えや感情まで読み取る練習を幼い頃から積み重ねます。

アニメのキャラも、「つきあいの長さや来歴にこだわらず意志と能力で集まり 困難なタスクの実現のために協力しあう」というジョブ型の共生をするのが男の子向けであり、「仲間として受け入れた人同士が互いのミスや過ちを許し合い 末長く続く関係を維持していく」というメンバーシップ型の共生をするのが女の子向けです。世界征服をたくらむ悪の秘密結社と戦うのが仮面ライダーであり、やってきた悪人から御近所の平和を守るのがプリキュアです。

「優しさ」の意味も、男社会では遠い未来を慮ることであり、女社会では目の前の人に丁寧な扱いをすることです。

何らかのタスクに向きあったとき、男は「結果がすべて」と考えがちで、女は「がんばることが大事」と考えがちです。(結果を出すことが求められる近代企業では前者のメンタリティが重視されますが、後者も社会にとって大切です。)

そして人の経済活動は、労働力を利用して財を生産する「企業」活動と、財を利用して労働力を再生産する(疲労回復という意味もありますし育児という意味もあります)「家計」活動の相互サイクルによって成り立ちます。そして企業活動では専門性が要求され、家計活動では多くの事柄に同時に細かく対応をすることが要求されます。

一般的に言って男性はひとつのことをやらせるとそればかりに集中するので専門分野でのスキルが高まりやすく、身体的にも屋外活動に向き、ある一定の業務を長時間こなすことを要求する「企業」活動に適応しやすい性向をもちます。他方、女性はマルチタスクを同時に進行させる能力が高く、それは「家計」活動で不可欠的です。また科学技術が発達する以前の時代においては、子供の父親は判りにくかった一方、母親はみずからの子供であることに確信をもって愛育できました。従って、数千年にわたって前者は主に男性が担当し、後者は主に女性が担当してきました。

特に、近代以前においては、屋外における労働には強大な筋力と自衛能力を必要とすることが通常でしたから、生産の現場は男性主体とならざるをえませんでした。

産業革命は、ここに大きなインパクトを持ち込みました。

産業革命後の労働者は、労賃の代償として骨の折れる複雑な仕事や長時間の労働を課されました。豊富な財の大量生産を可能とする社会様式に適応するため、人々は都市部に集中居住せねばならず、膨大な情報や物や人の移動が労働の準備に費やされます。中世の人々のように、農作業の片手間に狩猟や子育てや道普請や祭礼の準備をする訳にはいかないのです。
そこで中世的な家父長制を更新して性分業を先鋭化した国々が現れました。近代的生産様式は男性に背負わせ、生活の多元性(子育て、家事、介護、近隣との付き合い)は女性に残したのです。いち早く「先進国」になった西欧、北米、日本などの国々です。
他方で、女性はよく働く一方、男性は一日をおしゃべりや賭事ですごす国もあります。それらの国は効率と利潤を高めやすい工業分野で海外からの輸入に押され、有効需要も伸びず、「発展途上国」である時期が長く続きがちです。

他方、建設・輸送・製造に動力機械が駆使されるようになった産業革命以後の社会においては、肉体の頑健さや職人的スキルの高さの必要性は減ります。つまり性別に関係なく誰もができることになってきます。また家電や冷凍食品のおかげで家事労働の時間も短くなります。産業革命は、性分業の否定の可能性を開いたのです。いずれ女性も権原つまり就労を要求しはじめます。※23

しかし、労働力市場に女性が参加することは、労働力の供給が増えることです。他方、機械化は労働力への需要を縮小させます。全体として労賃が伸び悩む傾向の強まっていく労働市場の中で、女性は既存の業界においては新参の労働者となるのです。よほど特徴的なスキルがないと雇用されにくいことは、当然予想されます。

また、女性が企業で働くようになると、改めて家事労働は誰が負担するのかが問題となります。
従来の流れから女性が負担する例が多数派ですが、負担する人は、裁量の大きな(報酬も多い)労働につきものの柔軟な就労時間への対応が難しいので、単純労働つまり不利な立場に置かれがちとなります。
しかも、子供が熱を出すたびに早退する社員を早退しない社員と同等に扱うことが平等なのか、という問題もあります。

※23

当初は、就労(権原)ではなく、報酬(結果)の分配が問題とされていました。
それがイリイチの提唱した『シャドウワーク』の概念です。
妻が家事をする家庭では、妻の貢献のお陰で夫は仕事に集中して高収入をえているのです。すなわち家事労働はその家計の収入獲得に貢献しています。よって夫が得た収入のいくらかは妻に移転すべきだという主張です。

だからこそ逆に、ITなどの新産業(就労時間が固定的)やサービス産業(感情労働が重要)の職場では、女性は男性と同等あるいはむしろ有利な位置に立ち、それらの産業が発達した国では男女平等が進んでいるように見えるのです。

特に、企業(会社)がジョブ型あるいはゲゼルシャフト型集団にシフトしている欧米は、国内の製造業における競争力の弱体化と労働需要の減少を認める代わりに、自国民が他国で自由に就業できるよう自国の文化・言語・制度を国際標準にし、また観光や留学による外貨の流入を促進させ、時間的縛りの強い製造業以外で外貨を稼ぐことができる経済を再構築したので、男女平等を全般的に推進させやすい状況です。※24

※24

しかし、欧米(特にアメリカとイギリス)は、みずからのレジームを世界中に広げられる地位にあります。これらの国は、国際ルールを決めて、その基準に合格しているかどうかを検定する機関を開設して手続料をとることができます。自国で開発したインターネットのシステムやアプリを世界標準として一種の「棚貸し商売」もできます。他国に軍隊を送りその防衛予算をその国に負担させることもでき、武器を輸出することもできます。さらには国際語化した英語を教えるだけでも商売になります。
そのような利権のない日本は、これらの国のまねはできません。
日本はこれからも、民生品の製造によって東南アジアなどのライバルとしのぎを削らねばならないのです。

つまり女性の就労問題は、「白人は有色人種より優れている」という勘違いに似た男尊女卑の観念や「家父長制」などの権威主義と無関係とはいえませんが、それらを主因とするものではなく、主として産業革命以降の社会の生産形態の変化が発生させたものなのです。

さて、日本においては、1970年代までは、女性が企業で働き続けることは一般的ではなく、あくまでも一時的に男性の仕事の補佐をするという位置づけでした。当然、報酬も多くはありませんでしたから、実際には女性には結婚して子供を育てるという道しかなかったといえます。

しかし、女性の自己決定の可能性は男性のそれに劣るべきではありません(これは男女の就労の平等の正当なる目的といえるでしょう)。

この状況が大きく変化したのが80年代です。男女雇用機会均等法の施行以来、男と同様に働き その報酬を受けることが特別なことではなく、一般的な選択肢となりました。

この時から、女性には、子供を生み 男に稼がせ その人々の世話をして生きるか、男性と同様に働いて生きるかの選択の自由を得たのです。

現在のフェミニストが要求しているのは、上記の選択肢のどちらも選び どちらも100%充実しうる社会環境です。
これは80年代以前と状況は全く異なっています。
両方とも充実させるということは、そもそも選択の自由のない男性からみると、贅沢すぎる人生です。

女性は、男性にも家事を負担してもらいたい、自分と同じ苦労をしてほしいと望むでしょうが、男性からは「女性はすでに家庭や地域という別の世界を持っている、その上に職業という別の世界を持とうとしているのだから苦労するのは当然だろう。自分達は職業という世界一本にかけて頑張ってきたのに、いまさら自分達に負担を背負わせないでほしい」と言いたいでしょう。あるいは「もし男性も女性と同様に別の世界をもてるはずだというなら、女性と同様にその選択の可能性もあたえて欲しい。つまり、男性が主婦を認めているように、女性に主夫として生きることも認めて欲しい。」と言いたいでしょう。

また確かに、周囲は女性に子供を生めといったり(人口の増加や維持が必要なとき)、どうでもいいよと言ったり(人口が減ってもよいとき)します。うるさいとは思います。しかしそれを「選択に干渉された」などと言いたてるのも、男から見ると贅沢です。男とて社会から、とにかく働けとうるさく言われているのです。世界を放浪して一生を終えたかった男も「世間が働けというから放浪の一生を送れなかったんだ」と泣き言は言えないのです。放浪したいなら、飢え死に覚悟でそうすればよいのです。苦労や後悔を覚悟のうえで選択するしかないのです。安楽な放浪のお膳立てなど周囲に望むべくもないのです。それなのに女性だけが「女も働くべきだ、と周りが言うから 私は懸命に仕事を覚えた。そのせいで年を重ねてしまい子供をもてなくなった」とか「子供を持て、と周りが言うから 私は働けなかった」などと自分の人生に泣き言を言うべきではないのです。「とにかく女性が働きやすいようにせよ」というのは、どんな選択をしても楽しい人生が送れるようなお膳立てを社会に要求しているのです。

フェミニストは「女性の自立」ということを強く主張することもあります。

自立とは、人に頼らないことではなく、頼れる人がたくさんいることです。「どこに行っても生きていける」ということは「どこに行っても協力者を見つけることができる」ということです。従って自立とは、一面では誰とも深く付き合わず 多くの人とまんべんなくつきあうということでもあります。多くの自分をもち、それらを平等に扱うということです。これは無味乾燥した状況でもあります。

女性達が、自立したい、夫とだけでなく多くの人々との頼れる関係性をもちたい、と望むことは、この不確実性の高い世界に共に生きるものとして理解はできます。

しかし、女性の多くは、無味乾燥していない世界、親密な関係を子供のときから作ってきています。そのうえでさらに自立を求めているのであり、その点が男性とは異なります。
たとえば男女の出世欲は異なる背景をもつものです。
男が得る富や名声は、だいたいは自分のパートナーになってくれた女への貢ぎ物になり、そのために出世を目指して努力もするのです。男は、多くの場合、共感を妻や恋人から得るためには有能でなければならないのであり(あるいはそう思いこんでいるのであり)、そのために一旦は共感から離れた場所でひとり頑張らねばならないのです。
他方、女性の出世欲にはそのような面はあまり見られず、そもそもあまり強く出世を望まず、あからさまな差別にのみ不快感を示すくらいです。女性は仕事をもつ以前、稼ぐ以前に共感を持ちあえる場を確保しているからです。
つまり女性は多くの場合、特に出世する必要はなくそこで働くことができれば共感と安定の双方を手に入れることができるのです。
社会的に立派な「仕事」とみなされる活動の場がほぼ企業に限られている現状において、女性を企業に招き入れかつ男性より評価されやすい待遇(育児休業をとっても出世に影響しない、クォータ制を導入する、など)を与えることは、男性に心理的に高いプレッシャーを与えつつ不利なレースをさせることになるのです。

「そんなことは言わないで優しくしてくれてもいいでしょう。欧米をみならって。」と言いたい女性もいるでしょう。

欧米の人々は自己主張が強いので、一見自立しているようにみえますが、強い自己主張が通じるのは仲間内だけの話です。たとえば欧州人は一人でレストランに行かず、基本的に仲間を誘います。実際は、何かとクラン(仲間内)を作ってつるみたがる人々なのです。

他方、日本は個人に本当に高いレベルの自立を要求する国柄です。
日本人は周囲に迷惑をかけないように気遣いますが、これは「どこにいっても一人で生きていける」ために必要な態度だからです。日本人が手による仕事を重んじることも、一人で放り出されても生きていけるような能力を重視するからです。他人に頼らずむしろ頼られる人であることが生きる術として共通認識されているのです。
高いレベルの自立の求められる日本社会で女性が男性と同様に働くと、クランの発達した社会で働く場合よりもタスクが多くなります。少なくとも心理的にはそうなります。「働いているからといって 子育てに手を抜くことは許されない」と自分を叱咤している女性が多いのも その一例です。ゆえに、日本の女性は欧州の女性より働くことには躊躇を覚えます。それは問題と言えるのかもしれません。

他方、ジョブ型雇用で育児中に離職しても再び簡単に新たな職を得られる欧米の女性は、一定の職歴や学歴という見えないクランに守られていると言えます。そのようにして仕事も私生活も充実させている一部の女性達は、同じ国に住む仕事も私生活も充実していない人々からみれば「恵まれた階級」にすぎません。
欧米で男女平等に疑いの目を向ける右派政党が勢いをもち、社会が分断することも、当然生じる反作用といえます。それもまた問題といえるでしょう。

近年の日本のリベラル派の推し進める「男女平等」は、大企業に正社員として就職できた女性または高学歴な女性には欧米よりも有利な地位を保証する一方、そこから外れた女性にはより大きなデメリットを与えている面があります。

日本の会社は長らく「仲間として受け入れあった人同士が助け合って 末長く生活を維持していく」というメンバーシップ型あるいはゲマインシャフト型の集団、しかも男性中心の集団でした。

低成長期に入り、新自由主義的な思考が拡がるにつれ、「つきあいの長さや来歴にこだわらず 意志と能力で集まり 困難なタスクの実現のために協力しあう」というジョブ型の理念が注目されはじめ、能力のある女性も積極的に受け入れようという機運が高まりました。

しかし当の女性達はメンバーシップ型の受け入れられ方を望みました(これは女性一般のメンタリティとしても当然のことです)。 ジョブ型への組織変革の遅れた日本企業は唯々諾々とその意向に応じました。

現在、高学歴女性にはメンバーシップを拡大し、しわよせは派遣労働者に背負わせるという労働市場が構成されています。

私たちは男女平等という「理念」に対して少し冷静になる必要もあるでしょう。
そもそも、理念は道具に過ぎないのです。人々がしっかりと生き、そこに調和と幸福があるなら、男女不平等であってもかまわないはずです。

ジェンダー平等が先進国で下位レベルと評価されている日本で最も幸福度が高い階層は仕事のある既婚女性達だそうです。クォータ制で彼女らをさらに出世しやすくして、他方で、幸福度が最も低い未婚の中年男性から権原を奪う必要があるのでしょうか。
しかも、部下に従順さを要求できなくなり気苦労が増えた管理職になりたがらない人が増える中、女性の管理職を無理にも増やしてジェンダー平等指数を上げることが、女性達にとっても幸せなことなのでしょうか。

確かに発展途上国の女性は差別に苦しんでいるようですが、西欧や日本など先進国の女性の平均的人生は男性の平均的人生より苦しいのでしょうか。

男女平等の理念は錦の御旗ではありません。徒党を組んで利益追及するための道具でもありません。
スローガンを掲げ、社会的規範や制度を一律に変え、さらにそこから意識を変えていけばよい、と言ってしまってはいけない場面もあるのです。
多くの人が「許せない」と思うほどの不平等でなければ、とりあえず言挙げしないことが良識である時もあるのです。

現代の男性が、前世代の男性よりも、女性に対して束縛を緩め女性の意志を尊重すべきであるなら、女性も男性に対してこれまでとは違った見方をする必要があるでしょう。

たとえば、男性に稼ぎ手として過大な期待を寄せること、あるいは稼いで当然とみなすことは慎むべきです。
「何で女性だけが子供ができたら辞めなければならないの」という言葉の裏には『子供ができたら自分が仕事を辞めて子育てをしてくれる(多くは低年収の)男性』とは結婚しなかったみずからの選択が沈黙されています。
稼ぎの良い夫の助力を受けながら「私らしく輝きたい」と仕事も「頑張る」女性は、実家の裕福な女性と結婚してその実家の助力を受けつつ成功を達成する男性と似たようなものであることも直視すべきです。
また、夫に自分より稼いでほしいのなら、家事は妻が多く受け持つのが平等というものです。夫に多くの家事をやらせるのなら、夫が自分より稼ぎが少なくなりうることも、当然に受け入れるべきです。「なぜ女性ばかり家事をしなければならないの」という言葉は、ぐうたら男性の怠惰を指弾するときは正義です。しかし、自分より稼ぎの良い夫が疲れて帰宅したときに「同等に家事をせよ」と言うのは自己中心的です。

また、ある人々の性分業の緩和が 他の人々の安価な下働きの上に成り立っていることもあります。

「夕方5時に交代で保育園に子供を迎えに行かねばならないので夫婦とも定時退社が必要で出張も組みにくいが、それでもそれなりの賃金をもらい、デリカやウーバーイーツで夕食をあつらえる」ことのできる共働き世帯の多い国もあります。

それは低賃金の人手がかかる仕事を他の国に外注しているからできることです。
その外注先の国には、夫婦ともに出稼ぎに出て幼い子供が両親と別居せざるをえない家族もいます。

また、日本のみならず先進国では一般的に、男女平等の推進(性分業の極小化)と出生率低下は期を一にしています。女性を育児に集中させれば人口が増えることは当然のことであり、逆に女性が外で仕事をするようになれば人口は減りやすくなるのです。(逆に言えば、安定的に人口を増やすには、家父長制のほうが合理的かもしれず、少なくとも長年の実績があります。少子化を解消したいなら、女性を働かせつつ育児休業を強制するよりも、働く夫と専業主婦の営む家庭へのベーシックインカムを保障する方が有効かもしれません。)

また、女性が給料のよい職につくことが増えることは、同数の男性がその職につけなくなることです。日本の女性は自分よりも給料の低い男性とは結婚したがりません。そうなれば結婚できない男性ひいては女性が増え、子供が減って人口が減り、需要も将来の供給力も減少することも必然です。

また、「女性の社会進出は産業を活性化する」というのは事実に反します。
実際、日本では男女雇用機会均等法の施行された5年後から長期不況が始まりました。
これはバブル崩壊と中国への工場移転で引き起こされたものですが、出産後も仕事をやめない女性が増え、それに対処するために企業が事務職の正社員の採用を控えたことによりポストの空きが細ったこと、また仕事第一ではなく家庭も大切にする社員が増えて発展途上国のワイルドな勢いに敗れたことも影響しているはずです。

様々な社会課題を安易に男女平等の話に帰するべきではないことにも、注意すべきです。

たとえば、いずれも男女平等の問題と関係すると言っても、シングルマザーの問題は、女性議員の少なさの問題とは異なります。ここでは貧困の解消が主目的であり、女性の自己決定は補完的な目的なのです。

離婚家庭の子供は母親が引き取ることが多い一方、その母親の就職がままならないようでは、すべての人の健康で文化的な生活を保障する憲法の精神に反するのみならず、労働力の維持という面でも問題です。

しかもここで具体的に必要とされるのは、それほど高いとは言えないレベルの平等です。
すなわち、低額で安全で便利な保育所を充実させ全ての女性がこのような施設を利用できること、そして場合によっては公的な生活保護が用意されていることです。

反対利益としても、予算が必要になること、雇う側がいくらか不便を被る(定時退社が必要、子供が病気になれば欠勤)ことくらいのことですから、皆が納得せざるをえない妥協点を探すことは難しくはないでしょう。
よってこの問題を解決すべき社会的要請は強くなります。ここに含まれる男女平等の問題も同時に緩和されるでしょう。

しかしこれは、男女の不平等がこの場面で激しいから解消されるということではありません。男性も含めてすべての人々に課題となる貧困問題の側面が強いからこそ解消されるのです。

またたとえば、地方の女性が都市に出ていってしまうことの主因も 男女の不平等ではありません。
地方で感じる圧迫感や単調さに我慢がならないのは、繊細な男性や派手好きな男性あるいは自分は何か大きな事をやれそうだという自信をもつ男性も同じです。
むしろその原因は、地方には製造業や建設業が多く その給与が低いこと、マスコミが流す情報が内容も向け先も東京中心であることなどにあるのです。

なすべきことは、東京への情報の一極集中を是正し、製造業や建設業に従事する人の収入を増やすことであって、全国的な育児休暇の充実ではないのです。ここで中心となるのは、都会と地域の格差問題なのです。

フェミニズムとコミュニズム(マルクス主義)は、いずれも大きな社会変化のあった時代に生まれ、それに続く時代においてもニーズのある思想であり、他の多くの社会課題と重なり合う点で似ています。

しかし、フェミニズムやコミュニズムの視点からなるべく他の多くの社会的課題を解決しようとすると、個々の課題の解決をかえって困難ならしめてしまいます。たとえば少子化は、男女平等の問題としてよりも、貧困問題としてアプローチするほうが解決しやすいはずです。

さらに両者とも、欲求や怨恨の思想的バックボーンになりうる点でも要注意です。
たとえば、家父長制にあらがって東京に進学したかに見える女子大生の本音が「学歴を得て、高給を得て、楽しくてきらびやかな生活をする」ことに重きを置いているなら、実際には、商業主義にあおられた物欲に従っているだけです。

また、これらの思想(仮説やフィクチオにすぎない)を科学的事実であるかのように信じるようになると、権威主義に堕します。それまで「虐げられてきた」労働者(プロレタリア)や女性であることが輝かしい権威としてみずからの存在を誇示し始めるのです。

ジェンダーの問題は大きな社会変化の一側面として考えられるべきであり、その視点からなるべく多くの社会課題を解決しようとするべきものでもなければ、それだけをトピックのように扱えるものでもありません。

状況によっては、男女平等に先んじてやるべきこともあるでしょう。

世界も歴史も -ism(○○主義)でとらえきれるほど単純ではないのです。

かかる視点からとらえると、女性の社会的地位を上げるために、女性が男性と同様に就労することばかりを重視する「平等」は片手落ちだともいえるでしょう。

たとえば、レジリエンスを重視した残酷ではない資本主義を実現しなければ、真に男女が平等の中で生きることはできないでしょう。

丸の内や八重洲のオフィスに勤めてこそ一流のビジネスマンだ、という世界から卒業するべきなのです。
男性に生産の権原が集中することは、子育てや地域のタスクの解決が女性の手だけに委ねられるということでもあり、それは生産の短期的効率は向上させつつ社会の長期的継続性を損ないます。これを修正するために役割分担を変えるべきだという声はよく聞きますが、生産手段の集中と集権を緩和することも必要でしょう。

これまでの物質的贅沢の継続ために男女平等を圧殺することも間違いなら、そのような贅沢と男女平等をともに実現することだけを考えることも間違いなのです。これまでのような豊富な財や多彩な娯楽に満ちた生活から見直すべきなのです。
出産数の減少も、このままでは地球が住むに適さない所になってしまうことを人々が無意識に感じ取って自発的に繁殖を制限しようとしている姿かもしれません。

家父長制が影をひそめても、それで世界がましになったと簡単に思ってはいけません。家父長制は権威主義のひとつにすぎないのです。女性間の「マウントのとりあい」もやはり権威主義の現れのひとつであり 指弾されるべきものなのです。

歴史学者のアリエスは、中世まで「子供」という概念がなく 子供は小さな大人として扱われていたこと、近代において初めて「子供」という独自の存在が認められたことを再発見しています。子供の独自性を認める寛容さを社会がもつことで、人類は「育つ」「変わる」可能性を拡大したのでしょう。

「子供」のあり方が確定するにも長い時間がかかりました。中世が近代に変わったように、近代が新しい時代に変わりゆく中で、「女性」のあり方を見直し、適正な生活レベルを探ることも簡単ではないでしょう。私達は、近代的生産様式が先鋭化させた性分業をどこまで緩和するのが適正なのかを広い視野から考え直さねばならないのです。

いまだ新たな生活様式のモデルが提示されず、持続可能性のあり方も見定めることができていない社会の中で、男女平等の問題は、まずは、平等の射程と反対利益を認識した個人の判断に委ねられることになります。

たとえば、企業によって生産形態も様々です。「どう変わるべきか」は一律に決められるものではありません。
化粧品会社の営業職の8割は女性だからといって、建設会社でも同様に女性営業職を増やすべきなのでしょうか。小学校の先生の5割が女性であるからといって、国会議員の5割も女性にすべきなのでしょうか。
男女の職種や待遇が異なる企業があっても、仕事の内容やその組織の使命やその国が置かれている状況によっては、そこに合理的な理由がありうるのではないでしょうか。

職業との最適な関わり方は個人の意欲や資質にもよることです。

性分業のない家庭が順調で心地よい夫婦もいるでしょう。

だからといって「できれば夫だけ外で働いてほしい。自分は家事をするほうが向いている。」と思う女性は残念な人なのでしょうか。
男性よりも多様な生活空間をもつ女性に「会社に就職して市場競争の最前線に立ってこそ働いているといえる」という有形無形の社会的圧力を強化し、地位と収入に人生の優先権を与えるように導くべきなのでしょうか。

「できれば家事は妻にしてほしい。自分は外で働くほうが向いている。」と思っている男性は残念な人なのでしょうか。遅くまで誠実に機械を整備し、不良品率を他社の半分以下に減らしているエンジニアに、上司は「早く帰って皿洗いを分担せよ」と指導するべきなのでしょうか。

夫婦とも35万円の月給をもらい 生活費を20万円づつ出し合い 家事を半々に負担する家計は平等です。しかし、夫が45万円稼いで生活費を30万円出し 妻が25万円稼いで生活費を10万円出し 家事は妻と夫が3:1の割合で負担する夫婦の関係も平等ではないでしょうか。

次に、現場から出てきた男女平等に関する問題を風通しよく政治に反映させ、それによって個々人に見通しを与えることが必要となります。男女平等は、「国民の声」を政治に反映させることが本当に必要な課題なのです。

しかし政党政治はそれを担っているでしょうか。
政党は、党の方針を押し通すことで力を誇示し、さらに支持者を募るという構造をもつので、政党が男女平等の問題に対する場合は、なるべく見て見ぬふりをするか、逆に一方的な肩入れに振れるかのいずれかになりがちです。男女の就労の平等のように 微妙な調整が常に必要とされ 個別的でありつつ広い視野を必要とする課題は 政党政治という器にはうまく盛り込めていないようです。
男女平等の問題が注目されつつも錯綜している現状は、政党というものが時代遅れになっている表われのひとつともいえるでしょう。

マスコミも、イメージアップのためか、女性尊重のメッセージを濫用します。それがこの問題を余計に紛糾させ、その紋切り型のおもねりがマスコミへの信頼を損ねているにも関わらず、それを繰り返しています。
無反省な言説がはびこることで社会の分断は深まるのです。それを社会の木鐸たるべきマスコミが現在やっているのです。

男女平等についての模索と摩擦は長く続き、私達は少しづつ変わっていくしかないでしょう。目的や機能の異なる場や組織ごとに、その時々に是々非々と合理的な解決を探り 考え 悩まなければならないのです。
これは双数のつまり一対一での相互承認による解決を待つべき問題です。

その中で、男女が互いに諦めるしかない場面もあるでしょう。

たとえば、人間の男性が年間を通じて発情期のように性欲が強いことは女性にとってはうっとうしいことでしょうが、直立二足歩行によって妊娠しにくくなった人類という種を存続させるうえで、これは仕方のないことです。

他方、「『自分の世界』としたいところで境界線を引き、その内部での不完全性を認めようとせず、外部のものは無視する」心理は女性に見受けやすいものです。言い換えると、自分がえこひいきされることが大好きで、自分の家族への否定的評価はたとえそれが建設的批判であっても許さず、有能な変人とうけのよい凡人がいたら後者を配偶者に選びたがる、という習性です。しかしこれも育児に非常に長い期間をかけざるを得ない人類という種の存続にとって仕方のないことです。

しかし、人は時として、自分の意に沿わない相手に敵意を向けます。

男女平等という理念をはさんで 男女が互いに敵意(怖がって話しかけさえしないこともこの一変種)を持つことは避けねばなりません。

ある人の行動が、その集団の多数から不適切と判断されるような場合には、その人に敵意を向ける人のほうが正しいとされることもあります。敵意を向けられる人が弱い人だった場合、身を守る術のない自分に周囲の全てが敵意を向けているようにしか見えないのですから、これは恐ろしい状況です。

客観的に正しい言説であっても、そこに敵意も含まれているならば、その敵意は自己中心性として指弾され排除されなければなりません。主張に強さを色づけするために、敵意のような強い「思い」を混ぜ込みたくもなる時もあるでしょう。しかしその手法を濫用してはなりません。

変革には人々のコミュニケーションが必要であり、コミュニケーションには寛容さも必要です。

それは「平等」の問題ではなく、「平和」の問題です。

平和

平和は、生成中の理念です。

近代は戦争の与える多大な苦しみを経験しました。
戦争は不正義であることが多く、しかもそれを上回る不正義を誘発するという二重構造をもちます(不正義や悪というものは、おしなべてそういう誘発性をもつものかもしれませんが)。自衛戦争でも戦闘は最終局面では虐殺になります。身を守るすべをもたない人々は特に大きな苦痛や恐怖を受けます。

その戦争を防ぐため、人々は対立理念を必要としました。

このような経験的淵源から発生した平和という概念は「戦いのないこと」という具体的内容となります。

このような意味での平和という規範は、政治においても一応は重視されています。

ではこれはどうすれば実現できるでしょう。

「自分が武力を放棄すれば平和になるだろう」という期待はあまりに楽観的です。
戦争は起きないでしょうが、虐殺を受けない保証はありません。
独裁国家からミサイル攻撃や島嶼奪取を受けた時に武力抵抗しないことが正しいとも言えないでしょう。

戦争をしないと宣言する日本国憲法第9条に沿った方法で平和を実現しようとすると、かえって平和が遠のく危険もありえます。 9条は日本の軍事的再起を防ぐことを目的としてアメリカが急いで定めたものであり、日本が平和に存続し続けるための手段を考え抜いて定めたものではないからです。
日本の平和を実現するには日本人自身が最上と思われる手段を考え抜かねばなりません。そしてその内容は9条と整合的であるとは限りません。

とはいえ、9条の改正を急ぐことは不要で、よほど慎重に進めなければ実利を損ねます。
不戦と軍隊不保持という理想は高邁すぎるとしても、自衛しかしないことを明示する姿勢は日本のソフトパワーのひとつです。日本に侵略をしかける国はいささかは余計に国際的評判を落とすことになるでしょうし、逆に9条を下手にいじると「また戦争をしかけられるのではないか」という周辺国の人々の警戒心を高め、世界の日本への評価を下げかねません。
9条を改正しなければ防衛費を増額できないというものでもありません。
むしろ、下記のように玉虫色に解釈されうる9条は、現状では意外に使えるかもしれません。
第一項(戦争放棄)の実現には「日本と紛争が起きても戦争はしかけない」という他国の意思決定も必要としますから、これは日本政府の統治権の範囲を超える規定であり、プログラム規定(国家の努力目標)にすぎず、法的強制力を持ちえないものとしか解釈できません。
第二項前段は あくまでも国内事情について規定したものなので法的強制力を持たせようと思えば可能であり、武力を放棄する根拠条文にもなりえます。しかし「武力の放棄は危険で現実味のないことだ」と判断すれば「戦力の定義は背景事情によって異なってくる。自衛力は戦力でない」と解して骨抜きの規定にすることもできます。
第二項後段(交戦権の放棄)の「交戦」を「戦争」と同義だとすれば第一項と同じ解釈となります(同義反復となるので削除すべきです)。しかし「戦争」は事実状態であり「交戦」は国家間の合意の一種であると考えるなら、国内事情に限定した解釈も可能です。つまり「事実状態としては武装抵抗(戦争)する。しかしみずから宣戦布告せず、宣戦布告された場合もそれを受け入れず、国際法的には「交戦」状態にはしない。もし指導者が「交戦する」と宣言したら、(戦争の勝敗のいかんに関わらず)その者に罰則を与える。」という解釈です。
しかもこれらの条項は全体として「日本国は決して戦争をしたいとは思っていない」という意志の明示にもなっているのです。

私達は、武力の放棄というてっとりばやそうな手法は諦めて、目の前の戦争を回避できるようにしのぐ流れを少しづつととのえるしかないようです。  

そもそも、戦争(みずからの集団に属さない他者を 暴力により互いに排除すること)さえ避けられればよいということでもないはずです。

組織的虐殺を受けることに比べればむしろ戦争のほうが生きる可能性を開くときには、戦争は不正義とは言えません。紛争地域から難民を救出するときに戦いを避けることは難しいでしょう。市民革命の戦いがなければ暴虐な王は排除されないでしょう。正義は相対概念であり、「戦争は常に不正義だ」とは言えないのです。

また、たとえば ある国の政府が少数民族を自国民として併合して(みずからの集団に属させて)おいてから脅迫的に(警察や軍隊などの暴力装置を背景に)その土地から追い出すことは、同じ集団(国家)に属するものを相手としている以上、上記の一般的定義からいえば「戦争」とは言えないでしょうし、政府が巧妙にやれば戦いも起きないでしょう。しかしこれは人を根底から破壊する所業であり、戦争に勝るとも劣らぬ悪です。

では何が実現されるべき、あるいは避けられるべきなのでしょうか。

素朴に考えれば「平和」とは「誰もが他者に敵意を持たず、生きることを妨害しない状態」と意味づけられます。
しかしここからは「何をするべきなのかあるいはしてはならないのか」という規範は定立できません。結果的にそうなったときは 「これは平和な状態だ」と評価できるものの、それにむけて何かすることは難しく、むしろ下手に動くと見当はずれで不合理な行動になりかねません。(このような性質は たとえば「安心」のような他の理念にもみられます。)

なぜなら具体的に実現したいあるいは避けたい結果は人によって大きく異なるので、「結果」から平和というものを定義しようとするとコミュニケーション不能となりがちだからです。たとえばロシアの周辺国をNATOに入れたくなかったプーチンにとって、自国に危険のない状況を確保するという目的からみれば、ウクライナ侵攻も「平和」という理念に沿っていたのでしょう。

共有できない理念は理念ではなく、それどころか知でもありません。

規範としての「平和」は、これとは異なる内容になりそうです。

戦争は、何かを育み共有することをむやみに断ち切ることを根底にもつ現象です。

そうだとすれば、その対立概念である平和には「断ち切らないこと」という消極的定義があてはまるかもしれません。

規範としての平和は、まだイメージが生成途中でこれから私達の映し絵として浮かび上がる理念、現状では対象としてではなく、姿勢として存在している理念のようです。

そして現状において「平和」とは、戦争などの悪いことがないことではなく、「悪いことは何か」を(思い込みを避けて)常に問い続けるものの見方 あるいは悪いことを回避するために試行を繰り返せる姿勢を意味するようです。

それは、たとえば、歴史を常に世界史として捉える姿勢です。
自国の歴史を自国の立場から振り返り記憶するだけでは歴史から学ぶことはできません。このような姿勢では、ややもすると、先祖が祖国を守るために外敵と英雄的に戦ったという神話的な側面が強調されがちとなり、さらにそれは時の権力者の権威主義の基盤を固める糊剤に流用され、偏狭なナショナリズムの装飾に使用されてしまいます。中国も典型ですが、韓国に至っては日本と戦っていないにも関わらず 戦ってきたという装飾が欲しいばかりに まだ反日運動を続けて「平和」を傷つけています。※25

※25

異界から守るという戦争の論理は文化的な後押しを受けているだけにやっかいです。世界の民話の二大潮流は異物来訪譚と英雄譚であり、前者は異界が近づいてくる話、後者は異界に行って戻ってくる話なのです。
しかし他方、現代の創作民話とも言えるジブリのアニメは、異界をみずからの歴史ないし経験として取り入れる、という平和的な世界を描きます。たとえば「もののけ姫」ではそれが外部的に描かれていますが、「千と千尋」ではより内面的に描かれています。
ジブリは、異物来訪譚と英雄譚の混合した「ホルス」「コナン」を足掛かりとして、一方では「ぱんだこぱんだ」「トトロ」「ポニョ」などのおだやかな異物来訪譚を紡ぎつつ、「ラピュタ」「ナウシカ」などで英雄譚を洗練させた末に、上記の「もののけ姫」以後の作風に行きついたようです。

またたとえば、私達は好戦的な理念に気をつけるべきです。
戦争は、決して欲得だけでできるものではありません。こちらにも犠牲が出ることが予想される以上、必ず「そのためなら死ねる」と人々がどこかで納得できるような大義名分が必要です。

そのような例として、しばしば使われてきた概念(理念)が「国家の防衛線」です。

過去、日本が朝鮮半島を植民地としたのは南下するロシアへの空間的「防衛線」を必要としたからであり、中国大陸を侵略したのも、欧米列強に対抗するための資材や人員を確保するという資源的「防衛線」を必要としたからです。現在も中国は列島線という空間的防衛線を引こうとしていますし、ロシアもウクライナを空間的緩衝帯としようとしています。

防衛線は融通無碍に広がるので、互いにぶつかる可能性が高くなります。「自分が防衛線を必要とするのだから、相手もそれを狙うはずだ」と枯れ尾花を幽霊にする危険もあります。

しかもこの言葉(理念)の裏には富の囲い込みの意図が含まれます。

その囲い込みで得をするのが中国共産党幹部やロシアの支配階級だとしても、その国の人々は「防衛」という言葉に逆らえず、戦場に駆り出されてしまうのです。

これらのように、「これで自分は正しいのだろうか」と常に探し続ける姿勢こそ、平和主義というべきでしょう。

さて、振り返れば、これまでの大きな戦争は国家同士で行われました。

ひとつの有機体のような強い結束力をもち、個人の責任を埋没させてきた国家は、確かに怪物(リヴァイアサン)に例えられるべきものです。

特に大きな戦争や戦い(武力革命を含む)が起こりがちなのは絶対主義下の国家、特にその始期と終期です。
たとえば日本は幕末から1945年まで戦争に明け暮れていましたが、この時期は(イギリスやフランスの半分程度の)短命な絶対王政だったと言えるでしょう。

現代においては、大国同士の直接の大戦争がいきなり起きる可能性は、さすがに高くはありません。
しかし大国を後ろ楯にした紛争は(まるで大国の兵器産業の需要を創出するかのように)次々に起きます。
それらが導火線となった絶滅戦争の危機にさらされている今こそ「国家」というもののありようを見直すべき時でしょう。

そこから現代における「平和」の意味もより具体化してくるでしょう。

国家

国家は、本質的に虚構(fictio)であり 理念の一種です。従って、その枠組みを見直すことも当然に可能です。

それが忘れられやすいのは、人々に生気を吹き込まれてゴーレムのように主体として動き 構成員や統治形態や国境をみずから変化させるからです。

国家間紛争を避けるには、国家というゴーレムから適度に生気を抜き、冷静かつ多元的多層的にそのありようを見直すことも必要です。

国家の変化は、周期的な分裂と収斂(統一)という形をとることがあります。

日本はおよそ1000年周期でした。西暦500年頃、大和、吉備、出雲などの争いは一応おさまっては朝廷が成立したものの朝鮮半島とのつながりも強く、国家としてのまとまりは弱い状態だったと推測されます。それが平安期(1000年頃)に統一のピークを迎え、その後分裂に向かって戦国時代(1500年前後)にそのピークを迎え、その後は2000年に至るまで統一へと向かってきました。今後は中央政府の権威が揺らぎ地方分権的な体制が色濃くなる方向に動き出すと推測されます。 

ヨーロッパはおよそ2000年周期です。紀元前1000年頃は地中海沿岸にフェニキア人、ヘブライ人、ギリシャ人等の国家が分裂的に並立し、紀元0年頃のローマ帝国の成立で収斂はピークを迎え、1000年頃のノルマンコンケストの頃に再び分裂のピークを迎え、2000年に至るまで緩やかに収斂へと向かいました。EUはこれから徐々に分裂に向かうでしょう。

西南アジアはおよそ800年周期です。西暦800年頃にイスラム教による急激な統一を果たし、その後分裂が始まり1200年頃には十字軍やモンゴル軍の侵入もあって分裂し、その後統一への揺り戻しが起きてオスマントルコ帝国は1600年頃に最盛期を迎えました。しかしその後は現代までヨーロッパ列強の圧迫のもとで分裂が進みました。2000年以降は徐々に地域の統一あるいは連合が進む周期に入ります。

中国では、統一と安定がみられる時期と 混乱と外圧により分裂に向かう時期が、およそ800年周期で入れ替わります。分裂の時期を挙げると以下の通りです。

  • ・紀元前600~200年頃
    春秋戦国時代。
  • ・紀元200~600年頃
    漢末の三国、五胡十六国を経て隋による統一を迎えるまで。
  • ・1000~1400年頃
    漢民族とは異なる民族の国家である遼、西夏、金により圧迫を受け ついに元が中国全土を掌握し その後滅亡するまで。
  • ・1800~2200年頃
    白蓮教徒の乱、西欧列強の租借、日中戦争、文化大革命と混乱が続き、現在も進行中。
    中国共産党は国内を強く統制していますが、経済成長が止まるだけで人心は離反する状況です。対外的覇権を強めようとしてもいますが諸国から様々な反対攻勢を受けて苦戦を強いられるでしょう。

なお、すべての地域がこのような周期を持つわけではなく、たとえばインドは その領域の内に統一と分裂が併存するのが歴史の大半です。

また政治的分裂が必ずしも社会の衰退を意味する訳ではなく、たとえば1100年頃からヨーロッパでは人口が急増し、1500年頃の日本では物流網が大幅に整備されています。現代の中国の経済発展も見ての通りです。
逆に、統一が経済の隆盛を保証する訳でもなく、たとえば、西南アジアで今後統一が進んだとしても 同地域の水不足(農工業に不可欠な資源が他の地域と比べて不足していること)は経済発展の足かせとなり続けるでしょう。

欧米、中国、日本のいずれにおいても分裂ベクトルが強いこの先200年は、世界全体として分裂傾向が強まること、そして経済的には地域ブロックごとまたは国ごとの自給傾向が高まることが予想されます。ウクライナ戦争で欧米との貿易の減少したロシアのように、生活レベルの若干の低下は見られても窮乏せず、過度の消費は見られなくなり、持続可能な経済に近づく環境が整えられることにもなるでしょう。
 これは人類社会のホメオスタシスとでもいえる現象でしょう。

変化の中で、大規模な対立も発生します。

たとえば、人類の経済は、古代において狩猟採集から農耕経済と遊牧経済に地域ごとに分化しました。

それまでの狩猟採集から社会の経済基盤を農耕または遊牧に変えたそれぞれの民族は、互いの経済と文化の勢力を拡大しようと競いました。

ユーラシア大陸中央部に定住した遊牧民の国々は、農耕民の国々よりも遅れて成立しましたが、400年頃から勃興し、西ではローマ帝国の滅亡後のヨーロッパを圧迫して中世をもたらし、東では農耕民である漢民族の国を圧迫し続け、1300年頃には東西にまたがるモンゴル帝国が築かれました。

これは、彼らがユーラシア大陸中央部に位置することから人類の移動や交易を担うことができ(このような全世界的な物資と文化の移動を人類はいつの時代にも必要としてきたのです)東西交易による富を蓄積できたこと、そしてさらにその富を背景に強大な軍事力をもっていたことによるものと思われます。

しかし、基本的には遊牧という土地面積あたりの生産量の低い経済活動に依拠する遊牧経済圏は、1500年前後から航海術の発達により東西交易が陸路より海路によって多く行われるようになってくると、モンゴル帝国による完成の後に急速に衰退をはじめ(チムール帝国はその短い名残りです)、農耕経済と混合したイスラム経済圏(その初期形態がオスマン=トルコ帝国やムガール帝国です)に組み込まれていいきました。シンドバッドの物語ができたのもこの頃のようです。

同時に、ヨーロッパで絶対主義国家が成立しはじめ、ルネッサンスと呼ばれる時代の中で近代哲学が生まれ、資本主義の萌芽が生じ、大航海時代が始まり、彼らが海を通じた交易をより大規模に担い始めました。

当時の日本は室町時代末期あるいは戦国時代初期にあたりますが、封建領主達の富国強兵政策により農業生産も盛んとなって人口も増加し、中国との交易も盛んになりました。筆者の住む地方においても、この時代に町の中心部が高台から大きな川沿いに移動していることを見ると、この頃に水運が急速に発達したと推測されます。意外に大きな変化のあった時代なのです。 

対立は農耕民族の間でも生じます。

対立の末の支配体制として、財物や土地を強制的に徴収する植民地制度は昔からありましたが、近代の植民地制度は独占貿易という形に洗練されました。つまり植民地から特産物を安価に購入し、植民地に自国製品を高価に販売して、植民地から富と有効需要を奪取するのです。

「諸国民の富」第四編第七章で描写されているようにイギリスがアメリカと行っていた貿易もその例ですが、さらに長く禍根を残したのはインドとイギリスの綿関連貿易でしょう。

イギリスはインドから安く原料の綿を輸入し、国内で布や服に加工しました。輸入原料は安いうえに機械で大量加工するので、イギリスの労働者に高い給与を払っても、製品はそれほど高くなりません。よってそれをイギリスの労働者=消費者は買えます。買ってもらえるので、さらに増産することができ、技術も上がり、その布や服を他国にも輸出できるようになります。とりわけ綿布産業が手工業レベルで、傀儡政府が統治するインドはよい輸出先です。
イギリスは「製品を安く作るために給与を抑えると有効需要が減り、有効需要を育成しようと給与を上げると製品価格が上がる」という二律背反を、インドに損を被らせることで回避できましたが、その陰でインドの産業は衰退し、有効需要も慢性的に減じ、国全体が貧しくなりました。

植民地を欲するのは資本主義国だけではありません。むしろ現在では、社会主義の中国やロシアが周辺地域(ウイグル、ウクライナなど)を植民地化することに熱心です。

第一次世界大戦には「恐慌に陥らないための植民地の奪い合い」という側面がありましたし、第二次世界大戦は、さらに露骨に、恐慌から回復を急ぎたい先進国間の植民地の奪い合いという側面をもちました(婉曲に「保護貿易主義」「ブロック経済」などとも言います)。

イギリス、フランスは既存の植民地を保持するために戦いました。

アメリカは自国領内に原住民から奪った豊富な土地と天然資源があったので、「マーケットや有効需要のみを押さえる」洗練されて目立たない植民地政策を取ることができ、自由の旗手であるかのごとき体面を保てました。

ドイツでは、第一次大戦後、有効需要を育成する政策が時代を先取りして一部実現されていました。ナチスもフォルクスワーゲンの前身を設立して職を作りました。他の先進諸国のブロック経済政策さえなければ 植民地など不要だったかもしれません。しかしそれは存在し、植民地なきドイツは不利な状況におかれていました。「世界に冠たる」というアジテーションが人々のフラストレーションに点火することは容易だったでしょう。

日本は、欧米諸国のブロック経済政策により不足していた輸出先や天然資源や農地の入手先として そしてまた余剰に見えた労働者を棄民する先として植民地を欲していました。
(日本が植民地獲得に向かったことは間違いでした。しかし、ほぼ全世界の他民族を圧迫してきた西洋と互角に戦ったこと、さらに、戦に敗れて実質的占領を長く受けつつも 独自性を失わぬまま再び互角の経済力を実現したこと、しかもその経済発展モデルを他の非西洋国に模倣させてその地位を向上させたことは、誇りうる歴史です。)

先進国が自国に有利な貿易制限をしたことから大戦争が生じた教訓や、植民地にされた国々の反対攻勢、またそもそも植民地は世界の生産効率の足かせとなる重商主義の名残のような政策であることから、第二次大戦後は「どの国と 何を取引するか」を原則として自由にするべきだという自由貿易主義が世界を覆うことになりました。

さらに科学技術の発展で長距離の移動や輸送のコストも負担とならなくなり 国際的なサプライチェーンは、人々に豊かな生活をもたらしました。

のみならず、独占貿易という洗練された収奪システムは、自由貿易に変化することによって、収奪関係に質的変化をもたらします。つまり戦争に強い国が一方的に収奪するのではなく、弱い国も強い国から収奪できる部門もでき、相互に収奪する関係となるのです。敗戦国である日本の自動車産業がアメリカの自動車産業を衰退させたことが先行例ですが、中国によるアメリカ市場の収奪はより広範囲です。

収奪した富は国家にも租税として移転されますが、貿易主体はあくまでも私企業や個人ですから、富は主に各国の富裕層に保有されます。このような自由貿易で生まれた富裕層は、低くなった国境の壁を越えて互いにつながります。

自由貿易体制は、世界を多層化したのです。

「平和」の具体的実現の一環として、社会や個人の多層化が必要なのです。

富裕層は、貨幣、株、不動産、貴金属など経年劣化しない財を保有しているので これらの財の交換価値の維持のため、さらに国家による掣肘を減らし 国境を超えて自由に活動できる世界市場を拡げることを望むでしょう。

しかし世界の多層化は、自由貿易のみで実現するものではありません。

自由貿易の名の下に世界を単一の市場として均一化すれば、経済の相互依存を高めるので「紛争は損だ」という意識を醸成するでしょうが、同じ土俵で勝負しなければならないということは国家間の経済的軋轢を高めることにもなります。単純に「経済的グローバリズムつまり自由貿易が拡大すればするほど戦争が遠のく」とは言えません。

また、過剰な国際分業は国内産業の空洞化を拡大します。国内の経済格差は広がり、国を超えた富裕層と非富裕層との対立を激化させます。グローバル経済の中央に位置する富裕層は結託して周縁の一般市民から巧妙に搾取する一方で、ナショナリズムが勃興し、排外圧力が高まります。

また、自由貿易の名の下に経済を過度に輸出や海外の資源に依存していては、小国は大国からの様々な要求を飲まされることになります。

今後は、自由貿易とそこから適度な距離を保った経済の並立をめざすべきです。

一国内の自給能力を高め、貿易をやめても破綻しないレジリエンスの高い経済を実現していれば、燃料や食糧が海外から入ってこなくなっても耐えることができ、小国であっても大国からの様々な自己中心的な圧力を跳ね返す外交を行いえます。これはキューバやニュージーランドなどの例が証明しています。

経済的安全保障の観点から、国内での製造を保護して海外への工場移転に歯止めをかけることも必要でしょう。

また、再生可能エネルギーを普及させてエネルギーの自給自足をはかることは、近現代のパワーポリティクスを超える流れを世界史に導入できる可能性を持っています。

それらの政策のためにも、地方通貨の導入は役立つことでしょう。

また、適切な貿易制限は、自由貿易体制の恩恵の下で地下資源や安価な労働力で製造した商品の輸出で経済成長した後に侵略的性格を強めたロシアや中国の軍事力を削ぐこともできます(軍事力は経済力と比例するからです)。

また、外国人労働者を受け入れるにせよ、人数制限やたとえば合計30年などという長期の期間制限を行うこともなされてよいでしょう。

また、今後は、国際的に平等な税制や草の根レベルの国際的互助などの多面的グローバリズムの実現を目指すべきでしょう。

理想としては、世界市場、民族国家、地方政府、と多元的分権が強化された社会を意識的に築き、そのうちのいずれかが機能不全に陥った時には 個人がその集団の影響力から遠ざかり 他の集団に生活のベースを置ける道を開いておくべきでしょう。そうなれば いくぶんかは権威主義や寡頭主義が色あせ、平和に近づくのではないでしょうか。

ただ、それは世界がひとつに統合されることではなく、ひとつの心で人々が繋がることでもなく、様々な違いを互いに許すことです。歌いあげるような爽快感のあるものではなく、むしろいくらかの「もやもや」は残るはずのものです。

そのもやもやを抱えたまま、いずれは政治権力も国家または民族という枠を弱めつつ分有されるべきでしょう。
国家権力の意思決定を他の枠組みから多元的に責任追及できる多層的民主制を目指し、権力者にアカウンタビリティ(記録保存と開示の義務)を背負わせ レスポンシビリティの追及をうけさせる手続を多層に確保するべきなのです。

世界の多層化は、(表現や通信の自由、知る権利などを含む)情報交換の自由を前提とします。 また、情報を制限されると個人の精神も変化の可能性を失い、壊死しはじめます。情報交換の自由は人類に普遍的に必要とされるものです。

しかもこの自由は実現するための手間も些少です。検閲や通信傍受などを禁止するだけでよいからです。

従って、情報交換の自由の制限だけはすべて国家に対して禁ずるべきであり、それに違反する国家は反人道国家と言うべきです。

しかし他方では、情報の流通にはファクトチェックや編集方法などの課題もあります。

現在の急激な情報技術の発展は、世界が多層化する準備段階にあることを示してもいるのでしょう。

以上は、人々の国境を超えた活動を促進するという話でしたが、国家の統治権のほうを流動化させることも考えうるでしょう。

統治権の内容は以下のように分解できます。
1. 永住権を持つ居住者を決めうること、すなわち自己決定
2. 居住者と領土を軍事的に利用できること、すなわち自己保存
3. 居住者の経済活動、政治活動、私的活動を制約できること(警察権、課税権、不動産所有制限など)

これらのいくつかを他の組織に移譲したり制限したりすれば、国家という枠組みを緩めることができます。

領土問題の存在する地域は、このような国際的社会実験の場になりうるでしょう。

また、国際連合についても変革が必要でしょう。

国家単位で議決権が与えられている現在の国際連合では、国家間の利益調整という側面が強くなりすぎます。
しかも、現在の国際連合は、過去のファシズム国家(ドイツ、日本など)と対決した国々(アメリカ、イギリス、フランス、ロシア、中国)を中心メンバーとしますが、これらの常任理事国とそうでない国々との間には様々な格差が存在します。 
国際連合が一部の国々の利権の保護の場になるべきではありません。

他方 また、人口60万人のルクセンブルグと14億人の中国が同じ一票であることは平等と言えるのでしょうか。

国際連合の基本的枠組みが現在の世界とずれているなら、それに合わせて修正するべきです。それが無理なら、異なる国際機関が必要でしょう。

国際連合は、国家ではなく、国家に含まれる各地域や階層などの連合として活動するべきかもしれません。

すなわち、国家より小さな単位 たとえば少数民族などのその国の統治体に入りにくい人々の集団に議決権ないし少なくとも発言権を与え、国内で統治権を持ちにくい人々、たとえばアメリカにおける有色人種や中国における少数民族や非共産党員などが世界に影響力をもつ可能性を広げるべきではないでしょうか。そのような枠組みにおいて、人口数を議決数にもう少し反映すべきではないでしょうか。

また、国際機関がオンブズマン的役割をより有効に果たすためには、世界にどのような問題があり、専門家がそれについてどのように考えているかを明確にすることが必要です。そのためには専門性の高い国際問題(たとえば法人税や所得税の徴税)については、職能集団(たとえば国税庁)が国の代表となる国際組織があってもよいはずです。

世界の多層化は 個人の責任を埋没させないという意味も含みます。

従来は、戦争は国家の意思であるとされ、だからこそ敗戦国は領土や賠償金などをとられました。
しかし第二次大戦における敗戦国は、もともと他民族が住んでいた領土は返還させられたものの賠償金などは請求されませんでした。その代わりに戦争を起こした責任者が「平和に対する罪」を犯したものとして裁かれたのです。

確かに、裁く側が戦争の一方当事者で同じ穴のムジナ(他国を植民地にしていた国)であったこと、平和に対する罪単独では終身刑に留まったニュルンベルク裁判に対し 死刑まであった東京裁判は人種差別的であったこと、無理な共謀認定があったことなど 様々に不当な部分はありました。またこのような寛大な処理の対価として、アメリカへの隠れた従属が存在しました。

しかし戦争の後始末として画期的であったことも事実です。

近時においても、ウクライナ侵略を命じたプーチン大統領への個人資産凍結措置がとられましたが、今後もたとえばウイグル人への迫害について、中国という国家に対してのみならず、むしろ先んじて中国共産党幹部に対して制裁を加えるという抑止手段も考えうるでしょう。

さらに「平和に対する罪」をあらかじめ国際規約で制定しておくこと、たとえば「核兵器または細菌兵器の先制使用を命じた者は死刑に処す。またその一親等以内の個人は法律の保護の外に置く(カトリック教会がルターに宣告した刑です)。」とでも定めておくことは絶滅戦争への抑止力として無駄ではないでしょう。

とはいえ、国家は、必要とされる存在でもあります。

一定の領土において一定の人々が共通の統治権を戴くシステムが「国家」です。
統治を受けるということは、逆に言えば 国家は人権を実現する義務主体であるということです。一族であること、村落共同体に属すること、職能集団に属することなどに関係なく、その国に住んでいるだけで認められる個人の利益を保障してくれるのは国家なのです。
人権は国家があって初めて成り立つのです。人々が国家を地方よりも上位のものとする理由は、国家の力の強さからだけではないのです。国家という枠組に高い価値があるからです。

アメリカの国力が相対的に弱まり 世界の警察(番長)として主導権をとれなくなりつつある現在、アメリカの従属国であった日本、人口が減りつつある日本、技術立国としての地位を失いつつある日本はどうすればよいかを考えることも大切です。

平和国家を謳い上げても、大国が覇権を争う世界情勢にひきずられるなら 戦争に巻き込まれるのは自明ですから、長期的戦略としては、周囲を海に囲まれていて占領されづらい、他国が欲しがるような天然資源がない、という地の利を生かして、スイスのように永世中立を目指すべきかもしれません。国同士で徒党を組まないということです。

もちろんそのためには経済力および強い自衛戦力を維持し、食料やエネルギーの自給率を高め、さらに他国との交渉力をもつことが必要であり、簡単でないことは明白ですが、日本が平和であり続けるには最も確度の高い道です。

さて、ここまで近現代において特に重視されてきた理念について再検討してきた中で、皆わかっているつもりの理念に色々と虫食い穴があることが確認できたと思います。

しかしそうであっても、近代が理念によって社会を構成しようとしてきたことは大きな進歩です。理念について議論を重ねることで社会の意志決定がなされることで、多くの人が統治にも経済にも参加できるからです。そのような民主的社会のフォルムが、人間の本性に最も合致するからです。

そのことを再確認するため、近代の黎明期において権威と権力に支配された社会から離脱すべく奮闘し、半ば成功し半ば失敗した試みをいくつか紹介したいと思います。

また、その前提として、ここで改めて権威主義というもの および人の思考の種類について詳述しておきたいと思います。

権威主義

権威主義とは、力のある者の言説を無批判に受け入れる姿勢です。
私達の思考を歪め、私達を寡頭主義と寡頭制に汚染された政治や経済に導き、社会を閉塞させます。

なぜ私達は、そこに引き込まれてしまうのでしょう。

動物は生きるために食料を、殖えるために異性を必要とし、個体間の調整は究極的には闘争により終了しますが、多くの動物は「なわばりを囲い込む」ことで闘争の日常化を防いでいます。

高い社会性をもつ人類の場合、生活資源(物の場合も 知識の場合も 人的関係である場合もあります)を囲い込んで他人を排除する方法も高度に様式化され、脅す、騙す、利益誘導する、泣き落とす、説得するなど様々です。

最後の「説得」において、判断や評価の正しさ(効果がある 合理的だ)を担保するものは事実です。事実とは「誰が何と言おうとそうなっているもの」で、たとえば 地球は球形であり、その重力加速度は9.8m/s2です。

しかし、実際の人間関係においては、事実だけでは説得材料が足りないことが多く、その事実をどう判断するか、評価するか、という作業がさらに加わります。そこでは「皆がそう言っているから正しい」という論法すなわち正統性や客観性を用いた説得がなされます。

正統性とは、整合性をもったものとして長く続いてきたことから、合理性が推測されることです。「皆がそうしてきた」ということです。

客観性とは、多数者の賛同を得られることから合理性を推測されること、いわば思想の多数決です。「皆がそう言っている」ということです。

これらは確かに根拠ある説得材料となるものですが、効果や合理性を直接証明するものではなく、間接的にそれを推測させる間接証拠であって、それほど高い証明力があるものではありません。

そのうえ、それが「本当に長く続いてきたのか」「本当に多数者の賛同を得ているのか」は検討を要することです。
なぜなら人は往々にして、自分に都合のよい範囲で時代や集団を切り取り、「その時代の中では長い」「その集団の中では多数」であることをもって、正統性や客観性を主張するからです。
「自分達の意見こそ常に客観的だ」と言うために党派が組まれることもあります。
先に有利な監督的立場を確保し それを奪われないことに精力を集中させている現在の権威者達は、それまで問題がなかったかのようにあるいはそれが多数の意思であるかのように「正統性」「客観性」をフェイクすることもあります。

特に人は、みずからの判断ひいては欲求すら、他人のそれを引き写して生成する性質、つまり他律性をもちます。様々な社会勢力が権力をふるう中、私達はあてがわれた場面や役割ごとに自分(ペルソナ)を替えさせられることに慣れてもいます。

それは親に長く育てられることから持たざるをえなかった性質です。

しかも人という動物の感覚受容は視覚偏重型です。
視覚は方向性が強く集中しがちです。聴覚や臭覚のように全方向的ではありません。つまりフレームを決めがちであり、また注意すべき対象と背景として無視すべきものとを選んでしまいます。したがって、誘導されやすく 暗示にかけられやすくもあります。

よって人は、特にみずからの無力におびえるとき、誰かとの結託を望みがちになります。
危機が迫っている場合、判断や評価の共有を早く成り立たせて行動に移るべく、往々にして人は単純に考えたくなります。「誰がそう言っているのか」のほうが事実や合理性よりも重視されがちとなります。

これが権威主義であり、そのもとで人々は潜在的に抑圧され、変化の可能性をみずからつぶしていることを見過ごしたまま、途方に暮れます。

他方、人の思考には、目的性・支配性が強い場合(「こうしよう」「こうできる」)と、それらが弱い場合があります。

目的性が強いとき、人の思考は、みずからの行動につながる何らかの意欲を引き起こし、何かについてその「本質」を問う姿勢となります。これは「べき」論的(「それはいかなるものであるべきか」)または実在論的(「それはあるか」)な立場です。
ここでは活き活きとした答えをだせますが視野は狭まります。行動における具体性が見過ごされがちにもなります。
たとえば「洟をかむべき」という判断には具体的な道具の指定までは含まれません。ティッシュペーパーだろうが葛の葉だろうがどうでもよいのです。道具の選定が問題になるのは「洟をかむべき」という判断が下された後の話であり、判断中には何ら考慮されず、現実の環境は抽象化してとらえています。

このような思考の対象とできるのは抽象的なものや人工的なものに限られます。
本質論や「べき」論は「我が国に民主制はあるのか」と政府を糾弾し、「民主制とはどのようなものであるべきか」と熱く議論することはできます。
しかし、目の前の猫を見て「猫とはどのようなものであるべきか」「猫の本質は何か」を問うのは変人か病人です。

目的性が弱いとき、人の思考は、何らかの問いに対して それをみずからの外のものとして距離をとり、同時にみずからの立ち位置に留意します。
「それ」はみずからとは無関係なものとして探求され、そのものの諸々の性質を問い、他方では「それをいかに認識しているか」という問いをみずからに向けることになるので、慎重で比較的公正です。しかし、意欲につながるものではありません。これは「である論」的あるいは認識論的な立場です。

このような思考の対象は、具体的なものから抽象的なものまで広範です。猫でも民主制でも何でもござれであり、みずからも、思考の主体とてではなく、生物としてや社会的存在としては、このような思考の対象となります。

そしてまた「べき」的な志向が強い時は、人は「べき」論と「である」論を近接したものとしてとらえます。
他方、「である」的な志向が強い時は、人は「べき」論と「である」論をはっきり区別します。

権威主義は人類の思考上の癖であり、目的性の強い「べき論」的思考のみならず、積み重ねが重要な「である論」的思考をしているときでも、問い続ける姿勢を忘れると、そこに陥ってしまいます。

さて、近代初期の西洋の思想家たちは、当時評価権を握っていたキリスト教神学とそれとコラボした当時の形而上学の正統性と格闘し、近代社会を築く妨害を乗り越えようとしてきました。

形而上学は事象の本質をとらえようとします。事象の認識から抽象された(認識には常に抽象が伴います)概念を「ある」ものとして名づけ(言語化し)、次にその「ある」ものの性質や関係性を調べようとします。言葉は、人が考えるための堅固な部材です。たとえば「四つ足でニャーと鳴く動物はネコと呼ぶべき」という言語ルールは、少なくともその社会では絶対的なものです。確かに思考上は「ある」のです。
しかし、それが「どのようなものか」わかる前に「ある」と措定してしまうと、「ある」とするための辻褄合わせが起きます。なぜなら、何かが「ある」と言うことは、その何かに同一性や統一性を無意識に認めることになるからです。

また、当時の形而上学の土台には「世界のすべてを知にとりこみたい、理解し かつ言葉で説明したい。」という志向がありました。しかし、「世界」には人の営みも含まれますから、すべてを「である」論で説明することは無理であり、「べき」論が含まれることになります。「べき」論に基づく言葉や定義は往々にしてディテールを欠く粗雑なものとなり、しかも本人はそれに気づきません。「である」論による検討もしているようで、おざなりにされてしまいます。

かくして当時の形而上学は、「事象そのものとその事象を説明する概念は少なくとも思考上は同一視できる」という前提のもと、その概念の正しい定義やあるべき姿を追求することで事象の本質を把握しようとしました。※26

あるかないか解らないものをとりあえずあると仮定して言葉にしてしまい、「べき」論を駆使するという、この前のめりな概念の場では、みずからの世界観を無謬の真理としてエビデンスの要求さえ拒むことも可能になります。そうなるとこれは学問のごとき外見をもった修辞法に堕し、柔軟な変化が必要なはずの時代に、現状追認の道具になります。

非常に手が込んでいますが、これもまた権威主義的思考の典型例のひとつです。

  ※26

「概念と現存在との一体性」(ヘーゲル『法の哲学』 280節)すなわち事象自体を常に正しく示す言語という当時の形而上学的な枠組みが虚構であることは、後の諸賢らによって指摘されます。
たとえばソシュールは「言葉はそれが表す対象に無関係な内部的法則性をもって生まれる」と言います。
ウィトゲンシュタインは「哲学とは言葉の意味の説明にすぎず、言葉の意味とは 多くの一般の人々が使っている意味にすぎない」と主張します。

概念のあるべき姿は 時と場と人によって異なります。世界も人も変化するのですから、共有される意味も常に更新されます。ある概念がある事象をいつでもどこでも誰にでも過不足なく表すということが不可能であることは、少し冷静になればわかるはずです。
しかし、形而上学的とは言わぬまでも、変に言葉にこだわった思考は、現在でも法解釈学などでは実用されています。
そこでは、立法権者が定立した言葉を一種の無謬の真理を啓示する金言であるかのように運用せねばならないという建前のもと、「リーガルマインド」という明確に説明しがたい仲間内の思考法らしきものと専門用語で判例や論文を固め、一般人には評価も批判も許しません。

このような思考の化石化に警戒すべきことは、東洋では仏典(たとえば「色即是空 空即是色」)などで伝えられてきたはずです。
物体の世界でも、現代物理学では、光は粒であると同時に波でもあると理解されています。存在(「ある」)とは波のようなものであり、生命体の認識や伝達は別の波を作り出し、その重なりにより粒として生命に感知されるのかもしれず、「物質」とは物質感を表す言葉に過ぎないのかもしれません。
そうだとすれば、別の場に同じものが複数「ある」こともあるかもしれず、「ある」という言葉にこだわるべきではないのかもしれません。

19世紀の初めに活躍したヘーゲルやベンサムは、キリスト教神学の権威性が衰退しつつあるものの、それに代わる新たな規範が確立していない社会で、それをいかに作るか、いかに人々の心の中の中世を終わらせるかという課題に応えようとしました。

それは半ば成功し 半ば失敗しました。

ヘーゲルの限界

ヘーゲル(1770~1831)の哲学は、近代的統一国家の確立を急ぐ当時のドイツにおいて、年代においては遅れるものの、イギリスのホッブズ(1588~1679)やロック(1632~1704)、フランスのルソー(1712~1778)らの思想と同様に、絶対王政と共和制のせめぎあう時代を準備する機能を果たしました。

ヘーゲルの戦略は、形而上学の正統性と現実の社会の接点となりうる概念を設定し それらは変っていくべきものであるとし かつ評価を下す権限の所在を流動化させ 徐々に形而上学の力を削ぎ落とす、というものです。

ヘーゲルは、伝統的権威である教会と同様に「真理は神から啓示されるもの」としつつも、その啓示を受ける権限を目立たぬように教会からみずからに移し、それにより変化の可能性を生んだのです。

ヘーゲルは、キリスト教神学に対抗して、世界全体を説明しようとします。そのために、神学と同様に、言葉にされたものを実在とみなし「べき」論を多用する論法を使います。

ヘーゲルは、実在を表す言葉の存在に信頼を置く伝統を受け継ぐ点で、それまでの学問的権威であった形而上学の継承者です。当時の哲学的概念の中から(彼なりに検証した)正しい言葉を見いだし、「べき」論をベースにした「である」論を積み重ね(「国家は倫理的なもの(同261節)」「宗教は絶対的真理を内容としており(同270節)」)、世界を「いかにとらえるべきか」という判断に重心を置く実在論者として教会と同じ土俵に立ちます(他方、世界を「いかにとらえているか」という認識に軸足を置くのが認識論者です)。

しかし他方、ヘーゲルは、現象の背後には法則がありかつその法則は理念によって捉えうるものだ、と主張します。
「理念よりほかになにも現実的ではない」(『法の哲学』 序文)、「哲学における真理とは概念が実在に対応することである」(同21節)と述べ、完全なる神ないしその類似物を 神学や哲学が積み上げてきた言葉(たとえば理性、意思、自由、精神など)で証明しようとします。
粗雑な「べき」論的議論は往々にして評価する権限(評価権)を争う権力闘争に変質しがちで、そこでは既存の権威が勝ってしまうことが多いのですが、ヘーゲルは近代的統一国家の勃興に揺れていた当時の社会を背景としつつ、権威ではなく理念の重要性を強調することで、みずからの判断を教会の教義に並び立たせる可能性を開いたのです。

ヘーゲルを支えていたのは彼の博識つまりは教養です。

彼は多くの事象を整合的かつ壮大に説明することができました。神について論じ、歴史を神との関係でとらえなおし、他方では自由や正義等の理念を通じて近代について様々な提言を行いました。それは 自力救済の禁止(『法の哲学』220節)、国家主義(同258節、272節他)、政教分離(同270節)などの近代国家原理のみならず、インフラ整備(同236節)、職業教育(同239~241節)などビッグプッシュの一環といえるような政策にまで及びました。

それらの多くは、当時のドイツの知識人達の良識にも沿っていました。それは「子供に奉仕を要求することが許されるのは、教育だけを目的とし 教育に関係しうる場合だけである(同174節)」「欲求は、直接欲求している人々によって作り出されるより、むしろその欲求が生じることによって儲けようとする人々によって作り出される(同191節)」「植民地の解放がそれ自体本国の最大の利益である(同248節)」などの一節にも表われています。
ただそこには「婚姻以前には なれなれしくしたり知りあったり一緒に行動する習慣をつけたりしてはならない(同168節)」のように現代においては不合理なもののみならず、「もし女性が政治の頂点に立つとすれば国家は危機に陥る(同166節)」など 当時においても明らかに事実と異なるものも含まれ(当時もエカテリーナⅡ世やエリザベスⅠ世の例がありました)、政体論も立憲君主制(象徴君主制)の追認に留まり(同279~280節)、「最も厭うべき人間、すなわち犯罪者や病人や不具者(同248節)」など全体主義の萌芽も含んでいました。

彼は、当時の学問の伝統と社会一般の賛同を融通無碍に使いこなしたのです。

さらにヘーゲルは、歴史を味方につけるため、歴史そのものに発展法則があると述べます。歴史は、(比喩的には「神の意志によって変わってきた」ということもできるが より直截には)知や精神という客観性や正統性のある集団意識そのものがあたかも生物のように生成発育する中で変わってきたのだと述べます。

その一方で、精神すなわち集団意識が弁証法的に発展すると述べ、相互承認(絶対精神)による歴史の発展をうたいます(弁証法的歴史観)。

「弁証法」という言葉は人によって様々な意味で使われます。共通しているのは「対話的な思考を通じて概念を正確に把握する」という手法をとることです。
たとえば「勇気とは何か」という問いについて「ではこういう事例はどうか」と相手に何度も問い直すことで、相手の「勇気」の定義の矛盾を認識させたソクラテスの産婆法も弁証法の一種です。

ヘーゲルの弁証法は、「いかなる事実や真実も部分的な事実ないし真実である。したがってより統合されたものの一部となる可能性があり、意味を変化させうるものであり、あるいは在りよう自体が変わりうるものである」という主張です。ヘーゲルは、知や認識を「開かれた発展するもの」とすることで キリスト教神学の排他性を乗り越えたのです。

しかし、やはり言語を実在として自由に組み立てた概念には「べき」論が混じりやすくなります。

「べき」論により.語られる対象は抽象化されてどんどん現実離れしていきます。本来は必要な数々の条件が無視され、同時に存在する事象も無視されます。

たとえば「花の美しさ」を語っていると、花が美しく見えるときの一瞬の光や風や湿度は無視され、花びらの裏についている葉ダニも無視されます。(他方、「美しい花」を育てる人は、それらにも気を付けざるをえません。)

このような思考の下では、精神(ヘーゲルにおいては「集団意識」というような意味のようです)も、どこまでも美しく、強く、闊達なものにされてしまいます。しかし実際には集団の意識は、常に生成発展するのではなく狂うこともあります。その現実から目を背けて「生成発展するべきだから生成発展しているのだ」といっては「べき」論と「である」論を混乱させた現実逃避にすぎません。「精神は自然に発展する」というのは美しい虚構にすぎず、実際には誰かの判断によって主導されるものです。この精神を主体のようにとらえることは、「実際には誰がどのように判断しているか」「それが合理的で正当なものか」という問いをあいまいにしてしまいます。

これは教会の権威をうやむやのうちに否定するうえでは役立ちますが、その後「では いかに考えるべきか」という問題には回答はなく、単なる現状追認の道具にもなれば、あまりに突飛な発想の支柱にもなってしまいます。

「歴史の弁証法的発展」も、結果としてそうなることもある あるいはそうなることが多いことであるにすぎません。

「なぜ相互承認できるのか(なぜ安心して自己批判できるのか)」という基盤を整えることが重要なのです。それができていないと、結局はそれぞれが自分自身を権威にしてしまいがちになり、あるべき変化を妨げてしまいます。

そこでヘーゲルは教養によってみずからを変えることの重要性を説きます。「身を正そうと思えば 正せるのだ」という、カントにも通じる、いかにもドイツ観念論的な主張です。

しかし、教養などという既存の知によってみずからを変えうる範囲などわずかです。部分のくせに部分であることをみずから判断できるのでしょうか。※27

※27

先走りますが、これこそ信仰の領域、神とのダイアローグ(天啓)を求めるべき場面です。人が「生きよう」として「生かそう」とする神の働きを受けたとき、そこにあらわれる事象が結果として弁証法的発展と言えるのです。人だけで目指すことのできるところではないのです。

また、ヘーゲルは、「精神」の最高の規範は「自由」であり(『法の哲学』30節)、自由を「かくあるべきもの」と理想化し、自由を守ることこそ個人と社会の目的であると考えます。もちろんこれは自由を抑圧していた教会の権威に対抗するためでしょう。しかし、ここにもヘーゲル独特のやりすぎ感があります。

たとえば、刑罰は犯罪抑止のための威嚇であるとするフォイエルバッハの説を、犯罪者の「自由」を脅しによって妨げるものであるから不当だとします。

また、たとえば自殺という現象については、社会的損失、自殺者による全世界の否定、疲労の極限における最後の自己決定など様々な切り口があるはずですが、ヘーゲルは「自殺する権利があるか」という命題をたて、生命とは人格であり、人格は支配を受けるべきものでなく自由であるべきものなので、その自由を否定する自殺は許されないと結論づけます(同70節)。

ヘーゲルは精神の中心に自由意志を置き、意志を持たないものには人として生きることも許しません。
曰く 「私は、ただ『そうする』ことが私の意志であるかぎりにおいてのみ、生命をもつ」「動物は肉体を占有しようと意志するのでないから生命について権利をもたない」(『法の哲学』47節)。

さらにヘーゲルは自由を理想化するため、そして自由を制約しにくる外的状況も「自由」の中に弁証法的に取り込んでしまうために、他者との調和も自由の定義に含めてしまいます。

しかしこれでは、一般的ニュアンスとしては「自分の行動について他から制限がない」という簡単な意味にすぎない「自由」の意味が難解になりすぎます。これは人々の間で広く共有されにくい実在論に基づく立論です。たとえば、猫が四つ足の毛の生えた小さな温かい動物であることは、皆が共通認識できます。しかし実在論的に「猫の徳性あるいは本質は何か」などと言い始めると、話についていけなくなる人がほとんどでしょう。

また、人々が意見を互いに異にした場合は、ヘーゲル本人かヘーゲル哲学を会得した「教養」ある者に判断し仲裁してもらわなければ、互いに孤立しあるいは対立してしまうでしょう。

これは権威主義あるいは教条主義です。

また、ヘーゲルは「己自身を根拠としている無限な理念を思弁的に探求する以外のどんな探求方法も尊厳性の本性をまったく廃棄する(同215節)」という有無をいわせぬ教条的な論法を君主制の擁護に使っています。
「学問的に専念している者にしか現行法の知識に近づけないようにしたりするのは不正である」(同215節)と法律のジャーゴン化を批判できているにもかかわらず、みずからを権威にしているのです。

また、ヘーゲルの弁証法的歴史観はすべての人が巻き込まれるという意味では予定調和的ですが、他方では(その時点においては)相互承認しえない相手には世界での居場所を与えないことになります。これはカルヴァンの召命説にも似ています(ヘーゲルが生きた時代は、ローマカトリックから権威づけられた神聖ローマ帝国が、プロテスタントとの内部分裂を抱えた末にとうとう滅びた時代でもあります)。

居場所を奪われたくない人々は世俗の多数や正統に寄り添いたくなります。これは権威主義の土壌です。

むやみに自由を称揚してはならないのです。先述のように道具的かつ謙抑的にとらえるべきなのです。

精神を実在的ひいては有機的主体であるかのように(形而上学的に)とらえることはやめるべきなのです。
そして精神の土台になっている認識も、一体的ではなく、細分化してとらえるべきなのです。それをさらにみずからの複数性によって基礎づけることで、あいまいなくせに押しばかり強い「自分」は抑えられ、権威的な思考は薄まり、世界は変わりやすくなるのです。(たとえば人を細胞やDNAにわけて考えれば、個人の尊厳という概念に縛られることが少なくなるように。)

とはいえ、ヘーゲルが巧妙に提示した「理念」の重視は、ヘーゲルの意図を超え、意味を変えて、近代という時代を大きく切り開きました。

現代の人々は、理念には人々が暗黙のうちに共有している意味やイメージが存在する、そしてそれは探し見つけることができる、と考えています。

もう一歩踏み込めば、それを実現する手法が民主制や権力分立に近いものであることに気づけるはずです。

ヘーゲルは相互承認の重要性を指摘しながら、双数と複数を区別していません。
すなわち、三人以上では相互承認することが非常に困難であることを見落としています。三人以上になると多数派と少数派が分かれてその間に不同意が生じることがあり、極端な場合には少数派は排除され 命まで失います。他方、二人の時は、客観性(多数性)があるときは必ず同意や共感があり、逆に 同意や共感のないときには客観性もなく 主観的な二人が残されて別れることになります。だからこそかえって評価(客観性)いう3人以上でなりたつ頸木から離れることができるのです。相互承認をめざすなら、あえて三人目は排除しなければならないのです。 

そうであれば、理念を舞台にして討論する議会においても、政党などという徒党を組むことは禁止すべきなのであり、民主制や権力分立の徹底に目を向けるべきなのです。

ベンサムの限界

功利主義は形而上学の正統性を真っ向から否定します。

功利主義は、快楽あるいは幸福または欲求の充足あるいは苦痛の減少を社会正義とします。誰もが好むものや誰もが嫌うものの量を基準とすることで、不特定多数の見解を一致しやすくさせ、「評価権者が誰か」があまり争われないようにしようとする思想です。そこには全ての人が評価権者になれる「である」論的な判り易さがあり、解放感すらもたらします。

但、客観性(多数性)に権威を認めるこの姿勢は、一応の豊かさを得た時点で、思考停止に陥ります。

功利主義における最も有名な基準ないし倫理は ベンサム(1748~1832)の「最大多数の最大幸福」ですが、この命題は実は非常にあいまいなものです。なぜなら「幸福」は感情だからです。
脳は内的および外的に統一感をもって生きられることが未来まで続くことを欲します。世界に対するみずからの支配可能性が確認されると、その瞬間は この統一感が補完されたと感じ、幸福を感じます。しかし統一感や満たされ感があり続けている(本当に恵まれた)状況では幸福は感じません。
また、補完さるべきものを一般化することも容易ではありません。
つまり千差万別な人々について共通に「こうなれば幸福だ」という客観的基準を探すことは困難なのです。

「幸福」を「快楽」に言い替えても変わりません。山歩きを快く感じる人もいれば 苦行のように感じる人もいるのです。一人の人でも、食通を気取る時もあれば 燃料補給のように米や麦をかきこむ時もあるのです。

幸福や快楽は社会規範になれるようなものではなく、あくまでも個人的なものに留まるものなのです。

それに比べて、欲求や苦痛などはいくらか客観性をもっています。

また、幸福感が生じやすい典型例は、欲求がかなったときや、苦痛から逃れたときです。

そこで欲求や苦痛を基準とすることは可能ではないか、と考えたくなります。

確かに、欲求や苦痛の総量で平等や自由を客観的に衡量することは、最低限レベルにおいては可能です。
たとえば 貧しく空腹な人にとっての1斤のパンと 毎日ケーキを食べる人にとっての1斤のパンを比べれば 前者の欲求の方が大きいのですから、後者は我慢して前者にパンを多めに食べさせるべきでしょう。
またたとえば 街のあちこちの監視カメラでプライバシーの「自由」を制限される住民の苦痛が、それにより犯罪が抑止され安寧が保たれる住民の便益より大きいなら、監視カメラは撤去すべきだと評価できます。

しかし、生理的欲をベースとする欲求は、満たされてくると減少し、さらに過剰に満たされてくると苦痛に転じます。 従って単純に「どれだけの人がどれだけ消費したかを計ればよい」という訳にはいきません。

また定量化や数値化は、多くの人に十分な共通認識があることを前提とします。場面や人によって判断が大きく異なる場合には基準がありません。

よって最低限レベルを超えた欲求の実現度合いの評価は困難です。

最低限レベルを超えた場面において、「欲求には段階があり、より高次のものを満たせばより大きな量として換算すればよい」などと言っても、たとえば素人画家がゴッホの『星月夜』の真作の絵具使いを見たときの喜びの量と、泣いていた幼児を笑顔にできた新人保育士の喜びの量を、いったい誰がどのような基準で比較できるのでしょう。

また、欲求を基準とすることは、思考の自由(最も無制限であるべき自由)を阻害し、未来を遠ざけます。

人は見たことのないものや なじみのないものには 欲求をもちにくいものです(空腹に苛まれる人の夢に出てくるものは贅沢な食物ではなく普段から食べなれていたものです)。つまり、欲求を基準とすることは「個人がそのなじむところに従って行動すること」を指針とすることです。すべての事物に、慣れ親しんだ便益や害悪を問い一定の「役割」を割り付けてしまうことです。

そのような人の意識は言葉にしやすい範囲に限られ、言葉にしやすいものだけにスポットライトをあて、他の多くの価値を視野から外してしまいます。(たとえば、田は米をとるため、海は魚をとるためのものにすぎなくなります。)
未来はなじみがないからこそ未来なのです。「出会い」や「発見」などがなくては、未来はありえません。

しかもみずからのなじむものが多数派にコントロールされていることも多々あります。そのような欲求に従うことは、多数派の判断に自主的に従うことであり、守旧的な権威主義に内側からさらされることでもあります。

結局、客観性に数値をもちこんでも、客観性という道具の守備範囲が広がる訳ではなかったのです。

それは、私達が大好きな「GDP」が 正確には経済の状態を表せないことと似ています。

ヘーゲルやベンサムの思想は、中世的な権威主義や形而上学に完全に終わりをもたらすことには寄与しましたが、近代社会の流れの中では主旋律ではありえませんでした。
主旋律となったのは、名もない人々が積み上げてきた理念による話し合いだったのです。

とはいえ、その理念も権威主義によっておびやかされる存在です。

ここからは あらためて理念や規範と呼ばれているもの一般について鳥瞰し分類したいと思います。

それらには 類型ごとに共通した性質があり、使用上の注意点があります。

規範

理念の中で、人に行為を要求するものを規範と呼びます。

理念の中には、規範になるものとならないものがあります。

先述のように、人の思考には目的性が強い場合と弱い場合があり、前者は「べき」論になり 後者は「である」論になります。

このような人の思考の類型は、理念にも反映されます。

理念はすべて「である」論的にとらえることができます。

他方、理念の中には「べき」論におとしこみやすいものと そうではないもの、つまり規範になることが容易なものと困難なものがあります。

「美しい」「強い」「賢い」などの理念は外的状況に大きく影響され、あいまいで多義的な内容をもち、規範化は困難です。ある意味プリミティヴであり あまり人工的ではありません。

たとえば「美しい」は、人についての評価と自然などへの評価では意味が異なり、前者では「好感をもたれやすい」という意味であり、後者では「争いや騙しあいや奪い合いから離れた」というような意味です。
しかもこれらの状態になっていることも「美」ですが、これらの状態になろうとしている行為も「美しい」と評されることがあります。
そしてまた美の評価が人によって大きく変わることは、ご存じの通りです。

他方、外的状況に影響されにくい理念は、規範になりやすいものです。

たとえば、物や財の動きをあまりともなわず、他者との共生のこころがけを「べき」論から問う理念の多くはそうです。(但、後述のように、あまりに多義的であいまいなので規範にはなりえず、また規範にしてはならないものもあります。)
ここではそれらを「行為規範」と呼びます。

また、物や財の動きをともないつつも、「である」論な結果の評価というワンクッションを経た上で、「べき」論に落とし込める理念もあります。
ここではそれらを「評価規範」と呼びます。

他方、人類は生活資源を得る過程において、何が欲しいのか、それをどのような方法(狩猟?栽培?)で得るのか
入手したものをどのように利用(加工、分配、保存)するのか、を考えねばなりませんでした。
その思考の流れに沿えば、理念についてもその対象として注目されるものが 結果なのか 手続なのか 理念そのものなのかによっても分類できます。

以上の二軸の視点により、理念は下記の六種類に分類できます。

努めればそれでよいもの
(行為規範)
評価に重点があるもの
(評価規範)
理念相互についてのもの 和、愛、 正義、善
手続についての
(手続規範)
共感、自律、無欲、勤勉、謙虚 など 規律、公正、民主制、分権、平和 など
結果についての
(結果規範)
信頼、貢献、自信 など 自由、平等、効率、安全 など
 

「行為規範」(第一列)に挙げられた理念のほとんどは心の状態に関するものです。

「手続についての」「行為」規範(第一列第二行)に属するものは、そうしようと真摯につとめればそれで規範は守られたとされるもので、結果を問われるものではありません。ただあればそれでよい、と言わざるをえないものでもあり、誰もがそれなりに実現しやすいものです。
「共感せよ」「自立せよ」「勤勉であれ」など、「べき」「せよ」「あれ」という語尾をつければそのまま規範になります。
しかし、多義的なので客観的な評価が容易ではなく、「とりあえずやりさえすればよい」という独善や判断停止(「各人が自分でいいように考えていればやればよい」という態度です)に陥りがちでもある理念です。

「結果についての」「行為規範」(第一列第三行)は、さらにそれが激しく、客観的な評価の基準のないものです。

従って、これらを規範にすることは困難です。「信頼されよ」「貢献せよ」「自信をもて」などと言われても 何をどうすればよいのかあいまいすぎてわからないはずです。また実現したと思っても(「信頼を得た」「貢献した」「自信がついた」といっても)それも自己満足にすぎません。

またこれらは同時に、規範にしようとしてはならないものです。あるときなぜかなんとなく実現し、あるいは実現しないものであるべきなのです。
たとえば、ファシズムは集団の利益のために個人の自由を制限(消極的意味の自由まで否定)し、決定権を一部の者に永属させる邪な政治体制ですが、これが現在でもロシアや中国で色濃く残るのは、「この指導者に従っていれば大丈夫だ」という「安心」を国民与えるからです。政党のプロパガンダによるものであるにせよ、政府と国民の間に「信頼」を築けるからです。ファシズムは、本来つかみ取ってはならない「安心」「信頼」をつかみ取るために、「自由」「民主制」などの守るべき規範を投げ捨ててしまうのです。

評価規範(第二列)は外部的なモノの動きが生じることを予定するものであり、客観的評価をともなうものです。

「評価規範」は、近代になって重要性を増しました。評価しなおすことが既存の因習から個を独立させるために必要とされたからです。また言語で共有しやすく、比較の視点を提供するので、誰かの自己中心的主張やポジショントークの横行を抑制するうえで有用でもあり、さらにまた目標設定にも便利だったからです。

ここに属する理念に、そのまま「べき」「であれ」をつければ、規範らしき形にはなります。しかし、たとえば「公正であれ」「平和であれ」「自由であれ」「効率的であれ」といわれても 具体的に何をすればよいかわからないはずです。規範は守られるべきものなのであり、守る気持ちさえあればよいというものではありません。応援歌でも スローガンでも気合いの一種でもないのです。
これは準備的なものであり、具体的な規範が必要であることを意識するためにしか役立ちません。これを本稿では「下命規範」とよびます。

評価規範を実現(具現化)するためには、「である」論とリンクする別個の具体的規範(本稿ではこれを「実行規範」と呼びます)が必要なのです。

ちなみに、下命規範と実行規範を区別しないのは、よく見かけられる未熟な知性の悪癖です。

たとえば、年表を自分で作るべきことを指導せずに「世界史は流れをつかみなさい」と教える教師などもその例です。

また、これは今に始まったことでもなく、たとえば古代日本の国津罪の中には「生膚断(傷害や殺人)」などのようにわかりやすい行為のほかに、「しらひと」「こくみ」なども列挙されています。現代でいえば皮膚病や瘤という意味です。「それが罪か」と違和感をもたないでしょうか。ここで想起すべきことは、古代日本と密接な関係にあった朝鮮に「悪事をはたらいた人には瘤ができる」という古い俗信があることです。ここから推論すると「こくみ」とは「(瘤ができるほど)何か悪いこと」という意味です。しかし、このように結果をもって行為を示すようでは「何をすべきでないのか」わかるはずがありません。実に不出来な法律です(近代刑法の基本原則である罪刑法定主義が完全に無視されています)。

さて、「結果についての」評価規範(第二列第三行)に属するものは、特に具体的でリアルな相互の利益を調整する場の解決指針として役立ちます。
理念が最も躍動するのは、たとえば資源の分配のようなシリアスで世俗的な個別の問題に面した際、みずからの正しさを主張する武器として振り回されているときです。その際にしばしば用いられるのがこのタイプの理念です。反対利益とのバランスも明確に要求され、議論の輪郭がはっきりします。

しかし、調和点や妥協点が見出しにくいときは、どちらが正しいかという争いも鋭いものになります。
その理念の意味、ある行為がその理念に沿っているか(どのように評価するか)、さらには事実のとらえ方(何が主因かを決めるときなど)についての判断は、人によって異なりうるからです。
評価権(誰が評価するのが適切か)をめぐる激しいバトルに発展することもあります。

他方、「手続についての」評価規範(第二列第二行)に属するものは、多様な人々が協力して生きやすい環境を作り出すことを目的とするにすぎないので直接には利害に関係せず、合理的な議論がいくらかやりやすい場です。

「結果について」の評価も「こう」と決めてしまうのではなく「とりあえずそういうことにしておくが、いつでも変えられる」ものにしておけば、手続についての議論に近づけることができ、いくらかは合理的な話合いや判断ができます。
通常、「結果」は意志するものであり、「手続」は問うものですが、結果も問うものにしてしまうのです。(カントの思想もこのような意図を有していたのかもしれません。)

また、これらの理念や規範は もともとは互いに調和するようには出来ていません。
放置しておけば相互に阻害し合うことにもなりえます。理念も互いに調整されねばならないものなのです。※28

第一行目の「愛」あるいは「正義」などの理念は、行為規範あるいは評価規範に属するそれぞれの理念が調和している状態、なるべく多くの人が生きられるようになっている状態かどうかを評価するものです。(理念に関する理念ですから、「メタ理念」とでも呼べるかもしれません。)

正義と愛は互いに異なりながら互いを補完しています。
たとえば、純粋に愛を感じられるのは正義が実現されていないときです。自分でも自分を許せない(自分が正義を踏みにじったことを知っている)ときに誰かに許してもらったときにこそ、愛は輝きます。
そしてまた、そのように許してもらったことで自分が自分を信じられなくなった(その一方で何かを誰かを信じる心は残っている)人こそが、本当の正義を見つけやすいかもしれません。「自分は正しい」などというバイアス(偏見)のかかった認識の下で真の調和を見つけることは困難ですから。

※28

この調和をあきらめて「客観的な正義の基準は存在しない」「『知りえない』ということを知っている」とうそぶくような見解を「メタ価値論的」「相対主義」などと呼ぶのは勝手ですが、これは知りえないこと(すなわち伝わらないこと)に着目することで判断を停止している状態にすぎません。(「知る」ということについては第二部で詳しく論じます。)

逆に、知りうること(すなわち伝わりうること)に着目して 判断を諦めなければ、「自分が何を知りうるかを知らない」というスタンスになります。

どちらにするかは、判断しようとするのか するまいとするのかの姿勢の違いです。どちらかを選ぶかしかなく、中間点を探せるものではありませんから、両者の話がどこかでかみ合うということはありません。

理念や規範は、私達の判断や評価によって生まれ、運用されますが、私達の思考は往々にして権威主義により歪められます。

たとえば、結果規範には、権威主義は正統性を装って忍び寄ります。
「今まで問題なくやってきたでしょ。あなた自身も含めて誰も文句など言ってなかったでしょ。いったい何が欲しいの。」と言って、新たな意見をつぶしにかかります。そして「誰も何も言ってこなかったってことが○○(「信頼」「平等」などの結果規範)の証拠でしょ。違うと言うなら そうでない証拠を出してよ。」と立証責任を負わせてきます。しかし〇〇で「ない」ことの証明は「悪魔の証明」と呼ばれることもあるほど困難です。困難な立証責任を負わされた提唱者は、反対勢力のフェイクに圧倒されがちになります。

また、評価規範には、権威主義は客観性を装って忍び寄ります。
「誰がそんなこと言ってるの。皆そんなこと思ってないよ。いったい皆にどう思って欲しいの。」と言って、新たな意見をつぶしにかかります。しかし、ここでは提唱者はみずからの意見への賛成者を多数そろえることによって反対勢力と戦えるので、「平等とはこういうことだ」「こういうことこそ公正というのだ」と激しいバトルが勃発します。

結果規範にして評価規範である自由、平等、安全などの規範については、フェイクとバトルが混合するので、議論は紛糾しやすくなります。

権威主義から離れ、合理的な正しい判断を下すには、「べき」論と「である」論の距離を正しくとりつつ、「である」論を端緒として両者を行き来しつつ、みずからの合理性や他者への尊重の内容を見直しながら歩み続けることが必要です。

そのためには、たとえば、現実や可能性を確認する機会を常に確保しておくことが必要です。
すなわち、覆される可能性があったにもかかわらず 長くあるいは多くの人がそう考えた、ということが必要なのです。
このように事実や共感の再確認の機会を確保する姿勢が 平和主義(「平和」の章で提示した定義による)であり、それが外部的に表れたものが民主主義や権力分立です。
たとえば、経済的権限が市場に、政治的権限が政府に分有され、政府の権限も行政、立法、司法と分権され、ひとつの権力主体によって強制的に意見を統一されていないにもかかわらず、それでも皆が「こういう社会がよい」と認めるからこそ、その社会のあり方の正しさに客観性があるのです。
そしてそれぞれの時に 変化の可能性があったにもかかわらず 現在の状況があるからこそ正統性があるのです。

それにより客観性や正統性の認められる範囲とそうではない範囲があることも認識され、そうではない場では私達の思考は解放されます。多数派が多数派であるのは一定の範囲に限定されることを確認でき、権威的抑圧から逃れることができるのです。

それらの手続が厳密に遂行されず有効に作用していない場合には、客観性や正統性はないと見るべきなのです。

平和主義、民主主義、権力分立は、社会システムとして語られるだけのものではなく、思考の手続でもあるのです。

平和主義の具体例としては、ほかにも「評価を最小化する」「意志を固めすぎない」「みずからの共感を見直す」「自分の複数性を認める」など思考や判断の姿勢を正すことを挙げることができます。

以下、詳述します。

消極的アプローチ

ある理念を「実現すべき」と目指すことは、目標を示してくれます。

しかし、優先順位や「これで十分」という限界は示してくれません。 「○○すべきである」という積極的語法は視野を狭め、反対利益を無視させがちです。他の人の共感(尊重)を得られない紛争の種にもなりがちです。

他方 「これはさすがにひどいだろう」「それはやってはいけないだろう」「ここから先は拒否されるべきではないか」という評価は共有されやすいものです。
またこのような消極的スタンスは、強い立場の者や多数者の「こうだろう、こうしたらいいじゃない」と押し付けに対して、新たな知を浮かび上がらせる微妙な距離を作ってもくれます。

つまり評価を最小限に留めること 防御的なものに留めることは、対立を煽り立てることを防ぎ、ひいては権威主義の跳梁の抑制になるのです。

この手法は 特に評価規範に対して有効です。

たとえば「自由とはどういうことか」というイメージから議論が始まると、意見は百出し、合意は得られにくくなります。また「自由」「平等」は他者の自由や平等(あるいは他の理念)とせめぎ合い共存すべき価値なので、利益衡量も難しくなります。端的に言えば「十分に自由である」と誰もが納得する社会というものは成立しえないのです。

他方、「どのようなものが耐えられない不自由や不平等であるか」というイメージは 多くの人に共有されうるでしょう。そこからなら「何が不合理か」という落し処についても 多くの人が一定の合意に達することができるでしょう。
なぜなら、ある価値が「ないがしろにされていないか」という問いは、反対利益の尊重をもともと組み込んでいるからです。多様性や可変性が損なわれないか、という問いがあらかじめ組み込まれているからです。

このように、「○○であるべき」という規範ではなく、「〇〇でない状態ではあるべきではない」という規範を立てるのが、ハイエク、フラー、ポパーなどが示唆する、「消極的アプローチ」です。

ソクラテスのダイモニオンの声も「何かをやめさせようとするとき」にのみ聞こえてきたそうです。

また、前述の功利主義も 最低限レベルでなら十分に使える思想でした。

実社会における規範においても、消極的アプローチのほうが積極的アプローチより重要な働きをしていることが観察できます。

たとえば、実定法は「やってはならない」ことを示す体系です。
司法における判断権者はあくまでも裁判官という個人なので、その独善を抑制する必要からも、消極的アプローチを基本とするべきなのです。

刑法が「すべきでないこと」の体系であることは自明です。

民法も、実は「禁止」を基礎としており、消極的アプローチの体系となっています。
民法の規定は、大別して強行規定(当事者の合意で変更できないもの)と任意規定(当事者の合意で変更できるもの)に分かれます。
前者の例には、たとえば物権法定主義や公示の原則などがあります。つまり各自が勝手に作り出した物権や、登記や占有を備えない権利移動について「裁判所に救済を求めてはならない」のです。
後者は、特別な合意があったのでなければ民法の規定に沿った合意があったものとみなされる、という規定です。後になって「自分はそんなつもりではなかった」ということは「許されない」というものです。

手続法に目を向ければ、おおまかな手続の枠組規定の他は、ほとんどが「禁止行為は何か」についての規定です。これらの禁止事項に触れない限り プレーヤーは何をしてもよい、という構造を基本としているのです。
たとえば 民事訴訟法においては、原告が請求していない権利について裁判所は判断してはならない(処分権主義)、当事者が持ち出さない事実に基づいて裁判所は判断してはならない(弁論主義)、適切な時期に持ち出されなかった攻撃防御方法は判断資料としてはならない、一旦判断が下された内容や訴訟開始後に取り下げた訴えについては再訴してはならない、など とにかく禁止事項のオンパレードです。
刑事訴訟法も同様です。逮捕状なき強制的拘束の禁止、定められた期間を超える拘束の禁止、拷問の禁止、起訴状一本主義、違法収集証拠の採用の禁止、不適切な伝聞証拠の採用の禁止、一事不再理など、全てこの例です。

スポーツにおいても、そのルールはほとんどが禁止事項です。
たとえばサッカーでは、手を使ってはいけない、相手のゴールの前でパスを待っていてはいけない、審判を欺くような行為をしてはいけない等ほとんどのルールが禁止事項であり、唯一積極的に評価されるのは、ボールが相手ゴールに入ったかどうか、ということだけです。

日本人の多くの生活倫理となっていると言える「他人に迷惑をかけない」という規範も、「人は助け合って生きるべきだ」という規範の消極的な表われです。

人を助けるつもりでやったことが、かえって相手にとって迷惑になってしまうことも多々あります。しかし「迷惑をかけない」という消極的な行為態様であれば、相手が助かることがほとんどです。

これは日本社会が育んできた貴重な暗黙知のひとつでしょう。

 

視点を変えると、これは像と背景の関係性の問題、背景を視野に入れる手法ともいえます。

たとえば「べき」論においては やるべきことが像となり、「である」論においては 観察の対象となるものが像となります。そしてそれ以外の部分は背景として意識からすべりおちがちです。

また、たとえば行為規範においては「ある行為とその周辺」が像となり、評価規範においては「ある一定の手続ないし結果」が像となります。そしてそれ以外の部分は背景として意識からすべりおちがちです。

像に集中した意識は、暗示にかかりやすく、権威に対しても隙ができ、独善に走りがちなのです。

消極的アプローチは、何かをなすことではなく 止めることを教え、何かがそうであるかではなく そうではないことに注意を向けさせるのです。その際、必然的に境界線ひいては背景が視野に入ってくるのです。

そしてそのような視線は、反射的に みずからにも向かいます。
背景を重視する別の「自分」が表に現れるからです。

いったん別の「自分」が表に現れると、「自分」が多くあることに いやおうなく人は気づきます。
そしてその多くの自分がそれぞれに消極的アプローチにより否定すべきものを指摘し、残った狭い隙間が、正しい道を示しているのです。

メタ理念の謙抑

評価の対象をなるべく広げないことも、対立を抑制し、ひいては権威主義を抑制します。

先述のように「愛」「和」「正義」「善」などは、理念相互が調和しバランスがとれている状態を意味するメタ理念であり、評価に対する評価です。

これらのバランスは、他者とのつながり、そして未来とのつながりの中でしか判断できません。
しかし人は未来がどうなるかは当てることはできません。未来は人の意識的な努力だけで実現できるものでもありません。他者への理解も通常はおぼつかないレベルです。
つまりメタ理念について語るときは、限定された経験と思考力しかもたない自分の判断を正しいと思いこむことが、特に危険なのです。

しかもこれらはバランスである以上、アナログなものであり、デジタルに「ある」「ない」と分けられるものではなく、絶対的な状態は存在しません。完全な状態を求めなければ意味がないというようなものでもなく、ベターを目指すべきものにすぎません。「なるべく多くの人がなるべく生きられる」ことを目指すものでしかありえない社会の中で、限りある身の一人一人は、「すべての人が生きられる方法はないか」などと、生かさねばならない人を広げすぎることもできないのです。

すなわち、正義や善や愛の実現を求める心は必要ですが、「これが正義だ、善だ、愛だ」と評価することはなるべく避けるべきなのです。

自分がやりたいと思っていることが やるべきことであると評価されるときは、しびれるような喜びが沸き上がります。
「正義」や「愛」という理念はこのようなときに 自分に都合よく使われます。

しかし、あなたが納得することが正義とは限らないのです。

あなたが共感しやすい人をケアすることが愛とは限らないのです。

もし正義や愛を定義しなければならない必要が生じたときは、先述の消極的アプローチにならい、前者については「特定の人だけが得をしたり損をしたりしないこと」、後者については「他者の信頼を裏切らないこと」くらいの意味にしておくべきでしょう。

そしてまた、他人や自分の不正義や不善を厳しく糾弾しすぎないことも必要でしょう。
人は往々にして、みずからが決めたことへの盲信から、より大きな不調和を見落とすからです。

「正義」の道具である実定法もこのような謙抑的思想に基づいて設計されていることは、くどいようですが再言しておきたいと思います。

そもそも近代法は、その土台たる「権利」体系からして謙抑的な構造なのです。
「権利」とは、それが正義とされることによって利益を得ると一般的に認めうる者にそれを主張させるべき、というシステムです。正義は権利という形で主張されなければ実現しないものとされているのです。闘争という抵抗を内にはらませ、手間をかけても主張せざるをえない人が主張する中で探るべきもの、それが権利体系における正義なのです。

また近代法は違反への制裁についても謙抑的です。
それは禁止事項の認定手続が明確に示されていることにも表われています。
たとえば ある人が誰かによって死に至らしめられたときでも、それがあらかじめ定められた刑法上の「構成要件に該当し、違法と責任を問える」と裁判所が「適法な手続」に則って判断して、はじめて加害者は刑に処されます。
またたとえば、 制裁が特に強力な刑法において、「過失」が処罰される例はごく限られ、罰を受けるにしてもその量刑は軽微なものにとどめられていることもその表れでしょう。※29

※29

ちなみに 私たちの普段の言葉の使い方に照らしあわせれば、社会的規範としての性格が強いものが「正義」、社会的強制力が弱く内面化したものが「善」だと言えるでしょう。正義とは「社会がどうあるべきか」という問いへの答であり、善とは「個人がいかにあるべきか」という問いへの答です。
正義は行為についての評価にして部分的な評価、善はその行為を導いた全人格についての評価であるともいえます。

外から強制できるのはせいぜい行為であり、人格全体の矯正は本人にしかできません。
よって両者を比べると、正義のほうが守備範囲が狭く(狭義では等価性と適正な配分のみを意味します)、他方で厳しい遵守を要求します。
ある人が不正義なことをやっているとき、たとえその行為が私に直接の害となっていなくても、私はそれを許しません。そのために私たちは税金を払って警察組織を運営しているのであり、法律や規範を定め、それを守ることを互いに約束して社会を維持しているのです。正義のための規範はその社会の構成員全てが守らなければならないものであり、そうでない人は制裁を受けあるいは排除されます。
但、正義か否か評価する権限を持った主体が誰かは社会的に決まっており、その権限をもたない私やあなたの正義は通らないことも珍しくありません。
よって正義は謙抑的に扱われるべきものなのです。
他方、善の守備範囲は広く「生を守ること全て」を含み、その人の内面にも深く関わります。よってその人が求める時になれば、一切の条件をつけず、自己犠牲を導くほど峻厳な規範にもなりますが、「善を目指せ」と他人に求めることは誰にもできません。禅語にも「不思善不思悪(善悪にこだわると悟りから遠ざかることになる)」とあるように、内的にも強制されるべきものではなく、善悪を気にかけない人も他人に迷惑をかけない限りは文句をいわれるべきでないのです。その意味では緩い規範であり、極端に言えば参考にすぎません。
だからこそ 善を語る道徳は「○○せよ」あるいは「○○するな」と積極的な形をとることも多く、それが許されるのです。

但、現実の規範はこのようにきれいに正義と善を割り切れる形のものばかりではありません。
その一例が宗教の戒律です。
これは正義と善の中間のヌエ的性格をもちます。宗教をめぐる争いが単なる利権や権力争いよりも不合理で残酷で執拗なものになりやすいのも、かかる規範の性格によるところもあるのでしょう。
そんなところにも これらのメタ理念の危険が表われていると言えます。

ちなみに、正義や善の対立物である「悪」にも2種類あります。
善の対局にある、全人格についての悪は「自分はもっと大切にされるべきだ」というものです。
たとえば、女性に輝くことを提唱するときはフェミニズムも悪の温床となります。
正義の対極にある、行為についての悪は、「結果のため手段を選ばない」というものです。
たとえば、金儲けのために手段を選ばない新自由主義も悪の温床となります。

共感の精製

共感は、「世界に対する認識」対する認識(メタ認識)を共にしようとすること、さらには世界への評価や判断を共にしようとすることです。
(一次的な「世界に対する認識」を共にすることも「知」ですが、メタ認識を共にすることもやはり「知」であり、従って共感は知の一種です。ちなみにメタ認識の多くは「世界」の中でも「その人みずから」に対する認識に対する認識です。)

共感には、二つの種類があります。

ひとつは「この人が世界からされてきたこと してきたこと 望むことは、自分と同じだ」と総体的に感じることであり、相手の人格(とはいっても「自分」のいくつかという程度のものですが)を対象とするものです。

もうひとつは、他者が投げ込まれている世界にみずからを投げ込んでみて そこで発生する認識について判断するものです。これは、他者の「世界の一部に対する認識」の手順をなぞるようなものです。特定の場面において相手の立場に立った時に自分が感じあるいは考えるであろうことを推理することです。

英語のsympathy とempathyの違いもこのあたりにあると思われるので、以後、前者をsympathy、後者をempathyと仮に呼びます。

Sympathyの内容はあいまいです。相手のことは本当のところはわからないからです。半分以上想像にすぎません。その人が置かれた状況を客観的(多くの人がそう見るであろうという見方)に評価するのではなく、あいまいなことは覚悟の上で1対1で向かい合い ケアするのです。暖かくそして危ないものです。

従ってSympathyと頻繁に巡り会うことはなく、会えなくてもとりあえず生きてはいけます。
しかしこれなくしては仲間も喜びもない生活になりかねません。たとえば人は他者に評価してもらって育つものですが、単なる評価ではなくsympathyを伴った評価(たとえば教師、友人などから褒められたり叱られたりすること)を受けると、特に人はよく育ちます。なぜならこれは、親が子を育てるときのような人格的な関係性を育む活動だからです。

他方、empathyは、自分と異なる立場や意見を共有しようとする姿勢であり、部分的なものであるだけに珍しくはありません。手続的技術ともいえ、異なるままで互いに生存できる最低限の意見一致だけで十分に成立します。拒否することをやめようとするだけでよく、相手に同調することも自分の意見に同調を求めることも必要ありません。冷静で安全なものです。

empathyは、相手の尊重になる一方で、自律を消極的に守ることにもなり、互いの生きるスペースが広げてくれるものなので、異なる属性をもつ人々の共生に不可欠です。異民族が互いに緩やかに排除し距離をとりながらも共生できるグローバルな社会を維持するときにも重要です。

とはいえ、両者に本質的な違いがある訳ではなく、共感の深さの違いにすぎないとも言えます。

Sympathy自体は評価を含みません。評価に基づいてsympathyをもつことはできませんし、評価されることを基礎にsympathyを持たれたいというのは矛盾した望みです。
相手を評価することは相手の属性を分割することになるからでもあり、評価は第三者の目を意識したものでもあるからです。

またsympathyが正統性(長期性)や客観性(多数性)に影響されると、共感のはずが押しつけに変わり、狭い仲間意識を育み、そこから外れる人を排除することになりがちでもあり、注意が必要です。

Empathyも、評価を含むものではありませんが、評価に影響されても sympathyほど危険ではありません。

似たような性格の者同士は、互いに評価しやすく わかりあいやすく(empathyを持ちやすく)もあります。
たとえば、他人を悪く言う言葉は 多くの場合 言っている人にもあてはまります。誰かを怠慢だと評価する人は、だいたいは自身も怠慢です。

本来、共感と自律は表裏一体です。共感なき自律は孤立にすぎず、自律なき共感は隷属です。

共感は、国家とも民族とも利害関係とも無関係なみずからを出発点とし、反証にさらされ、みずからの判断の限界に直面しながら、実現されるべきものです。

安楽な生活を約束してくる権力者、世の中とはそういうものだとなだめようとする年長者、多数派の御機嫌を取り結ぼうとするマスコミに判断をまかせていては、まともな共感などありえません。「第三帝国」「大東亜共栄圏」などのプロパガンダから生まれた共感もどきの隷属がどのような結果を生んだか、皆が知る通りです。

多くの人に共感できることは、多くの人から自律していることでもあります。

共感は人に自律を、そして究極的には内面的自由を与えることができるのです。

そのためには たまたまそのとき表に出ていた「自分」を基準とした共感に安住していてはなりません。「自分」は一人ではなく入れ替わりうる多数の役者であり、常に仮の主体なのです。

「自分」だけ「今」だけの短視眼を捨てて見いだされた共感は 予期しえぬ時代への共感 まだ見ぬ世界への共感でもあります。これは「立場が入れ替わりやすく 多様性を許し 誰もが生きやすい社会」への共感でもあり、そこに意識的行動が伴われなくとも、それがあるだけで必ず他者に影響し、社会にも変化をもたらします。

我執(みずからへの執着)から共感を切り離すだけで、権威主義は力を失うのです。

また、「共にしようとすること」は「一致させること」ではありません。本来、多数ある自分の内のひとつだけを相手に沿わせることです。
だからこそ いかにゆがんだ世界観に対しても共感は可能なのです。

そしてまた、ゆがみきった世界観であってもそれをときほぐす入口が、共感にあるのです。
いかにゆがんだ世界観であっても、当人はその世界観しかもっていないのであり、その中で生きているのです。もしそれを手放して見失ってしまったら、その人は世界に対する接点をまったく失ってしまいます。
しかし、その世界観を共にしようとしてくれる人がいたらどうでしょうか。もし自分がそれを見失ってしまっても、その人が「こういうものだったよ」と教えてくれるでしょう。教えてもらえるつまり与えてもらえるものは「みずからそのもの(全体)」ではなく、世界観でもなく、世界の一部についての判断に過ぎなくなります。変えることのできるものとなり、歪みがただされる可能性が生まれます。
自分に共感をもって接してくれる友人がいると、その友人の姿を通してみずからの姿を見ることができ、自分を外からみることが自然にできるのだとも言えるでしょう。それは自分を変える第一歩です。

共感は、それを受けた人にも内面的自由を与えるのです。

Empathyであれsympathyであれ、共感が規範となるときは、他者との共生のこころがけを「べき」論から問うものになるので「手続規範」となります。
また、結果を問わないので「行為規範」になります。
つまり自由や平等などの規範とは二重に異なる位置にあります。
実際、自由や平等が相手を動かそうとする性質をもつことに対して、共感はみずからが動き相手に歩み寄ろうとするものです。

それは自由や平等を守ろうとする気持ちに余裕や余白をもたらし、その場の行き詰まりを打破することも多々あります。なぜなら「知」とは認識の共有であり、共有は相手が動いてもみずからが動いても発生するからです。そして知の価値は、それがいかに発生したかではなく、それがいかに役立つかのみにかかるからです。
そしてまた人は どこかでみずからが変わることを望んでいるからです。

共感は評価を変える力をもつのです。

共感が規範として働くときは、共感の制御に重点が置かれます。

共感するとき、あなたは一人で相手に向かい合わなければなりません。共感に正しく機能してもらうためには、心の中の「多数派」に裁かせてはならず、1対1で相手に対応することが必要なのです。

第三者の影響を受けて 安易に共感しやすいものにだけ共感していては、権威主義的な執着が生じます。
正統性をまとう権力者へのsympathyもどきは、戦前の狂信的な軍国主義を支えました。
客観性をまとう「みんな」へのsympathyもどきは、現在の日本社会で同調圧力を高めます。
「強さ」や「賢さ」を「他者をみずからの意志に従わせること」であると誤解している人々のsympathyもどきに訴えかける者は、独裁者になります。
権威主義を遠ざけるには、似たものや強い者に対してだけに安易に持ちやすいみずからの共感を精査し、みずからの好みや経験から判断に偏向がかからぬよう、共感の対象をなるべく広げることが重要です。

また、「長いものには巻かれろ」式の自律に欠けた共感もどきの隷属に乗らないことも大切です。
たとえば、あなたを「ごくつぶし」と呼ぶ上司に隷属して「自分はごくつぶしかも」とチラとでも思うべきではありません。ただ、他人を蔑むことで自信を支えるこの愚かな上司に対し「私もこの人のような愚かさや弱さをもっている。今はそれが現れていないだけだ。」とは思うべきです。そして、多くの人が指摘する自分の弱点を修正して できるだけまわりに迷惑をかけないようにできれば、それであなたには味方が増え、影響力も上がります。

しかし、人はみずからが思っている以上に共感する能力が弱いのが通常です。だいたいの子供は周囲から共感されているので、みずからが共感する必要の低いまま 共感する訓練をせずに育ってきたからです。

自分と共通性をもった相手に対してしか共感せず、そしてその範囲では安易に共感しがちで、共感の相手として選ばれたもの以外には時としては敵意が生じてしまいます。

たとえば、見知らぬ人にあれこれ話しかけられたときに「なんであなたにそんなこと話さなければいけない」と怒るようでは共感する力が弱いと言えるでしょう(共感する能力が低い人は感情に流されやすくもあるのです)。そうではなく、「なんでこの人は私にあれこれ聞くのだろう」と考えられるなら、そこにはいくばくかの共感があると言えます。

しかし、ほとんど共通性のなさそうにみえる人に対する共感、自分とはまったく異なる性質や考えの人の話を黙って真剣に聞き、相手を受け入れるような共感も存在します。それは腕のよいプロのカウンセラーに見られることもあれば、真摯な信仰者のような冒険的人格が年月をかけて磨くこともあれば、才能と環境が育んだ大きな人格に盛り込まれていることもあります。

共感は音楽に似ています。
それを評価する言葉はあっても、言葉はその本質をとらえず、様々な形をとり、沈黙の中に存在することもあります。
一瞬で消えるのに心に残り、特定の人がいなければ存在しえないのに、その人がいなくなっても呼び起こすことができます。
誰にでもできることですが、上手にやるには訓練が必要です。
それを美しいと感じない人も、それに力を借りたことのない人も たぶんいません。

音楽の起源は祈りだと言います。共感ひいては知の出発点も祈るような心なのかもしれません。

  

以上で理念編は終わりです。登山でいえば七合目まできたあたりです。

しかし、個人にも社会にも大きく影響するものでありながら、まだ検討していなかったシステムが残っています。
第一部の最後に、このシステムについて見直しておきたいと思います。

教育です。

第四編 教育

人は、生命の本質的属性である多様性を内包して自由な意思をもって永く続くべきものです。教育は、この人間性の本質の発現に助力すべきものです。

また、多様な需要も、高い技術も、強靱な民主制も、教育という社会システムに支えられます。
欧米のようにみずからに都合よく国際ルールを決めうる力を持たず、ロシアやカナダのように豊富な天然資源も持たない日本が 強い経済力と防衛力を保持するためにも、これまで以上に高い能力とタフネスをもつ人材が必要です。

従って、教育は、自律的でタフな人として生きるために必要とされる能力すなわち知識や方法の自得の基礎を整えるものでなければなりません。これは、どの国どの時代においても共通するはずです。

他方、教育は人がその社会の構成員となるための準備やシミュレーションとしての意味も持ちます。

また現代においては、大学への入学ないし卒業が一種のイニシエーションとしての意味を持ちます。

しかしこれらが重視されすぎると教育の姿を歪めます。
実際、現在の日本の下級教育機関(小学校から高等学校まで 予備校や学習塾も含めて)における学校教育は少しでも多くの社会的権原と財貨の分け前にあずかるべく大学入試に合格するための知識学習に励む場に矮小化しています。
そこで不合格となった者は、教育というものに不満や反感を持ちます。
なんとか合格した者は、学校教育というシミュレーションが終了しただけで何かをなしとげた気になって保守的になります。
容易に合格できた者は、そのイニシエーションを課した社会やそれを受け入れる周囲を軽んずるようになります。

それを防ぐには、第一に 教育の内容の合理性を検証することが必要です。

この点、日本の学校教育のカリキュラムには、実社会で必要とされる知と乖離している部分があります。

たとえば英語の聞き取り能力を十分に育てていません。日本人が海外で活躍できない一番の原因は英語が話せないこと、正確に言えば聞き取れないことです。日本語と英語の音の作り方は単音、単語、文章のすべてのレベルで大きく異なるので、「数多く英語に接する」という原始的な方法で聞き取れるようになれるほど生易しいものではありません。根本的に教材を組み直して、音のニュアンスを正確に伝える(たとえば、Rはくぐもった低音、Lは常に小さくエという音を前に伴う、ア音類似の母音は高低で区別されるなど)、単語を最初に覚える時から子音の扱いが特徴的な(最終の子音は省略されたり 後の単語に引き渡されたりする)ネイティブの発音で覚えさせる、長短のシラブルが単語をまたいで形成される独特のリズムに慣れさせる、短絡発音(it’s all を スウォール と発音するような)を暗記させることなどが必要です(今は英語吹き替え日本アニメ映画などのよい教材もあります)。これは国家プロジェクトにすらすべき重要課題です。
その一方、高校生が(アメリカ人もあまり見ない)仮定法で英作文できる必要はないでしょう。

また、個人の自律的選択を助けるためにも、職業体験にはさらなる充実が必要です。たとえば卸市場の目利きの重要性を認識させる、各業界の相場ともいえる利益率を教え経営計画をシミュレーションさせてみる、設計現場を体験させるなど、さらに踏み込んだ学びが必要でしょう。

また、知的創造を行うため最低限知っていたほうがよいことは 大学進学する全ての高校生に学ばせるべきです。たとえ文系であっても、微積分、三角関数、数列などの数式の意味するところを正確にイメージでき、それがどのように使われることがあるのかを知り、基礎問題が解ける必要があります。たとえば sin n / nという数式を見て 「これは弧度法で表した角度のy座標の数値をn個に割った数だな」とイメージできる必要はあるでしょうし、sinhという記号を見て双曲線関数の形が頭に浮かぶ必要もあるでしょう。
また、化学は全ての科学と関わる以上、酸・アルカリ、酸化・還元、アニオン・カチオンの意味くらいは正確に知っているべきです。化学反応の理論的な理解を助けるために量子力学の初歩を教える必要さえあるかもしれません。
理系に進む学生には、数学という道具の全体像を感得させる必要もあります。「ベクトル」「Σ」などのより一般的な意味を教えることは、数式という言語に興味を持つ子供を増やすことにもなるでしょう。線形代数、フーリエ変換、微積分、三角関数のつながりくらいは教えておくべき、という意見にも一理あります。

しかし、これらを使いこなせることまでは要求すべきではありません。それは過剰な負担です。すぐには正確には思い出せないものの 昔もらった古い教科書を再び開きながらであればなんとか使うことができるような「知」を増やすことが、日本の学校教育のレベルを上げるのです。

第二に、大学入試を過大に評価せず、過剰に難しくさせないことも必要です。

しょせん シミュレーションは準備にすぎず、実際とは異なるのです。

実社会に出れば一人でできる仕事などありません。広い視野をもち、共感や自信を紐帯として互いに協力していくことが必要であり、それらをなるべく多くの人との間で形成できることが非常に重要な能力なのです。この能力は周囲の人との関わりで育つものであり、幼少時からの様々な人間関係によって鍛えられなければならないものです。机にかじりついていては育てられるものではありません。

この点、まず日本の教育は覚えさせすぎです。

上記の能力を身につける場と時間を犠牲にしてまで細かな知識を覚える必要はありません。これらは知りたくなった時にインターネットなどで調べればよいことです。
たとえばカノッサの屈辱を受けた皇帝やガイアナの首都の名などをすぐに答えられることに、通常は何の意味もありません。文系に進む高校生が「等差数列の第二項には公比が一回だけ乗じられている」ということを思いださねば解けない問題に正解できることの必要性も微妙です。

また記憶を重んじすぎると完璧を求めすぎる癖がつき、狭い世界での完全性ばかり求めるようになります。そうなっては、人は本来の能力を発揮できなくなります。

入試の準備のつもりで やたらに点数をつけることもよくありません(記憶を定着させるためテストは必要ですが、点数集計は不要です)。

若い人は誰に言われなくても能力や美しさを求めるものです。しかし、点数をつけられることが習慣となると、これらについてなんらかの一般的ないし絶対的な基準があるかのように誤解しがちになります。
能力や美しさは周囲との関係で存在するものです。周囲と関係を築き その中でみずからの状態を精査しなければならないのです。
それを忘れては、フィードバックが阻害され、勘違いと不適合を引きずりながら後の人生を過ごすことになります。

上記のように覚えることや習熟すべきことが減ると 学力の細かなランクづけは難しくなります。

しかし高校までの学力のランクづけの目的は、受験できる大学のランクと個人の成績を照らし合わせることであり、そもそも大学を細かくランキングすること自体が間違いなのです。

本当に優秀か否かは実際に仕事をやらせてみないとわかりません。良い大学を卒業したことで証明されるのは、
その人が技術や社会の問題を解くにあたり汎用的な資料や手法を多めに知っていることだけです。目標を達成するにはどのような問題が横たわっているかを察知する力や、問題を解決するために必要な資料がどの範囲に及ぶのかを見抜く力は試されていません。その問題が人間関係に潜んでいたときの対応能力も証明されていません。
厳しい国際競争を乗り切るには、社会に出た時からエリートとして扱われる枠をつくらず、仕事を実際にさせる中で優れた資質を見せる者を徐々にエリートとして重用していく制度が必要です。そこから漏れた者は、自分に合った職場を探しなおせばよいのです。一定の大学の卒業生が出世しやすい統治組織や学閥的な前例主義は、学問や社会の発展を阻害するばかりです。

また、適度な危機感がないと未知の分野を苦心して開拓しようとする活力も生まれません。アメリカで創業が盛んな理由のひとつは、容易に解雇されやすいので、一流企業に就職する場合とみずから創業する場合とのリスクの差が日本ほど大きくないことにもあるはずです。身分の安定は両刃の剣なのです。
教育制度は、人々が若いころから安楽な生活を好む保守的メンタリティを持つことを防ぐべきであり、社会に出てからの競争や職の変更や階層の流動化を後押しするべきなのです。
「長く苦しい猛勉強に励んだ結果、良い大学そして良い会社に入ったのだから、良い待遇を得て当然」という社会通念も壊すべきなのです。

とはいえ、使い方によっては、教育は、社会階層移動システムとして適切なものにもなります。
本物の学問には人々やその生活を向上させる力があり、それを修めた者に権原を与えることは合理的ですから、学歴ある者に、社会に出る段階において有利な地位を与えることは、少なくとも 他の階級制よりマシと言えます。

しかし現在、この社会階層移動システムは歪んでいます。
富裕層の子供達は、彼らの親だけが知る一流の塾で効率的に勉強でき、頭脳明晰でなくとも有名大学ひいては大企業に入ることができ、馘首が難しい雇用慣行に守られ、同様に恵まれた仲間とともに 安楽な一生をすごします。他方、経済的余裕がない親をもつ地方在住の子供は学業優秀でも都市の大学には進学しづらくなっています。
親の経済力によって学歴という階級が固定されつつある現状は、生まれつきによる不平等が生じるだけでなく、その学歴にみあった能力に不足するものに権原を与える危険をはらみます(たとえば一流の学習塾の受験指導を受けて大学に入った人は、そうではない人と比べて「上げ底」されているといえます)。

従って、学歴の意義は認めつつも、学歴の有無による区別が過剰なものにならず、学歴の取得が誰にとっても難しくない状況を作ることが、バランスのとれた社会状況であるといえます。

それにはブルーカラーへの所得補償や学問そのものの見直しなど、教育制度を越えた対策も必要となりますが、大学のランクづけを緩和することも重要です。

全ての大学のレベルを横並びにしてしまうと、生徒が努力しなくなる懸念もあり、企業側としてもある程度の選別基準をなくしてしまうので、これもよくないでしょうが、たとえば旧七帝大、一橋、東科大などが横並びトップ校として全国に散在するようになり、その下に 全国の国立大学、早慶、関関同立などが横並びに続くようになれば、上記のような弊害は緩和されるでしょう。

大学のランクづけが緩和されれば、パズル的難問が大学入試で使われることも少なくなり、子供の時間を無駄に奪うことが少なくなります。

「これを教育すべき」と誰かが決めた狭い範囲でまんべんなくすべて正確に覚えることを要求されない受験は、特定の領域で広く深い才能を持つ子供に高等教育の機会を広く与えることにもなるでしょう。それは新たな発見のための圃場となり、新たな産業の創出にもつながります。

また、地方大学をレベルアップさせることは、地方大学にしか通えない貧しい若者が高い教育と報酬をえられる機会を拡大することになり、経済格差の相続を縮小し、社会の分断を防ぐ歯止めになります。
これは東京への一極集中も緩和します。学生は卒業した大学のある場所の近くで就職先を探すことも多いので、地方に優秀な人材が残れば 優秀な企業が育ちやすくなります。そしてある分野で世界一の企業がある地方都市はそれだけでも魅力的になります。

大学のランクづけを緩和するには、大学からの出口改革が最も重要です。

たとえば「学士号を取得した つまり大学入試で入学した大学では教職につけない」とすれば、研究者の流動性を高め 優れた学者を各地に分散させ、多様な研究を全国で実施せしめ、既存の価値や常識の再検討を本質とする学問全体のダイナミズムを促すでしょう。

また民間企業の「卒業時一括採用」の慣行は法的強制をもってしても廃すべきです。卒業時一括採用の慣行を通期採用制へと一新すれば、業界経験のあることが一流大学出身に対抗しうる武器となり、学歴が偏重される危険が薄まります。

「中央官庁の公務員の採用においては 各省庁の採用数10%以上を一つの大学の卒業生が占めてはならない。また30%以上を在京大学の卒業生が占めてはならない。」などの規制をかけることも有用でしょう。これは基本的には避けるべきクォータ制の一種です。しかし大学のランクづけを緩和するという困難で巨大な目標の前では許されるでしょう。現在、既に中央官庁に就職する大学生の内の東大卒業生の割合は相当に下がっていますが、これは学生の自発的な動きまかせの変化なので、中央官庁の就職先としての魅力が回復すれば元に戻る話ですから、このままでよいということではありません。

さて、多様で高度な教育を広く提供するには費用がかかります。しかし予算には限りがありますから、どこかで埋め合わせなければなりません。そのためには学校教育期間を短くすることが最も単純で確実です。
しかも、そうしておけば大学に進学する人もしない人も、卒業後しばらくしてから仕事を変えたいと思った時、やり直しやすい年代です。

期間を短くしつつ質の高い学びを実践するには、習得すべき内容やカリキュラムの精査が必要であると共に、子供がみずからの長所短所を効率的に探し 無駄な時間を過ごさせないための仕組みも重要になります。

たとえば学制は、以下のように改革して短縮できるでしょう。

9才くらいまでは性格も才能も変わりやすく、どのように成長するかわからない時期です。その時期の子供の天分を発達させるには、とりあえず様々なことを同年の子供とさせるほうがよいでしょう。それが小学校です。

しかし10才頃からスポーツにおけるゴールデンエイジ、自分の力を試したくなるギャングエイジに入ります。才能の片鱗を示す子供には良質な指導を与え始めるべき時期に入ります。勉強に関しても「できない子」と「普通の子」の差はそれほど大きくないのですが、「できる子」とそれ以外の子の間には大きな差が開きはじめ、全員に同じ授業を同じ教室で受けさせることは双方にとってストレスになってきます。
富裕層の子女が通う私立の進学校と公立校の格差を是正する意味でも、「できる」子供を選別するクラス編成を導入すべきです。
これが現在より2年早く入学させる中学校です。

その際、すべての教科でより深い内容の授業をすることは学校や教師にとって過重な負担となりますが、理数系の科目は、繰り返しによる習熟が重要であり、また深掘りや周辺分野への言及が比較的容易です。科学に習熟した人材への社会的需要も高くなる一方です。従って「できる子」達には、数学や理科について選抜クラスでより高度な授業を受けさせるべきでしょう。この年齢で微積分の基礎を教えてもよいでしょうし、インドのように20までの九九を教えてもよいでしょうし、化学式をなるべくたくさん暗記させてもよいでしょう。その際、国語や社会のコマを減らしてもよいでしょう(たとえば読解力をつけるには読書量を増やすしかないのであり、これらの教科では自習が重要なのです)。そしてこれは学期ごとに選択できるようにして、いったん「できる子」のクラスに入ったものの、ついていけない あるいは雰囲気になじめない子供は普通のクラスに戻れるようにすべきです。

また、すべての教科についてインターネットを活用した特別授業も必要になるでしょう。たとえば「授業が上手い」と評判の教師の授業をビデオで撮影し、それを一律に全国に配信して生徒が自分のペースで視聴できるようにしつつ、生徒から質問が出たときにそれに答えるチューターが(これもまたネットを通じてでもよい)待機しているなら自習のフォローにもなり、また「できる子」クラスの設置が難しい過疎地のためにもなります。
これは予備校や塾に似たものになりますが、無料であることと 内容が受験に特化したものでないことが異なります。
貧困家庭の子供も利用できるように、放課後の学校で機器を利用できるようにしておくことも大切です。

このような中学時代は現在と同様に3年間でよいでしょう。

高校は社会に出る準備期間です。これは現在の3年では足りず、むしろ4年に増やすべきです。

また、スキルある労働力の確保のためにも、高校まで義務教育にすべきです。
ただし義務教育だからといって一律無償にすることは国庫の負担となるので、親の経済力に応じて授業料を徴収すべきで、高所得家庭には累進的により多くの負担を課し、貧困家庭からは授業料などを徴収せず むしろ寮の提供などを行うべきです。これは親の所得が子供の学力に影響し社会階層が固定されることを防ぐ意味もあります。

また、ローティーンではなくハイティーンで自分が何に向いているかを考えだす子供が多数でしょう。よって、「高校によってカリキュラムが大きく異なる」「高校入試で未来が決まる」というのはタイミングがいささか早すぎます。「普商工農」といったランキングもおかしな話です。よって全員が普通高校に進学するべきでしょう。

但、社会に必要なのは英語が話せて微積分ができるような人材ばかりではありませんから、勉強には向かない子供達を机に縛りつけるのは社会的にも損失です。機械工学に進む人が古文を学ぶ必要もないでしょう。
よって高校では、現在の大学のようにみずからコマを選択できる幅を広げ、途中から職業訓練コースを履修できるようにして(商工農への分野限定を外し)現在の商業、工業、農業高校などの施設を必要時に訪れて履修できるようにするべきでしょう。
また、授業を選択するにあたっては、ある程度は「選択しない」(つまり学校の授業以外のこと、たとえばダブルスクールやスポーツクラブに時間を割く)ことも許すべきでしょう。

このような高校生活であれば、みずからを知る機会も増え、たとえば専門学校の選択においてもみずからの体験を生かすことができます。また、同じ高校の卒業生の中に、難関大学に進学する人、入学する大学のレベルは低いが商業簿記や二次元CADがあつかえる多才な人、工業簿記も三次元CADもでき社会人として旅立つ人、パルクールや水耕栽培が得意な人など、多様な人材が混じることになり、多様性に慣れた社会人が増えます。また、転職のため社会人向け職業訓練校に行くことにも抵抗がなくなるでしょう。

なお、到達度別クラス編成やインターネット授業が重要となることは中学以上です。

大学は主に専門教育を受けるための場です。一般教養課程に時間をかけるべきではありません。また、卒業時一括採用という現在においては不合理な慣習を廃止すれば 就職活動に使う時間の無駄がなくなります。期間は3年にできるでしょう。

ただ、理系の研究職や技術職につきたい場合には、修士課程修了が必要になることは現在と同様でしょう。実験や観察の体験が重要だからです。

他方、文系学部の場合、一般に労働市場から学生が求められる専門性から言えば、大半は3年でも長すぎます。それは教育の質が理系よりも低いことも示していますから、文系軽視論や不要論も出てきます。
しかし本物の文系は「広さ」を持ち得ます。現状では「広さ」の獲得が文系学部のカリキュラムに組み込まれていないので(よほどのブランド大学でない限り)文系学部を卒業しても理系学部ほど評価されないのです。従ってすべての文系学生は学部に関わらず、法律(いわゆる六法すべて)、経済(ミクロ、マクロ)、第二外国語(フランス語、アラビア語、中国語など。古文書読解も含めた古文もこの一種とする)を学ぶべきであり(そのレベルは学生の質や専攻によって変わりますが)、文系学部の卒業証書は(たとえ書物と講義だけからに過ぎなくとも)広く正しい知識をもつことのエビデンスとして機能すべきなのです。

また大学は、物質的で表面的な生き様に終始しないための無意識のノウハウを高める時を過ごす場でもありますから、やはり3年は必要でしょう。

また、日本では春入学の慣行が長く続いていますが、これは欧米のように秋入学に変えるべきでしょう。
今後、留学はさらに重要になることが予想され、留学しやすいことも大切だからです。
春入学ゆえに必要となる春休みという休暇をなくせば授業のコマを増やすこともできます。
入試時期にインフルエンザや豪雪に気を遣わなくてもよくなります。
また、夏休みという長い期間を今より自由にすごせるようにすることも、自立性を育む上で有意義でしょう。

何を、どのように、いつ学ばせるかと同様に、どこで、誰に学ばせるかについても再考する必要があります。
すなわち生徒が学校の外で学ぶ時間を増やすべきなのです。

なぜなら、多様で高度な教育のすべてを教師が与えることはそもそも困難だからです。
良い教育を実現するには教師の不断の研鑽が必要であり、そのためには研鑽の時間を確保させる必要もあり、そのためには外注可能な職務から教師達を解放する必要があります。

また、日本の若者の死因の1位は自殺であり、理由の多くは人間関係です。過剰な同調圧力は人間関係をムダに難しくし、いじめなどの問題を誘発するのみならず、学びの障害にもなります。校外での活動時間が増えることは、校内での同調圧力を弱めることにもなります。 また、転職が当たり前になる時代には、新たな人間関係をたびたび作りなおすことになります。年齢層の異なる様々な人々との良好な人間関係の築き方を学ぶ機会を校外で増やすことも有用でしょう。

クラブ活動の学外化が進みつつあることは良い方向ですが、さらに体育や音楽や美術のカリキュラムについて学校外の専門的指導者を生徒に選択させる、その際、学校内の体育や音楽や美術の教師にはその案内役となる、などの改革もあるべきでしょう。

ここまで述べてきたことは婚姻不調の緩和にも役立つはずです。※30

現代の若者は(まじめであればあるほど)勉強や仕事に多くの時間を費やし、婚活はその間のわずかな暇、またはそれが一段落した後で年を取り過ぎる前に急いで済ませなければなりません。
学校教育の内容を実社会で必要なスキルと連動させ、卒業を早くさせ、婚活期間を長く与えるべきではないでしょうか。

また、生まれつき異性と上手につきあえる人はせいぜい10人に1人で、残りは付き合い方を学ばないと結婚できない凡才であり、学ぶためには時間が必要です。激しい受験競争で勉強に追われる生活を送っていては、異性とのコミュニケーションスキル(ファッション、話し方など)を身につける時間にも不足します。男女がそれぞれ相手に望んでいることが違うことにも気づけず、異性と付き合いたくても 交際の土俵にすら乗れないようになっても不思議ではありません。
それらを緩和し、様々な相手と自分の気持ちや時間をすりあわせる経験知を若い時から積む時間を与えるべきではないでしょうか。

※30

婚姻不調は、少子化の原因として問題視されることも多いようです。

現在、日本人の平均寿命は男女合わせるとおよそ85歳です。大学進学率は約55%ですから平均的就職開始年齢は20才強ということになります。たとえば平均65才でリタイアだとすると、勤労年数と不労(若年および老齢)年数の割合は45:40となります。さらに少子化により高齢者層のほうが多くなる時代には労働人口の方が少なくなります。日本の政府は「働かない人のほうが多い状況では経済が回らない」という懸念をもっているので、少子化を騒いだり、海外から富を吸い上げてやっていけるように国民に投資を勧めたりするのでしょう。

しかし、環境悪化や資源の枯渇を防ぐために最も確実で簡単な方法は人口抑制であり、その最も自然な方法は少子化です。子供を作るまいとすることはむしろ望ましいのです。

長期的に見れば少子化はむしろ全世界的に必要なことであり、その急激さだけが問題なのです。

問題は、少子化ペースの急激さと高学歴化と長寿化による労働人口割合の減少の下でいかに経済を維持するかということです。

この問題に対処するために最も重要なことは、国民一人一人が本当に必要な労働に長く従事できるような社会を構築することです。
それには若者や老人や女性が兼業的な労働を効率的にこなせるような社会環境を整え、適材適所を実現できる労働市場の整備が必要です。そのためにはAIの活用だけではなく、人材も流動性が悪い現在の社会システムを変える必要もあります。またたとえば、滞在可能年数を長めに限定した(たとえば合計35年など)外国人労働者の受け入れも有効でしょう。

とはいえ、少子化のペースを落とすことも課題です。年間出生数100万人前後が、現状では妥当でしょう。

現在、少子化対策として「女性が働きやすい社会環境を整える」ことを推奨する意見もありますが、その具体的内容は育児休業と女性管理職の増加です。後者が不合理であることは先述のクォータ制批判において述べました。前者についても、これが推進された場合、育児休業中の穴を埋める派遣労働者も増加せざるを得ず、その不安定な働き方が固定される女性が多く生じ、その多くは若く妊娠能力の高い女性達です。つまりこれはゼロサムゲームに過ぎません。

少子化のペースの緩和のために本当に必要なことは、男女の格差の解消というより、むしろ貧富の格差の緩和です。これは男女平等の問題ではなく、貧困問題なのです。若くして社会に出るエッセンシャルワーカーの所得を保障し、まずは自身が安心して暮らせる社会にすることが必要なのです。

それには先述のように公的な所得補償を行うだけではなく、産業ひいては労働市場の合理化が必要です。卒業時一括採用を禁止し、ブルシットジョブを撲滅し、入社時の固定給をあげる一方で就業期間の長さで自動的にあがる給与の上限を低く設定して年功序列を最小化し、業績の低い社員の転職を促しつつ中途採用を活用すべきです。

婚姻という制度には、少子化防止のほかにも様々な価値があり、基本的には「した方がよい」ことだと言えます。

婚姻は異なる環境で育ってきた男女が共同生活を営み 相手の生活に責任をもち 子供を育てることで再び自分を育て直すという貴重な経験を与えてくれるものです。

個人にとって有意義であるのみならず、病気やケガをしたときや老いたときや貧しくなったときに互いに助け合える身近な仲間を作っておいて 公的福祉に丸投げに頼ることを避ける、社会にとっても有意義な制度です。

従って「結婚するかしないかは個人の自由」という考えは、社会への過度の依存をベースにした身勝手と言える面をもちます。よって既婚者よりも独身者の負担が重くなるような税制も一定の限度では公平と言えるでしょう。

しかし他方、結婚するにはそれなりの能力や条件が必要ですし、子供ができすぎて人口過剰になっても困るので、ある程度は個人の選択を許すべきでもあります。(これは「勤労の義務」と似た性格の義務といえます。)

個別に観察すると、結婚しない人の中には、時間やお金や婚活スキルに問題がある人もいれば、「結婚したいが 自由でもいたい。家族も欲しいが 豊かな生活をおくれなくなるならいやだ。」という人もいます。

前者については、ここまで延べてきたことが直接役立つはずです。

後者は高望みとことなかれ主義にすぎず、放っておくしかないようにも思えますが、このような考え方(好み)は、幼少時からの環境に影響されているかもしれません。

厳しすぎる校則は自由への過度な期待を育みます。他方でアニメには現実離れした都合の良すぎるストーリーがあふれていますから、そのようなものばかり見ていては高望みもしてしまうでしょう。また、とがった個性がクラスメートにいじられるようでは、ことなかれ主義にもなるでしょう。
本文で述べたような、子供を机に縛りつけず 色々な学びの機会を与える制度改革は、これらの人々の考え方も変える契機になりうるかもしれません。

第二部 認識論

第一編 問いの枠組

生物は感覚をもち、動物は認識をもち、高等動物は認識を判断に換えます。さらに人は判断から評価を組み上げ、この一連の流れの中で言語を駆使します。その行動は一般的には「考える」と表現されます。

「考え」を伝達可能な知識にまとめるとき、人はオープンな答を求める(yes/noで答えることのできない)問いを、枠として使います。

最も汎用的な問いは「どのような」「いかなる」です。

この言葉の後に 「時間」、「場所」、「人」、「もの」、「方法」、「因果関係」などの言葉をつけると、思考の整理と分類のための座標つまり when(いつ)、where(どこ)、who(誰)、what(何)、how(いかに)、why(なぜ)になります。

私達自身のありようについても これらの座標に沿って考えをまとめていくのが素直でしょう。

これらの問いへの答えは複雑になり、when、whereのような比較的簡単な問いも、背景によって微妙に求められる答えが異なります。

たとえば、「どこにお住まいですか」という簡単な問いに対しても様々な答があります。役所では番地まで答えますが、世間話ならだいたいの位置で、それも東京近郊なら最寄りの駅名で答え、それ以外の地域では市町村名で答えます。

Whatやwhoは、どういう目的から問われたのか推測しなければ答えられません。多くの情報から慎重な判断をしなければ 適切に答えることができない問いです。

とはいえ、下記のhow やwhyほど複雑ではなく、ある程度の限定が最初からかかっているので、思考を解きほぐす際に攻め処となりやすい問いです。

whyは因果関係を問うものです。そこにあるはずの必然性あるいは必要性を問います。

ただ 必然性というものは一定の条件のもとでしか成立しません。水が100度で沸騰するのは常圧での話ですし、ユークリッドの定理が成立するには平板な面が必要です。しかもその条件は、ひとつではなく複数あり、主要なものもそうでないものもあります。
なお、条件とその主要性は自然科学の分野では明確かつ一定の「である」論に近いものになりえますが、社会や人に関する場合は不明確で可変的な「べき」論に近づきます。

このような条件やその主要性の有無を問うている段階の why を、以下では「未定のwhy 」と呼びます。

「未定のwhy 」を問うた結果、「である」論的な条件や因果関係が「わかれば」、または「べき」論的な条件や因果関係が「決められれば」、その問いはhowの問いに分類されなおされます。

howも因果関係を問いますが、これは問う者に決定権や自由度があることを前提とする問いです。予見や支配の域内の事柄を問うものであり、行為者によって関係が制御されうる範囲を対象とします。

たとえば 探偵が「いかに」密室殺人が行われたかを「凶器の刃物を結びつけた紐を外の水車に巻きとらせたのです」と種明かしすれば推理小説の古典にもなりますが、「毒饅頭を会議室に置いておいて 被害者が食べるのを待っていたのです」といえば「そんな不確実なことがうまく起きるものだろうか」と読者に疑問を付されるオチとなります。犯人が因果を制御しきれないトリックは「いかに」に答えきれておらず不完全だからです。

「未定のwhy 」は、それが how の問いになれないことを確認する際にも使われます。
たとえば ミステリーの終局で 探偵が犯人に「なぜあなたは○○を殺したのです」と問うたとき、犯人が「○○を愛していたからです」と答えれば多くの読者は即時に納得するでしょう。受け入れられなかった愛情が憎しみに変わることは犯人にとってもどうしようもなく、予見や支配の外側にあることだからです。
(他方、犯人が「金がほしかったからです」と答えただけでは読者には少し不満が残ります。人を殺して奪うほど金が必要となる状況はそもそも避けられたのではないのか、と思うからです。まだ予見と支配の限界が問い尽くされていないからです。探偵は重ねて「なぜそれほど金が欲しかったのです」と問い、犯人がそれほど金に困っている過酷な(避けられなかった)運命を語って、はじめて読者は納得し 謎解きはそこで終えざるをえません。それ以上聞けることはないからです。)

「未定のwhy」を問うた結果、因果関係が予見や支配の外側にあって「わからない」あるいは「決められない」場合、それは whyの問いに留まります。以下ではこれを「純粋なwhy」と呼びます。

これは因果関係が予見や判断の限界外にあることは知りつつそれでも問うものです。
上述のように汎用的な問いは「どのような」「如何なる」ですが、これは「それが既に存在する何の如きなのか」または「どれに似ている(ようである)か」を問うものです。つまりなんらかの手がかりから問いは発生するのです。その手がかりそのものを探すのがこの「純粋なwhy」です。

ここでは「問う姿勢を保つこと」に意味があります。
たとえばネイティヴアメリカンを殺戮してアメリカに入植したヨーロッパ移民の子孫がメキシコからの移民を閉め出すときも、良識と知性のある人はこの問いを自問するはずです。

これはみずからでは探せない問いそのものを抱き続け、たとえば神に呼びかけることのできる人という生きた存在だからこそ出しうる問いです。

以下では、このような枠組みにしたがって、私達自身について考えていきます。

第二編 何をしているか -what-

「何をしているの」と問いかけられた時、「煉瓦を積んでるよ」と答える職人もいれば、「聖堂を建造してるんだ」と答える職人もいます(これは、モチベーションマネージメントに関連してよく使われる挿話ですが)。

同様に、私達も「とりあえずやっていること」と「結局なにをしようとしているのか」を考える必要があります。

哲学を始め諸々の学問が問題としてきたのは人の認識です。

これが「とりあえずやっていること」の中で最も課題となるものなのです。本稿でもこれを大きなテーマとして、後に詳述します。

では、すべての人が「結局のところしようとしていること」いわば目的としていることは何でしょうか。

法哲学者のハートは「人間一般にとって善とされることは生存のみである」と述べています。また人類学者のインゴルドも「生きる」ことを研究のテーマとしています。

それらに対して「いや普通は生きることよりもこちらのほうが大切だと考えるだろう」というモノやコトを提示するのは困難でしょう。
たとえば「我に自由を、さもなくば死を与えよ。」と演説したアメリカの政治家もいましたが、特別な瞬間における特別なアジテーションと受け取るべきでしょう。

つまり私達は 結局のところ「生きようとしている」のです。

生きる

では「生きている」とは どういうことでしょう。
機械は動き、ビーカーの中のケミカルツリーは成長しますが、いずれも生きているとは言いません。
他方 クマムシはほとんど呼吸をしないでも生きています。
たとえとしては「森は生きている」と言ったり、佳作を書けなくなった作家を「死んだ」と揶揄したりもします。

「生きている」とは、

  • ・感覚や認識にもとづいて、
  • ・同一性のみならず統一性を保ち みずからを保存しながら、
  • ・外部から何かをとりこみつつ質的に変化する

様子のようです。

そうだとすると「生きる」ことを積み重ねると、より変化しやすく変わっていくことになります。

確かに、種としての人は、より研ぎ澄まされた感覚、より多層的な認識と判断能力、より精妙で強いコミュニケーション能力を得てきました。そして新たな必要にせまられるたびに、認識や動きや身体のしくみを組み直して対応してきました。

また人の社会も、試行や経験を地層のように積み重ね あるいは引出しに隠し、いざという時それらを組み直して活性化させて危機を脱することができる可能性を高めてきた歴史をもちます。(それは、スペンサーの言うような優勝劣敗の択一でなりたってきたものでもなければ、マルクスの言うように 原始共産制、古代奴隷制、封建主義、資本主義、共産主義と自動的に変わってきたものでもありません。)

構築を壊して組み直し続けるこの様子を進化と言うのかもしれません。

それらの大きな流れの中で、人は「生きる」ことに関して、「いかに」(how)と「なぜ」(why)という問いに向き合います。

また、このそれぞれの問いの後に「生きているか」「生きるべきか」という二種類の語尾をつけます。

「いかに(生きているか)(生きるべきか)」と問い、みずからに目を向ければ認識論になります(次章以降で詳述)。

他方、みずからの外に目を向ければ、みずから以外のものと生き 生かされていることに気づきます。
新自然法論者のフィニスは、邂逅、協働、結合、調和を内容とする基本善を列挙しています。
脳医学者の林成之は、脳の基本的な欲求は「生きること」「知ること」「仲間になること」だと述べます。
個々の細胞は生きていても、細胞間の関係性が切れているなら個体は死んでいます。生きるということは関係性が維持できているということです。それが少しづつ切れていけば、少しづつ死に近づくのです。「別れをつげることは 少しだけ死ぬこと」とフィリップ=マーロウもため息をつきます。
人はつながりの中にしか変わる方法、術を見つけられません。人が生きるため、つまりみずからを保持しながら変化しようとするためには、みずから以外のものとつながることが必要なのです。

そこには、話すことも、争うことも、抱き合うこともある仲間が与えられていなければなりません。
たとえば、最高の知能と道徳性をもつ人型アンドロイドができても、それが人間に交じって社会生活を送るときに最高の人生を送れるとは限りません。みずから新しいつながりをつくる時、誰とつきあうか、どの程度深くつきあうか、何についてつきあうか、それらをすべてみずから決め、あるいは決めずに流れにまかせ、決めるときにも そのときのみずからに有利な内容ばかりで決めていては結局うまくいかないという実際の世界の中で人として「生きていく」という創造的な活動は、ひとりではできないからです。

最初から生きられる人などいません。生きはじめ、生きようとしていることを示し、それが伝わるうちに周りがそれに応え始めます。生きるとはそういうことであり、世界はそういう場なのです。

かと言って、勝敗にこだわりすぎる人々が勝利に役立つ仲間を得ようとばかりしている社会、そして役割や階級が固定してしまった社会は、生きる場として良い所ではありません。
「仲間」とは入れ替わりうる者、交代し合える者をいうのです。「生きる」とは、本質的に変わり映えのしないことを繰り返すことではないのです。

「いかに」は、過去を深く振りかえることもあります。

「どう(いかに)生きたか」「どれ(いか)ほど生きたか」は、どれだけ変わることができたかということです。
これは肉体を維持しえた時間の長さで測れるものではありません。成功や失敗で測れるものでもありません。

リリエンタールは天才的ひらめきだけで世界初のグライダーを作ったわけではありません。それ以前の不完全な「飛行機」でいくつもの冒険的な生命が失われたり大怪我をしたりしてきた積み重ねの上に彼の成功はあるのです。

南極で荷馬を使って遭難したスコットは浅慮だったようにも見えます。しかし北欧では冬も馬車を使います。実際に誰かが南極で試さなければ不可能であることはわからなかったはずです。彼とアムンゼンのおかげで犬ぞりの優位性がわかったのです。

ヒマラヤで遭難死した登山家のデュプラは「いつか私が山で死んだら」とはじまる詩を残しています。それは親しい人々への呼びかけで始まり そして終わっています。その人たちとのつながりの中で自分が生き続けることを伝えようとしています。
それはまたこう言っているようにも思えてなりません。
「私は遭難するかもしれない。しかし正しいルートは失敗があってこそ発見できる。失敗は後継者の貴重な情報になる。皮肉だが それが悲劇的であればあるほど人々の記憶に残り、同じ失敗は誰もしなくなる。成功者の結果と同じくらい、失敗者の過程は人々を変える。そういう形で私はまだ見ぬ人々ともつながっている。」
「子供や若者は、当然、死を恐れ忌み嫌う。死を恐れずに危険な山に行けるようになった自分は、当初の自分からまったく変わっている。生き物にとってこれほどの変化はないだろう。私は十分に生きた。だから親しい人達よ、決して悲しまないでくれ。そして私を悼まないでくれ。私は独りではない。私は敗者でもない。だから共に山に挑んできた君に私のハンマーを受け継いでほしい。」

彼らに比べて、孤立し、成功に執着し、みずからの変化を妨げ、みずからを疎外した生き様を送っていると感じるのは私だけでしょうか。

現代は失敗の価値を過小評価し、成功のみを過大評価します(勝者が全て取ることをよしとしがちです)。これでは誰もが冒険や探究を遠ざけてしまい、「生きる」ことをやめてしまうでしょう。

いったいつから人々は失敗あるいは貧しいことを恥ずかしいことだと思うようになったのでしょう。

「なぜ他者を助けなければならないのか」「なぜ自分は生きていけるのか」「なぜ生きていくことが難しいのか」などは「いかに」に隣接する問いです。この「なぜ」は「未定のwhy」です。自分の力と判断の限界を認識するための問いです。

私達は、自分が何かのために生きていると合理的理由を探すことがあります。
それに留まらず、みずからが生きていることの正当性を求め、何かの役に立っていると思いたがり、さらにそこで効率を求めることを正当視することもあり、そしてそれに劣る人の生きる意味を軽視することもあります。

では、障害者を粛清する社会はなぜ間違っているのでしょう。なぜ医師は治らない可能性が高い患者にも医を施すのでしょう。才能にも努力にも不足し 愚行によって貧困に陥った者にも権原を与え その生命を長らえさせねばならないのはなぜでしょう。

助けを必要とする人々がしていることは、私たちがやってきたこと やっていることを映しているのです。彼ら彼女らだからこそ端的に映しているのです。それは見る人の心を映す竜安寺の石庭にも似ています。
慣れ親しんだ見ためが良く、耳障りでなく、口あたりの良いものだけで周りを埋めることは鏡を失うことです。生きている「つもり」ではなく 本当に生きているか、つまり同一性を維持しているか 変われているかは、周囲から教えてもらうしかありません。

この問いは、みずからの中にない答えもあることに気づくきっかけにもなります。

私達は、世界に対する最低限の謙虚さも忘れがちですが、ふと気がついて「純粋なwhy」に向きあいます。

それを端的に問うた「なぜ(生きているか)」「なぜ(生きるべきか)」という問いは、「純粋なwhy」の問いのひとつです。
みずからの外側にあってみずからを包括する存在(たとえば神)との関係を認識したい、という欲求の表れです。
言いかえれば「あなたが予見しえず、支配しえないもの、あなたの認識や判断の限界の外にあるのは何ですか」「そしてそれとあなたの関係はどのようなものですか」という問いです。

言葉やイメージで答えを出しうる問いではありません。

この問いは いかに自分が何にも気づかぬまま日々生きていることに気づかせてくれます。

これは 問うこと自体、認識や判断の外に向かって手を伸ばすことそのものに価値がある問いです。

ただ、人は、これらの問い(特に後者)に対する時、抽象的な「べき」論に迷いがちになります。よって、この問いを発する時は、なるべくhowに近づいておくため、「どう生きるか」「どのように生きたいか」も併有する必要があります。

上述した語尾の違いについて付言すると、「(生きて)いるか」という問いは疑問であり、「(生きる)べきか」という問いは目的の確認です。

目的を立てることは、行動に統一性をもたせ、何かを成し遂げやすくさせますが、目的の実現にこだわることは、視野をせばめ 変化つまり生きることを阻害することもあります。

生きることは変わることです。しかし、目に見える、言葉にできる目的にそった変化だけが変化ではありません。
死にゆく人は周りの人のことばかり気にします。目的を果たすための時間がないこと もうすぐみずからが解放されることを実感するからでしょう。他者を通じて生きること あるいは今までとは異なる変化の仕方に近づいたことに気づくからでしょう。そして私たちは皆一瞬後に死ぬかもしれない存在なのです。

私達は、生きる目的を気にすることもありますが、そこにこだわっていては生命の流れに乗り遅れてしまいます。

認識(意識と体認)

みずから以外のものとつながり、みずからを保持しながら変わる、つまり生きていくための活動は 大きく2つに分かれます。

ひとつは、感覚や単純な動作など、還元論的・自然科学的アプローチで説明できるものです。

もうひとつは、より複雑で統合的な「認識」を通じて行われる高次の精神活動です。

人の社会的側面に関係するのは主に後者であり、人が「どのように生きているか」を社会的側面から論じる上でも、私達がいかに「認識」し判断しているかを振りかえる必要があります。

この数十年の間に、人間の脳の働き方について、いくつも重要な発見がなされました。

脳が複数の異なった方向から現象を認識していることが判明したこともそのひとつです。

たとえば左脳は言語的分析的に働き、右脳は感覚的空間把握的に働くそうです。

また視覚にも2種類あり、その物がどのような色や形をしているかを伝達する経路と、その物と自身の位置関係を把握する経路との2つがあることもわかってきました。 

人の知覚の九割は視覚からのものであるとも言われています。知覚から生成される「認識」という高次の精神活動も二種類あると考えられるのではないでしょうか。

またそう考えた方が 人の能力の多面性(「できるけれど、どうすればできるかは説明できない」「やり方はわかっているけれどできない」など)も説明しやすく、そしてまたみずからが動きやすくも、変わりやすくもなります。

まず、私達は世界を映す鏡、外界から一歩引いて事象を把握する認識をもっているとみるべきでしょう。これは言葉化されやすく伝達しやすいものです。(以下では「意識」と呼びます。)

またそれとは別に、周囲との関係でみずからの置かれた位置や方向やバランスを感じ、身の置き処や動き方や処し方を教えてくれるセンサーのような認識もあるとみるべきでしょう。これは言葉になりにくいものですが、腹に落ちる納得感や逆に居心地の悪さを感じさせるものでもあります。(以下では「体認」と呼びます。)

認識には、みずからの認識の結果を対象とするものもあります(これはみずからそのものを対象とすることとは異なります)。ここではこれを「メタ認識」と呼びます。
さらに細かく言えば「意識したことを意識する」「体認したことを意識する」ものをメタ意識と呼び、「体認したことを体認する」「意識したことを体認する」ものを「メタ体認」と呼びます。

メタ意識の中には、単に認識するだけで終わる単純なものもありますが、手順や結果を確認したり分析したりするものもあり、さらに何らかのパターン判断を行い、評価まで下し、さらには予測や推測まで行うものもあります。
後者の例としては、たとえば事象や理念についての意識内容の相互関係を考察する意識もあります(たとえば「それが正義や善に沿っているか否か」)。そのような特に複雑な働きを「「理性」と呼ぶこともあります。これは崇められがちなものですが、カントの指摘するように現実離れした暴走もしがちです。権威にだまされることもあり、使う情報量を絞り込むので いったん疑い始めると世界の全てを疑ってしまうなどの不器用さをもちます。但、身体的必要や他者へのアピールとの結びつきは弱いものなので、おかしな癖がつけず小さくとも正しい声にできることもあります。

メタ意識は出しゃばりですが、私達は それを笑いつつなだめることもできます。

たとえば「正しい夏休み」「善良なコーヒー」などの言葉のもつ微妙なおかしみは、意識が判断も評価もしきれない「夏休み」や「コーヒー」という事象に対して正義や善などの理念を振りかざしている滑稽さから生じます。

意識または体認がメタ認識抜きで存在する場合もあり、これは「無意識」と呼べるでしょう。

なお、目や耳などの感覚器で知覚しつつも意識の欠けた状態、つまり本当に意識していない場合は、上記と区別するため「不意識」とでも呼ぶべきでしょう。

人の認識においては、必要性が像、許容性が背景といえます。

意識は必要性に向きやすく、体認は許容性に向きやすいものです。

必要性には内的なもの(欲求など)も外的なもの(社会規範など)もあり、許容性にも内的なもの(疲労など)と外的なもの(気候など)があります。

意識と体認は別々に働くことがありますし、場面に応じて使い分けることもできます。
たとえばキリストが、皇帝の肖像の彫られた貨幣を前に「シーザーのものはシーザーに、神のものは神に」と答えて相手のたくらみを一瞬で切り崩したのは意識メインの働きで、「世界を支配させてやろう」という悪魔の申入れに即座に背を向けたのは体認メインの働きと言えます。

また 私達は 意識の下す評価を体認によって乗り越えることもできます。

禅語にも「不思善 不思悪」といいますし、激流を渡る人が評価にこだわらないことは「是非に及ばず(織田信長)」「世間は生きている、理屈は死んでいる(勝海舟)」などの言葉にも表われています。

自己評価で確執が起きたときは、私達もこれをやらねばなりません。
自己評価は「自分」についての意識的評価であるとともに、反射的に世界への意識や評価でもあります。自己評価は他者からの評価と連動しており、評価はみずからの中にうつしこまれた他人が行い、その他人がどのようなものなのかも評価の対象になり、それを評価するのもみずからの中の別の他人です。まるで鏡像の中の鏡像です。
自己評価を高めるため何かを変えようとしてもうまくいかないことも多く、見えない他者の支配を受けて共感を見直すこともできず、消極的アプローチで戦線を縮小することもままならないこともあります。
このように評価の中にがんじがらめになり、意識が八方塞がりになったときは、体認の教えるままにこだわらずそこから浮き離れるしかありません。

意識と体認は、協働することもあります。

たとえば、意識と体認が高いレベルで同時に働きそしてそのいずれに囚われてもいない状態が、西田幾多郎のいう「純粋経験」であるように思われます。(ここで「純粋」というのは「統合された」というニュアンスであり、英語でいえばintegrity でしょう。)

意識や体認とメタ認識が同時に活動している場合は非常に強い働きをみせます。
たとえば「感情」や「欲求」は、これらが動員されて生じます。しかも伝達の必要や身体と結びついています。よって多くの人が指摘してきた通り、これらは意識の一部のみを使った「理性」よりもよほど強力です。

いいかげんなところでお茶を濁していると権威主義のわなにはまりやすいので、認識を中途半端にあきらめてはいけませんが、認識(意識と体認)が「みずから」のすべてではないことを忘れないことも大切です。

認識していることだけがみずからに深く関係することではありません。認識を通さないでも他者に伝わることもあり、逆に、認識していても伝えられないこともあるのです。認識の範囲 そして認識の力は限られているのです。

しかも、本当に認識していることの範囲は、みずから「これが私の認識だ」と思っている範囲と一致しないことも珍しくありません。対象への真の認識力と みずから思うところの認識力(これもメタ認識)は 異なるのです。

従って、判断も評価もその人の役に立たず、本人が育つしかないということも しばしばあります。

そう考えると、人の精神(心)とは、生命の流れというか時の川というかのほとりにいる場、その川をみずからのほうにひくこともなければ一緒になることもなく、しかしそこから水を受けて変わりゆく場のようなものにも思えます。感じていないからといって川は流れていないわけではないのです。

第三編 誰が生きそして認識しているか (自分と自己) -who-

行動や認識の主体としての「みずから」とはいかなるものでしょう。

現代人の大半は、みずからをindividual(それ以上に分割できない一体的なもの)と考えて日々を過ごしています。人は、社会生活を送るうえで、統一性のあるひとつの人格として責任を取らねばなりませんし、身体もひとつですから、人が、みずからを単一の実在として捉えてしまいがちであるのは仕方ないことです。

しかし、その内実はあいまいです。

たとえば、みずからを一個の「肉体」として捉えておけば十分だと考える人もいます。(みずからを外から見る唯物論よりのものの見方です。)

しかしここから出てくる行為規範は、動物あるいは原始人レベルのものがせいぜいであり、そのような行為規範を基礎にしていては 実際にはまともな社会生活を営むことすら困難になります。これはみずからを外界である世界と地続きではない孤独な肉の塊としてとらえる見解であり、考えというより判断停止の一種です。

「我思う故に我あり」という有名な箴言の影響も大きいと思いますが、みずからを「対象を映し出す意識群とその意識群を一応の統一性ある形にまとめあげるメタ認識との統合体」と捉える人もいます。(みずからを内からみる唯心論よりのものの見方です。)

しかし、人は認識するだけのものではありません。認識することは生きることの一部にすぎず、みずからというものは認識を超えたところでも存在し、かつ他とつながり、かつあまりに頻繁に認識しないままに変わります。人は「なぜ認識しているのか」とは問わず、「なぜ生きているのか」と問います。そしてその「答え」を「知る」ことができなくとも、その「応え」が外から帰るとき、新たな時は流れはじめます。

たとえば、あなたが恋する人があなたに恋してくれない、つまりみずからの望みをかなえて不安を消してくれて共に調和を実現してくれる相手だと認識してくれないこともあります。その認識を変えるための努力によりあなたという場の全体としての調和が崩れることもあります。努力にも限界があり、その限界はあなたの認識に関わらず訪れますが、それでよかったと後日気づくのです。

他方、人は時々まるでみずからが複数いるかのように「私は何がしたいのだろう」などと問うことがあります。

生きることは変わることです。
それはこれまでそこにいたものが変えられることでもあり、その際、それがおとなしくその場を譲るはずがありません。変わるためには戦うことがしばしば必要です。そしてどのような戦いでも 最も身近な最初の敵が「自分」であることに、多くの人は賛同してくれるでしょう。では、自分と戦うのは誰でしょうか。

みずからを単一の実在で「ある」と言ってよいのでしょうか。「ある」の重力に形而上学的に惑わされないでしょうか。

「みずから」という概念も抽象の成果であり、抽象は必ず何らかの目的の下に行われます。しかし人は、社会的あるいは生物的要請から様々な目的を併有し、それらの目的は互いに矛盾的であることもあります。

前章で述べたように、認識に二種類あるとするならば、認識主体としての「みずから」も一つと考える必要はなく。多層的に捉えてよいのではないでしょうか。

人は様々な主体性をもっており、それらは並列的に存在するだけではなく、異なった層にも分かれた構造をもつという精神分析学の仮説は、敷衍されて理解されるべきではないでしょうか。

役者というOSのうえに 仮面(ペルソナ)というアプリケーションソフトをのせた「仮面劇」からpersonalityという言葉ができたように、個人(individual)の心は、複数の仮面のように分けうる(dividual)ものなのではないでしょうか。

特に、複数の他者と摩擦を生じたりあるいはみずからの中に相容れない望みを見出したりする時、認識主体としての「みずから」をひとつだけと捉えていては対処しづらくなります。

人が「みずから」を決めるには「世界」が必要ですが、周囲にあるのは地域、家族、友人その他の手当たり次第の諸々です。それらは整合的でも普遍的でもなく、愚かしく一面的なものであることも珍しくありません。
しかし、最初にできあがった「自分」に執着せず、新たな「自分」を作り続けてそれぞれの活動を認めれば、ひとつの個人の中で別の働き・知性・人格が別の答えを出すことができます。
複数の「自分」は、それぞれ認識や判断や伝達を行いますが、それらは、物理的には同じ時間にありながら、微妙に過去や未来にずれて存在します。過去の恋愛に引かれる自分もいれば、未来の転職にのめりがちな自分もいます。探せば探すほど色々な自分が過去や未来にそれぞれに向かいあい、今をいくらかずれた波長と周期で過ごしています。人は意外に多層的な時間を生きているのです。

他方、どの「自分」に答を出させるかを決める存在、「自分」達のベースとなり束ね調整する存在も必要です。
「自分」達は互いを評価して「こういう奴だ」と固定してしまい、鏡の中の鏡をのぞき込むような迷宮に迷い込み、評価しなくてよいところにまで評価をもちこみ、確執や不安を増殖させ、みずからの本来の動きや変化を妨げることもあります。 ※31
またそもそも、世界と対面する材料のような存在があったからこそ「自分」を作ることもできたのです。
それが「自己」です。

※31

それぞれ評価を下す肥大しがちな「自分」達から逃れるには、現代が捨てがちなメソッドを使う必要もあります。
たとえば学校教育にも工夫が必要でしょう。
やり抜いたことに意義のある活動、細かな評価などされず みずからなりに頑張ればそれでよいという課題、みずから選んだ課題への協力的参加は自信と共感を高め、自己を育て、自分の比重を軽くします。それが自発的にあるいは仲間と一緒にはじめた課題であれば、効果はなお一層高いでしょう。文化祭などはそのような場となっているようですが、子供や若者にとって何らかの意味で冒険的な課題、たとえば一日中歩いたり泳いだりすること、勤労奉仕などにも同様の機能があり、さらに新たな自分の発見も期待できるでしょう。部活動もそのような機能をもちえますが、競技や品評など(評価の獲得)に重点が置かれ始めると、かかる意味では役に立たなくなっていきます。

「自分」は判断者として世界と向きあい、そこに投げかけまた投げかけられるまなざし(判断や評価)の中に次々に浮かび上がり、世界を切り取り分析する認識の主体です。多様な外界との関わりや注意範囲によって多様に変化します。一人の個人の中に複数あることが普通であり、「自分」同士が向きあうこともあり、互いに連続性や統一性は 原則的にはありません。
たとえば子供達が好きな変身ヒーローや魔法少女のアニメは「今の『自分』とはまったく違っていて、しかも社会で役立つ高度な機能をもつ『自分』が、君にもあるのだよ」という隠喩です。

他方、「自己」は、別々の時間に存在したみずからの内的な同一性を保ち、通時的に、過去どうだった、今どうなっているのかを感じとります。「自分」に判断を変えさせる力はあり、あるいはどの「自分」を使うかを決めることができます。思考の焦点を 内に向けるか外に向けるか(「べき」論を強めるか「である」論を強めるか)を決めます。しかし、具体的対象について観察や分析や比較をしないので「自分」の分析力を借りて現在に接続しなければ、世界がみずからに、あるいはみずからが世界に与えている影響が、良いか悪いかも判断できません。
そして一人の人にひとつしかないことが普通です(複数あると「多重人格」です)。

「自分」は世界を映し何が映っているかを認識する鏡であり、「自己」はその鏡の材料であり台です。
外表で行動する複数の「自分」と、その「自分」達の奥にいてそれらを統一し調整する「自己」の二層構造である「みずから」は、互いに補完しあって自由度の高い活動を実現します。

たとえば ひとつの「自分」の敗けを受け入れ、その「自分」の限界を納得し、あらたな「自分」を生み出すこともできます。

他方、自分を一つに限定し 自分と自己を分けなければ、どうしても敗けに納得できず消化できずにひきずってしまうことになり、せっかくの再生の機会を棒に振り続ける日々を送りかねません。

たとえば夏の朝、海水浴に行こうかと思い立ったとき、「それが自分にとってどんな意味がある」と内なる評価者(外なる抑圧者の代弁者)である「自分」が口だしすると、途端に浮き立つ心が冷めてしまい、全てが面白くなくなります。

そのような「自分」の口を封じるべきなのか、面白くなくてもなすべきことを為すのか、決められるのは「自己」です。

また、人は、社会から寄せ集めた色々な言葉を組み上げて「自分」の「価値観」「アイデンティティ」「個性」をみつけようとすることもあるでしょう。

「多くの面で人は違っており、その違いに価値の上下はない」という判断は間違っていません。

しかし「これだけ多くの違いがあるのだから、その総体として『本来的な価値観の違い』があるのだ」と考えを進めると、相手を自分の思い込んだ異者の枠に押し込んで「あなたと和解できるポイントを探すことは難しいと思います」と宣言することになってしまいます。

「価値観が同じ」だと思っても、その時に話題になった事象についての妄想が一致しただけかもしれません。

「価値観」「アイデンティティ」「個性」にこだわるとかえって互いの理解と協力が難しくなります。

意識に固着し 言葉にしつくした「個性」は あてにならない造形なのです。

そしてそのことを指摘できるのが「自己」です。

またたとえば、同級生が大手弁護士事務所のパートナー弁護士になっているとします。「もし自分がそうなっていたら」と繰り返し考えていると、大企業を相手とする裕福な弁護士(いわゆる「ブル弁」)のイメージと現実への不満が混じりあい、現在の自分が卑小な存在に思えてしまうことでしょう。

しかし自己は問いかけてくれます。
「あなたは満員電車に毎朝42分揺られ、弁護士だらけの虎ノ門のインテリジェンスビルのオフィスで金儲けのうまいボスと打ち合わせをし、午後には日本企業を買い叩きたい外国企業に留学で磨いた英語でプレゼンする。夕方飲みに行って顔見知りの会社役員に会ったときは笑顔で接して好感をもたせ、何かの折はよい仕事をもらえるように努める。」というようなペルソナ(仮面)を一生かぶり続けたいのですか。」

自己を眠らせたまま「自分」に対する評価や注目を積み重ねることは、「自分」が変わるきっかけを芽ぶきの段階で摘んでしまう危険があります。
外界からの断片的な情報に 推測と妄想を交えて 一見統合的で連続的な存在としてでっちあげられた「自分」は、世界をわかったように思い、みずからの全てを支配しようとするからです。それを放置することは、内なる評価権者を名乗る「自分」を使う外部者に みずからを縛り上げることを許すことにもなります。

たとえば、嘘つきで身勝手な上司や政治家などの権威者または権力者が自分を取り囲む世界に組込まれたものだと評価させられてしまうと閉塞感で足が止まってしまいます。あなたを含めた誰もが自分に執着することは当然で、それゆえ自分も世界も大きくは変わりようがない、と感じてしまいます。(これは世界への評価を通じたみずからへの評価です。)

しかし人は皆、未来を前にして何もわからないのであり、「自分」であるかぎりにおいては世界を前にして立ちすくむ時間に囚われがちなのです。彼らや自分が時間を作っているのではないのです。「私と同じ時間を前にしている彼らがいったい私に何をやれるというのか」と過去を権威にしている愚かさに「自己」が気づき、「自分」から離れたとき、歩き出すことができます。

周囲が「自分への評価」を要求することもあるでしょう。

ただそれは「あなたは自分というものをここでどのように順応させますか(どのようにキャラ設定しますか)」と聞いているにすぎませんから、とりあえずやりすごせばよいことで、深く考えたり引きずったりするべきことではありません。

また まれに 周囲の要求と自分への評価がたまたま一致することもあります。循環的に電流が流れるような強い幸福を感じる瞬間ですが、それは一種の脳内麻薬にひたされた状態だと思ったほうがよいでしょう。周囲の要求はよく変わるからです。

また、自分の自分に対する執着は凶器にもなります。
自分は、見つめている対象によって容易に暗示にかけられ、矮小化してしまうことが珍しくありません。
悪が最も籠絡しやすいのは、「自分」の主体性そのものを最重要目的とする人、つまり癌細胞のような自己愛をもつ人です。権威主義の中でも最悪の権威主義は自分を権威とするものです。一時だけ表に出てきていた自分の言動を正当化するために、現実の不都合を見て見ぬふりを続けることです。 

事物への安易なイメージを捨て、世にある時に浮かび上がるのが本来の「自分」です。そこで起きうることを具体的にシミュレーションしたものが本来の予測です。
「自分」を川面の泡のようにさらさら流し消えるにまかせて居つかせない「自己」が生きやすい形に育ち、思い込みなき安心感をもって世界に対することも、人が本来もつ能力です。
それは、外に向けて(他人を視野に入れて)問い(訪い)続けることで、多くの「自分」の関係を支離滅裂ではなく融通無碍とすることでもあります。

積極的に生きようとみずからを奮い立たせるより、生きる上でよくないことをやめようとするほうがよい時もあります。
意欲すると、ひとりの「自分」が突出して動いて 結局は周囲との不調和を生み出しやすいからです。他方、状況に応じて受動的に動いていると複数の「自分」が協働しやすいからです。

たとえば ある子供が別の子供にいじめられたとします。そこで空手など習いいじめられないようになったとき「正義の実現のためだ」と積極的に復讐の機会をねらうことがよい判断でしょうか。むしろその意地悪な子が悪さをしないかぎりは無視しておくこと、以前にいじめられたことを気にかけないことが、今の彼には必要ではないでしょうか。

いじめられた「自分」と 空手を懸命に練習した「自分」と いじめられなくなった「自分」は別人なのです。

そしてまた仲の良い幼なじみがいたこと、入学式で転んだこと、家族で海水浴に行ったこと、転校していじめられたこと、けんかに強くなったこと、そして将来はバンドでベースを弾くこと、そこで一生の友人を得ることなど、すべてふくめて「自己」なのです。

以上は認識の主体としての人の粗描ですが、人とは、認識の主体である自己と自分のみの総体ではなく、それを超えた場あるいは間であり、どのような間を作るかが「どういう人か」ということです。人と人は認識しきれない場でつながっているものであり、もしそれを認識してしまったら、世界はあつくるしすぎる場になります。

人々の「自己」は星と星のように離れており、ただ「自分」は周囲に光を放ち、互いにコミュニケーションをとり、わかりあえたような時もあり、それは確かに嬉しいことですが、それを過大に評価すべきでもありません。

第四編 どのように生きそして認識しているか -why how-

欲求

認識を通じて行われる高次の精神活動の中でも 「欲求」と「知」は確からしさを感じさせやすく みずからの中に大きく響く存在です。

「欲求」は(意識や体認を通してなされる)判断ですが、生理的動物的動因を基礎とする上に、みずからが感じていることをさらに意識するので、強い働きをもたらすのです。

そのような基礎のない意識や判断も、伝達するために編集を加えられると 編集する意識がさらに働いて 意識が複数になって補強されることになります。それが「知」およびその一種である「感情」です。

これらは私達を振り回しがちなものでもあります。

欲求(「望む」)とは、「食欲、休息欲、性欲などの生理的動物的動因(欲)などの状況の認識(意識と体認)を元として生じる、外界(社会など)ないしみずからを変えたいという判断」であり、単なる欲とは区別して考えるべきです。

たとえば、空腹(食欲)を感じるのは欲にすぎませんが、「私は食べたいのだ」と確認したり、「食べてよい」「食べるべき」という判断を加えると欲求になります。
さらに対象が「蕎麦」「ラーメン」などと具体化すると(ここには知も加味されています)、欲求は明確になります。

このような多層的ななりたちから、人間の欲求は動物の欲に比べて、長続きし 強くなります。

そしてまた、欲は適わなくても「適わなかった」という事実の認識が残るだけですが、欲求が適わなかった時には、「なぜ」「どうして」という疑問が残ります。

欲求(「望む」こと)は多様で、そしてしばしば同時に多数存在し、その相互が矛盾的であることもあります。
「人に好かれたい」と思いながら実際には周囲に乱暴や悪態ばかりをまき散らしているジャイアンは、自由あるいは身勝手に生きることをも望んでいるのです。多くの場合 人は自分でみずからの欲求の実現を妨げます。そしてそれをまるで他から妨げられたかのように誤解することもあります。個人の中でも「自分」ごとに欲求があるのであり、人はdividual なのです。

このような無軌道で相反する個々の欲求に囚われると、悩みやすくなり 苦しみやすくなります。 

近代以前には、我慢すなわち「客観的正義を前にしてみずからをあなどること」で欲求を抑えて社会と個人の調和を保つべきとされてきました。

しかし近代後期においては、むしろ欲求の実現のための技術開発が推奨され、また人的交流が広汎になって人々が共有しうる正義の定立が困難になり、このような調和の取り方は難しくなりました。「みんな我慢しているのだから」とは言えなくなったのです。

そこでマズローは、欲求の内容を整理し一定の秩序を見いだそうとします。
人にはまず「生きる」ために肉体の維持を求める一次的欲求があり、次に 人は周囲から認められ 受け入れられることを求め、最後は自己実現を望む、という説です。

確かに、「自分」が「生きる」ことを現在において実現したいのか 将来にわたる実現をも確保したいのかという違いはあり、つまりこれが一次的欲求とそれより上の段階の欲求の違いです。(ちなみにこの双方を満足させるものが「権原」です。)また「自分」が「生きる」ためにみずから変わろうとするのか 外界を変えようとするのかという違いもあり、前者が最終段階である自己実現欲求であり、後者がそれより下の段階の欲求です。

これも間違いではないと思いますが、ベースに『人々はどのように共生できるか』というマズローの問題意識がある分類なので、このように整理しても欲求が適いやすくなる訳でもなければ、適わないときの苦しさが軽くなるものでもありません。

欲求という「判断」は、状況と認識からなりたつものです。

そして普通、人は「こうしたら楽しく美しそうな生活になりそうだ」というイメージを寄せ集めつつ、自分を自分なりに評価しながら、「おもしろそうか」「効率がよさそうか」などと考えつつ、欲求を作りあげます。
そして現実と調和しないおかしな思い込み(それは理念の形をとっていることもあります)をもってしまうことが 意外によくあります。

たとえば、欲求を他者に作らせてしまうことがあります。
「そうするのが普通だから」「○○がやっているから」などと考えることは欲求の中に偽の正統性や客観性を持ち込むことです。
たとえば商業マスコミは有害なイメージをまき散らしているとも言え、それらによって形作られたイメージと現実のギャップこそ現代的不幸の典型とも言えるでしょう。
商業マスコミの言うように欲求をなるべくたくさん効率よく叶えていこうとすることは、反射的に「消費対象ではない世界」からはじき出されることでもあります。欲求は、生きるための道具に過ぎず、道具にすぎない欲求を叶える方法をあれこれ工夫することばかりしていてうまくいくほど、リアルな時間も世界も甘くありません。

また、誰かから非道な扱いを受け、それを世間が指弾しない姿を見て「ならば私もやってよいはずだ」と同様に非道なことをしてしまうことも、他者に欲求を作らせる例です。
他者が欲を満たしている姿を見て自分も同じように満たしてみたいと思うような欲求を実現しようと行動すると、何かに操られている「自分」に「みずから」という場を乗っ取られて、だいたいは無意味感と後悔が残ります。

癖のようにしゃしゃりでてくる「自分」のもつ何を見てもそう判断する癖によって湧き上がりやすい欲求に引き回されないようにするためには、「自己」に戻ることが必要となります。

欲求の実現を受けるには受けるだけの準備の整った「みずから」という器がなければなりません。
あなたの欲求は、ひとつの「自分」の判断であり、全体としてのあなたには似つかない醜い顔をしていることもあります。それはいびつなこともあれば、大きすぎることもあるでしょう。

欲求はみずからの中のものです。「自分」によって欲求は変わります。「自分」は欲求の主材料です。本当に「自分」が生きているか、仲間を得ているか、みずからを尊重しているのか、をみずからの欲求を通じて観察すべきなのです。

状況はその時のその人の意識で変えられるものではありません(自然なものです)が、認識や判断は変わります。

たとえば「自分」とは何か(皮膚の内側の有機体なのか、何かのイメージなのか、いまここでの関係性なのか、将来的な関係性なのか)、「生きる」とはどういうことなのか、などの認識には人の手を入れることができます。

たとえば、それによって欲求の優先順序は大きく変わりえます。人は、マズローの説でいう下位段階の欲求の充足を等閑視して自分を変えようとすることもあります。欲求とは、順番の決まった階段をひとつづつ上るようにかなえていく機械的な反応でもないのです。

欲求されたもののイメージは「自分」と密接に結びついたものですから、その時の自分を絶対視していては欲求を制御することは困難です。よって、多層的に生きる覚悟は、欲求の制御に有用です。みずからの安全と地位を求めることも、子供を育てることも、世界を広く見て回ることも、周囲の人々をも生かすことも、いずれも生きることです。

欲求を生理的動物的動因から切り離して実現してみることも有用です。
たとえば空腹でなくとも食事時には食事をすることもそのひとつです。眠くなくても規則正しく床につくこともそうです。寒い日でもなるべく薄着にすることもそうです。
外界の状況とみずからの生理的な欲という欲求の材料を個々にバラバラに認識し、そして欲求のイメージが湧き上がることを他人事として(みずからのものとせず)、行動を起こさないで放置(「やらなかったこと」は良くも悪くも「やったこと」と同程度に重要です)する習慣をつけることです。
それにより生理的動物的動因を絶対的なものとする「自分」の癖は弱まり、欲求に振り回されることが少なくなります。 禅宗の五祖弘忍が後継者を選ぶため弟子達に偈(詩)を書かせたとき 北宗の六祖となる神秀が書いた「身はこれ菩提樹 心は明鏡の台のごとし 時々勤めて払拭し 塵埃をあらしむなかれ」という偈はこのようなメソッドを伝えているようでもあります。

他方、その対として南宗の六祖となる慧能が書いた「菩提もと樹なし 明鏡また台にあらず 本来一物なし いずこに塵埃をひかん」という偈は、以下のように注意し また問いかけているようです。
『自分のもつイメージを捨てようとして別のイメージに捕まらないようにしよう。
神秀の偈は、よく生きるための方法を考えさせるが、そもそも私達が生きていることは何かのためなのか。
欲求は無くても過剰でも支障をきたす道具にすぎない。道具を使う心の癖のほうを捨てよう。
あらわれてくるのは期待していたようなものではないかもしれないが、応えが来たらそれを受け入れ、すっと乗り換えよう。それでベストか、正しいかなどと判断していては、正統性だの多数性だのというみずからとは遠い争いを際限なくみずからの中に持ち込むことになる上に判断が遅れるからやめよう。』

how からアプローチしたのが神秀、未定のwhyからアプローチしたのが慧能、つまり自分というものをある程度わかったものとしているか わかっているかどうかわからないものとするかの違いだとも言えるでしょうし、準備について語ったのが神秀、後対応について語ったのが慧能ともいえるでしょう。
同じことを異なる視点から言っているようですが、いずれにしても楽ではない道のようです。

しかし下記の美しい詞は欲求を適切に制御できた人の状態を表しているようにも思えます。

I see friends shaking hands
人々は握手をして
Saying, How do you do?
「はじめまして」という
They`re really saying
でも 本当はこう言っている
I love you
             
(ルイ=アームストロング “What a wonderful world”)
 

「美しい」とはみずからと世界が言葉を超えたところで調和した状態を表すのでしょう。

個々の欲求自体は「きれい(美しい)」「汚い(美しくない)」と評価できるものではありません。人は一人では美しくも醜くもなれないのです。

美とは、美しく見える「もの」とは違うものであり、その美を求めることが欲求の正しい在り方なのかもしれません。

そうであるなら、欲求をかなえようと努めることは間違っていない一方で、欲求をかなえられなかった誰かを敗残者のように見るべきではないでしょう。

たとえば、美しい世界に競技という形で参加することそのものに価値があるからこそ、人は競技をするのではないでしょうか。一流になれないなら競技はやらないという人ばかりになったら競技は成り立つのでしょうか。この世界が美しくないならそこで一流になることに何ほどの意味があるのでしょうか。

あるいは、空腹でなければ何を食べても美味ではないように、人は、何かにつまづくことで、はじめて世にある美に触れる条件がそろうのかもしれません。人は「やるべきことをやりたくなりたい」と願うものでもあり、その様子は、その時は、失敗のように見えるかもしれません。

欲求は、「べき」論に振り回されて その時その場に応じて湧き上がったものをそのまま使えばよいというようなものではないようです。
まわりの人々と共にあるみずからという場を温かく支えつつも 潤いを与えるためにかえって冷たく感じられる地と、遠く青く澄みつつも 光るゆえにかえってくすんで見える天と間で、生きるために必要なものを問いかけ、明日の自分とさらに未来の自分が育てるともなく育てられ、変えるともなく変わる中で、ごまかさず正直に作るべきもののようです。無欲とは、欲求のないことではなく、権威や利益誘導などによってゆがめられた理性に影響されていない欲求の状態をいうようです。

これは欲求への消極的アプローチとも言えるでしょうし、いずれの自分にも偏向しない自己に常に向きあっていることであるとも言えるでしょう。巷(ちまた)の正義と関係なく、みずからのみの正義を探す道とも言えるでしょう。

たとえば 「友人が欲しい」 「恋人が欲しい」という欲求は、みずから決めた方向で周囲から認められるにたる者 そしてつながりうる者であるべく歩んでいけば、かなう可能性が高まります。ただ、それは「こうすればこうなる」というわかりやすく明白な手順ではなく、誰かに見せるために何かをすることでもなく、その手順の中にいることは幸福感や希望のような感情を生むとは限らず、悲しみや寂しさなどの感情を生むかもしれません。しかし、あなたが楽しいと感じたときにだけ 世界があなたを受け入れているわけではありません。あなたは常に世界に受け入れられています。だからこそ今あなたは生きているのです。

逆に わかりやすい方法を示して「こうするのが正しい」と命じる「自分」はコソ泥のような存在です。たとえうまく欲求がかなったとしても、その果実はあなたのものではありません。その「自分」がひとりじめするためだけのものです。

欲求は、「こう」という形を持つべきものではなく、言語化ないし概念化しても役に立たないことも多いものなのです。

伝達されうる人の認識(意識、体認)を「知」と呼びます。

「知」っているということは「伝えられる」ということです。

伝わる(知る)相手を得ることによって認識は共有され、より利用しやすくなり、強化され、人の中で大きな地位を占め、社会的な強い力をもつことにもなります。

そしてまた、実際に伝えてみなければ伝わるか否かわかりません。「知っているから伝えられる」のではなく、「伝わらないものは自分も知っているわけではない」のです。「水より比重の重いものは沈み 軽いものは浮く」のではなく「水に入れて沈むものは水より比重が重く 浮かぶものは軽い」のです。自分だけしか知らないことは、誰も知らないことなのです。

たとえば、長距離大容量非接触送電装置を世界で初めてあなたが作ったとしても、製造方法を人に伝えることができなければ発明者と呼ばれません。たとえば、誰からも共感を得られず誰にも伝わらないことは「思い込み」と呼ばれ、知とは認められません。

ウィトゲンシュタインが「哲学は言語によるトートロジーにすぎない」と語ったのも、「知る」作業は同時に「伝える」作業でもあること、伝わらないことは「知る」ことにはならないことも含意してのことでしょう。

伝達できるかどうか すなわち知であるか否かは、相対的なものです。その相対性を受け入れることが、知の明確化と有用性につながります。

たとえば、呪術や儀式(精霊や神と人間の仲立ちをする技術)もその方法や内容が認識され伝達されるならば知の一種となります。しかし、それを誰かと共有できないこともあり、その誰かとの関係では それは知ではありません。

たとえば金銭も、渡す人からもらう人に対して「あなたのしていることに価値を認めます」という認識の伝達となることがあり、これも一種の知だと言えるでしょう。

「言語(数字もその一種)」は、正確な伝達に資する道具です。

しかし類似や前例を必要とするという枷を持ちます。言語の土台はパターン認識すなわち対象の分類であり、分類のためには類似性と比較が必要だからです。(あまりに類似物がない概念やモノにはその属性を表現する名前さえつきません。誰も見たことない魚にはテレスコだのステレンキョウだの意味のない名前を付けるしかないのです。しかし後に似た魚がとれれば、その魚は たとえばアカテレスコなどと名付けられ、いずれ新たな属に分類されることにもなるでしょう。) 

よって言語に頼りすぎると、類似例や前例のないものは「知」として受け入れづらくなり、「伝達しえない」とされる認識が増え、社会に影響力を持つ「知」の範囲は狭くなります。他方、類似例や前例を思い浮かべることさえできれば何となくわかった気になってしまう安易さも生じます。

近現代人は、言語に慣れ親しみすぎて、一面では知の範囲を狭め、他面では(正確に伝わっているかどうかに関わらず)そこに言葉をおくことができれば「知った」かのように思いがちです。
理念に振り回されるのも、それらの内容をよく考えもせず知った気になっているからでもあります。

伝わることを本質とする知は、伝わり方が安易な途を選ぶことで みずからを強化しようとすることもあります。

皆がそう思うであろうこと、昔からそう言われていたこと、偉い人が言っていること、これらは伝わり易いものです。そのような権威に安易に乗っかる知、そしてそこに安住する自分もあります。そこに権威主義がつけこみます。が、知は我々を束縛することもあるのです。

理念(言語)の旗印のもとに一致団結しても役に立たない変わり目の時代には、知の手順や道具を広くとらえなおし、知の土俵の上になるべく多くの情報を乗せることが必要でしょう。
とりあえずは知として認めたうえで、その実際の有効性(それが知の価値です)や性質を検証すればよいのです。

「知」は多様です。

主に意識を通路とするものもあれば、体認を通路とするものもあります。無意識のまま伝えられる「知」もあり、そこにいるだけで伝わることもあります。

はっきり伝えられるもの、誰にでも伝えられるものもあれば、あいまいにしか伝わらないもの、特定の人にしか伝わらないものもあります。

伝える相手として、みずからを想定することもあります。たとえば、ある情報を多くの「自分」が自在に使えるようになったとき、それは身についた知といえます。

認識を伝えるためには何らかの編集がなされますが、最初から「知」として伝達されることを予定して編集されており 従って力を持ちやすい認識もあれば、知となりにくく、「確からしさ」を持ちにくく、軽視されがちな認識もあります。

また通常は「知」とは認識されていない知もあります。

「知」には個人差があって当然なのです。

一人の人がすべての認識を用い 伝えることは、ほとんど不可能と言ってよいほど困難なのです。
「コミュニケーション障害」という言葉がありますが、コミュニケーションとは知のことです。すべての人は何らかのコミュニケーション障害を持っていると言ってよいでしょう。
人には様々なタイプがあり、個人の知は完全ではありえず、不完全な知をもった人しかいないのが現実世界です。

言語を使う伝達に慣れた理知型、感情を駆使する感情型、伝達にこだわらない認識を用いる直感型、個々の感覚に従って動きがちな感覚型など、すべてのタイプが活用される社会こそ多様で強靭なのです。
geek達がExcelなどの優れたソフトウェアを開発し、彼らに活躍の場を与えたアメリカがバーチャルな世界のルールを塗り替えてきた姿を、私達は目の当たりにしてきたはずです。
それは内面化された権力分立や民主制の勝利ともいえるでしょう。

感情

言語以外の手段でも認識や判断や評価の伝達は可能です。「感情」もそのような「知」のひとつです。

感情は言語のみならず表情などの身体表現も伴い、情報の伝達速度をあげ、認識速度も上げます。
素早く多数の人に認識を伝える(知らせる)手段として、このような技法を人類は発達させたのでしょう。

感情は、他者に同意あるいは共感ひいては確認を求めていることを知らせる叫びでもあります。
「こう考えてよい」と脳は確認したいのです。「伝えたい」という基本的な欲があるのだともいえるでしょう。※32

そのことは、共感を得ることをあきらめた子供が感情を失うことにも、感情が共感に会うと その感情を生ぜしめた事実の記憶は残りつつも感情自体は弱くなることにも、逆に 共感がないといつまでもその感情が残ってしまうことにも表われています。叫ぶ相手さえみつからず伝達しえなかった認識は、感情にもなりきれずみずからに反響して身体に鬱屈や異常をもたらすこともあります。 

他方、独自の高い目標を抱いている冒険家や技術者はあまり感情豊かではなく、無愛想であったり、計算高い印象を与えたりすることもあります。
彼らは、みずからが単独で予測し支配すべき世界の中に生き、予測や支配が及ばなかったときに他人に同意や共感を求めても無駄な状況にあるからでしょう。

※32

はっきりとした共感を得られなくとも、伝達が達成されれば脳の快楽中枢は刺激されるようです。
そうでなければ、なぜ群集心理などというものが生まれるのでしょう。なぜ女性はあれほどおしゃべり好きなのでしょう。なぜ、勇気を奮い 全力を尽くして それでも目標が達成しえなかった後に、仲間とほのぼのとした幸福を感じるのでしょう。

ベルグソンは「笑い」という感情の構造を分析していますが、すべての感情についてそのような分析ができます。

ここでベルクソンの理論を敷衍して、感情の構造を分析してみましょう。

感情は、「予見」(基本的には単独の意識ですが、欲求という複合的意識であることもあります)の当否または「支配可能性」の有無についての判断、そしてそれらについての「肯否評価」の複合体です。
予見後に現実に生じた事象を認識する、または事象を認識しつつその事象に対する支配可能性を判断する、さらにそれらの認識や判断に対して「それでよい(肯定的)」のか「それではよくない(否定的)」のか評価を行う、という構造です。

具体的には、基本的な諸感情の成り立ちは 下記の表のようにまとめることができます。

判断 評価 感情の種類 典型表現
予見の当否 あたり 否定的 見切り 「やっぱりな しかたないな」
あたり 肯定的 安心 「そう そうなんだ」
はずれ 否定的 警戒 「あっ いかん」
はずれ 肯定的 笑い 「あはっ なんだよ それ」
事象を支配できるかできないか できる 否定的 怒り 「くそっ」
できる 肯定的 希望 「よおしっ」
できない 否定的 悲しみ 「どうして・・・」
できない 肯定的 諦め 「まあ いいんじゃない」

たとえば「さみしさ」という感情は、人とつながれない現実の認識、その現実を変えられないという判断、それら全てへの否定的評価から成り立ちます。つまり「悲しみ」の一種です。

また、たとえば よくないことが起きた時、それを他人のせいにするとよけいにつらくなり、「それは自分の責任だ、これからは自分で防ぐことができるのだ」と考えたときに 何らかの「希望」が生まれた経験はないでしょうか。

これらは比較的単純な感情です(ここでは「要素感情」と呼びます)。

感情の生成には 認識、判断、評価を行う「自分」が関わりますが、「自分」はみずからの中に多数あります。

複数の「自分」が同時に働いて生成する感情は複合的でやや複雑なものとなります(これらをここでは「複合感情」と呼びます)。ここでも個人はindividualではなく dividual なのです。

たとえば、予見と支配可能性の判断が複数ある複合感情があります。

「警戒」と「悲しみ」が重なったものが「恐怖」であり、「警戒」と「怒り」が重なったものが「嫌悪」です。

また「楽しい」というのは、非日常的なことが楽にできたとき、意外に世界に受け入れられていると感じたことで生じる「笑い」と、未知の世界である程度は支配可能性があると感じたことによって発生する「希望」の複合感情です。

重なりうる要素は2つに限りません。

個人の争いにせよ国家間闘争にせよ、それが暴力の応酬になるほどの激しさをともなうには、外部的状況の認識だけでは足りません。他者を攻撃する理由のベースは生存競争ですが 「生存のためには無駄な争いを避けることも重要だ」という計算も働くからです。そこには何らかの感情があるのが普通です。
それも1つの要素感情では足りません。「恐怖」「嫌悪」など2つの要素感情の複合でも足りません。しかし「警戒」と「悲しみ」と「怒り」という3つが重なると、闘争や戦争に至るほどの力をもつ複合感情となります。つまり予見していなかった事項が生じ、その状況への支配は可能とも不可能とも判断され、すべてに否定的判定が下されているという状況です。支配可能性があると思うときに生じる「怒り」と それがない時に生じる「悲しみ」とは 論理的に両立しえないようにも思われますが、実際には支配可能性があるかないかわからない状況に置かれることもあり、ある状況において一部については支配可能であり他の一部については支配ができないとそれぞれの「自分」が感じるときもあります。そのような場合にはこれらは併存しうるのです。

予見や支配可能性についての判断が複数存在する複合感情は他にもあります。

たとえば「幸福」です。

そうなる可能性があった「よくない仮定」を予見し、その予見に反して「悪くない現在」が発生していることを認識し、そしてその状況への支配可能性があるという判断があり、それらへの肯定的判定が下されると人は幸福を感じます。
「よくない仮定」を予見していたということは「よい仮定」を予見していなかったということでもあります。よって「幸福」は「安心」「笑い」「希望」の複合した感情であると言えます。

逆に、ありうべき「よき仮定」と比べて「よくない現在」が発生し しかもそれらの事象の支配がほぼ不可能であるという判断への否定的判定が「不幸」です。これも「見切り」「警戒」「悲しみ」などの複合感情です。

多くの要素を含むだけに、これらは強い感情となりえます。

幸福は感情ですから、客観性など関係ありません。
豊かさや健康について客観的あるいは一般的に語ることはできても、幸福な状態についての一般論はなく、客観的に「この人は幸福だ」と評価しても されても意味がありません。

たとえば裕福な生活を送る人々が日々の退屈に耐えている光景は珍しくありません。
逆に、様々な困難に囲まれているにも関わらず、仲間と共に価値あると信じることのために我慢(消極的なものですが立派に行動の一種です)をしている人が活き活きと幸せそうにしている光景も珍しくありません。
「重要なことは『この国があなたに何をしてくれるか』ではなく『あなたがこの国に対して何ができるか』だ。」と呼びかけたケネディの大統領就任演説は 広くアメリカ国民に幸福を与えるものでした。「何もしなければよくない事情が生じる状況の下、それを自分達が防いでいる」という認識(予見)、そして「この人についていけば大丈夫だ」と思わせると同時に「自分が協力してあげないとこの人はダメなんだ」という思い(支配可能性)を国民に共有させたからです。
富の再配分を受けるにおいても「自分の貢献を認められている」という認識(支配可能性)を伴ってこそ幸福に結びつくのです。
他方、困難を自分ひとりで解決できるように語る指導者は、たとえそれに成功したとしても人々に幸福を与えることはできません。

幸福は人生の最高の目的となりうるものではありません。社会も幸福を実現すればそれでよいという装置ではありません。 

幸福は感情であり、感情は認識(と判断)から成り立つ一種のバーチャルリアリティであり、文句なく素晴らしいバーチャルリアリティの構築が人生の目的ではありえないからです。

幸福は人を強くしますが、不幸は人を賢くします。どちらも自分のありように気づき みずからを変える機縁として大切なだけです。幸不幸にこだわりすぎることは精神の病です。

近代は自由を称揚しますが、自由に考え、自由に行動するだけでは幸福にはつながりません。現実をうまくいくものと思い、あるいは計算し、わが思いを押し通して生きている人にとっては、世界は自分の思いの実現する場にすぎないので「思いもよらぬ良いこと」は起きにくくなります。つまり自分の時間や身体をいつも思うままに使っていては、幸福はかえって遠のくのです

幸福の前提条件は「よくないこと」の仮定です。「よくないこと」が仮定できないほど恵まれた状態は、幸福から遠いのです。幸福になるには、よくない仮定をはらむ現実を素直に受け入れ、その上でその現実を自分の予見を超えたものの働きで乗り越えたという認識が必要なのです。つまり人は幸福になろうとすると自分を助けてくれた自分以外のものと向きあうことになるのです。 ※33

たとえば、成功者の中には、良心的で有能で努力をしてきた人もあれば、愚昧で熟達不足な人もいるでしょう。
前者が「だから私は成功した」と思うなら、成功は予見さるべきものとなり、その段階で幸福から遠ざかります。
後者が「それにもかかわらず成功した」と思えば、成功は予見できないものとなり、幸福に近づきます。

※33

予見しえぬものの尊重は 自分への執着を弱め、そこには感謝も生まれます。
幸福は謙虚であることを条件とするのです。
人は、真に幸福になろうとすると、生半可な客観性や正統性から離れ、少なくとも部分的には、道徳的人格になる傾向をもつのです。

また たとえば、評価の部分において肯定と否定が共存する複合感情もあります。

その典型が「畏怖」 です。

これは予見もできず支配もできないと判断している点では「恐怖」と類似しますが、否定的評価に終始する「恐怖」とは異なり、肯定的な「むしろそうでなければならない」という評価も含みます。   

「恐怖」は支配可能性を見つければ「怒り」に転じて攻撃性を誘発します。しかし「畏怖」は「希望」を誘発します。※34

※34

 「畏怖」の前提には無意識の自己否定があります。
かかる感情が人類に広く見受けられるという事実は、「自分をはるかに超える崇高なものは受け入れるべきである」、「自分の意識が間違うことがある」、「肉体の持続を超える価値がある」と人類が認めていることを自白しているとも言えるでしょう。

他方では、感情に属するように見えて、そうとは言い切れないものもあります。

たとえば「絶望」は、疲労(神経や脳も含めた肉体の使い過ぎや不具合によって機能障害が発生していること)が蓄積しすぎてそれにとらわれ、とめどない徒労感が生じている感覚です。

疲労にとらわれて、それが未来永劫続くように予測し、それを覆すことはできないと思い、その状況に否定的評価を下す、という後半の段階は感情です。しかしその元にある疲労については予測も支配も関係ありません。

絶望している人に必要なのは 主として脳や神経の休養と疲労回復です。
ただ、二次的には徒労感の払拭すなわち判断の切替えも必要で、それを促す時には共感が必要なこともあります。

「喜び」は、プレッシャーからの解放または疲労の回復から発生する心理作用です。癒されることといってもよいでしょう。基本的には予見や支配可能性の認識は含まれないので、感情ではありませんが、これも主体的で複雑なものです。
たとえば、何かを成し遂げたことが喜びを伴わないことがあります。それが無意識の内に「完成させなければならなかったことができただけ」という振り返りタイプのプレッシャーになることがあるためです。
逆に、成し遂げるまでの過程に価値を見出すことは喜びとなります。成し遂げるために悪戦苦闘している不完全なみずからが評価されることは、みずからがそのままでよいということであり、プレッシャーからの解放となるからです。
またたとえば、ミヒャエル=エンデは「果てしない物語」の中で、喜びと愛することはひとつのことだと述べています。「愛」というのは理念が調和した状態の一種ですが、「愛する」ということは そこに至ろうとして共感をもって関わる(ケアする)ことです。エンデは「人が癒されるためには その人が共感とケアをもって他者と関わることが必要だ」と言っているのです。

なお、「喜び」は、他の心理作用と組み合わされることもあります。
たとえばプレッシャーから解放される中で予見と支配の可能性が発生するという場合も多く、このようなときは喜びと幸福が複合しており、感情としての側面をもちます。
また、「喜び」にさらにその原因となったものに近づきたいという欲求が加わると「嬉しい」という心理になります。

「愛は感情である」とヘーゲルは述べます(『法の哲学』158節)。

誰かを好きになることは感情としての側面をもちます。しかし愛は予見や支配を必ずしも伴うものではありませんから 感情ではありません。

精神分析医のスコット=ペックは「愛は感情ではなく意志である」と述べます。
確かに、「愛する」ことは共感とケアを構成要素としますが、「愛」そのものが意志するだけで常に成り立つというわけではないので、少ししっくりきません。 ※35
「愛」とは、共感、自律、貢献をもって他人や世界に関わろうとすることが実現でき 行為規範の調和がとれた状態です。これは「行為規範」についてのメタ理念です。「評価規範」の調和を意味するメタ理念である「正義」と補完的に並立する理念です。
たとえば、新約聖書のコリント人への第一の手紙第13章に「たとえ私があらゆる知恵と堅い信仰を持ち、しかも全財産を寄付して殉教しても、愛がなければ私は無意味な存在です。」とあるのも、「評価規範」の世界だけで調和がとれていても健全な人格あるいは社会とはいえないことも意味しているのでしょう。

※35

愛という状態の実現には、多くの場合、相互の協力が必要です。
共感とケアが相互に交換される時こそ調和が生じやすくなるからです。(同時に幸福感も生じやすくなります。)
これは現実には簡単なプロセスではありません。
恋愛を例にとり、段階的に観察します。
人は ある他人を みずからの望みをかなえ 不安を消してくれ 共に調和を実現してくれる人だと思い、その相手と過ごす自分像に仮の「希望」と「安心」をもつことがあります。それが「好き」という感情です。よって「モテる」のは、誰とでも調和のとりやすそうな外見を備えた人(美男美女)、相手の望みや不安を読み取ることにたけた人などです。
さらにその相手に具体的な何らかの行為を求めるようになると それが「恋」という欲求です。
ここまでは、相手を(あるいは相手に)求めることにすぎませんから一人でも成り立ちます。
(ちなみに、若き日の恋が激しくなりやすくかつ成就しにくいのは、相手も自分もよく見えていないので、相手と過ごす未来の自分像を過剰に美化しがちであり、相手にも過剰な望みを持ってしまうからです。年齢を重ねて「この人でもいい」と思うようになっていくのは、妥協ではなく、視野が拡がったということです。)
しかし恋「愛」はその次の段階です。自分の理想をかなえてくれる相手かどうかを付き合いながら検証し、その中で自分の理想の追求ばかりしていると相手は嫌になることを学び、理想を相対的に実現すればよいものとして保有しつつ、相手の欲求に自分の欲求をすりあわせ、全体としての調和をはかろうとしなければ愛にはなりません。大脳新皮質やミラーニューロンなどをフル稼働させねばならず、相手の役割を決めつけず 自分のほうを大きく変えねばならないことも普通です。しかも、それにはみずからの努力のみならず 相手の協力も必要です。自分との調和を目指さない人との恋愛はなりたちません。(冷たくされても避けられても「赤毛のアン」を大切に思い続けるギルバート君はありえない人物造形です。この世界的ベストセラーのこの部分は文学ではなく少女漫画です)。
よって付き合っていても愛といえるか微妙なときも少なくありません。

しかし、共感とケアを与えるだけで愛がなりたっていることもあります。
人は誰かに受け入れて欲しいと望むときがあります。教えてもらうのでもなく、後々をも考えず、ただ受け入れてもらい、温かく語りかけ続けてもらい、そこから育ちだすことを見守ってもらいたい時があります。
それを与える人は、それを本当に望んでそうしているなら、みずからは神になれぬことは知りつつ、神に歩み寄っているのです。

感情は知の一種なので、それを形作る判断には個性が表れます。
たとえば共に苦労している伴侶について「会うべき人に会ったのだ」と判断する人は幸福になり、「もっと楽しい生活ができたかもしれないのに」と考える人は不幸になります。

感情という知は、それ自体のみならず、その発露による影響も複雑であり、発露への反応にも個性が表れます。
たとえば 脳の扁桃体の活性が低く「恐怖」を感じにくいという特質は フリークライミングの世界に入ればパイオニアスピリット(先駆者精神)と見られ 周囲に尊敬のこもった「笑い」を誘発しますが、ギャングの世界に入れば冷血あるいは精神病質と見られ 周囲の「警戒」を誘発します。 
予期せぬ成功をなしとげた人と共に笑える人もいれば、他人の成功を警戒する人もいます。

感情の発露に対する反応への さらなる反応も様々です。
たとえば他人の苦難を見て「笑い」「安心」を生じるような人格や、あまりに簡単に「希望」「諦め」を生じる人格に対し、軽蔑する人もいれば、親しみを感じる人もいます。

感情という知は、多くの人に共有され、社会を変えることさえあります。

経済格差が、人々の「怒り」をかっているだけなら、時々「ガス抜き」すればなんとか収まります。しかし、人は未来に予測される脅威にも反応します。生きる場を失うのではないかという「恐怖」まで生ぜしめるようになると、社会が決定的に分断される危険が高まります。

感情という知は、別のものに変わることもあります。
たとえば、真の「使命感」「ケア」「沈着」「謙虚」は、それぞれ「怒り」「悲しみ」「見切り」「警戒」が昇華して生まれるものです。

よって、感情自体は価値判断の対象になるものではなく、肯定的感情がよく 否定的感情が悪いということもありません。

「人間は感情の動物である」という言葉もあります。

しかし、上述のように感情はメカニカルな知であり、単純な感情(「安心」「警戒」「希望」「悲しみ」などの要素感情)なら動物にもありますから、感情というものを過度に尊重すべきではありません。

この言葉は、予測が人の行動に大きく影響することを表しているにすぎません。
たとえば1970年の日本の主婦は、その50年後の2020年に比べて、強い家父長制の下にいましたが、離婚率はむしろ半分程度でした。理由のひとつは、当時の女性達が家父長的家庭を「まあ こんなもの」と「見切り」「諦め」ていたので そのような状況にも(意外に)平気で耐えられたからでもあるしょう。他方、家父長的習慣はあってはならないものとみられている現代において それは「諦め」の対象にはなりにくく、「家父長的習慣は変えうるもの(支配しうるもの)だ」と考える女性ならば「怒り」さえ呼び覚ましてしまうでしょう。

本質的に判断でありかつ伝達手段にすぎない感情は制御できるものであり、必要であればそうすべきです。

最後に繰り返しますが、感情は共感の道具です。

従って、笑うべきものでないことを笑ったり、怒るべきでないことを怒ったりすることを止めることが、共感を精製するため必要になります。周囲の雰囲気に合わせるために笑いたくもないことで笑うことは、権威主義への自発的屈服です。そのような笑いはみずからを蝕んでいきます。

さて、知や判断は、それぞれが断片的に見えても、通常は核になる認識群から派生しており、核となる認識群は一定の様式と体系をもった活動により育まれています。

そして、人が高次の精神活動を行うには多量の知を使う必要があります。そのためには、ひとつひとつの事象を丸暗記する必要をなくし、背後にある論理をつかみ、知を秩序ある形で整理しておくことが必要です。
秩序ある知の体系は、howの問いを掘り下げるものです。その典型例が「学び」です。効率的に成果を出す能力(positive capability)を主として育むものであるともいえます。

他方、それまで蓄えてきた知(認識や判断)が役立たない状況に立たされることもあります。その場合、認識や判断の土台を作り替えることが必要になります。
認識の土台を作り替える体系の典型例が「信仰」です。どうにもならないことに耐える能力(negative capability)を主として育むものであるとも言えます。

また、それがいったいどちらなのかを見極めるべきときもあります。
そのとき使われる体系の典型が「型(かた)」です。

これらは互いに代えの効かない役割を担って人類を支えてきましたが、それぞれに問題を抱え、やや機能不全を起こしています。

学び

学びは、「知(伝達できる認識)」を確認し加工する活動です。

各種の錯視の実験の結果からみても、人間の脳は「予測」とその精製物である「一般化」を好むことがわかります。
一般化(これは客観化とは異なるものです)と検証可能性(共有・再現・反復しやすさ)への強い志向、そしてそれを支えるべく認識や記憶を再構成する点が「学び」という活動の特質です。これらの伝達も分析的になされます。

たとえば演奏や舞踏などでも、再現しなければならない内容を覚える部分は「学び」です。

そしてこのような認識や記憶が互いにさらに体系的に整理された(そして記憶しやすくなった)ものが「学問」です。
学問は学びの応用的文化です。

いずれも、主に意識を使い かつそれで完結することも多いので、比較的伝達しやすく知となりやすいものです。

人は一般化のために思考します。

理念の章で述べたように、人の思考には、「目的性」が強いときと弱いときがあります。

目的性が弱いとき つまり環境に思考の重点が置かれるときは認識論あるいは「である論」的な姿勢となり、目的性が強いとき つまり内心に思考の重点が置かれるときは、実在論(「それはあるか」)または「べき」論(「それはいかなるものであるべきか」)的な姿勢となります。

正しく判断し行動するには、「である論」と「べき論」を行き来し、確認しながら深く問う必要があります。

人の行為は「べき」論で駆動されます。

しかしそれだけでは、視野が狭く抽象的で途を誤ります。そこで確認と検証のために「である」論を用いる必要があります。 「人の意思によって統御すべきことについて話しているか、意思では左右しえないことについて話しているか」「事実そのものについて話し合っているのか それともその見方や判断について話し合っているのか」「具体化の方法は十分に現実的で効果的であるか」などを意識しつつ行動を選ばねばなりません。

たとえば「政治は哲人にやらせるべきだ」と言うだけではスローガンにすぎません。次に、それらしいふりをした人に政治をまかせる危険にさらされないためにも、手続的な熟慮、すなわち「広く深い知見や見通しをもっていない人には政権を担当させないような選挙や罷免の方法がどのようなものであるか」悩む必要があるのです。

たとえば、友人が愚鈍な風貌「である」とします。しかしそれは言う「べき」でも態度に出す「べき」でもありません。そしてそのためにはその人に「ある」性格のよさなどの美点を探す「べき」であり、そして内心でも風貌を馬鹿にするようなこと思わないようにする「べき」です。そしてそのときの同僚の反応がどう「である」かを観察を続ける「べき」で、そうやってはじめてまともに人とつきあうことが可能となります。

「である」論の問いと「べき」論の問いを区別して使うことは意外にないがしろにされています。

近代人は、いたるところで効率化を求められ、individual(分割しえないもの)として責任を負い、権利を主張しあって生きることを要求され、その主張と交渉の場では言語化できる結論が重視されるため、言語化(抽象化)できない事実や すぐには結論がみえず手順をたどるしかない事柄を軽視する思考の癖をつけています。また「原因となる行為や状況があった後 その結果が現れる」という本来の時系列ではなく、「目的を先に設定して それにむけて原因を作る」という逆算的思考を推奨され、「今はこれをすべき」と狭い未来を見据えた生き方が求められます。

ゆえに近代人は、社会的に認められる立場に立てば立つほど「べき」論に振れてしまいがちです。
たとえば、因果関係をつかめていなくても、結果や目的から不用意に評価をやりがちなこともその例です。

従って、「べき」論は安易に作ってはならず、作らねばならないときも できるだけ「探す」姿勢を保たねばなりません。
言葉(というルールの)創造においてすら、ニャーニャー鳴く四つ足の毛むくじゃらな動物には「キャット」という響きが似合うのであり、「スッチドンホ」などという呼び名は似合わないので 世界のどこでも採用されません。
言語は、人類が共通に生まれつき持っている文法(ラング)からなりたつのみならず、音や字(パロール)の生成においても何らかの共有される感覚に基づいています。探しうるものがもともとそこにあるのであり、だからこそ外国人同士でも意思疎通ができるのです。そのようにして世界はつながり、どのようなもの「である」かわかってくるのです。

思っているより「である」論の受け持てる範囲は広いのです。

また、「べき」論を語る際に、他者との比較をするときは、既存の権威から一定の距離を置く姿勢が必要です。
権威主義の罠を避けるためです。

相違点や共通点をフラットに認識してみずからを知るには、二人が最適です。
客観性が必要なら、相手を変えて二人であることを繰り返すべきです。徒党を組まず、十分な時間と空間をかけて「である」と「べき」を繰り返し、現実からエビデンスを見つけることに努める姿勢を忘れてはなりません。

これは「べき」論による「べき」論の自制です。

このような観点からは、学びは 三つの相に分かれます。

まず事実を切り取る「経験的知識」などと呼ばれる相があります。ここは認識論あるいは「である」論の強い相です。

次に 切り取ってきた事実から一般的な仮定をたてる段階があります。「仮説」などと呼ばれる相です。
たとえば、リンゴが樹から落ちる事実を見て、すべての物体は互いに引き合う力をもつと「みるべきなのではないか」と考えることは仮説です。ここは実在論あるいは「べき」論の強くなる相です。

そしてこの仮定を検証し、かつそういう結論になった理由についても裏付けとなる事実を検証し、もし仮定の通りにならなければ事実を切り取り直すのが「検証」などと呼ばれる相です。ここも認識論あるいは「である」論の強い相です。

これらの3つは、事実→仮定→事実→仮定→事実・・・というサイクルで協働します。これは何かの法則を見つけて それを利用するときにも役立ちますし、下命規範を実行規範に変える時も役立ちます。

このサイクルは型や信仰にもありますが、学びにおいては私達が慣れ親しんでいる言語が大きな役割を果たすので、はっきりした輪郭をもちます。

この三相のうちで「経験的知識」に重点を置く「学び」の典型が「ジャーナリズム」であり、「仮説」に重点を置く典型が「思想」であり(ルソーの『社会契約論』やマルクスの『資本論』の結論部分などは思想の例です)、「検証」に重点を置く典型が「アカデミズム」や「学問」と呼ばれるものです。

学問は その研究対象ごとに体系化されており、大きくは自然科学的なものと社会・人文科学的なものとに分けられます。

物理学、化学、生物学、天文学、医学などは、人の意思や考え方に関わらない「である」論の部分が多くなる分野です。現象の背後にある法則を対象とし、事実に基づく一般化と検証が比較的容易です。

他方、政治学、経済学、法学などの対象は、人の意思の介在を予定せざるをえないもの、つまり「べき」論が多くならざるを得ない分野であり、一般化と検証が比較的困難です。そこで客観性や正統性などの間接証拠的な論理を援用することが増えます。

心理学、考古学、歴史学、言語学などは、その中間に位置するものです。

哲学とは、元々はそれら全体をとらえようとする学問でした。
中国の諸氏百家やギリシャのソフィストは、財の生産が安定してきた技術的背景のもとで継続的な社会を支えるために必要な世界観を築こうとしました。そこで生じた知への偏重を修正したのがキリストですが、やがて権威化したキリスト教から独立しようと「認識論」や「実在論」という知の体系を組み直そうとしてきたのが近代初期のヨーロッパの哲学です。他方、この時代から心理学、言語学、政治学、宗教学などの学問分野が発生しはじめ、哲学はこれらにその管轄分野を譲り続けました。

現在残っているのは「考えについての学問」という側面です。すなわち、人類に普遍的な考え方を自省するのが現代の哲学です。
認識論は人の認識の手順を探り、論理学は人の判断の手順を探り、倫理学は「べき」論的な側面から理念を見直し、形而上学は「もしその無形なるもの(理念)があるとしたらそれはどのようなものでどのように働くか」という仮定的立場から私達の内面を見直します。哲学は本来あるべき場に収まったともいえるでしょう。
この第二部もそのような意味での哲学の側面をもちます。
(それが「ある」ことについて一般の人々がほぼ疑念を抱かない概念について最低限論じるのみとし、それらの体系の構築は目指していない点で、プラグマティズムに属するでしょう。ここで論じたいのは、概念ではなく、どう生きるかなのです。「学」を司るミネルヴァのフクロウは夕方飛びます(ヘーゲルの名言です)が、それは翌日も飛ぶための糧を得るためであって、もう飛ばなくても生きていけるような糧を得るためではないのです。「学」も生きるための手段にすぎないのであり、自己完結してはならないのです。)

文学は、近代が生んだ学問です。
詩や物語は近代以前にもありましたが、何かの探求のためのものではなく、文字や文法の教育手段あるいは音楽や舞踏と同じく表現手段の一種でした。
しかし近代になると、認識の新たな地平をみつけるきっかけを開く役割を担うことになりました。また「ジャーナリズム」に近づいてノンフィクションが誕生し、「思想」に近づいて小説が誕生するという細分化も起きました。その中で、文学は人々のライフスタイルのロールモデルを映し出すようにもなりました。さらにそれは深層心理を探求するものとなり、人々が無意識に共有している理念や性向の違いの発見や分析にも向かいます(「日常と異界のいずれを好んで描くか」「周囲を批判しながらも近づくか、相克の中で距離を置くか、共感で目隠しするか」など)。
しかし、文学作品の主張の一般化と検証可能性は「そういうこともあるかもしれない」というレベルに留まり、アカデミズムとしての厳密さは求めうるものではなく「科学」としての側面は弱くなります。
また、文学が教育として役立てられるのは個人の人生のシミュレーションであり、生産の場ではありません。
よって、学問としては あまり尊重されなくなることも仕方ないでしょう。

自然の観察や社会のできごとの記録は古くからありましたが、それらが「自然科学」「ジャーナリズム」と呼ばれ、検証可能性の高いもの、より価値の高いものと位置づけられるようになったのは近代以降です。中世においては学問といえば「実在論」的なものが上位のものと目され、「認識論」的な活動はどちらかといえば日陰の身であったようです。
近代になって、学問は、何か本質的なことを言っているように見えて実は「なんとなく正しいことを言っていそうな者勝ち」の実在論的世界から、事実と実証を重んじる認識論的世界へと人々を導くようになったと言えるでしょう。

その意味で、近代の学問は、私たちすべてを囚われから解放する機能をもちます(国会図書館の壁には「知は我々を解放する」と大書されています)。学問は、経済学でいう「迂回生産」や「イノベーション」の最たるものであるとも言えるでしょう。

従って、学問は、本質的に「新しい」という性質をもつものでもあります。
脳科学のような新分野として表われることもあれば、アナール学派の歴史への言語外アプローチのように既存の分野を刷新するような形で表われることもあります。
学者達は、密林に分け入り、「ひとつひとつ仮定と条件と結果を明らかにすることでいつか世界は論理としての姿を私たちの前に現してくれるだろう」と根気のいる そして尊敬に価する作業を積み重ねています。

しかし、他方では、学問というイノベーションに、時間的な余裕のなさや知力の不足から、ついていきづらい人々もいます。 それを正当化する姿勢も一部では目立ちはじめ、それを表現する「反知性主義」という言葉も知られるようになっています。

言語や論理による思考を否定し、経験や事実に注意を払わず、集団的利己主義をあおる政治家をかつぎあげ、ヘイトスピーチやデマを広げ、弱い自分よりさらに弱い者を攻撃して不平等をさらに拡げるような人々は愚かです。

しかし、反知性主義を育む栄養素のいくつかは、学問や教育を担う側が与えているとも言えます。

学問と教育は、その意味でも常に試練にさらされていると言ってよいでしょう。  ※36

※36

教育は、学問あるいはその構成要素の一部(経験、仮定、科学)の伝達、準備、実践です。
学問とはやや異なる、「学び」のもうひとつの応用的文化です。
ここでは、本来は科学であっても、教わる側にとっては経験的知識に留まることもあります。原理は解らなくても使ってもらわなければならない道具も伝達されるからです。
たとえば、「燃焼という現象は酸素と他の元素の反応である」と解き明かすようなときには、教育は科学の側面を強く出しますが、「log X を微分すると1/xになる」ことを使う問題を解くようなときは、(教わる側の多くにとっては)経験的知識の伝達の側面が強くなります。
教育においては (経験的知識の)暗記は必要不可欠な要素であり、暗記すべきことが多いことは 決して問題ではありません。
問題は、役に立たないことまで(または役に立たない形で)暗記させていることです。

なぜなら、まず、学問や教育には 本来もたざるをえない難しさのほかに、単なる説明不足の放置による難解さが混在しているからです。

たとえば、小学校レベルの言語規則や数式や自然観察であれば「どんな人でも、どんな場面でも、まあそういう風に考えるだろう」というくらいに共有しやすく習得しやすい内容です。

しかし、高校以上になると「そういう風に捉えた方が、予測や再現がしやすいから、あるいは実務を回しやすくなるからそうしている」というような内容も含まれてきます(物理学における加速度、数学におけるベクトル、欧州中心の世界史などがその例です)。しかし現状ではあたかも「本来的にそうなっている」というような教え方がなされています。

大学になると複雑に導き出された理論や難解な専門用語も増えます。多くの説明や整理が必要であるにも関わらず、逆に論理の飛躍や説明不足が多くなり、理解に無駄に時間がかかるものになっていることが多々あります。たとえば経済学の論文には、因果関係なのか相関関係なのか不明な数式や表が意味ありげな顔をして鎮座しています(どちらかわからないならはっきりそう書けばよいのです)。法律学では論理的混乱も放置されており、たとえば民法上の物権のほとんどはその効果から命名され分類されていますが(地上権は土地を利用する権利であり、抵当権は債務者が履行しない場合に不動産を競売して回収できる権利です)、占有権だけは占有という客観的要件から命名され、しかも「占有意思」という主観的要件の有無によって効果が異なります。よって、占有権というひとつの物権ではなく、二種類の別の物権に分けて新たな名前をつけたほうが物権法全体として論理的にも歴史的(ポゼッシオとゲベーレの違い)にも整合するのですが、100年以上もそのまま放置されています。

また、学問には(検証を主要素とするアカデミズムの相においてすら)評価が含まれ、「評価する権限をもつべきは誰なのか」という争いも生じます。

学者も人ですから好き嫌いもわがままもあります。評価権限の所在ひいては評価が人間関係で決まってしまうこともありえます。指導教官が以前購入した高価な計測機械を使うことを前提とした実験を考えてしまうこともあるでしょう。おかしいと思いつつも、既存の視座の中で論文を書かねばならないこともあるでしょう。

そのような権威的な性格は、人々の学問への尊敬と信頼を失わせます。

その危険もあって学者達は、手続(手順)面を重視して議論を理知的なものにしようとします。どのような手順からそのような結論に至ったのかを明確にすることで公正を保てるように努めます。

しかしそれは決まった手順を踏んでいることを最優先する形式主義に変化してしまうこともあります。

さらに自然科学以外の分野では、みずからがどう考えるかではなく、「皆がどう考えているか」「この学問体系においてはこれまでそれをどうとらえてきたか」をあまりにも重要視するという別の危険にも通じます。
そのような姿勢は、リアルな問題に直面している人達からみれば、現実への無関心と権威への従順と安住に見えることでしょう。

これは教育において 如実に表われます。

たとえば、理数系科目では

Ⅰ 公式

Ⅱ その公式が使われる問題の型やパターン

を覚えます。そして試験では 

  • ① 上記のⅡを使って、その問題の提示する状況が、それまで覚えた事例のどの状況に近いかを判断し
  • ② 上記のⅠをあてはめて
  • ③ 結論を導きます。

この手順の明確性にあこがれる法律(法解釈)学では、以下を学生に覚えさせます。

Ⅰ 条文中の文言に与えられている意味や諸概念の定義とそれらが成り立つ理由

Ⅱ その意味や定義が用いられた事例における行為や状況

そして試験では 

  • ① (上記のⅡを使って)その問題を構成している個々の行為や状況が、それまで覚えた事例のどの行為や状況に近いかを判断し、問題文のどの行為がどの条文のどの文言にあてはめうるかという形で問題提起する。
  • ② (上記のⅠを使って)条文中の文言の意味を(それを成り立たせている理由とともに)書く。
  • ③ 問題文の事例の行為や状況(①)に、条文中の文言の意味(②)をあてはめた結果をもって結論とする。

という論述ができているかを考査します。(ちなみにこの書き方にも「法的三段論法」という、数学や論理学に擬態したモノモノしい呼称がつけられています。) 

但、自然科学においては、Ⅰは「誰がどう言おうと自然界はそうなっている」というものです。しかも疑うに足る事実が提示されれば学生や素人の指摘でも学者は再検討します。

他方、法律学においては、Ⅰは「誰かがそう言ってそう決まった」ものにすぎません。しかも学生や素人が異議を唱えても一顧もされません。 「べき」論が多い学問分野では事実に基づく検証が難しく、事実の不足を客観性(多数性)や正統性(長期性)でつぎはぎした権威的検証になりがちなのです。 ※37

※37

このようなとき、数字による客観的評価をなるべく多用しようとすることもあります。
「事実に基づき「どう考えても誰が見てもそうなる」という理想の実現までは無理かもしれませんが)「誰もが」評価に加われる可能性を広げうるように見えるからでしょう。たとえば経済学は、複雑な現実の事象を何らかの比較的単純な変数の相関関係で説明しようと様々なモデルを構築します。社会心理学や歴史学における事実分析などにおいても数値的指標は導入されています。
しかし、数値の統計の取り方や示し方によってはミスリーディングな結論を導きます。
またそもそも、考慮すべき要素が多く複雑な判断が必要な場合には数字に頼ることはできません。

学問や教育になじみの薄い人も、これらの不親切と形式主義と権威主義は嗅ぎ分けます。
そして「学問だの教育だのといっても、エリート達が素人の一般人を寄せ付けないため わざと難しくしておいて 自分達の言い分を通そうとしているんだ。そんな計略に乗ってたまるか。」と思います。

そしてまた他方では、専門家にしかわからない学問はかえって何やら貴くも見え、レッテルだけが独り歩きし、大学で何を学んだかということよりも有名大学出身だということのほうが重視されるようにもなっています。

「学歴」が現代の階級の基盤固めに使われていることも事実です。

本来 学問は一部に独占されるべきものでもなければ、相互に孤立してよいものでもありません。

それぞれの学問が、傍目には何を議論しているのかもわからない情報を拡散しているようでは、学ぶことになじんでいるはずの人々からも無視されやすいものになり、学問による世界の解明は望めません。

学問は、わかりやすいもの、現実に向き合ったもの、自由であるべきものなのです。このまま放置しておくと、反知性主義と権威主義ははさみの刃のように民主主義と平和主義を切り刻んでいきます。

学者達も最初は素人だったのですから、学問は素人にも理解できるはずのものです。理解になるべく時間がかからないような形で学問を提示し 教育を与えることも不可能ではないはずです(高校数学で以前より学びやすい参考書が出ている実例もあります)。みずからの仮定、条件、範囲、視座を、ふと入ってきた誰にでもできるだけわかりやすいようにしておくことも、この業界の仕事のはずです。

本当の知者は「自分がわかっている言葉は皆がわかっている」と思いこむような手抜きをしないものです。

そして私達も、学者達を責める前に、みずからを省みることも必要でしょう。

これは、すべての表現者や発信者が、情報を受け取る側に立てるか、めんどうを厭わずに共感を広めうるか、内なる寡頭主義と戦えるか否かという問題です。

たとえば優れた取扱説明書は、いきなりその機械の性能を説明し始めるものではなく、その機械を使うときに直面する場面順に使用法や対応法を説明するものです。
CADであれば、まずはシステムを起動したら 自分がどのような「紙」の前に立つのか、間違えたときどうしたら回復できるのかを説明すべきなのです。
パソコンの説明書などは、新たなテクノロジーやコミュニケーションの方法を教えるという意味では学問に近いものですが、パソコンの未熟達者にとって意味のわからない単語を並べ立てたセッティング案内が当然のごとく出回っています。役に立たないだけでなく、無駄な出費を生じうるという意味では詐欺的ですらあります。

それらを伝わりやすくすることは、学者ではない人々に託されているのです。

型(かた)

「型」という言葉を聞いて 多くの人が思い浮かべるのは 空手などの型でしょう。

また、同時に「あんなダンスみたいなことをしていて 実際に強くなるのか」という疑問を生じる人も多いでしょう。

この疑問への回答は「やり方による」ということになります。

決められた順序で一定の手足の動きを繰り返しているだけで戦闘能力が上がることはありません。

しかし、これらの決められた動作を一定の姿勢を保ちながら、すなわち胸を落とし、脊椎のそりをなくし 足の付け根を前屈できるほど外旋させ、目線は遠くの峰々を見るようにまっすぐ前に向ける等の準則を守って行うと、通常は使わない体幹筋肉や神経を使うことになり、それらが覚醒し発達します。正しい姿勢を探すことが、通常できない動きができるようになるための練習になっているのです。そしてまたこのような準則を無意識に守ることができるようになったとき、新たな能力が得られているのです。
しかるべき神経や筋肉の育成がなされたか否かは、そうでないと不可能なパフォーマンス(たとえば両手を強く抑えられても肘を伸ばしたままでその両手をあげる「合気あげ」などと呼ばれているもの等)によって試すことができます。あるいはみずからの体感が「重心が踵にかかり下方へ向かう」などの先達の言葉と合致するかなどで確認します。
できていないときには、再び手順や準則に沿った動きの反復に戻り、さらにみずからの観察を続けます。

つまり型というのは、決められた動作を行うことに本質があるのではなく、みずからの認識力を育成しつつ、新たな認識を得ること およびまだ「知」になっていないものを「知」にかえることに本質があるのです。混沌の中から新たな「知」を作り上げる過程なのです。

これはみずからの感覚や認識や伝達の土台をみなおすことでもあります。
「学び」が対象を理解し ある意味では一方的に支配しようとするのに対して、型はむしろみずからを変えることのほうに重点があるのです。

従って、「型」は、言語と意識のみによる伝達がなんとか可能な「学び」とは異なり、それ以外の要素と合わせなければ成り立ちません。

感覚はされているものの認識としては非常にあいまいなものの伝達もなされ(ここではそれらを総称して「気」と呼びます)、伝達しえない認識も必要とされます。忙しく「である」論の取捨選択が行われると同時に、「べき」論と「である」論がめまぐるしく入れ替わります。

以下では、その構成要素を個々に取り上げたいと思います。

まず「型」は、その語源どおり、決められた動作の形や手順があることが通常です。その実行とそこから生じてくる感覚や出力を確認します。

みずからを手順の中に投げ込んで、みずからにとって新しい位置感や力感や時間感などの感覚を感じる能力が鍛えられ、同時に出力(働きや結果)が変わり、伝えられるべきものが伝わるのです。

この「みずからの状態を感じ取る、それを変える手順をとる、状態の変化を再び感じ取り直す、」というサイクルは「学び」のような輪郭のはっきりしたものではなく、よって「学び」に対する場合とは異なる態度を要求します。
「早く結果を出すために なるべく失敗を少なくしよう」と考えすぎては「型」を役立てることはできません。
型を実践している最中に最終的結果を見据えて調整することも無駄です。探す処に答はないのです。できていない状態にある間は何もわかっていないので、「やりなおす」ことは間違ったことを「やり続ける」ことになるのです。

なぜなら、人は最初から「みずからの状態を感じ取る」ことが普通はできないからです。あまりに自分にとって当たり前すぎて何を認識すればよいかもわからないのです。
しかも、「型」によってできあがるものがどのようなものかも、型を始めたときには、その人の認識能力からは、まったく見えていません。
よって当初は何かわけのわからないままに「変える手順をとる」ことがスタートとなり、その後「何が変化したのだろう」と探索に悩みます。

体認や身体の状態が以前と異なってくると、手順が以前とは異なるものになることもあり、それも混乱を招きえます。
たとえば 昨日は「上体をやや前に傾けて」と言われていたのが、今日は「前に傾ければいいんじゃないんです」と言われても、それが当然なのです。その時のその人のためだけに必要な準則や気があるのです。

毎回、やったことのない新たなことに取り組むように、来るが如きものに任せるように、定められた手順をやってみるしかないのです。

「型」は、いわば「身を捨てて浮かぶ瀬」を見つける技法であり文化なのです。型の中にある課題をみずから探す中で、自己が新たな自分を見出すのです。

「型」が定める動作の形や手順は、実戦を模したものではなく、実戦に対応できる能力を育むためのものです。
ただ、その中にも、完成に近い状態にあるか否かを試す意味合いの強い型もあれば、そこに至るためのエクソサイズとしての型もあります。

両方と備わっていることが必要なのですが、これはなかなか困難なことであり、多くの場合は後者が不十分あるいは欠落しています。
型に触れる前の認識能力は個人によってかなり異なるので、それに対して定型的な対応を用意しておくことが困難だからです。

しかし、それがないと、当然に型の実現は困難になります。

前者だけしかないことが多いこともあって、通常は、「型」はやってみせるだけでは伝達できません。

言語による説明も非常に重要であり、それも、言葉がありさえすればよいというものでもなく、外的動作とその順番を教える言葉や結果として生じる感覚を伝える言葉だけでは足りず、それを身につけるための内的動作を示す言葉が(準備段階、実践段階ごとに)細かく必要です。

たとえば、舞踏や武術ではよい姿勢を「吊り上げられたような」と表現することもありますが、吊り上げようとしても、その姿勢にはなれません。
中国拳法には「站椿(「たんとう」と読みます。足の裏を地面につきこむように立つ、という意味です。)」という外的動作と身体感覚を同時に示す言葉もありますが、これもできた人同士の確認にはなっても、できていない人を指導するときには役に立ちません。
長島の「バッと打つんだ」という指導も(イチローには通じても)他のプロ野球選手には通じなかったそうです。
ハイレベルのパフォーマンスを実現する肉体は「リラックスしつつも体幹をしっかり保っている」と多くの人が口にしますが、いくら「リラックスしよう」「体幹をしっかりさせよう」と意識しても無駄です。
これらのように、「その結果の属性である状態になれ」という表現によってある結果を実現することを欲求する言葉は、指導を受ける側にとって初期段階では役立ちません(理念の章でも言及した「下命規範」です。)

他方、胸を落し、背中のそりをとり、つま先を前に向け、足の付け根の緊張を緩め、耳を肩の上に置くこと等に注意して適切な動作をしていると、「吊り上げられたような」と言えそうな感覚が生じます。(このように、結果の実現に向けて役に立つ具体的な行為を指示している言葉は「実行規範」であると言えます。)

両者を分けるものは、客観性つまり多くの人が体験しているか まねできるかということです。

たとえば、「站椿(足の裏を地面につきこむように立つ)」と言われても、足の裏を地面につきこんだことのある人はほとんどいないので、通常は これは下命規範です。
他方、「体の重さを足の裏の踵と拇指球と小指球の3点に均等に乗るようにしつつ」「背中のそりをとって」というような個々の指示なら 誰もが体験しようと思えばできることなので、これは実行規範です。
また、「膝先から尻までをひとつのまとまりとして引き上げるように」という指示は、一見すると下命規範のようにみえますが、四つ這いになって片膝を柔らかいブロックの上に乗せて浮いたほうの膝を引き上げたりおろしたりしながら尻が左右にぶれないようにする、という簡単なエクササイズによる体感とセットにすれば実行規範です。
そしてこれらを同時に無意識に行えるようになったときには「站椿」という感覚ができているので、「站椿」という指示も実行規範に変わります。

そして站椿が身につけば、さらにわかりにくい、たとえば「相手の突きをかわすときには片足の位置だけを動かし、もう片方の足の置き位置は動かしてはならない」という一見わかりやすそうで実際には通常はできない下命規範も、多くの人が実行できることになり(上体の前後移動を速やかかつひそやかに行えるようになるので)、実行規範となることでしょう。

また、「型」を実現するには、認識だけでは足りず、「気」すなわち認識としてはあやふやな感覚の伝達が必要となることが多々あります。このことも型の実現を難しくさせているのですが、かといって気は神秘的なものではありません。
たとえば、「気」は手を触れずに物を動かす超能力(サイコ キーネーシス)ではありません。いわゆる超能力がすべて嘘とは言えませんが(ヒーリングなど)、サイコキネシスは想像の産物か手品でしょう。

逆に、たとえば、「聞こう」という気や「話そう」とする気は相手に伝わります。これなしでは日常対話をすることもできません。また「何となく見られている」気を感じ取ることもあるはずです。

気は、みずからの身体に対する指令手段でもあります。そしてその伝達は迅速です。

たとえば、人が身体を動かそうと「意識(これははっきりとした認識の一種)」するその3/4秒前に、その運動を指示する電位変化が脳内に現れます。これは、脳の中のある部位で「動け」という指令(気)が発生してから、それが「動くんだ」という意識を造る別の部位に伝達されるまでに、3/4秒かかるということです。

気は、意識の領域に閉じ込められるものではありません。よって、たとえば「肘を曲げよう」と思うようにフォルムのイメージに正確に身体をあわせるような形で指令を出すようなものではありません。むしろ身体の(バランスなどの)感覚のようなイメージが近いでしょう。また、影響しようと「意識」するとかえって働かなくなる(伝わらなくなる)ものでもあります。万能なものでもなく、これだけで正確な伝達をすることは困難です。

また、五感と筋肉を備えているだけで何もしなければ(意識の伝達手段である)「言語」も使えず「意識」も育たないのと同様に、気も使いながら育成しなければならないものでもあります。

以上のように、「型」の目的と構成要素をまとめなおしてみると、そのわかりにくさと難しさの理由が幾分か鳥瞰できます。みずからを育てなおさねばならず、不完全なことも多い手順と必要な説明に不足しがちな言葉とあまりなじみのない「気」を道具としなければならないのです。

同時に、これまで「型」とは認識していなかったものも 型の一種であることに気づきます。

たとえば、英語のリスニングです。
日本人が英語を話せないのは英語が聞き取れないからであり、聞き取れるようになるにはみずからが正しい発音をしなければなりません。
それにはまず英語の発音の特色を知っていることが必要です。たとえば、英語にはオという母音がない アとウとオの中間のようなあいまいな母音が多用される、apple, father, saw の母音は高音、中音、低音で区別される、子音+母音+子音のかたまりでリズムにのせて発音することを最優先する、そのために単語をつないで発音したり 音をとばしたり 違う音で発音したりする(nの横の t はnに吸収されてしまう、似た子音が隣り合うと一体化して たとえばIs sheは イシと発音される など)ことなどです。
その音の高低やつながりや省略に注意しながらネイティブの発音を聞き、それを真似するようにリズムに乗せて発音しようとして口や喉や呼吸を調整する手順(残念なことにそれはまだ確立されていません)を踏むと、自然にリエゾン(連音)してしまう音や弱くなってしまう音や飛ばしてしまう音が出てきます。あいまいな認識にもとづくトレーニングですが、自身の声や口や喉がその場で必要な手順を教えてくれるのです。そこで使う筋肉や神経が徐々に覚醒し育っていく一方で、自分と同様にリエゾンしたり 飛ばしたりして発せざるをえないネイティブの発音を全体になんとなくとらえることができるようになるのです。

またたとえば、弁証法(部分であることの自覚)や「べき」論をなるべく削減する訓練も、思考を整える型だともいえるでしょう。

「型」のもつ意味は通じにくく、継承しにくいものですが、その困難と背中あわせであっても、やはり型は重要です。

それは型が人に新たな認識能力や技を与えるからだけではなく、失敗することを肯定する強さも与えるものであり、みずからを救うものでもあるからです。

現代においては、あらゆることに評価がなされ、その評価は広い母数と精密な計算により権威をもったものであることが多く、人々はその評価に大きな信頼を置きすぎています。人類の多数が判断すれば間違いのない結論が出るものだと思い込み あるいは思いたがっています。
しかし、評価には必ず思い込み(我)が入っています。みずからの外にあるもの(たとえば外力)に抗うことも、利用することも、見過ぎることも、外に依存することですが、そこには必ず自分に囚われた自分がいます。そこから離れて全体としての自分と自己に戻ることが必要なことが、人にはあります。いわば現代人は評価中毒なのです。

型に向かい合うとき、人はいったんは評価から離れざるをえません。

人は全てのことが認識できるわけではありません。認識の網を幾枚か組み合わせて、自分の網に引っかかったものだけを認識します。認識の網はみずから意識的に選ぶことは難しく、だいたいは無意識に周囲にあわせて選んでしまい、その網に沿って評価をしているのです。型は、この網つまり自分を変えることの大切さを教えます。

たとえば、みずからの本当の弱点や欠点は、直そうと思えば直るというような簡単なものではありません。それがどんなものかを言葉にすることすら難しいのが通常であり、向こうからやってくる失敗(非道な扱いを受けることもあるでしょう)によってのみ見えてくるものです。それは定型的な形はもっていません。

それに対して人ができることは、その失敗や非道に対して怒らず、憎まず、非道をうけた理由を探すこともせず、みずからのみを調して除くことです。これは仕方のないことなのだと、これを受ける理由があって受けたのだと、この相手からうけなくとも いつかは誰かから受けたことなのだと、受け入れる。良いあるいは悪い属性が人にあるということではなく その人がそのような自分の中に生きているだけのことであると考え、他人を敵とも味方とも思わない。判断はしても評価は重視せず、それが現に自分が生きている場なのだと、それにも関わらず自分が生きられていることもまた確かなのだと認識しながら、その認識の向こうに問いかける。自分を見守り、自分を受け入れてくれる人、頼りにしてくれる人、微笑んでくれる人、助け合ってくれる人々に微笑みかえし、みずからにしがみつかず、地球の動きにあわせ、みずからを生かしめている諸々の形を忘れず、早寝早起きし、きちんとした食事を適量とり、飲酒を控え、身だしなみを整え、運動を毎日行う。

それは決まった動作や形のない活動です。しかし、新たな知を作るためにみずからの認識の土台から見直す定型的な手順とも言える活動であり、その意味では生き方の型を守っている姿です。
ただ受け取ること、ただそこにあり続けて崩れないことで、みずからの認識を根本から変えているのです。

「型」は、運動と言葉、実行と説明によって、少しづつ経験を増やし、みずからを育てる活動です。

さらに、次の人に手渡すために、本質的効果が変わらないことを確認しつつ、下命規範を実行規範に変え、あるいは言葉にできていなかったことをうまく表現する言葉を探すことも望ましいことです。その場合、型の実践は認識のフロンティアを整備する世代を超えた作業になります。 
その道すがらでは、学び続け 正しく共感しようとし続けることが必要となり、それが人を正しい方向に導きもします。

だから「道」にもなりやすいのです。

その型によって何かを習得した指導者(師)にとっては、習得されたものよりも、型を実践してきたこと そして現在もそうしていること自体に価値があると思えるでしょう。師から見れば、弟子たちは、手っ取り早く教えてもらって技法を身につけたいと考えて 大切なことから遠ざかっている、真剣に型に取り組んでいない、と見えてしまうでしょう。

しかし多くの師たちは、それまでの不完全な手順と足りない説明だけで型を実現できた才能にあふれた人々です。師のほうで、型をなるべくわかりやすい言葉や手順によって「学び」に近づけるように努めてあげないと、凡庸なる弟子達は、まずは技法を習得したいと入門してきたところ、そもそも最初に型に入る道筋さえ見つけられず 型の本当の意味もわからないのです。弟子からは、師はあまりに説明が足りない、あるいは型というものは本質的に限られた才能ある人にしか受け継げないものだ、と見えてしまうでしょう。

どちらも間違ってはいないのですが、このように食い違うと、型の継承はさらに困難になります。

このようにして型は形骸化しやすく、それゆえ権威化しやすく、無意味になりやすいものです。
しかも、効率的な生産活動を要請する近代社会においては ゆっくりと認識能力を広げる時間など取りづらく、結果、近代はそれ以前の時代の「型」(フォルム)を色々な分野で崩しました。

しかし現在、かつての権威は消えつつあります。また くどいようですが型は人にとって重要です。

何が何だかわからない状態に混乱した型の真の姿を、私達はあらためて見出すべき時期にあるのかもしれません。

「型」は、経験のない人にとっては全くの絵空事になってしまいます。

とはいえ誰しも経験がないことはないはずで、たとえば初めて自転車に乗れたとき、初めて泳げたときなどは型に触れた(そしてそれを「学び」に変えた)経験といえるでしょう。
日常においても、口角をかすかに上げておくこと、つまり軽く微笑んだような表情を作っておくことは、他者と共感しやすくなる条件であることは多くの人が首肯するでしょう。しかしそれだけではなく、全身の多くの筋肉のこわばりをとり、身体の水平を保つ上で有効であることも、気をつければ体認できるはずです。

そしてまた、日本は他の国に比べると「型」になじんできたと言えそうです。

人類学者のベネディクトは「西洋は罪の文化、日本は恥の文化」だと述べていますが、罪は意識的に犯すものであり、恥はみずからの意識的活動とは無関係に生じることもしばしばあります。この外から来る恥に対しても日本人は責任を取ろうとしてきたのです。意識の外にあるできごとにも みずからがなんらかのアクセスをできるものとしてきたのです。これは型に接するメンタリティです。そして信仰につながる姿でもあります。

信仰 宗教 神

近代以前はいたるところに宗教が深く関与していましたが、近代以降は宗教の勢力は大きく後退しました。
信仰をもたないことが非難さるべきことではなくなり、少なからぬ人が「自分は信仰していない。それで問題はない。」と考えています。

その一方で現代人も冠婚葬祭には宗教を使い、神という言葉を使い、どこかでそれらに頼り、一部にはそれらに偏執的な関わり方をする人もいます。

ここでは、一般的な現代人の最小限の必要を満たす立場から 信仰、宗教、神を再定義したいと思います。

多くの人は「神が宗教を作り(その使者である宗祖に作らせ)、それを人が信仰するようになった」という「主権在神」的な物語をなんとなく受け入れているように見えます。

しかし、それは逆です。しかも、それでは宗教の権威に取り込まれてしまいます。
仏陀やキリストは、宗教の助けは借りていますが、宗教に基づいて信仰していたでしょうか。
違ったはずです。
彼らにならうとするなら、信仰が出発点なのです。

信仰

信仰は、認識の限界において そのヒントを探すマージナル(限界的)な活動です。
知や認識どころか感覚さえ及ばない場すら視野にいれ、認識の土台の入れ直しすら予定する活動です。
「学び」や「型」の基礎あるいは前段階といえるものでもあります。

  • 「信じる」という言葉は、一般的には「真摯な望みをもつ」という意味です。
  • 「望み」は推測と意思の混合物です。
  • 「信じる」という行為も二つの要素から成り立ちます。

ひとつは推測すなわち「である」論の側面です。証拠不十分(とはいえ、いくばくかの証拠は要求するべきです)で認識しきれないことがわかっているイメージ(言葉、理念など)を判断の要素として受け入れるということです。みずからの認識の限界を認めつつ、その可能性を諦めないことです。

もうひとつは、何かをなすべきことを非常に強く思うことです。いわば無条件の意志であり 究極の「べき」論です。
たとえば人は無条件に「生きよう」としています。通常、「べき」論であることに気づかないほど、強い思いです。
これは外に向かうときは強い共感をもって関わろうとすること(愛そうとすること)にもなります。たとえば、キリストの説いたアガペーという神の人に対する愛も、無条件な強い意志です。(だからキリスト教は自殺を罪とみなすのでしょう。「神は無条件に人を生かそうとしているのに、人は条件によっては生きることをやめる」ようでは神への裏切りになるからです。)キリスト教の母体となったユダヤ教の神が条件付きでユダヤ人をひいきするのとは大きく異なります。

ただ、信仰は 認識の外にある事象を扱う活動ですから、「である」と「べき」がはっきりと分かれません。上記の要素も、実際には混合しています。

上述のように、信仰は、「である」論的には「『ある』と自分が考えうること以外に『ある』ものがあることを認めること」です。
「認識してないこと」を「認識できないこと」とすることを拒否しつつ、捕まえに行かず歩み寄ることです。
みずからの判断を放棄することではなく、みずからの判断の限界を見極め、外に問いかけることです。
みずからが守り参加するルールが世界を統べるルールではないかもしれないことを受け入れることです。

よって信仰は、現代人が考えているより人に近いところにあります。認識の限界が意外に近くにあるからです。
みずからの周りの世界がきれいでやさしいところであること、みずからがそこにふさわしい人であるくらいのことですら、認識の範囲内の努力で実現することではありません。
悪人が長く栄えない確率的事実がある一方で、義人が憤死する例も多くみられます。子供が虐げられたり 事故や事件で死んだりすることもあり、それを防ごうとした人がくじけることもあります。そのようなことが起きたとき、あなたはどう納得するのでしょう。どう腹に収めるのでしょう。
逆に 何かに成功したとしても、どういう因果でそうなったのかわかっているといえるでしょうか。たとえば一生懸命に掃除をすることで会社を隆盛させた例もありますが、当人とて「なんとなくそう思った」としか言いようがないでしょう。

そこで自分でなんとか答えをこね上げることは 知りえないものを知ったつもりになる危険と隣り合わせです。さらにそれを正しいなどと考えたら、信仰と正反対の営みになってしまいます。

何が正しいかは決して人が「つかむ」ことはできないのです。つかんだ瞬間にそうではなくなってしまう(限界が限界でなくなる または限界がない妄想世界が広がる)のです。すべてがとりあえずの解にすぎないのです。
その事実を誰もが忘れないために、誰よりも正しく生きていると認められていたキリストが磔にされる必要があったのかもしれません。

人の認識の限界の外にも、事象の間の因果関係があることは明らかです。だからこそ 科学者達は様々な発見を繰り返してきました。しかし それをいつ認識することができるのかはわかりません。あるいは永遠に認識することはないのかもしれません。あるいはそれは認識しても伝達できない(知とはなりえない)ことなのかもしれません。

それらを偶然に帰し、諦めてしまう自由も、私達にはあります。しかし私たちには 別の途を選ぶ自由もあります。
そこに何らかの法則や意図が存在すると「信じる」ことです。みずからの中に世界の謎をそのまま息づかせるように受け入れ、認識の外にある法則や意図が運んでくるものを待ち、様々な不当や不正を目にし、そこに正義を求めつつもかなわず、あるいは矛盾に突き当たり、それでもへこたれず長い順序をたどることです。たどりつけないかもしれないものを否定せず、認識の限界を抱えたまま 肉体の寿命を超えた長い時の中のみずからを生きようとすることです。

すなわち、信仰の対象は 世界や宇宙のすべてに拡がります。そこには自分も他人も含まれます。

多くの人は自分に共感していますし 自分の行為は自分で制御できると思っている一方で、他者には共感を持ち得ず 不信に満ちた目を向けることもあります。

しかし、宇宙をまとめて「信じる」には、えり好みはできません。自分がそれほど愛しうるものではないこと そして他人の行動がフェアであることも多いことを認めることが必要です。

これは脱力するほどつらいことです。

そこで人は往々にして安易に信じうる人同士で固まって支え合い、世界を泳ぎ切ろうとすることもあります。
そしてその受け皿として宗教とその組織が頼られることも頻繁です。しかしこれは判断停止であり、逃避です。
信じやすいものあるいは信じたいものを信じているだけでは「信仰もどき」」にすぎません。

このような要請をつきつける世界は厳しいところかもしれません。

しかしその世界に生まれてきた子供達はなぜ輝く目をしているのでしょう。ネグレクトや虐待ばかりを受けて育った人が、それでも後に善き人と出会ったときに親交を結ぶことができるのはなぜでしょう。

正しく信じる力が人には本来備わっているからではないでしょうか。心のどこかで世界に感謝し、ひたすら美しくなること、賢くなること、強くなること、優しくなることに本当の望みをもっているからではないでしょうか。

世界中にある霊や転生に関する話は魂の存続の証明にはなりませんが、人類が共通して魂の存続を求めてきたことを示しています。そしてまた人が、そう短い時間で摂理や真理あるいは神に近づけるとは思っていないこと、肉体が滅びた時には心が魂となり再び別の肉体を得る必要があると思っていることも示しています。

魂はなく、肉体とともにみずからの存在は消滅するのだとすれば、人の一生は、最初から壊れていたとしか言えないような生を受け、最終的に皆がloserとなる博打のようなものです。それを取り巻く宇宙は巨大な死の中に生命の線香花火が時々ともるカオス(混沌)にすぎません。

しかし、魂が肉体を乗り換えるのであれば、この一生の成功、失敗、栄光、悲惨は 次の肉体で活動するための体験になります。思い通りにならなかったこと、悪かったと思うこと、みずから秘かに自慢に思うことなどはすべて旅で学んだことになります。魂という本質の同一性を保ったままで肉体や記憶を変化させているのが生命体であるならば この宇宙はそのようなものに満ちあふれ 生きたものになっていく過程をたどるコスモス(秩序)です。そのシステムの成否が私たちに任されているならば 私たちの生は宇宙とつながる大きな意味をもちます。

私達がそのような不滅な存在であると言い切ることはできません。

しかし少なくとも私達は未知なる能力をもつ存在です。
キリストばかりでなく多くのヒーラーはかなりの頻度で祈るだけで病を癒します。植芝盛平は瞬間移動して銃弾をよけたといいます。スウェデンボルクはイェーティボリから数百km離れたストックホルムの大火災をリアルタイムに感知したということです。
これらは、本人がそういう能力の可能性があることをあらかじめ明確に認識していて それを工夫して開発し 磨いた末に得た能力ではないでしょう。むしろ、それを求める条件が調えば与えられるもの、本人も「できるかもしれない」と思ってやったにすぎないというようなものでしょう。そしてこれらも生きるための解決策のひとつにすぎず、それゆえ人が本来は持つべき能力であり、そしてこのような能力は他にもあると考えてよいのではないでしょうか。

たとえ それが確実に与えられるものではないとしても、認識を常に広げようとし、「神や摂理を確信はできないが、偶然で片付けるべきでもないだろう」と信じ、見えない摂理に近づく道を求め続ける人は、少なくとも、何かを発見しなければならないときに手がかりが全くないということにはならないでしょう。

私達には、私達がなぜ生きているのか、何が生かしているか、何のために生きているのか、すべてわかりません。

わからない中で、自分だけでなく今だけでなく生きようとして、自分だけでなく今だけでないことのために自分と今を軽んじることさえします。

これは認識や知を支える「賢さ」という属性の話ではなく、「強さ」とよばれる属性です。信仰は強さによる活動です。
認識という分析を通さず、生命の根源と直結する側面が信仰にはあるのです。

現実に眼前にある地球は美しい星ですが、私やあなたにとってこのうえなく理想的な環境とも言えません。いやおうなく「世界はこのままではよくない」と肯定しなければならないのです。

そのパラドックスを抱いて、すべての自分がただ世界と向きあうしかないとき、「みずから」という意識はあると言えばあるくらいのものになり、その「みずから」も含めて美しい場をつくることが、生きるということではないでしょうか。

信仰は、どこまでいっても不明確で不如意なエビデンスしかないことがわかっている仮定や思想をあえて堅持する生き様です。エビデンスとなりうる事実は必要ですが それが信仰を支えるわけではありません。たとえばヒーリングなどの超能力を信仰の支えとしていては迷信に陥ります。

従って 信仰は、形としての対象や手法や言葉に囚われなくなっていく面をもちます。

たとえば親鸞が「たとえ法然上人にだまされてこの宗派になったことで地獄に落ちることになっているのだとしても 後悔するところはない」と語っていたということも、対象が問題にならない信仰という行為の側面を表しています。
臨済録にも「如法の見解を得んと欲せば 人惑を受けることなかれ。裏に向かい外に向かい逢いたる者は皆殺せ。仏に会えば仏を殺し、祖に会えば祖を殺し・・・(中略)・・・を殺して、始めて解脱を得ん。」という一節がありますが、これもそのような意味を含むものでしょう。

「信じる者は救われる」というのは、「神を信じる者には神が恩寵をかけてくれる」という意味ではありません。

信じようが信じまいが人を支えてくれているのが神です。えこひいきなどしていては世界は支えられないでしょう。

「信心するような人は幸も不幸もわからない馬鹿だ」という意味でもありません。信仰をもつ賢者も多数です。しかも幸福は先述のように感情にすぎないものですから、そこにこだわらないことは馬鹿というよりむしろ賢明です。

これは「信じることは、外なる権威にも内なる権威にも騙されることなく いつかは自力で正しい答えを出す可能性を開く」という意味だと考えるべきでしょう。

信仰する人は祈ります。

祈ることは、「神はこう答えるだろう」などと推測する偽のダイアローグ(対話)をやめ、答えを勝手に探し求めない勇気あるモノローグを続けることです。

祈りは様々です。願い(「たすけてください」「悪いものを去らせてください」)も疑問(「私はいかにあるべきでしょう」)も謝罪も含まれます。ただ いずれにせよ、みずからが悔恨と難儀の中にいる愚か者であることをさらけだすことになります。さらけ出すことによってはじめて何かを受ける準備が整うのです。

この世界には「正しく求めれば、正しく与えられる」という静電誘導のような摂理があるのかもしれません。

ならば、わからないままに歩き続けることも、志すことを志すことも、無駄ではないでしょう。

そのような立ち位置から、信仰は、答えを出してくれる存在としての神に呼びかけます。

信じる先に神がいるのです。

宗教

信仰と宗教は別物です。

信仰は、認識の限界に際して「認識していないこと」を「認識できないこと」とあきらめないで歩み寄る活動です。

宗教は、教祖の言葉や行いの記憶を土台に作られた世界観(思想)であり、それを基にした社会的システムであり、信仰から派生する文化です。

人は弱く愚かなものであり、みずからの認識を超えようと考えながらも いつのまにかみずからの認識に頼ってしまいがちになります。その迷路に踏み込ませないための「つまづきの石」、それが宗教です。信仰を暴走から守る自省の装置であり、信仰を発育不良から守る防具です。

正しく信仰する方法を見つける過程で、最初から宗教の助けを必要としないほど才能のある人は稀です。従って、宗教は個人の信仰の準備や補助となり信仰を正しく育てるための道具または道標として尊重されるべきものです。

そして宗教家は、指導者や判定者や救済者ではなく、ケアラーやメンターや救助者として必要とされるものであり、祝祭やワークショップの開催によるメンタルケア(グリーフケアを含む)や社会の一体感の維持などを機能とする公益法人の主宰者とその事務方の混合したようなものとして尊重されるべき職業です。

よって、信仰の入口に宗教があることはおかしくありません。

しかし、宗教に信仰を合わせたり、神ではなく宗教に呼びかけたりしては、自分を弱め、自己を見失い、正常な検証や判断を不可能ならしめ 主観の暴走と神秘への盲従に埋没する精神を助長しかねません。

宗教の教義や秘儀は信仰の神髄ではありません。

いかに優れた宗教であっても、先達の教えを守っているだけで「私は信仰している」とは言えません。
神が喜ぶはずだと思うことばかりをしているだけで、どうやってみずからの限界を知れるのでしょう。人は、神に叱られることなく、神の心にたどりつけるほど賢いのでしょうか。

神は人をただすために命を召すこともあるでしょう。それを「ばちがあたった」と蔑みあるいは怖がることが信仰でしょうか。死ぬことは不要なことなのでしょうか。

神を求めつつもおもねらず、ひとりよがりな愚かさの中に留まることをやめようとしつつも教会には行かず、みずからの真の欲求と向き合おうとし、死すべき時に死ぬことを受け入れようとする人々には、信仰がないのでしょうか。

宗教への忠誠は不要、場合によっては有害です。

信仰は書きとめることも口伝することも困難なものですが、弟子はどこか師に似るものであり、信仰を育てる手順には何か伝わるものがあります。弟子は師と異なる個性をもつ以上、そこでは人類共通の広汎な精神的基盤が通路になっているはずです。そのようなものが教義や組織にこだわる原理主義や排他主義とあいいれるはずがないのです。

「この宗教を通じなければ神とつながれない」などと思うのは誤謬です。

宗教が、みずからの教義を無条件に受け入れることを要求するなら、それだけで有害カルトの証拠になります。

極端な言い方をすれば、信仰というイベントを体験したくなったときに そのチケットを売ってくれる店が宗教です。押しかけていって売りつけるものではなく、たとえ自分の子供に対してでも 宗教を強制すべきではありません。

宗教はあくまでも補助者です。教義を鵜呑みにせず、消極的アプローチによるチェックをかけることが(「諸般の状況を考えればこれはやめておいたほうがよいだろう」というような判断)不可欠です。

「信じる」という精神活動は対象によってありようが変わります。宗教を「信じる」場合は、(たとえば神を信じる場合と異なり)信じるに足る証拠を十分に要求すべきであり、その意味では、信じるべきものというより、むしろ使うべきものととらえた方がよいでしょう。

宗教は「学び」や「型」で成り立っているのです。 ※38

※38

かつて宗教家が社会のほぼ唯一の知識階級であった時代には、「学び」や「型」の多くが宗教に含まれていましたが、時代が下るにつれ、それらは宗教から独立し それぞれがひとつのカテゴリーとなりました。
それは哲学が科学などを手放し 学問の一分野にスケールダウンした姿にも似ます。

しかし人はつい願ってしまいます。教祖に近づきたい、いや理解したい。神にふれたい、いやつかまえたい。天啓を与えてもらいたい、いやとりにいきたい。原始キリスト教の使徒やイスラム教初期のカリフ達を見れば、信仰や天啓を継承できそうに思えるではないか。

宗教はその役割を果たそうとすることがあります。しかしそれは信仰をごまかす誤謬へ 人々を導いてしまいます。そこにはまり込む人の姿は、市場に任せられないことまで市場に頼り、既に機能を果しえない政党にいつまでも政治をまかせる姿にも重なります。

そのような間違いの典型例は以下のようなものです。

ひとつは、教祖への崇拝と共感を組織的に強化することです。

しかし、たとえば、キリストを崇拝し共感しても、キリストがあなたを助けてくれるわけではありません。
キリストが「私を信じなさい」と語っていたとしても、それは「私の言葉を信じ、私を使って神を見出しなさい」という意味です。キリストは霊救された患者に「あなたを助ける力の源は私です」などと言ったでしょうか。「あなたの信仰は深い」と言っただけではなかったでしょうか。それにも関わらず、彼を神そのものであるかのように祭り上げたのは周囲の人々です。彼らこそ「自分のしていることをわかっていない」のです。そんな祭りあげ方をすれば、その誤解を解くために、神とてキリストを見殺しにせざるをえなくなります。

また、キリストを崇拝し共感しても、キリストの信じていたものを信じていることにはなりません。
キリストの認識にまで他人は入り込めない以上、キリストと同じ心、思考、理念を共有することはできません。キリストが見ていた神を(キリスト教徒であるからといって)あなたが見ているはずがないのです。キリストの信仰はキリスト教徒の信仰とは異なるのです。人々は互いに共通の宗教は持てても、共通の信仰は持ちえないのです。

そしてまた(もし神がいるとすれば)これほど多くの宗派がわかれることを神が許しているのは、各自がキリストと同様にかけがえのないただ一人の個人だからであり、各自の道を歩まねばならないからではないのでしょうか。

あなたの信仰はキリストの信仰ほどレベルの高いものではないかもしれません。しかしそれを自分だけの、キリストとも異なる信仰であると認めた時にこそ、そこに神に近づく足場ができるのではないでしょうか。

宗教は、信仰や天啓の継承ではなく、その器としての地位や組織の継承を尊重することもあります。

しかし このようなものを崇めていては いずれ信仰が形骸化していくことに、あまり説明も必要ないでしょう。

教義を言語的に精緻に整備しようとすることもあります。

しかし、本来、信仰とは認識の外に向かうものです。教祖の信仰を言語的にたどることはできません。教義とは教祖の世界観の一部を説明または推論したものにすぎません。神を捉えたかのような言葉を紡ぎ出しても神に近づくことはできません。

言葉や教義にこだわることは 地ではなく天のほうを回すほどの愚かな権威主義となることもあります。

ユーラシア大陸西方の教義の整った一神教徒達が 多神教徒の人々よりも神の意思に沿った生活や歴史を刻んできたとも言えないでしょう。

特に、教義が規範(戒律)の形をとった場合は、よほど気をつけておかないと 面倒が起きやすくなります。

「宗教」が 信仰という個人の内面に関わるものに資すべきものである以上、戒律の目的も本来は内面的なものであり 全人格を対象とします。その点で善に近いものです。よって精緻で複雑なものになることも珍しくはありません。(とはいえ 戒律を厳格に守っていれば悟りに至れる、神の国に行けるという保証はないのですが。)

しかし他方では それらの規範の主な機能が 宗教のシステムとしての維持になっていることも珍しくありません。その意味では正義に近いものとなり、違反に対しては制裁が科されることもあります。

精緻かつ制裁を伴う規範というのは、それだけでも面倒なものですが、もし既存の権威の保護が戒律の隠れた目的になったり、宗教が政治と結びついて強い制裁権を持つことになると、戒律は宗教と一般社会の双方に破壊的作用を及ぼします。宗教裁判の悲惨な事例は歴史にあまた見られ、またそのような強い力をもった宗教に世俗権力が激烈な攻撃を加えた例も多数です。

このような歴史の教訓として たとえば政教分離原則などが近代政治に残されているのですが、それだけではなく宗教の道具性と限界は 全ての人に意識されねばならないことです。

宗教は、神秘的な力つまりオカルティックな側面を強調することもありますが、これはエビデンスとしてあいまいな上に、危険もあります。

たとえば、魂の不滅を、ある個人を過去の個人の生まれ変わりとして具体的な形で示すことは、個人の行動をその個人の魂の性質に依存するものと過度にみなし、変化の可能性を否定することにつながりかねません。
行動は環境と認識の共創するものです。
また、たとえ魂が不滅だとしても、新たに変化をするつまり生きるためには、肉体が滅びて生まれ変わり、過去とのつながりを切ることも必要なはずなのです。(従って心ある宗教家は前生についてめったに語ることはありません。)

これらの誤謬の中でも中世から近代において最も流行したものは 神の名を賭けた競争(あるいは博打)でした。つまり「勝った者こそ 神の嘉する義の人なのだ」という論法です。

いったいどの時点で勝敗を決すると言うのでしょうか。苦笑を禁じえません。

宗教相互あるいは他のシステムとの間の利権争いから生じたこのようなごまかし論法のうさん臭さに薄々気づいた多くの近代人は、俗化した宗教に対して言い放ちました。
「魂がどう 神がどうと 虚構に満ちた教会に説かれたくも脅されたくもない。私たちは神の代理を自称する教会に導いてもらわなければならない弱い群れではない。因習にとらわれず明晰かつ論理的に思考すれば、神意をうかがわずとも正しい道を見いだすことができる強い個人だ。」
その結果、王権は神から与えられたものなどではなくなり、上手に戦争や統治を行える者が支配者となるべきとされました。権力は国家組織に集中させるべきとされ、たとえばヘーゲルは「一般意思を体現するのが国家だ」と説き、ルソーは「個々人は一般意思というものを合意によって形成できる」と説きました。
そしてまた、来世の救済は横に置かれ、人々の意識は自力で実現できそうな現世の救済に集中しました。現世の実際の生活の中でどれだけ正義や愛を実現できるかに取り組めばよいのだ、そう努めるしかないのだ、と。

それが、とりあえず自分達が対応可能な範囲における行動にすぎないことを自覚していれば問題はないのですが、このような反骨的自己肯定と過去の宗教の権威主義や誤った教義は無意識に折衷されました。

たとえば 「社会から指弾されない形で富や利潤や仕事を得られていることこそ神に救われていることの証拠だ。」となんとなく考えている人々は少なくありませんが、これは上記のような「勝てば官軍」思想や王権神授説を焼き直しです。我が身にステータスシンボルを飾り付けて喜ぶ俗物根性や拝金主義の土壌です。
そもそも、たとえば1兆ドル稼いだくらいのささやかな成功をもって「自分は神に寿がれている」などと思える世界観がケチ臭く嘘くさいと、皆はなぜ気づかないのでしょう。100億ドル払えば墜落しつつある飛行機の中で寿命が1秒でも伸びるのでしょうか。1000億ドルつめば青春をやり直せるのでしょうか。1兆ドル使えば幸福になるのでしょうか。少し冷静になれば小学生にでもわかる道理です。
神に寿がれているかどうか「評価」することなどできるはずがないのです。神は信仰の先に存在するものであり、信仰は評価や認識の外に広がるものなのです。 ※39

またたとえば、常に正しい判断ができるわけでもないのに、自分が選んだということに過剰な価値を置き、能動的であることに不合理なほど執着するのが傲慢な近代人の姿です。
その結果を自己責任として受け入れることはよいのですが、そのために理想の基準の方を下げ、神を卑近な存在にひき降ろし、あいまいにあきらめた妥協のなかに安住するのが、真の信仰を失った孤独な近代人の姿です。

このような近代人が「強い個人」を自称するのは滑稽です。いわば、人類は宗教のまちがった役割分担の後遺症をいまだに引きずっているのです。

※39

この「成功神授説」の教祖とも言うべきカルヴィンは、神の意思は既に決まっていて個人の歴史も変わりえない(終わっている)こと、そしてその証拠も社会的地位に現れているとすることで、世俗的な客観性を神から与えられる正統性として流用し、教会の歴史的正統性に対抗しました。 この「対抗」が、召命説の元の意図だったのでしょう。

ちなみに、ここには特定の人に神が肩入れするという思想が含まれます。古くはユダヤ教にそのような片意地な神のイメージが見られます。
人格神であれば同じような人に対して好き嫌いがあるという発想も出やすいでしょう。
他方、摂理のような無形の神のイメージからは、こういう発想(あるいはドグマ)は生じにくいものです。

このような息苦しいくせに御都合主義的な思想に対して、トルストイやドストエフスキーらロシアの文豪達は、証拠などありえないこと、そしてそれにも関わらず魂は神に救済され不滅であることを示そうとしました。

近代文学は、次第に工業化され変化していく社会の中の人々に時代ごとに次々とロールモデルを提供する役割を20世紀中頃までは担ってきました。それゆえ社会と個人の対立を普遍的な主題とします。
その中でもロシア文学の特徴は、伝統的正統性を押しつけてくる教会と、客観性を押しつけてくる近代社会に対して、個人の正統性を神から直接引き出して対抗しようとする点にあります。
確かに、主観の中にも事実はあり、客観の中にも賛同者の人数に頼ったゴリ押しもあり、社会や市場がフェアな場所であるとも限らず、客観性が常に正義のエビデンスとなるとも言えません。ロシア文学がいまだに人々を引きつけることにはむべなるかなと言える理由があるのです。

しかし、王権神授説や成功神授説が正しくないことは言えても、みずからの正しさを神に証言してもらうことはできません。神が、魂の不滅と呼応しても、それは知として共有されるようなものではありません。神を直接の根拠として社会を改革することもできません。

ロシア社会も、結局、急いで近代的生産様式に追いつくため共産主義に正統性を求めました。
それは共産主義のもつ予定調和的で政教一致的色彩が往時の宗教を擬態していたからかもしれませんし、共産党という絶対者に直結しうることがロシア人の心にアピールしたからかもしれません。
共産主義の正統性が崩れた現在、ロシア人達は判断の根幹を失って臆し、主観性や利己性に汚染され、それは同国の周辺国への攻撃性にも表われています。攻撃は臆病者の最大の防御なのです。

私達は、再び宗教を正しく位置づけ、正しく使うことを始めなければいけません。

まずは、上記のような無理な願いを宗教に期待すべきではありません。

また、社会的にも宗教に対して必要な枷をかけるべきでしょう。

宗教は、未知未来に向かって認識力を広げる(信仰する)ための道具であり、いわば一種の教育システムですが、人々を理念や言葉や知識のもとに結集させるための道具ではありません。

しかし「教育」は一般的に言って集団的に行ったほうが色々と効率がよいので、宗教も人々を集める性向をもち、人々の連帯を促し 集団を組織する副次的機能も持ちます。 

そして宗教家の中には権力的指向を持つ人もいます。そのような人が宗教のもつ上記のような機能を最大に利用しても不思議ではありません。また上記の機能を目当てに宗教に近づく権力者がいても不思議ではありません。
実際、宗教が「巨大な社会集団を形成する」という役割を果たし、国家体制の整備と結びついて発展した例も多くみられます。(ユダヤ教、儒教、神道など民族国家にしか通用しない宗教もあれば、仏教、キリスト教、イスラム教のように巨大な帝国に親和的でありうる宗教もあります。)

宗教は未知未来を語り、権力は現在の生活を保護保障します。従って 両者が結びつくと「未来がこうなのだから現在もこうでよいのだ」「現在がこうなのだから未来もこうに違いない」と互いの正統性を証言しあうことができ、権威主義が容易に強化されます。これはまさにアヘンのような作用です。

その宗教の教義や行事が社会の一部に組み込まれると組織力はさらに強化されます。
強化された組織の中から、その組織の保存と拡大そのものに努力を傾ける人が出てくることもあります。
そのような人が権力をもつと その組織は往々にして内部者と外部者との区別を厳格化しはじめ、さらに内部者を美化称揚し、外部者は愚かなもの 間違ったもの 汚れたものとして排斥しはじめます。
その結果、解釈の相違する教義に固執する宗教相互が社会を分裂させる潜在要素となり、政治と宗教がダブルバインドで人々を悩ませることにもなりえます。

権力や権威にすり寄り、人々を集結させようとするとき、宗教はその本来の目的に背いてしまうのです。

従って、宗教と政治や経済は厳しく一線を画されるべきであり、宗教団体が政治にバイアスをかけることには神経質なほど気をつけるべきであると言えます。

たとえば宗教団体から政党への政治献金には厳しい規制がかけられるべきであり、政党をトンネルにして宗教団体が政治に影響している場合は、その政党は解散されるべきです。

「個人の内面の信仰の自由の絶対性」と「社会に関わる宗教活動の自由の相対性」も常識となるべきでしょう。
思想良心の自由は絶対的に保障されるべきものである一方、表現の自由は公共の福祉による制限を受けるべき相対的なものとされていることと、同様に。

宗教は多様です。

信仰の多くが神を意識したものなので宗教も神と関連をもちますが、その度合いには濃淡があり、たとえばキリスト教やイスラム教やユダヤ教のような一神教では関連が強く、仏教(中でも禅宗)などでは関連が薄くなります。

さらに宗教は、信仰と関係のないものの道具にもできます。
たとえば、禅は個々の修行者が悟りを得られるようにつくられたシステムですが、それと似たものがマインドフルネスと呼ばれるメンタルワークとなり、ストレスを緩和する道具にもなっています。
これは型に近いものであり、宗教の道具性をよく表す現象です。

そしてまた宗教は多様であるべきです。
認識には質的な個人差がある以上、質的に異なる宗教が社会に多くあり、個人がみずからにあった宗教を選択できることが望ましいからです。
その意味では日本は比較的よい状況にあります。 他方、欧米はキリスト教一色ですから、その中に多様性を育まねばならないでしょう。ニケーア宗教会議からやり直す必要があるかもしれません。

私達の思考は、あくまでも対象の属性や機能や意味の認識に基づくものです。
また、あるものの属性、機能、意味の全てを人が完全に認識することもできません。あくまでもみずからと関連する限りでそのモノについて探り、語ることになります。
よって「そのもの」への認識というものはありえません。

たとえば道端に転がっている石であっても、あるいは鉱物という概念であっても、石や鉱物として知覚した段階からすでにみずからと関連した認識が始まっています。

石は存在します。しかしそのものの実体を語ることはできません。

私は存在します。しかしみずからについて把握することは どこまでいっても認識の限界を超えません。

このような認識は、人がいくらでも見いだし考え出すことができるともいえますし、他方では それは無限にある属性、機能、意味の中のいくつかに過ぎないものとなります。

実体を常に正しく表す言葉はありえず、また実体そのものを表す言葉など必要ないのです。

神が対象となると、何か特別に高尚なことのようにも思えますが、石への認識と変わるところはありません。

神が存在するとしても、神について語るときは、みずからと関連してそれまでに知り得た一部のみを語っているにすぎないのです。神という言葉や概念を人が定義するとき、その程度のものにならざるをえないのです。

よって、問い方が非常に重要になります。無駄な問いも省かねばなりません。

私たちは「神はあるか」と問うことがあります。
これは、2つの異なるスタンスから発されます。

ひとつには、「神は正義を実現してくれるはずだ」という期待からこのような問いを発する姿勢があります。

私達は、あまりに不正義なことや非道なことが起きたときは「神などいないのではないか」とも思い、何かがうまくいったときには「神がこれをさせているのだ」と思います。神ならば信賞必罰を実現してくれるはずだと思うからです。 

確かに、美しく素晴しい世界を実現するには神の力を借りまたは神と共に作り上げることが必要でしょう。
しかし、神は人の正義を尺度にしてその存否を測れるほどの矮小な存在なのでしょうか。正義は人が作る理念です。神の働きが私達の思う正義にはまり込むとは限りません。そのような正義に拘泥する存在が全能でしょうか。

「少なくとも私の考える正義は神の心の一部にはかなうはずだ。さらに供物を捧げれば神はもう少しこちらを向いてくれるだろう、“技ありあわせて一本”となるだろう。」と考える人もいるかもしれません。しかし、元々神から与えられたものを供物として捧げるくらいで、神が応じてくれるのでしょうか。 ※40

※40

神に供物や儀礼を捧げることに意味があるとすれば、ふたつです。

ひとつはその神が実は全能などではなく、供物がなければへそをまげ、供物を捧げれば人との取引に応じてくれる精霊のようなレベルの存在である場合です。仏教の一派ではこれに近いものを神と表現するようです。また、ユダヤの民だけを守護する「嫉妬する神」は、海を割ろうが、砂漠の空から食物を降らせようが、これも守護霊または精霊のようなものにすぎないでしょう。「(神への帰依をしめす)洗礼を受けねば いくら善行を積もうと煉獄に留め置くぞ」などと言う神も同類です。それが全能の神の姿であるように言うのは勘違いの押しつけです。ユダヤ教も煉獄も、周囲の民から迫害されすぎて依怙地になった人々の(実害なき限りは許してあげるべき)誤りです。

もうひとつは、供物や儀礼という形ではなく、神に問いかけ敬うという心だけを受け取っている場合です。
全能であっても あえて人の心だけは支配せず強制もしない、しかしそれに答えてくれる神が存在する場合です。
この場合、人の質問が愚かなら神からの回答もそれなりのものにしかなりえないのであり、愚かな人間はそれを何度も繰返しながら少しずつあるべき姿になっていくしかなく、神についての人の認識も少しづつ変わっていくしかないでしょう。この場合、やはり供物を犠牲にするくらいでは甘すぎるのです。

キリストは「神は愛である」と言ったそうですが、この言葉の裏には「神は(人の考えるところの)正義ではない」という意味が込められているかもしれません。

高い塔を建てれば神に近づけると考えたバビロンの王が神の力を無視した(そんな高い塔を建てれば被雷するのが当然です)のと同様に、「この正義が神の意志だ」と考える人は、神の心を無視しているのです。

「神がこれを実現した」と納得するだけなら無害です。しかし先回りして「神が望んでいることは具体的には何だ」「神はこのようなことを望んでいるはずだ」と考えることは「神とはかかるものであるべきだ」という考えと表裏です。
これは、「べき」論と「である」論を混交した問い方、あまりに神をみずからの「べき」論に引きつけすぎた問い方です。
理念に暴走の危険をもたらし、他者との関係で争いや摩擦を生みます。

この問い方において、人は「神はあるか」と冷静そうに問いながら、「神なんていないんじゃないのか」と思い通りにならない現実に癇癪を起しているのです。有体に言えばわがままです。もし、人の作り上げた理念を実現したいなら、人が中心となって作り上げるしかないのです。場合によっては、正義の実現の代償として愛や善を犠牲にすることも覚悟するほかないのです。

またひとつは、少し神から離れて「なかったらどうなるのか、あったらどうなるのか」を問う姿勢です。

しかしここでどのような解答が出るかによって実際に人がやるべきことが変わるのでしょうか。
神がいようがいまいが、あなたは生きることをやめないでしょうし、生きやすさも生きにくさも変わらないでしょう。未知なる法則が探しやすくなることもなければ 探しにくくなることもないでしょう。悪いことをすれば指弾され復讐されるでしょうし、良いことをすれば感謝されるでしょう。

「この世界を造った主体なら、この世界を能動的かつ積極的にどうとでもするはずだ」という懸念から「神はあるか」という問いを発する人もいるでしょうが、この懸念も変です。鵜飼の鵜のように、人に綱をつけておくのが神の慈悲だとでも言うのでしょうか。人が神の操り人形であるべきならば、なぜ人には考える能力が与えられているのでしょう。このような懸念には、非常に強い家父長的な権威主義が臭います。

このような問いに向かいあって思考の無駄遣いをすることはやめましょう。

しかも「神はあるか」という問いに対する検証は非常に困難です。

「証明」や「検証」は、人の知の中の、非常に伝達しやすい一形態にすぎません。後付けでしかありえず、部分的でしかありえません。関係的で複合的で多層的な本質をもつものは、「証明」という簡単化の過程には乗せきれません。
そして、あまりに人に接しすぎているものは、関係的で複合的で多層的で証明しづらいのです。

みずからや世界の存在を証明することが難しいように、神の存在についての証明もやはり難しいのです。

また、「神があるか」と問うことは、神の存在を意識することになり、その次にはその神が「自分にとって厳しすぎたり、不利益な存在であっては困るなあ」という無意識の危惧を導きます。そうなると、次に「では神とはどのようなものか」と問うときに 純粋に「である」論的な観察が難しくなり、「神とはこのようなものであってほしい」「「神とはこのようなものであるべきだ」という予断を含んでしまいます。このスタンスは「自分が理解しえない神ならいなくてもよい」という懐疑論に近づく危険もはらみます。

たとえば、「カラマーゾフの兄弟」の大審問官も、このような予断を背景に「お前は神なのか」「神はあるのか」と問うているのです。そして神を自分の町から追放するのです。
しかしそれも「神はある」と前提に誤導された思考によるものであり、だからこそ神は彼を哀れんだのです。

そもそも信仰の前提条件として神の存在は必要なのでしょうか。
私たちは神が存在するから信仰するのでしょうか。神が人より先に存在しなければならない理由があるのでしょうか。
私たちは信仰するように つまりみずからを育てるように本来できており、その結果として神や魂が実際に存在するものとして浮かび上がるのだとしても、何か問題あるのでしょうか。

人類ほど保育に手間と時間をかける生物は他にはいません。みずからを育てるということは人間性の本質と言ってよいかもしれません。神(またはみずから以外のもの)にただ問い続け、みずからを育てることができればよいのです。その意味で、神とは発見すべきものなのです。神の前で人は皆、マゼランやヒラリーやオイラーのような冒険者になるのです。

信仰は神よりも前に成立しているのです。

ただ、人は信仰するように進化してきたのであり、そこにはそのように進化せしめた理(ことわり)があります。
その理を神と呼ぶなら、人は神に作られたとも言えるでしょう。

私たちは「(神があるとすれば)どのようなものか」と問うこともできます。

何かが「あるか否か」を問うには、そのものが「どのようなものか」わかっていること、少なくともイメージはあることが必要です。(屠蘇がどんなものかを知らない子供に「薬局で屠蘇を買ってきて」と頼むことはできません。台形がどんなものか知らない相手に「この絵の中にいくつ台形があるか」というクイズは出せません。)

「どのような」という問いは前述のように最も原始的な問いであり、「神はどのようなものか」という問いも「神はあるか」という問いよりも根源的な問いです。

またこれは「である」論にも「べき」論にも偏っていない問い方です。

「神とはどのようなものか」という問いに対する答えは、様々な信仰において、「人を生かしめているもの」「場や時代を支配する存在」という機能的意味で共通しています。 ※41

※41

その支配の範囲、ひいては神にもバリエーションがあります。
たとえば、村の氏神様などはその村を守りあるいは支配するだけです。守護神というものもそうでしょう。ギリシャ神話の神々も人に近いものであり、その支配の対象は限られています。いわばこれらの神は精霊のようなもので、人とそれほど大きな違いはないようです。人が死んだ後になるかもしれないもの、あるいは権現として人の姿で現れるものもこの類でしょう。(逆にいえば、人もいくらかは場や時を支配することができるということでしょう。)
他方、最も大きくなると、神は、この宇宙と時間のすべてを生みだし支配している存在です。人が生き続けられるように、常に人に付き添い支える存在です。

また支配の強さにも違いがあります。
他の神を拝んだだけで嫉妬する神もいれば、待ち続けている神もいます。
ただ、人の自由意志を認めないほど横暴なものは、神としてはいないようです。

その神が、もし「お布施を入れたら御利益を出してくれる」自動販売機のような存在であったら、愚かな望みを持ち続けてきた人類はとうに滅亡していたでしょう。

人を生かしめる神ならば 人の本当の望みを見抜くはずです。
一番強い望みが本当の望みではないのが人であり、頓珍漢な方向に真剣に向かうのが人です。たとえてみれば、離婚して家を去ろうとする母に「良い子になるから行かないで」と泣いてすがりつく幼児のようなものです。母親にいてもらうことはその子のその時の一番の望みでしょう。しかし、良い子になったからといって離婚しなくなるはずもありませんし、それがその子によいとは限りません。神は、母親を去らせつつも、その子に才能を与え、他人より自由に生きることを許しもするでしょう。それがその子が通らねばならない道であり、その道が本当の望みに通じるからです。

また、人を生かしめる神ならば 人の本当の欠点を見抜くはずです。
神は人が期待していることを実現するようなことはせず、むしろみずからの欠点に向かい合わざるをえない現象を実現させるでしょう。その現象が、それまで人が言葉にしてこなかった望みを持たせるようにしむけ、また新たな現象を生ぜしめるのです。 たとえば、世界のすべてを知りたいと望んでいる人には、ありとあらゆる しかし軽めの試練が休みなく降りかかり、いつしか知りたいとは思わなくなるようなこともあります。
愛をもって生きたいと本当は望みつつも、生きるには賢くなければと思ってきた人が、大きく挫折し、失意の中で深く考える毎日を余儀なくされ、特別には賢くもない人々の世話になりながら、自分がいかに浅い認識で生きていたかを悟り、共感とケアの中にいる自分を発見することもあります。

これらの人々の姿は、神があるのかどうかを問うことすらせぬままに、目の前に神が(人の状況に応じて受動的に)表した事実を受け入れ、尊重し、それによってみずからを変えている姿であるとも言えるでしょう。神という概念すら明確にもたず、単に意識や体認の向こうにまで眼を向け、認識でとらえられないものを尊重しているだけで成立している信仰であるともいえるでしょう。

たとえば あなたの信仰も神を忘れて道徳の形をとっているかもしれません。みずからを褒めることも腐すこともせず、手順を日々重ね続けることも、信仰の中に生きていることではないでしょうか。
思った通りの実験結果が出ない苦しみの中、思いこみを捨てて失敗を素直に見直すことから新しい発見が生じることもあります。
次々に不具合が発生する製造ラインを育てるようなつもりで直していくうちに、安定的に良品を生み出す工場になり、技術も蓄積されることもあります。
これらの日々の営みは「修行」か「禊」をしながら、何かを待っている姿にも見えないでしょうか。

このような信仰を許し支える神なら、人に似た姿をもつ(人格神)必要はないでしょう。

理のようなもの(理神)でも同じことです。

「理」というと、人が生きるための外部条件の調整はするものの、個々の人の心には関知しない冷たい存在であるようにも聞こえます。

しかし「理という神が、宗教にも無宗教にも信にも不信にも全てに頓着せず、把握不能なほど複雑なメカニズムによって人に応え生命を支え続けている世界」が冷たい場所でしょうか。
たとえば人の心も複雑なものです。時と場に応じて様々な構成要素が入れ替わり、一見すると同一性がないほど自在に変るものです。個々の部品に分解して分析しその分析を再び統合すれば捉えうるというものではなく、それらが組み合わされ さらにその外にある条件や環境と組み合わされて働くものです。他方、全体としての「心」という独自の存在を育てることを諦めず 一足飛びに結論を得ようとしなければ、統一も保たれます。人として生き続けるには、このようなメカニズムを何かに支えてもらう必要があるのです。

また、神が理であるということは、理に沿った人の行いが神の行いになるということです。神と人の距離は近くなりつつも、人が神になるのではなく、その行いだけがそのまま神の現れとなるということです。それは自然の猛威の背後にも人の行為の背後にも神があるということであり、自然を尊重しつつもひれ伏すことなく分析や対応を図ることが適切であるように、他人の行為への尊重と分析のバランスのとれた対応を忘れないことにも通じます。

大いなるものであるとともに細部に宿るという、昔からの人々の神へのイメージにも合致します。

他方、人格神をイメージすると「神と人とのどちらが中心的なのか」などという意味のない疑問にもとらわれ、ややもすると人は神のあやつり人形となるか、あるいは逆に神を人と同様に御機嫌をとることができるような存在に引き下ろしてしまいがちでもあります。(この点、民主制の理解における、「国民主権」概念の有害さにも似ています。)

神を何かの意思を持った存在であるかのように考えると、どこか人間と似た温かみのようなものが感じられるのかもしれません。しかしそうなると、神は世界のあり方を主唱し、世界の運営を主宰ないし独裁する存在に近づきます。そのような世界に生きなければならないことは、息苦しい束縛ではないでしょうか。

この点、多くの日本人は、一種の理神論に無意識に近づいていると言えるでしょう。

一神教徒達からは「日本人は無宗教かあるいは幼稚な自然崇拝(アニミズム)にとどまっているかのどちらかだ」と誤解されることもあります。

確かに日本人の生活には 自然なもの、人間の世界の外にあるもの、言葉にできないものの存在への尊重が あちこちに表われています。天皇の祖霊を祭る伊勢神宮は樹々に埋もれ五十鈴川に守られています。軽井沢を日本の代表的避暑地にしているものも針葉樹の深い森です。日本料理は素材の本来の味を生かすことに注力し、他国では祝い事で使われる花火も日本では来たる夏と過ぎる夏への挨拶です。「若さ」という天然の美しさには高い価値が認められます。

しかし尊重と崇拝は異なります。
アニミズムが崇める自然とは、言いかえれば「意識で支配できないもの」ですが、日本にはいつの頃からか「型」の文化つまり「意識で支配できないもの」をある程度はコントロールする術がありました。そして人はコントロールできるものを崇めることはできません。日本人が崇めてきたのは自然ではなく、さらにその外、つまり意識どころか体認まで含めた認識の外にあるものです。認識の外にあるものについては、具体的な形を思い描くことも「かくあるべきだ」と語ることもできませんから、対象は無形にならざるをえず、「理」とでも呼ぶしかありません。

認識の外にあるものを崇めるメンタリティは、理神論に近いものであり、また科学を尊ぶ精神(つまり意識の質と量を高め、現状の意識の支配の外側にある事象を解明しようとする姿勢)と矛盾なく両立します。
だからこそ明治の日本人達は自然科学を駆使する欧米の近代文化を取り入れることに抵抗をもたなかったのでしょう。科学教育の振興、機械の自製などの対応も、自然への対等な目線がもたらしたものです。それが結果としてビッグプッシュを招きもしたのです。 

さて、「生きる」ということは、単に命を長らえるということではなく、変化することであり、別の言葉で言えば「育つ」ということです。
ならば、人を生かしめる神は、人を育てる神でもあるでしょう。エデンの園で白痴のように日々を送らせるのではなく、考えさせ、時には悩ませることもあるでしょう。実際、人は思い通りには生きられず、思いもよらぬ発見をするものです。
ならば神は、人の忖度など受け入れず、しかし伝えるべきことを有するはずです。

また、人を生かしめる神が偉大にして全能であるならば、その人を隙間なく取り囲んでいるはずです。人の心以外はすべて神の働きが及んでいると考えるべきでしょう。
実際、人は、認識や知に頼らず、要不要を決めず、みずからが本当にやっていること そして広く深くい世界に関わるように見て聴く時、他人と共有できないどころか、どうしてそこに至ったかをみずからも説明はできず、しかしそれが現実に即して非常に合理的な回答を得ることがあります。神は、みずから答えを出さない者に答えを示してくれるのです。

そのようにして得た応えを、ここでは「天啓」と呼ぶこととします。 ※42

天啓は、言葉の形で現れることもあれば、できごとのような形をとることもあります。

意識的な問いに応える形で示されることもあれば、問いなく現れることもあります。

天啓をとらえることはできません。あくまでも与えられるものです。

※42

天啓はあくまでも個人の認識の果てに広がる疑問に応えるものであって、他人に何かをさせるようなものではありません。「天啓」の中に「○○せよ」という具体的な内容が増えるに従い、そしてその実現に他者の協力の必要が増えるにつれ、純粋な天啓性は薄れ、話者の判断がワンクッション混じったものになっていきます。たとえば、カルトの教祖が 「天啓」と称して信者に献金を命じる例などは人をだます言説にすぎず、天啓ではありません。逆にたとえそれが多くの人のためになる場合であっても、たとえば「神は子供達を救えと私に命じた」と私設孤児院を誰かが作ったような場合でも、そのほとんどはその人の判断です。

天啓はいわゆる真理でもありません。それを真理と言った瞬間、部分を全体と言い張る虚偽となります。不完全な人間の認識が真理を等身大にとらえきれるはずがないのです。「これが神の意思だ」と語ることは神に対して傲慢極まりない所業なのです。人にできることは「神は私にはこう語りかけられた(だがあなたに語ることは また別かもしれない)」と述べることだけなのです。
「時よ 止まれ、お前は美しい」と口にした瞬間、ファウストは悪魔の手に落ちたのです。
もし本当に「不磨の大典」ができたら、それは多くの人を苦しみに突き落とす権威主義的で悪魔的な法典でしょう。

この言葉には宗教的な響きがあります。しかし、たとえば進化も一種の天啓と言えるでしょう。

新たな環境に適した形質をもった個体が生き残って繁栄する、という選別の段階の説明はわかりやすいのですが、ではその前に新たな環境に適した形質がどうして発現するのでしょう。その個体が望んで努力したからでしょうか。木に登り続けていた鼠の爪が伸び尻尾に毛が生えてリスに進化したのは鼠が工夫したからでしょうか。工夫し努力したら自分で細胞を変化させられるのでしょうか。また、そうなる個体と ならない個体が出るのはなぜなのでしょう。

物質界でもこのような「来るが如き」ことが起きるのです。認識面に起きても当然、むしろ日常一般的なことと言えるでしょう。

なってきたことを神のなしたことと考えることは無害です。

しかしが、その次に 神をよく見よう できれば動きを読もうとしてはならないのです。わかるはずがないからです。

また理念を足掛かりにしてもいけません。役立たないからです。

自分に注目することもいけません。みずからが二人に分かれて観察と比較が始まり、目立つ何かに執着してしまうからです。 ただ、みずからの働きをみるのです。一人でいるべきなのです。そこには他者のはたらきや神のはたらきも一体的に含まれることがあります。区別してはならないのです。一人であれば、認識はあっても判断はありません。無です。

神にも意志などないのでしょう。
機械のように、人の身をなるべく存続させ、人の魂の成長を促し、人の魂の動きに干渉しないという働きを あたうるかぎり繰り返すだけの存在、偉大な母のような存在なのかもしれません。その母とともにあなたは一人なのです。

私達は、生きる上で必要なことすべてに判断を下しているのではなく、因果関係がすべてわかった上で何かをできるわけでもなく、それにも関わらず生きています。それが何かを感じとることはできないまま何かの助けを受けているのです。しかし、そこに歩み寄ることはできます。

たとえば、私達は、自分より正しくない人がうまく世渡りできて楽しく生きている姿をしばしば目にします。
そこで「なぜ邪な者がよきことをうけ 正しい者が苦しみをみるのでしょう」と発された問いに 人は参加していません。ただ神が一方的に何かをして人は受けるだけ、という視点です。
他方、私達は自分より正しいのに世の中に受け入れられていない人に会うこともあります。その事実の前で「なぜ正しい人は、正しくない人よりも苦しみを受けても、耐えられるのでしょう」と神に問うとき、そこには人の参加が視野にあります。
さらに「正しく生きるとは、正しく望むとは、どういうことなのでしょう。」と真に予断なく問えるようになれば、やっと自分自身が参加した生きた問いになっています。

私達は、十分に愛育されたわけでもなく、正当に評価されてきたわけでもなく、得てしかるべきものを与えられてきたわけでもなく、時には非道で冷酷で卑劣な扱いを受けます。
しかしそれにも関わらず、やられたことをやりかえすのではなく本当にやりたいことをやることもできます。
ここで人は本当に自由です。

このような「自由」に沿って自身が「参加」して生きることは、人を生かしているものと同じ道を逆から辿ることでもあるでしょう。
神と二人のようで、一体であり一人なのです。

仏陀は 人がいかにすれば苦しまずに済むかを問い、苦が人の心から生じることを見抜き、だからこそ心を整える手順の重要さを説いたのでしょう。

キリストは 人がいかにすれば幸せになれるかを問い、失敗や敗北なくして幸福はないことを悟り、だからこそ「柔弱なる人、悲しむ人は幸いなり」と語り、神の人に対する愛を説き、人々に互いに共感することを勧めたのでしょう。

これくらいのことなら常人でも説明されれば理解できますが、聖者達はその程度の賢者にとどまるものではなく、未知を待ち続ける冒険を一生涯続けることのできる強靱さをもち、神に問い続け、そこから伝達できない認識を得ていたのではないでしょうか。宇宙は理に満ち 人には通常は聞こえない神の大きな笑いが響き渡っているところであり、それを聞きとるには深い沈黙の中で問い 沈黙の中に生きることが不可欠であると考え、そのようにして認識や知(彼らが持っていたもの)を超えたものと濃密なやりとりをしていたのではないでしょうか。それは人の認識が自力でつかめるものではなく、「来るが如き」ものでしょう。

仏陀は頭上を覆う大樹の下で、キリストは天を覆う星の下で、ずっと一人でいたのです。多数性や正統性が邪魔になるのみならず、相手と二人になることすら信仰の邪魔になるのです。信仰は一人でいることを要求するのです。

そしてまた、志も能力も低い人々ばかりに向きあい続けたキリストが本当に神の子であるのなら、神は優しい世界を造ろうとしているはずです。

それはたとえば、銀器を盗んで逃げた人がひきすえられてきた時、「それはその人にあげたものだ」と庇うことです。右手を洗う左手はみずからも洗われます。それは盗んだ男の再生の指針でもあり、かばった司祭の課程でもあります。 

一回で洗いきることはできません。

しかしそれをやり抜く力が人には潜んでいることを信じぬくことが、人の真の強さではないでしょうか。

「みずからの思い込みは引っ込めづらく、変わる(生きる)ための契機をまるで敗北であるかのように思い、他人の思い違いは許せず、助けようともせず、上を向いて助けを求め、役に立つことを見つけようとしてばかりいる」愚かさから離れ、問いそのものを探すべく自分との対話を繰り返し、そしてあるところでそれもやめ、過去を積重ねることを停め、なぜ生まれたのかと振り返り、みずからの中の助けを求める小さな声に応じることが、その証明ではないでしょうか。

みずからの愚行を愚行と気づいたときに許してもらえる権利がすべての人にあると信じ、みずからの能力を超えて人を助けることができたとき、人は真に賢くなるのではないでしょうか。

それは人類という種の本能であり、このような生き方においてのみ歴史を超えて未来に向かうことができるようになるのではないでしょうか。

そこに流れる時間は、失態をおかすかわりに面白い人と 間違いないだけに面白くもない神が共に作り上げなければならないものであり、そのように相照らしあうのが神と人であるならば、片方だけが無限に生き 片方はすぐに消滅すると考える方が不自然ではないでしょうか。私もあなたも、未知なる神により幾度も蘇っているのかもしれません。

人は一人で生まれて、此岸に来ます。しかし そのときすでにあらゆることを知っており、ただ生まれ落ちた世界でのものの名がわからないようには見えないでしょうか。

名という権威から離れ、神の語りかけを一人待つことが祈りです。

名をなくしては生きられませんが、名はすべて仮の名であることを思い、その仮の名を愛惜すればよいのではないでしょうか。

人と人の間には埋められない溝があります。それは無理に埋めようとしてはならないものでもあり、もしそうすると様々な衝突や悲嘆や悔恨を生むので、溝の底や壁をたどるように細々とつながるしかないものです。

その心細い世界の中で、それでも私達が生きているのは、私達がそれぞれ神とつながり、その神とのつながりが思っているよりも近いものだからではないでしょうか。

神がいるとすれば、それは人の意識しないところを全て支えているものであり、人のため物象世界を動かす存在であるでしょう。
世界に表れる物象で動かされた人の心が天啓をみいだして変わり さらなる天啓を求めるという因果関係の中、みずからの心を変えることは(認識のみならず)実在する世界を変えることになります。
そこには世界と自分と神の終わることのないつながりがあります。

だからこそ天才は一人でいることが多く、しかもエスタブリッシュの側にはつかないのではないでしょうか。

だからこそ生きることに向かない人も生まれ そして生きているのではないでしょうか。

一人きりに見えても 常にみずからに最も近い神と共に生きているのは、聖者達だけではないのです。

参考文献

  • 『経済学』 ポール=サミュエルソン著
  • 『入門経済学』 ジョセフ=スティグリッツ著
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  • 『ポリアーキー』 『現代政治分析』 ロバート=ダール著   
  • 『民主体制の崩壊』 ファン=リンス著
  • 『もうひとつの視覚』 メルヴィン=グッデイル ミルナー=デイヴィド 共著
  • 『脳の中の幽霊』 ヴィラヤヌル=スブラマニアン=ラマチャンドラン サンドラ=ブレイクスリー 共著
  • 『信ずる意志』 ウィリアム=ジェームズ著
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  • 『権利のための闘争』 ルドルフ=イェーリング著
  • 『民主主義の本質と価値』 ハンス=ケルゼン著
  • 『法の哲学』 ゲオルグ=ウィルヘルム=フリードリヒ=ヘーゲル著
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  • 『歴史主義の貧困』 カール=ポパー著
  • 『格差拡大の真実 二極化の要因を解き明かす』 経済協力開発機構(OECD)著
  • 『近代経済学の解明』 杉本栄一著
  • 『資本主義を語る』 岩井克人著
  • 『「新自由主義」の妖怪』 稲葉振一郎著
  • 『公共経済学15講』 佐藤主光著
  • 『入門公共経済学』 土居丈朗著
  • 『「分かち合い」の経済学』 神野直彦著
  • 『地域・並行通貨の経済学』 室田武著
  • 『地域通貨を知ろう』 西部忠著
  • 『だれでもわかる地域通貨入門』 森野栄一 あべよしひろ 泉留維 共著
  • 『民法案内』 我妻栄著
  • 『刑法総論講義』 前田雅英著
  • 『憲法』 伊藤正己著
  • 『手形小切手法』 鈴木竹雄著
  • 『民事訴訟法』 小山昇著
  • 『法哲学』 瀧川裕英 宇佐美誠 大屋雄裕 共著
  • 『よくわかる法哲学・法思想』 深田三徳 濱真一郎 編著
  • 『政治献金 -実態と論理- 』 古賀純一郎著
  • 『絶望の裁判所』 瀬木比呂志著
  • 『社会学史』 大澤真幸著
  • 『脳に悪い7つの習慣』 林成之著
  • 『善の研究』 西田幾多郎著